2013年04月11日

明治末年北海道記42:1912年6月19日樺戸監獄破獄事件(3)

4月に入ったときは76センチもあった札幌の積雪も、11日21時には2センチである。
ひときわ長く続いた今回の雪の季節も、いよいよ明日で終了となりそう。

それにしてもやはり自然の力は凄い。あれだけ邪魔だった雪の塊が、たった10日ほどで跡形もなく消えるのである。ちょっとしたイリュージョンである。冷気でいろんなものがたちまち凍るのも魔法のようだが、「春の女神」は雪を消す魔法を持っているだろう。

さて、明治の末。魔法のように?監獄から脱走を遂げた7人の囚人。

しかし魔法使いとは程遠く、まともな道具も持たない彼等は大勢の看守により追い込まれ、既に2人が斬り殺された。

脱走4日目。札幌は祭りの準備がたけなわの6月13日。
早朝に一人の脱獄囚は厚田村発足の民家に侵入、角巻とモンペを強奪する。
その後、江別署員や地元の青年に包囲されるも突破、逃走に成功。

6月16日には、月形では村民236名が集まり、4隊に分かれて大規模な山狩りを行った。
しかし
「鍋中に粟と米を混合したるを半分位入れありしを発見」(18日北海タイムス)
というくらいしか収穫はなく、がっくり肩を落として解散。

厚田・月形・当別の三町では長引く警戒に疲労の色も隠せない状態となってきた。

そんな中、包囲網を突破した囚徒のうち一人が石狩川を渡った隣町・美唄で見つかった。

1912年(明治45年)6月20日 北海タイムス


●七囚徒破獄続報

▼中野甚之助 美唄で逮捕さる

樺戸監獄破獄囚五名のうち 強盗有期徒刑十三年囚 中野甚之助(三三)は 追跡せる岩見沢警察署の手にて今朝 沼貝村字美唄に於て 濱田部長 今渡巡査両氏のため 終に逮捕され 直ちに岩見沢本署に押送されたり

▼大熊署長の談

破獄囚 中野甚之助は美唄で逮捕、二十日札幌地方検事局に押送さるるに就て 札幌警察署長・大熊氏の談に
「中野もとうとう捕まったよ、此奴(こやつ)は茨城県生れで 前科三犯あり 中にも(明治)三十九年中 神奈川県横須賀町で短銃強盗を働き 横浜地方裁判所で処刑され 同年東京小菅監獄へ、四十一年十一月樺戸監獄に収監されたので、身長五尺四寸七分(約166cm)といふ 横田米吉につぐ大男だったさうだ

樺戸を破獄したのは本月九日で 岩田、横田の二囚徒は斬られたが渡辺、太田、御代澤、三田と中野の五囚徒は一向痕跡は判らなかった

其の後 警察部 勝田警部よりの報告に依れば 中野は多分 渡辺又は御代澤と同道し 警官に追跡され 空知鉄橋で追窮され空知川に身を投じ 行方不明となった

といへば滝川町へ現はれた二囚徒は多分 此の両人だったらうが 中野甚之助は天運尽きて 破獄より十一日目で終々(とうとう)逮捕された次第で 多分明日(二十日)札幌へ向け 押送されるであらう云々



文中に「滝川へ現れた」とある。月形を逃げ出した5囚徒のうち2名は新十津川から鉄橋を渡り滝川へ逃れ、滝川で強盗。さらに南下して美唄で1名逮捕となった。

6月18日午後6時。
滝川の石狩川鉄橋で「獄衣」2枚が発見される。

これにより非常召集された警察官が、19日午前4時20分頃、美唄駅から約2キロ北の線路を急ぎ足で南へ向う一人の人影をみつけた。

2人の警察官が180mほど近くまで接近したところ、怪しい人物は線路東側の笹薮に身を隠す。

警察官はひるまず藪の中を捜索したところ、こうもり傘を持ち、茶褐色のチェックの古インバネスコートを着て、腰に丸い弁当のようなものを結びつけた一人の男を発見。

男はたまらず鉄道線路上に飛び出し、美唄方面に逃走したが、二人の警察官は直ちに追跡。
一人の警察官が、短銃を空に向けて発砲。約100メートルほど追跡したところで、男は観念した。


彼は向き返りて 警官待った 私は樺戸監獄逃走囚 中野甚之助なり と申立て 地に伏して神妙に縛に就きたる


中野は逃走後の10日ほど、十分な食事がとれていなかったため、疲れ果てていた。
そして警官は足が腫れているのを見つける。

どうやら、中野は樺戸の山中でアブに襲われ、相当刺されたらしい。
足だけではなく、顔面、首、膝などあちこちが赤く腫れていた。

これで3人目の運命が決まったこととなる。


中野の話ではもうひとりの運命も、既に決まっていたようだ。

中野と一緒に逃げていた主犯・渡辺千代松である。

6月17日石狩川鉄橋を渡ろうとした二人は、鉄橋付近の警戒が強いことを知る。
このため、鉄橋の下流側を泳いで渡ることにした。

衣服を頭に載せ、泳ぎ始めたが、先行していた中野は「助けてくれ」という声を聞く。
しかし中野は後ろを水に泳ぎ切った。

後ろを見ると渡辺の姿はなかった。

渡辺が見つかったのは7月2日である。
浦臼町黄臼内の石狩川岸に男の溺死体が漂着しているのが見つかる。

腐乱しており、何者かほとんど判別できない状態だったが樺戸監獄にあった指紋を照合して渡辺であることを断定するに至った。

渡辺は千葉県志津村出身で前科7犯の悪党。実弟を謀殺した罪で明治34年6月5日、千葉地方裁判所で無期徒刑となり、以来11年にわたり樺戸監獄に収容されていた。

3人が死に、1人が逮捕された。
最初7人いた囚人も、残りは3人である。

中野が逃走生活について詳細に語り出した頃、一人の囚人の運命がまた定まることとなる。
その話は次回。
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2013年04月12日

明治末年北海道記43:1912年6月19日樺戸監獄破獄事件(4)

札幌の積雪がついに無くなった。

3月12日だったか、最初に小樽と札幌、旭川の積雪ゼロになる日を予想したとき、4月12日に消えると予想したのは旭川だった。札幌は15日、小樽は18日だったかと思う。

札幌が4月12日にゼロというのは、当初予想していた4月15日より3日早かったが、先週末の大雨&大融雪はさすがに3月の初めの段階では予想できないから、まあ誤差の範囲内ではないだろうか。

旭川は10cmで今日は足踏みだが、まあ2日もあれば無くなるだろう。小樽は24cmなので、あと4〜5日かかりそう。ということで一ヶ月前にした予想とはいえ、まずまず的中しているのではないかと自己評価している。

天気現象よりも全然予想がつかないのは、人間様の行動である。
既に今は、北朝鮮の指導者を中心に発せされる言動により、国際社会が振り回されているわけであるが、明治の末の北海道も、集団脱走した囚人の行動に大勢の道民が振り回されていた。

シリーズ4回目となる今回は、19日に逮捕された中野甚之助の発言から、それまで謎とされていた部分の多い脱走から逮捕までの経緯をたどることにしよう。

いずれも1912年(明治45年)6月21日の北海タイムス掲載である。


まず、脱獄の模様から。

▽脱監の模様

脱監囚横田は脳病のため 桶に水を貰ひて頭を冷し 戻りしが 去九日の午後一時頃 自分の桶は小さき故 大きい分と取り替えて貰ひたし と見張看守に申出でたるに

同じく脱監囚なる御代澤の分が大きければ それと取り替ふるため 両監房が同時に開かれたるを以て 予て示し合せありたる両囚は 双方より見張看守に行なり 取ってかかりて 其場に捻じすへ 看守を監房に押込みて 剣 及び 錠前を奪取し 逃走の申合わせをなし居りたる十名の内より 渡辺 太田 三田 岩田 中野の順にて七名を監房より出したるが 残り三人は出獄時期にも近づき居りしを以て 脱監せざりしを以て

此の三人を其の儘(まま)に打捨て置くときは直ちに発覚の惧れ(おそれ)あるため此等を暗室に入れ置き 更に太田は見張りに来るべき看守を一刀の下に切り捨てて剣を奪う目的にて 潜り戸に隠れ居たりと

而して板塀を乗越えるため 御代澤の発案にて梯子を作ることに決し 暖炉の上を覆う板を繋ぎ合せ 長さ一丈五尺ばかりの梯子となし 監房の裏口より乗り越へたり

其際 布団の皮を破りて 之を被り 獄衣を被いて逃走せるが 此の間約一時間を要したるものなりと



作戦通りに看守に対して2対1の優位を作り、7人での脱走となったが、当初は10人で脱走する計画だったようだ。
それにしても、脱獄にはスピードが要求されると思うのだが、逃げるまで「一時間」ほどかかっている。かなり、想像よりのんびりした脱走劇である。


▽其後の状況

首尾よく脱監の目的を達したる七名のものは 韋駄天走り監獄の裏手なる丸山を目がけて逃込みたるに 途中 柿色の私服を着け 鳥打帽子を被りたる一看守に遭遇したるも頓着なく逃走し やや暫くして振り返り見たるに 病気中なる岩田は既に落伍し 姿を認めざりしが 已む無く之を打ち捨て置き 無我夢中に駆け登りて 山中にて夜を明かし 其の翌十日 家の四戸計りある所に出でたりと

其の際 犬の鳴声を聞きて 張番の入込みたるを感じ 直ちに姿を隠し 夜に入りて人家に押入りたるが 三田 渡辺は表口にて立番して 中野太田横田御代澤の四名 屋内に押入り飯を炊かせ居る所へ 近所の男二名 包丁を携えて襲来したけれども 大勢にて立番までなし居たるため 驚いて逃去らんとせる所を追っかけて 携帯の包丁を奪取し 更に太田 横田の二名が隣家の二戸に押入り 妻子全部を最初の家に連れ来り 又空家の方よりも色々必要の部品を摂取し来たりて

白米三斗 黍七升 身欠鰊若干 鍋二個 味噌四〆目斗り 足袋二足 衣類十余枚 柾割二挺 磁石一個を荷造りして 三戸の家族全部を脱監の際携帯せる木綿糸にて縛り置き 約四時間の後 山奥差して 逃げ込みたるものなり


シリーズ第一回で紹介した常世農場押入りの顛末が告白されている。

最初に斬り殺された岩田は病気で、一番の落伍者となっていた。仲間を探し、山中を彷徨っているところを看守にみつかり斬殺されたことになる。

犬の鳴き声から、農家を襲うのを夜まで待つという慎重さである。北の青年将軍もこのくらいの慎重さは持っているのだろうか。

その後、山中で彼等は散り散りになっていったようだ。


▽追撃隊に逢ふ

而して五つ六つの山を越え 谷を渡りしに十二日の朝に至り 元の所に逆戻りし居ること判明し 更に山奥に向て馳込み 午前十時頃 飯を炊きて食事を了へ(おえ) 予定の方向へ向はんとする一刹那 追撃帯のために認められ 驚いて姿を隠さんとしたけれども 其追撃頗る急なる為め 同十一時頃 太田御代澤の両名を見失ひ 横田三田渡辺中野の四名だけにて谷二つばかり越へたる頃 横田三田の両名は他の道をとりたり

然るに中野と渡辺は地形不明のため踏み迷ひ 四日間ばかり山又山を越へ 遂に樺戸監獄より僅か一里計り石狩川上流なる札比内(外役所のある所)に出てたるを以て 俄かに滝川方面に向ふことに変更して 下山したるに

幸にも此方面の警戒なかりしを以て 易々十六日の夜 新十津川なる石狩川鉄橋付近に着するを得たり



第二回に、看守の一団が食事中の六人の囚人のいるところへ斬り込んだが逃げられた話があったが、この急襲により、6人の囚人が2人と4人の2グループに別れ、さらに4人のグループが2人ずつのグループに分かれていったことが告白されている。

6人から2人となった渡辺と中野の前に、北海道一の大河。石狩川が横たわる。


▽石狩川を泳ぐ

石狩川鉄橋を渡らんとせるも 橋の袂(たもと)に張込みありて 誰何せられて渡ることを得ず それより橋の上流約百間計りの所にて 筏を編み 窃取したる衣類は首につけ 獄衣は筏にのせて裸体になり 筏を手にかけて泳ぎ始めたるに河の中央に至りて 渡辺が非常に衰弱して モー駄目だといひし儘(まま) 姿を認むること能はざりしが 多分溺死したるならん

中野は首尾よく泳ぎつき 身体をふきて渡船場の附近なる笹薮の中に姿を隠し 夜(十六日の夜)に入りて滝川町に出で 九時頃 楓通(かえで・どおり)なる或る家に押入りしに

亭主は床に就き居りしも 妻と見ゆるものは尚ほ仕事をなし居たれども 男の枕者に掛け居りし 古インバネス及び 茶縞綿入れ ハンテン 綿ネル股引の三点を盗み出し 獄衣と着替えたるが 余り空腹になりし故 弁当屋らしき家に入りたれど 啖呵せられて逃出し 一目散に空知川に至り 獄衣を空知川に沈め置き 其の儘 砂川方面を差して疾走し

十七日未明砂川の町を過ぎて其の附近に姿を隠し 夜に入りて町端れ(はずれ)の職人風の台所に入り 洋傘一本 トタン製杓一本を窃取し 更に二三軒隔りたる家に押入りて白米二升を盗み 十町ばかり隔りたる所にて窃取したる杓にて飯を炊きて腹仕度なし 夜通しにて美唄に向ふ途次 濱田部長外一名の巡査の為めに取り押へられたるものなり云々



中野が逃走してから逮捕に至るまでの、「逃亡者」から見た時間の経過であった。

▼現在の石狩川橋付近。左が新十津川・右が滝川。川幅は約150mくらいだろうか。

大きな地図で見る

同日の紙面には中野を逮捕した二人の警官について、一人は幾春別炭山部長派出所詰めの浜田小二郎部長、そしてもう一人は志文駐在所詰めの今渡亀吉巡査であると記されている。

中野が捕まった相手が看守ではなく、警察だったことが「命」の助かった要因なのかもしれない。

この中野の自白が紙面となって全道の市民が読んでいる頃、残る三人の囚徒のうち一人の運命が定まっていた。それについては次号で。

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2013年04月20日

明治末年北海道記44:1912年6月21日樺戸監獄破獄事件(5)

昨日は積雪で白くなった札幌の街。すぐにとけてまた季節は前に進み出したが、今日もみぞれが降って、これがいよいよ最後の雪になるだろうか。

名曲「なごり雪」をなぞるように、雪をみるたび「札幌でみる雪はこれが最後」とつぶやいてみたり、まだまだと否定してみたり。
半月後には無事北海道でもサクラが咲き出しているだろうか。

春の足取りがゆっくりなように、当ブログもいつまでたっても1912年6月である。破獄シリーズも長くなってきた。果たしてこの調子で、今年のうちに明治は終わるだろうか・・・?

時は1912年6月21日。祭りが終ったばかりの札幌で、7人の破獄囚の中で初めて生きて囚われた中野甚之助の自白内容が北海タイムスの紙面を飾っていたその朝、残りの三囚のうち1人の運命がまた定まっていた。

1912年(明治45年)6月22日 北海タイムス


▽太田逮捕さる

去九日 樺戸監獄を破獄したる七囚徒のうち、岩田、横田は斬殺されて 中野は逮捕、札幌地方検事局へ押送され、残るは太田、渡辺、御代澤、三田の四囚徒となり、中にも太田外喜(四六)は巧みに足跡を晦(くら)まし 既に内地へ渡航逃走したるとまで喧伝されしも 終に天運尽しにや

破獄後の十三日目なる今二十一日払暁三時 厚田警察分署管内望来村字本澤に於て逮捕さるるに至りたり

是より先 昨二十日夜十二時頃 太田外喜は望来村字マサエラップに現はれたる形跡を発見せりとの情報に 千田分署長より直ちに追討の命を望来村駐在所詰巡査・大野一 古譚村駐在所詰巡査・門馬寅吉の二名に下したるより 両巡査は短銃に装弾して携帯の上 望来村消防組、同村青年団、軍人団等を召集して追跡し、今暁三時頃 望来村字本澤 厚田より北約二里なる広瀬チヨ方宅前まで追窮したるに

太田はモウ是までとや思ひけん 振返りて抵抗せん気勢なるより 二巡査は携帯せる短銃を擬し 「抵抗すると撃ち殺すぞ」と大喝せしに

彼は敵はずと思ひけん 終に神妙に縛につけるより 終に大野、門間の二巡査に逮捕さるるに至りたり

太田は何れよりか窃取せし木綿袷衣(あわせ)に古シャツ、モンペイを穿ちて 全身水腫となり居り、手には蝙蝠傘を携へ 其中に監獄にて強奪したる洋刀を包み 隠匿して是を己が肩にかけ居たり

彼は望来村字本澤より直ちに厚田分署へ押送さるる事となり 千田分署長は石狩町より騎馬にて急行の筈なり

因みに彼は石川県金澤市生れにて前科十一犯を有し 去る(明治)三十五年十二月五日、外喜二十六歳の時 東京市京橋区新富町芸者屋・唐釜エイ方へ強盗に押入り 翌六日深川署金田刑事外二巡査に追跡され 三氏と格闘し金田刑事に短銃にて負傷せしめ 翌三十六年六月中 東京地方裁判所にて無期徒刑の宣告を受け 三十七年二月二十六日樺戸監獄にしんぎんし居たるにて

彼の前頭部には一寸位の斬傷ありと
(二十一日厚田電話)



今の石狩市厚田区望来(もうらい)。
冬は地吹雪でまったく視界がきかないが、夏は青い日本海がきれいに見える絶景の地。
この場所で太田外喜が捕まった。

翌23日の記事によれば、太田は樺戸監獄に入獄以来「脱走注意人物」として独房に入れられて厳重に監視されていたという。

外の作業もほとんどやらせてもらえなかったほどの徹底ぶりだったが、それでも彼の脱獄熱は収まることはなかった。

独房にいながらも破獄の計画を横田米吉にもちかけるなど、その機会を虎視眈々とねらっていた。

脱走後、散り散りとなってからは山中に潜み、持っていた北海道地図とコンパスを頼りに北上、その後人の住まない小屋を見つけて四日間潜むも、6月20日朝、小屋を出たところを農夫にみつかり警戒中の巡査に通報され、逮捕となった。

この時、看守が相手ならばを斬殺、警察が相手ならば逮捕されると決めていたようで、追っ手が警察だったため逮捕という結果になった。従って、もし看守の捜索隊であれば、どちらかが命を失う結果になっていただろう。よほど看守には恨みがあったものとみえる。それは監獄内の扱いにあるのだろうか。

太田が押送された二十二日、石狩川の渡船場には脱獄犯をみるために黒山の人だかりができたそうだ。

渡船場から軽川駅まで特別仕立ての馬車に乗り、軽川駅からは汽車で札幌へ向う。

そこで北海タイムスの汽車をみて一言


「貴下は札幌からお出になった新聞社の方ですか
イヤ色々皆さんに御迷惑をかけました

私の破獄は人家を荒そうなどといふ考えではなく 他に一計画あったので腹が減れば仕方がありませんや
ツイ農家を荒す様になるので誠に済みませんでした

詳しい事は巡査のお許しを得て列車の中で話しましょう」


としゃべりだした。

この後、札幌駅へ向かう列車内での自白は6月24日の北海タイムスに記事となっている。
内容的には前記と同様であるが、犯人と記者が車中で語ることができるというのは、今の世ではなかなか考えられないシチュエーションである。


この太田が押送された22日の正午頃、新十津川の下徳富で一人の怪しい男が非常線にかかる。

巡査が質問をすると「誰でもない」と言い捨てて山中へ逃げようとしたため、すぐに追いかけた巡査と格闘となった。

直ぐに青年団が加勢に入り、ほどなく男は捕えられる。

彼は右手の人差し指が半分無かった。
この特徴から、破獄囚のひとり、御代澤金次郎と判明する。


これで七人の破獄囚は三人が死に、三人が逮捕された。
残るはあと一人である。
次回、シリーズ最終回!

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2013年04月25日

明治末年北海道記45:1912年7月1日樺戸監獄破獄事件(6)

大型連休が今年も近付いてきた。
世間は前半三連休、後半四連休、間をつなげたら10連休にも!と浮かれているようだが、商売人にとっては逆に10連勤ということもあるだろうし、もちろん天気予報だって休むわけにはいかない。

人が遊んでいるときに働くというのは、特に晴れているときはなんだか悔しかったりするものである。
ただ、その代わり平日に休みがあったりするので、これはこれで嬉しかったりもする。

さて、札幌ではすっかり雪は降らなくなった。傘の季節、春である。もう少しでシラカバの花粉も飛び出すだろう。
長く続いた樺戸監獄破獄事件もいよいよ最終回である。

1912年(明治45年)6月25日 北海タイムス


▼御代澤着札光景

破獄囚の首魁 御代澤金次郎は昨日午前十時三十九分 彼を逮捕の菅原・佐藤両巡査に護送され 札幌停車場へ着いた

頭部に包帯を巻き 服装を捕縛当夜 赤川村監獄署小使・長澤宇市方で強奪し去ったもので瓦斯縦縞の単衣の上に紺筒衣の半天を着け 水色木綿の兵児帯を締め 紺股引 にコール天足袋を穿き 足袋は跣(はだし)のままで 其の他の衣類や物品は一纏(まとめ)に白網の中へ入て 肩から下て居た

逃走以来十数日の不眠と苦心の為 精神と身体を疲労せしめたものか 顔色蒼白を帯び 首魁らしい猛な気色を更に見えなかった

御代澤の姿が停車場に現れるや

ソレ御代澤来た

と駆集る群集も彼の此の姿を見て「何だ小さい男だナ」と其意外に驚いた

しかし首魁となって逃走を企てただけ御代澤は極めて落ち着いたもので 是等の群集をさも鬱陶しさうに眺めてゐた

▼頭にした包帯は下徳富を警戒して居た菅原巡査が 御代澤を認め逮捕せんとして格闘の際 青年団六名応援に来り 其の中の一人が御代澤の逃げんとしたるを見て後ろから殴りつけた傷で 菅原巡査のシャツの手首の所が其時の血で汚れて居た

▼裁判所はまだか
御代澤は前日押送された太田外喜の様に 札幌の街を東京のやうだ等と洒落る元気は全くなく停車場を出てからも堅く口を閉じ 始終左右の群集を厭ふ様子にて 裁判所は未だかと護送の菅原巡査に尋ね 菅原巡査と語りながら歩き居たる記者を顧みて 「新聞社の方ですか 話をする事が沢山ありますが 裁判所へ行ってから申上ます」と低い声で只二語呟いただけで無言のまま拘置監へ収容された



御代澤は小男だが冷静で、しかも豪傑とされている。

太田外喜とは逃走後、生死を共にするという誓約をし、浜益から漁船を乗っ取り内地へ渡り、銀行を破るという約束をしていたようだ。

しかし、太田とは11日に看守によって踏み込まれた際に逃げ別れ、計画も頓挫。一人で藪の中を逃げ回るも、ついに逮捕となった。

小男だが、身体に巻かれた二重の逮捕用縄をぷっつり切ってみせて「逃げようと思えば何時でも逃げられる」と言い放つほどの怪力を持っていたという。

樺戸監獄では、この破獄七人囚のために6月25日頃までの半月あまりで、捜索費用に五千円の巨費を拠出するほどになっていた。

企業物価指数で明治45年と現代のお金の価値の差を計算すると約1000倍となるから、当時の5000円は今の500万円というくらい。なかなかの値段である。

三人が死に、三人が逮捕され、残る一人の破獄囚・三田角之助。
しかし逃げ切ることはできなかった。

彼が逮捕されたのは明治も残り少なくなった、7月1日のことである。

1912年(明治45年)7月3日 北海タイムス


●三田 終に就縛

去月九日 樺戸監獄を破獄したる七囚徒のうち横田・岩田は看守に斬り殺され 太田・御代澤・中野三囚は逮捕され 渡辺は石狩川に溺死せりとて行方不明 其他残るは窃盗三犯・懲役十五年囚三田角之助(五十)一人となりしが 二十三日目まる昨一日午後十一時頃 月形村大字知来乙に於て悪運尽きて 村民のため終に逮捕されたり

彼は去月二十日御代澤金次郎と共に常世農場伊藤常次郎方を襲ひ 同家より外套一枚を盗み逃走せし後 絶て姿を現はさざりしが 昨夜午後十時頃久々にて知来乙字炭釜・澤椿又三郎方を襲ひたるを又三郎に発見されたるより

三田は失敗したりと思ひ逃走せしより 又三郎は隣家の渡辺貞蔵にも依頼し 両名にて追跡して三田に追付き 手にしたる棍棒にて後頭部を乱打したるに

三田は又三郎の連れ来たりしは的切(てっきり)樺戸の看守ならんかと考ひ 絶息したる体にて其場に倒れながら二人の姿を見たるに 全く村民等なりしがば ガバと起き上り

「自分は決して抵抗しませんから何うか監獄へ渡さず月形分署へ渡してください」

と嘆願して両人の為に押へつけられ 終に就縛の上 知来乙巡査駐在所へ連行かれ 巡査同道して今二日払暁二時 月形分署へ押送されたり



最後の破獄囚・三田は意外にも監獄のある月形で捕まった。

20日に外套を盗んで以来、10日ほど山中に潜伏して、タケノコやフキ、雑草、果ては昆虫まで食べて命をつなぐというような辛い脱走生活を送っていたが、空腹に耐えかねて出てきたところをコテンパンにやっつけられたという所である。

三田は50歳ではあるが、幼年より手癖が悪く、40年ほどを牢屋の中で過ごしてきたという悪党。

1911年7月には三田が首謀となり監獄の70人ほどの在監者が決起し、監獄を焼き払い1300人の囚人を全員解放するということを企画。事前に看守側に察知されたため三田は独房へ入れられ、厳重な監視下に置かれていた。

今回脱走した後は、浜益の大工の所へ嫁いでいた姉のもとへ行き、服を取り替えて船で内地へ向かい、行方をくらますという計画だったが、過去に弘前で巡査に逮捕された時の古傷の影響で体の自由がままならず、目的を達せぬまま逮捕に至った。

三田は7月3日、峰延駅より汽車で札幌へ護送された。

7月末明治が終わり、9月26日、天皇崩御に伴う恩赦令が出る。
樺戸監獄からも刑が停止され、放獄された者があった。
もし脱獄せず、真面目に刑を受けていたら、彼らの運命もまた違ったものになっていたかもしれない。


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2013年05月17日

明治末年北海道記46:1912年6月15日札幌まつり

札幌にようやく花の春が来た。

本日満開となった気象台のソメイヨシノ。29年ぶりの遅い記録である。
ただ、この29年の間に札幌の標本木は変わった。

長年、北海道神宮に札幌の標本木はあったが、老樹となって花つきが悪くなってきたため、気象台構内の若い木に標本木の座を譲った。まだ2年くらいだろうか。

本日、北海道神宮の旧標本木の様子を見に行った。
北海道神宮のサクラもかなり咲き出しており、満開の木もあって、花見客がお弁当食べたりしていたが、、、旧標本木の2本はほとんど花をつけておらず、つぼみの状態。
ああ、これなら札幌を代表するとはいえないなと納得するとともに、なんだか少し辛いような寂しいような、なんともいえない気持ちとなった。

さて北海道神宮は1964年までは「札幌神社」という名前であった。神宮に昇格したのは明治天皇を合祀したことによる。その明治天皇の治世最後となる1912年の初夏。今と同じように6月は「札幌まつり」であった。

1912年(明治45年)6月13日 北海タイムス


●萬燈輝く宵宮祭 全市明夜の壮観

▽お祭お祭
待ちに待たれし一年一度の大祭も 愈々明日より宵宮
山車の小屋の山車は朝から夕迄 坊ちゃん方にとりまかれて揺ぎ出し さうなる景気 市中の大店小店も大奮発の勢い凄まじい位

車屋を始め往さ来さの人の気配も上調子のピンをしたる有様ところはなったりける

▽緑門電燈
停車場前に建立されつつある大緑門(だい・あーち)の柱立やら ちょうど咲く円の行啓奉迎門を思ひ出されて出来上がったらさぞかしと それが待遠い程なり イルミネーションも壮観を極るべし 停車場通り北一条には五千燭光の太陽燈が北極光宜しく不断の光輝を放つなど 明日の宵宮から幌都一瞬 化して竜宮城ともなりぬべし



これは、宵宮を待ちきれない市民を代表した?記者による記事といったところか。
今ならきらびやかなイルミネーションを「竜宮城」とたとえはしないだろう。

さて、お祭りの光景について

1912年(明治45年)6月17日 北海タイムス


▽宵宮光景
十四日夜は午後に入り物凄き雷鳴 盆を傾むくる降雨ありしが 夕刻より幸いに晴れ渡り 辻々には新燈アーク燈イルミネーション点せられ 区内各戸の軒 提灯電燈イルミネーションにて 不夜城の美観を呈し 創成河畔 狸小路等非常の人出なりし

▽本祭光景
一昨十五日は幸いに雨降らず くっきょうの祭り日和
第二区年番委員八十名外 各祭典区代表委員三十余名 円山神社に到着 神輿の出御式あり

一同厳粛にて正門より下山 南一条 三吉神社に着御 各祭典区の山車はいずれも午前十時頃より三吉神社に集合休憩後 午後一時三十分出発 西七、八丁目より北一条西十三丁目角より北五条へ出て 道庁前より北一条停車場通りへ 拓銀角より区役所前を経て創成川端へ出て 同窓倶楽部にて少憩後 北三条西五丁目より鉱山監督署前へ 夫より停車場裏通り 北八、九条を経て創成川を渡り 十二区旧御旅所に少憩 製麻会社側を元村通りへ 夫より製麻南裏より北三条苗穂通り区境界まで出て 東橋道路を東一丁目より同創成川端を南一条通頓宮まで練りて 同夜はここに神輿御旅する事となりたり

▽区内光景
停車場通り及び南一条通りは殊に美しく飾り 丸井丸三両呉服店の変色電気 殊に人目を惹けり

各所陳列の生花も 奥さん嬢さん連を引けり

▽花柳景況
各料理店は宵宮祭りより活気立ち 三見番芸妓連 何れもお座敷に忙しく 祭典当て込みの一本昇進芸者は 札幌見番君子、与太郎、とし子、喜太郎、小萩の五妓

元見番の美形君子 今月より半玉となりしは札見君の妹牡丹寺尾抱えのまもる、元見にては金作改め金太郎、琴治町見番は異動なきが一昨十五日の花柳界は昼夜間断なく各料理店繁盛を極め 夜に入りては一層にて

三百に近き芸妓連は眼の廻る程 お座敷がかかりたりと

▽薄野光景
仲の町通りは勿論 三等妓楼通り何れも紅白のえん幕、軒提灯を吊るしたる様美しく 中にも昇月楼田中は昨日は昼祭典の休憩所とて門外右側に人足休憩所の掛小屋をなし 尚本年は他楼に先立ち数千円を投じて客座敷の大建築をなし 落成したるより宵宮に座敷開きをなしたりと

その他の大離高砂、西花、長谷川、北越の各楼も新妓の仕入れ座敷の修築をなしたるより、十四、十五、十六の三日間は夜に入り電燈軒提灯にて不夜城に化し 何れも昨年より盛況なりしと

▽興業景況
薄野廓内なる大黒座の新派 稲葉石山合同大一座は勿論 南七条の札幌座は萩野千十郎、澤村源若、中村播之助大一座にて何れも好況大入なりし

又狸小路は十五日夜は相応の人出なり

第二神田館の常設活動は昼は可なり夜は〆切、遊楽館、南亭、札幌館、何れも満員(因に西九丁目西遊館も盛況)を呈し

創成河畔は一層非常の人出
南一条矢野動物園より満州観戦鉄道まで 南五條まで連続二十本の掛小屋あり

活動写真、木暮の軽業、剣舞、大狼等珍しき興行物多く 夜は十二時までありし

因みに旧警察署前 自転車曲乗り曲馬大会も盛況



神輿が練り、創成川には露店や小屋が並ぶ。夜は芸者遊びに観劇・映画でススキノはおおにぎわいと、年に一度の札幌祭りをおおいに楽しむ札幌区民であった。

さて14日は突然の雷雨にびっくりということであったが、当時の気象記録を見ると、午前11時55分に西の方角で雷鳴が聞こえ始め、午後0時30分に最初の雷電が一発。午後0時39分には強烈な雷電による一撃(方角は北北西)があった模様である。

午後1時7分までこの北西の方角に雷鳴が聞こえていたが、その後は午後2時頃にかけて南西の方角でずっとゴロゴロいっており、午後2時9分に再び強烈な雷電が南東の方角で一撃を見舞い、午後2時44分を最後に終了。

積乱雲が次第に発生源を南下させているようなので、前線か何かが通ったのだろうか。
ただ、風向きは午後2時〜4時が北寄りでそのほかは南〜南東なので、やはり夏らしい不安定性降雨。雷雲だったのかもしれない。

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2013年06月13日

明治末年北海道記47:1912年6月18日節婦の鑑!北海道長官から表彰

今年の天気は本当に極端で、冬のドカ雪にはじまり春は記録的な寒さ続きに日照不足。記録的に遅いサクラの開花からまだ一月も経たないうちから、いきなり真夏の陽気続きである。

6月に入ってから13日経ったが、札幌の降水量は0.5ミリ。一方で日照時間は147.4時間にも達している。夏日はすでに7日で、6月前半としては1946年以来67年ぶりの多い記録となった。

明日以降は一変してえぞ梅雨じみた天気が続くというが、もうなんでもかんでもほどほどにしてほしい。

さて、空はメリハリが利いているが、これから掘り起こすのは、ずーっと15年もひたすら身を粉にして働いていたという話。

1912年(明治45年)6月19日 北海タイムスより


●節婦の鑑 民子
稀しき(めずらしき)十五年の苦節 昨日長官より表彰さる

北十二条のガランとしたる通り 西二丁目の角に小さき三軒長屋あり

窓際の三畳間には何時も白髪の老婆病臥し居り 入り口の六畳間に女主(おんな・あるじ)が針の手を休めしを見ず

此の主は前野タミとて 今年四十八歳
肉付好き 強健の体格にも 年に増したる額の波は幾歳月の辛酸の跡を残すらし

タミ女は元長野県宮川の農 小池嘉七の家に生れ 明治十五年一家を挙げて札幌郡厚別に移住し来り
年二十 まだ浮世の風に染まぬ所女にて 旧白石藩士・前野嘉平に嫁ぎたり

前野は札幌区裁判所書記なりしが 小樽に転任して九箇年勤続し 明治三十一年の夏 俄かに病死し 後には姑ツル及び十歳の女・松乃と七歳のイヨ子とあり

固(もと)より僅かの棒給に活計を立て居たる勤め人とて 余分の貯への有る筈なく 力と頼まんにも 姑は旧仙台藩片倉家の乳母を勤めしもある身にて万事旧式なれば 差し当っての難儀は一家の糊口にありける

当時三十四歳 尚末が花の香を留しタミ女は 茲(ここ)に毅然と覚悟を定め 製麻会社の女工 となりしが 斯えぬ物思ひに馴れぬ労働の痛々しさ 終に重き熱病に罹り 殆ど進退窮して天地に慟哭したり

去れど幸に余病もなく本復したれば 更に決心を新たにして今度は知辺の人々より洗張り縫仕事の料を受け取り 夜の目も寝ずに針を持ち カツカツ其の日の暮しを立て 二人の娘は附属小学校に通わせたるが 斯くても尚 戸外に迫る餓狼は追ひやるに由なく

タミ女は愈々猛進奮闘を続け 厚別なる二弟より 約三反の水田を借りて 春秋二季に十二箇月の間 札幌の留守を姑に頼み置き 自分は耕くん収穫の荒仕事をして一年中家族を養う料の飯米を収穫る事にし 家に帰れば又 針仕事に精を出し 一月百二、三十枚の衣類を縫い上げたり

其内に二人の娘は段々成長し 費用も嵩み 女の細腕にて悪戦苦闘の最中 三十九年の秋より 姑は足腰立たぬ病となり 朝夕の寝起より便用まで一切 侍づき仕ふるに至り

タミ女は一つの体を二つにも三つにも使い果たして 而も恨む事を知らず

▽全身不随の姑 はタミの厚き介護に機嫌よく 本年九十四歳といふ高齢を重ね 姉娘・松のは既に小学教員検定試験を受けて 寿都の小学校に訓導となり 妹イヨ子も函館区住吉小学校に奉職中にて

節婦タミ女が十五年の苦節 終にその筋より表彰の典に預かり 長き苦しき闘い勝ちて 今回の光栄を荷うに至りしは書くも すがすがしきにこそ

其褒賞 左の如し

札幌郡白石村士族前野松野母タミ

実性貞顧家素と貧農寡居すること十有五年
其の間幼児二人を鞠育し 老いたる姑に事へて・・・一部略・・・金五円下賜候事

明治四十五年六月十七日
北海道庁長官 従四位勲三等 石原 健三



身を粉にして働き、食べるお米も自分の農場で育て、寝たきりのおばあさんを介護しながら二人の娘を育てる。それも15年もその生活を続けたという。

ちゃんと光が当たってよかったと思う。
きっと今の世でも、このような女性はたくさんいるだろう。光が当たらずに。

まじめにがんばっていれば、ちゃんと評価されることもある。
明治の世もなかなかいい所がありますね。

平成の我々も、忙しい忙しいばっかり言ってられませぬ。
前野タミさんに呆れられてしまう。
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2019年11月24日

明治末年北海道記48:1912年6月26日 札幌中学校のマラソン競争

改めてブログを見返してみて、北海道モノの特集が未完気味となっていることに気がついた。
少なくとも明治の出来事の掘り起こしは終わらせておいた方がよいかなと思い、約6年半ぶりに記事を追加するものである。

今回とりあげるのは、札幌中学校のマラソン競争である。
北海道で、いつから長距離競争をマラソンと呼ぶようになったのかは定かではないが、そもそもマラソン競技自体が1896年のアテネ五輪から始まっていることを考えると、言葉の取入れとしては非常に早いと思う。(日本初のマラソン大会は1909年とのこと)

それでは記事を読んでみよう。

1912年(明治45年)6月27日 北海タイムスより
●札幌中学校のマラソン競争

北十三条札幌中学校にて開催せる 勇壮なるマラソン競争は 昨二十六日を以て盛大に挙行したり

同日は登校生徒六百余名 朝来 大通西十一丁目に集合し 午前九時十五分 六百の健児は勇ましく西十一丁目を出発し それより北五条を左折して第一関門より円山神社下通の第二関門 発寒橋上の第三関門、手稲橋上の第四関門を経て 各関に衛生隊あり

競争者は自己の名刺を茲に差出しつつ通過し 軽川光風館前に至って決勝線あり 山田校長以下 各審判員 ここに控へたり

競争者は札幌区内にて服装を乱るを許さず 全く郊外に出でてより上衣を脱する者多く 折からの疾風に玉なす汗を拂はせつつ 七哩の距離を疾駆して 第一着は四年 堰八(四十二分十二秒)△第二着 三年 高橋(四十二分四十三秒) △第三着 四年 纐纈(四十四分三十秒) △第四着 四年 種本(四十四分三十八秒)△第五着 四年 竹原(四十四分五十秒) △第六着 一年 小林(四十五分) △第七着 五年 田村(四十五分二十秒) △第八着 四年 吉川(四十六分) △第九着 二年 飛島(四十六分十二秒) △第十着 三年 谷(四十六分十七秒)

以下 第二十着まで夫々 審査の上 賞与を授け 最後に職員に率られて来着せし殿軍の一隊は 初め競争に加はるを得ざる者三十名ばかりなりしが 途中落伍者を収容しつつ総員百名ばかりとなり 一時間十分にして到着したり

一行に其所にて紅白餅の供応に有り付き 暫く休憩の後ち 午後零時 夫々帰校の途に就きたり

明治45年の札幌中学校のマラソン大会を、現在たどるとするならば、大通西11丁目から石山通りをまっすぐ北上、北5条通りを東に折れて、北4条西24丁目の交差点を右に折れて、そのまま旧国道5号をまっすぐ琴似、西町、宮の沢と走り抜け、富丘の”手稲温泉ほのか”の先の交差点を左に折れて、札樽自動車道の高架下をくぐるとゴールという形になる。

19120626札幌中マラソン1.jpg
▲大正5年の札幌の地図に落とした札幌中の位置とマラソンのスタート位置

距離は7マイルということだから、約11qであるが、砂利道と靴を考えるとこれを約42分で走り抜けるというのはなかなか速い。

中央気象台月報で当時の札幌の気象状況を調べると、曇り空ながらも雲には多少隙間があり、気温は22℃前後、風は南東の風がやや強いという状況。手稲に向かって走るには追い風となり、日差しも少なく、気温も高くなくといったところで、非常によいコンディションだったことであろう。

札幌中学校の生徒がマラソン競争をしてから108年。まさか東京五輪のマラソン競争が札幌で行われることになるとは・・・!
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2019年12月22日

明治末年北海道記49:1912年6月28日 樺太守備帰還隊が旭川到着

明治45年から大正元年の樺太の様子を追った「樺太日記」のコーナーでは約190本の読み物を掲載したが、第71回で樺太守備隊の交代について記した。
これは、樺太側からみた、第7師団(旭川)の兵士による樺太守備隊の交代の様子を記したものだったが、今回は北海道に戻ってきた帰還兵への北海道側の記者の視線での報道を掘り起こしていく。

6月25日午前6時半に樺太・豊原を列車で発った帰還兵たちは、船で大泊から小樽へ移動、そこから汽車で旭川へと向かっていった。

1912年(明治45年)6月30日(日) 北海タイムスより
●上川時事 △樺太守備帰還隊

昨年六月 樺太守備の任に當り居たる歩兵第二十六連隊第八中隊歩兵第二十七連隊第十一中隊は 輸送指揮官三浦大尉に引率せられ 二十八日通過途中岩見沢に於ては愛国婦人会員の昨年出発当時同者 懇切なる湯茶接待を受け 深川に於ては 在郷軍人及び有志者の送迎するあり

午後二時三十七分 旭川に着するや 花火を打揚げ 師団道路 毎戸 国旗を掲げ 高橋第十四旅団長 竹内歩兵第二十六連隊長 大森歩兵第二十七連隊長 足立歩兵第二十八連隊長 各特科隊長将校 同相当官 並 旭川官民、学校生徒約千名停車場内外に出迎ふ

樺太守備を終えた兵士たちは、旭川の第七師団に到着後、満期除隊となり、6月29日午前9時に解散し、それぞれの故郷へと帰って行った。

樺太日日新聞には三浦大尉へのインタビュー記事が載っていたが、北海タイムスも小樽に到着したところで帰還将校を訪ねて一年間過ごした樺太の感想を取材している。

●一年見て帰った守備兵の樺太

一昨朝 弘前丸にて樺太から上陸した第二十七連隊将校書士が色内町キト旅館に一泊と聞き 其一年間に於ける感想を叩かんものと 同日夕方訪ねた

カーキ色軍服厳めしい石井中尉と 浴衣姿の加藤中尉 初対面の挨拶あって記者は 冬期間同地の酷寒にはお困りでしたらうと劈頭に問ひ掛くれば 石井中尉「イヤ 旭川で鍛えた体躯 寒さは一向に困難を感じませんでした」と例の軍人式洒落な句調で談話の話を咲かせんとする時、トントンと襖を叩く一兵卒中尉の応答を待って静かに襖を開き、閾にかくみ中隊長の帰られたるを告げる

軈て(やがて) 入り来りしはカーキ色服の中隊長大尉 相浦仁氏
記者を一瞥 ニッコリ挨拶あって 後 おもむろに過去一ヶ年間に於ける観たこと、聴いたこと、感じたことの話に移らんとする時、又も入り来たりしは高橋中尉

一座四名の将校諸氏が代わる代わる話された

▽気候の変化

ご存知の如く 地形 其他の関係上 気候の変化が多く 冬期厳寒の節は摂氏零下四十度内外に降ること往々あり
又 盛夏の候は三十四、五度に昇ること稀(めず)らしからず

一年中最も激烈なる寒気を覚えるは一月より二月初旬で 暑さは八月中旬 昨今は昼間 袷に羽織位なるも 朝は綿入れを脱がれぬ

島中 最も温度の高のは真岡で 大泊是に次ぎ 豊原、栄濱、名好、敷香などといふ順序で思ふたより

▽存外凌ぎ好い

渡樺前は余程の未開地と一種の覚悟を抱いたが 百聞一見に如かずとやら 予想外の好適地で 日中が長い
又た気候寒冷だが 乾湿度に適して健康に宜しい 衛生状態も亦 極めて良好で 風土病と目すべきものなく、一昨年度及び昨年度は守備隊に多数の胸膜炎患者あったけれど 本年度は幸いにも将校兵士約三百人中 該疾患に罹った者 僅かに一名でしたが 是とて二旬で全快した

時に胃腸を患ふ者 風邪に悩む者あるもの軽症で たまたまマラリヤに罹る者あったが 旭川などに流行する悪性のものではない至極軽症です

▽雪の下に魚屋

守備隊の居る豊原は 高地の個所にて 夏期は頗る好適地なるも 冬期吹雪の激烈なる事 到底 言筆に盡し難し想像外で 豊原大泊間記者往復は午前 午後各一回ずつです
冬期間大吹雪のため 列車杜絶する事が一か月に二、三回は必ずあります

ここに積雪中 滑稽談ともいふべきは 本年一月或日のこと 兵士二名宿舎より市街へ約百間の距離を荒れ狂ふ吹雪を冒して買物に出で 途中で積雪丈余に及び歩行叶ず 両人進退きわまり 代わる代わる大の字型に打伏せとなり 一人はその上を歩き 又伏して 前者が立て その上を歩き 市街に漸く来りしと思ひ店頭を探してもない

暫く躊躇 魚屋の屋根を歩行していることがわかり 帰隊の上 一同大笑しました

総じて同島の雪は乾燥して 灰の如く 積雪の甚だしい時は一丈五、六尺に及び 戸口を閉塞さるる事珍しくない
雪トンネルの奇談も稀でない

▽三等病はない

豊原は公娼を抱へ居る貸座敷一軒 其他は料理店の看板で 貸座敷も猶 及ばざる酌業盛んだ

豊原市街の五分の一は怪しげな料理店 飲食店で 芸妓酌婦また少なくない

二の日は検梅施行を受け 公娼同様です
而して本期守備兵士に三等病一名だになかったは絶えて酒色に耽らざるためです

中隊長は特に監督を厳にして武士動的娯楽法を與へ 訓練に努めた結果です 云々

明治時代の旭川といえば、1902年(明治35年)1月に−41.0℃を記録したほどの酷寒の地ということで、樺太の寒さも同レベルといったところだったが、吹雪のひどさや乾いた雪質という部分で北海道との冬の違いを感じたよう。また、北海道より北であるだけ、夏の昼の長さにも驚きがあったようである。

この記事を書いているいまは、ちょうど2019年の”冬至”なのだが、豊原(ユジノサハリンスク)の日の出は日本時間で7時12分、日の入りは同じく15時43分。旭川と比べて24分も昼の時間は短い。きっと、冬の夕暮れの早さにも驚きはあったことだろうと思う。

今日はここまで。
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2019年12月29日

明治末年北海道記50:1912年7月1日 道庁赤れんが庁舎再建!

札幌市中心部にそびえる、北海道のシンボル的建築物。
北海道庁旧本庁舎、別名は「赤れんが庁舎」

20181207雪の道庁.jpg

明治21年(1888年)に創建されたこの建物ですが、火災や設計変更などで姿を変え、1968年の「北海道100年事業」で復元、今に至ります。
特に、明治41年(1909年)の火災は損害が大きく、再建には2年を要したとされています。

19120702赤れんがパンフ.jpg
▲赤れんが庁舎紹介のパンフレットより(道庁HP掲載より)

パンフレットでは、1911年に復旧工事完成とあります。
ところが、1912年(明治45年)7月の北海タイムスを読んでみると、このような記事に出会った。

●本庁舎愈落成

北海道本庁舎の政務移転は明後三日に行ふと雖も 別に移庁式は挙行せず 本日午前九時より 改築庁舎内各室の縦覧を許すこととなり 昨日は日曜日なるに拘はらず 工事担当主任 家田技師始め 会計係員 其他数名出勤して 室内の取片付を行いたるが 各室とも特別の装飾を為さざるも 階上正面の長官室には生松の大盆栽を一鉢置き 又 階段の廊下には爛漫たる躑躅(つつじ)の大鉢植を据え付けあり
(1912年:明治45年7月1日 北海タイムスより)


また、同日の記事では、復旧工事を担当した家田於兎之助技師にもインタビューしているのだが・・・

▼本庁舎の大体構造

道庁本庁舎は愈 全部竣工し 本日縦覧を許し 明後三日 開庁のこととなれるが 該庁舎改築工事担当 家田技師の語る所 大要 左の如くなり

改築前の本庁舎は去る明治十九年七月新築に着手し 同二十二年二月落成を告げ 爾来二十年を経過して 四十二年一月十一日 不幸にも内外の煉瓦壁を残して全部烏有に帰するに至れり

越えて一昨四十三年六月二十日を以て 之れが復旧工事に着手したるが 監督者の熱心と請負者の精励に依り 工事 大に進捗して 今 三十日全部の竣工を見るに至れり・・・

記事を見ると、どうやら復旧工事完成は、1912年6月30日じゃないのかな?と思ってしまうのであった。
何を以て「復旧完成」とみるかで事情は異なるのかもしれませんが、このことを指摘すると「定説」が変わってしまうのかもしれない!?

この日の紙面をさらに読み進めて行くと、道庁本庁舎の竣工・落成を喜ぶコラムも掲載されています。

●閑是非

道庁庁舎の焼失したは 去る四十二年の酷寒の時であった
時の長官 磐谷翁も 亦 山田内務部長も上京不在中であった

留守師団長は拓殖部長の黒金
事務官部員の新年宴会とかで 旗亭幾代に開宴中 スワ道庁が火事だと聞くや否や 足袋裸足で駆け付ける

北東隅の警察部から盛んに燃え上がる火焔はトテも手の付けやうが無い
ポンプの水は忽ち凍結し 消防は負傷するという大騒ぎ
トウトウ全庁舎は 外観の煉瓦のみを残してまるやけとなったのだ

札幌名物の建物を失った 惜しい惜しいは異口同音であったが 其の復旧費の支出には 当局も亦 道会も甚だ躊躇した

が ヤット今回 是が竣工 落成したので 本日は庁内各室の縦覧を許す事となった

このあとに、「悲しみあって喜びあり」と続く。
生まれ変わった道庁「赤れんが」庁舎の姿に、北海タイムスのコラム担当者も喜んでいるようである。

さて、7月1日の道庁本庁舎の縦覧だが、午前中は招待者、午後は1時から5時まで一般公衆という順番だったが、見学者総数はなんと7万人!
当時の札幌市の人口は約95,000人だから、すごい数である。一番最初に入ったのは、福岡新聞の記者だったそう。

この縦覧式を取り仕切ったのは、山田内務部長ということだが、談話が残っている。

●新庁舎と述懐 (山田内務部長談)

▼本庁庁舎も漸く落成し 諸君の観覧を願ふこととなったが 回顧すれば 去る四十二年 故 河島長官は議会の為め上京し 余も亦 同年一月十一日に上京し 着京、夜 入浴の上 晩餐を済ますと 美唄炭鉱の松田武一郎氏が来て 河身改修費中 三十万円足らずの寄付を着任地で出来た話の最中 午後七時頃であった

道庁が火事だとの電報が到達したので 驚くの驚かぬのではなかった

道皇・河島長官邸に駆け付けたが長官は不在中である
所が電報は続々来る
開いて見ると 愈 大火である 庁舎は全焼だとのこと
是や困ったものと思ふたが 暫くして鎮火の報があった

別段 他へ類焼は免れたらしいが 本庁舎全焼ではコウして居られぬ
翌朝 直ちに帰道を致さうと仕度をしたが 長官同道で内務省に出頭し 何より仮庁舎を設くるが焦眉の急である
庁舎の復旧費について西村も加はり 三人で相談の結果 仮庁舎建築の大体設計を立てて 当日夜半十二時の列車で帰北の途に就いたのであった

▼列車は急行だ
一刻も早く帰札せんと焦るばかり 小樽へ着くと貴社の安田君が迎へて呉た
帰ると旭新聞からは攻撃を受る庁員は連夜の非常勤務で 疲労が甚しい

其の当時の事を想起すると身の毛がゾッとする如な気がする

差当り 事務室が無いので 附近の官公街を借受けて収容はしたものの 何とも始末が付かぬから 直ちに東京で決定た方針に基づいて家田技師に命じ 仮庁舎の設計を行はしめ 更に 同技師は是を携へて上京するに至った

それから一面には臨時道会を招集したが 確か三十日と思ふ
会議は二月一日から五日間であった
サア議事堂内の事務を取片付けねばならぬ

その時 焼残の書類中で一部を焼き棄てた騒ぎが一問題と成って 持ち上った懲戒やら譴(けん)責を喰ふに至ったのであった

▼旭川では焼けたを幸ひ 札幌から道庁を移転せしめんとの運動が始まる
最も公然では無いが 暗闘は随分激しかった如だが 兎に角 是れも鎮まり 臨時道会では非常に同情で 仮庁舎の建築費は原案の通り決定されたので 忽ち仮庁舎の建設に着手することが出来た

又 其の秋 通常道会へは焼け跡の本庁舎改築費予算を提案し 是も道会の同情の下に決定 向ふ三年間の継続支出となったのであるが 四十三年度には特殊の支出を要する事あるより 其年度割支出額を変更して 四十四年度には一万円丈けの支出となしたが 工事は四十三年から起工したのである

然るに 河島長官逝去し 石原長官 其 後任として赴任されたが 最初の設計には暖房を置かず ストーブの装置をしたのであるが 現在の仮庁舎は庁中各室に於いて百七十餘のストーブを使用して居る

全国の官街で斯くの如き多数のストーブを使用する所は絶無である
真に危険であるから 薪の燃え残りは悉く屋外の穴に容れ 翌日再び燃料とするまでに注意を怠らぬ
夜間は巡視小使のみでは不安といふので 特に各係から一人ずつの宿直をするに至った
如何にも厄介で且 危険である

▼されば 改築の本庁舎に悉くストーブを据付くるとせば更に不用心なので 石原長官は四十四年度の道会へスチームに変更の予算案を提出し 道会も亦 之に決定をしたから 現在の設備が出来たのである

元来 本工事は四十五年度迄 即ち 明年三月迄に出来すべきものなるも 請負者の勤勉で斯く速に落成し 今日移庁することの出来るのは最も幸である
是も道会は元より道民一般の同情と工事の請負者迄が斯く熱誠の致す所の賜物である
火災当時から今日迄の事は追想すれば 実に感慨に堪へぬものがある

長官は譴責、私と立石とは罰棒の懲戒を受けたのだ

然し 今日 斯く諸君を此の新庁舎で迎へるに至ったは真に喜ばしい次第である

(1912年:明治45年7月2日 北海タイムスより)

燃えてから再建、そして新庁舎での業務開始・・・すべてを見てきた内務部長もまた、非常に感慨深いものがあっただろう。

このあと、二度の大戦、各種災害でも失われることなく、道庁赤れんが庁舎は北海道のシンボルとしてありつづけている。
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2020年01月17日

明治末年北海道記51 1912年7月5日 ”不二湖園”の開園

明治45年の北海道の話も7月に入っている。
この年の7月の、札幌の気温のデータをみると、25℃以上の夏日は9日しかなく、真夏日はゼロ。
逆に最高気温が20℃に達しない日が8日間もある。”涼しい夏”のイメージだ。

このような気候では、水辺に涼を求めるというところまではなかなかいかないのかもしれないが、札幌の中心部からちょっと離れたところある憩いの場が人気を集めていたようだ。

●新開の不二湖園

北八条の通を真直に五町ほど東へ行くと 行詰って左手に美しい水がある
所謂フシコ川の川隈だから 不二湖園(ふしこ・えん)と名付けられて居る。

此 朔日からの開園で 植込なんぞも新しいが主人は山内兵太郎君
年歯ぜつ立の青年で 師団 其他の築庭で庭師の名を専にしている。

今度の不二湖園は総地積一万余坪 其内 千八十七坪の水と四百五十坪の釣堀とがある
池は松島の景に型取たといふ。

西の方の流の上が 青い丘で其上に群立つ楡の老樹の間から 遠い手稲の峰々を望むあたり 誠に大公園の趣がある。
丘は北方篠路街道に続いて 草鞋結束した旅人を見送るのも哀れ深い。

園の東には奇石重なって 清水の湧く井戸がある
所謂 結ぶ手に清例を覚ゆる山の井だ。

植込は若櫻三百五十本、梅九十余株、柳、椛、針葉樹、その他菖蒲、菊、薔薇 いろいろの花卉が四季折々に咲いて、釣り堀には尺に余る真鯉や肥った鮒がウヨウヨして 朝夕 糸を垂る客が絶えない。

竿も餌も供へて 一時間三十銭といふ
其の他 ビーア、サイダー、ラム子、不二湖団子など甘党にも辛党にも一寸仕度は出来ている。

主人は尚 園内色々の設備を工夫中だといふ。

巷の砂埃と工場の煤煙とにくすむ人々の爲に 我 札幌に 一名園の殖たことを喜ばねばならん
(1912年:明治45年7月5日 北海タイムスより)


伏古川のすみにあるのでフシコの字をあてて「不二湖園」ということなのだが、少し下った大正6年の古地図をみると、確かに札幌の北8条東5丁目あたりに池のようなものがみえる。

19120705不二湖園.jpg
▲1916年(大正5年)の札幌中心部〜現・東区役所あたりの地図(今昔マップより作成)

その後の地図をみていくと、1935(昭和10)年には同じような形で見当たるが、1950(昭和25)年には池がなくなる。
戦争前後の時期に不二湖園は消えてしまったのか。

19120705その後のふしこえん.jpg
▲1935年と1950年の不二湖園のあたりの地図(今昔マップより作成)

グーグルマップで、不二湖園のあったところを訪ねてみると・・・



公園だ!

調べて見ると、いまは「新生公園」という名前。
新生公園となったのは1957年(昭和32年)4月22日。昔からの庭園が、一度荒廃して”新生”したという意味なのだろうか・・・?

今となっては池は消えてしまったし、景色も全く変わってしまったが、明治から大正、昭和、平成、令和と時代がかわっても、この場所は札幌市民の憩いの場である。

今日はここまで
posted by 0engosaku0 at 22:50| Comment(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月19日

明治末年北海道記52 1912年7月6日 恩賜の時計と看守の時計

令和となった今の時代。
卒業といえば、小学生も中学生も高校生も大学生も、基本的には3月で揃っている。

日本の年度は4月スタート、3月ゴールだから、今の社会システム上は当然といえば当然なのだが、明治の終わりは違った。
大学の卒業は7月に行われていたのである。

1912年7月。札幌でも明治最後の卒業式が行われようとしていた。

●農大卒業式

七月六日午前十時より 東北帝国大学農科大学図書館に於て 第五回卒業証書授輿式挙行
文部大臣代理として 専門学校局長 松浦鎮次郎氏 臨席すべく 氏は昨日東京発

仙台に一泊し 四日着札の筈なり

(1912年:明治45年7月2日 北海タイムスより)


1876年(明治9年)開校の札幌農学校は、1907年(明治39年)に東北帝国大学農科大学に改称。
その後、1918年に北海道帝国大学となるまでは、仙台の理科と札幌の農科によって成る「東北帝国大学」として運営されていた。

名前は東北帝大だが、仙台に東北帝大理科大学ができたのは1911年1月なので、実質的には札幌の農科のほうが先輩格。
逆に言えば1910年までは東北帝大なのに校舎は札幌にしかないという状態だったということで、この頃の大学の姿を語るのは大変ややこしい。

ということで、明治45年7月の東北帝大の卒業生も札幌の農科の学生しかいないのである。
だからというわけではないだろうが、最優秀の卒業生には天皇陛下から”銀時計”が贈られていたようである。

●恩賜時計下賜されし農大卒業生

昨日農科大学第五回卒業生中 最優等生とし恩賜の銀時計を下賜されし 農芸化学科卒業生 蛯子孝作氏は 当年二十四歳 函館区弁天町十一番地 漁業 蛯子和右衛門氏の二男にて 函館中学校四年にて退学 更に 東京中学に入り 卒業後現在の農科大学に入り 品行方正 学績常に優良のものの由

大熊博士曰く 大学優等卒業生として今回恩賜の時計を賜りしは農芸化学科卒業の蛯子孝作なるが、是迄 優等生を此科より出し 而も我 教授せしものより出せしこと三回に及ぶは光栄であるが、蛯子の論文は 萩の成分に関する研究である

元来 萩は七種ありて家畜の飼料として有用であるから 営業上の価格および十勝国の如く 高台地多く将来畜産地たるべき不毛の地に栽培するの必要あらむ 然れば馬匹は嗜好何れにありや 又 収穫時期と成分の関係等を研究し 尤も力を尽せしは 成分として特種のものあるやを究めたるにあり

其結果 従来 未知のもの二つを発見したり
其の他牧草の収穫時期と成分の関係、日本に於る 販売資料評価に関する研究等をなせしも 卒業論文としては其の中 以上の如く 萩に付て提出せしなり云々
(1912年:明治45年7月7日 北海タイムスより)

この年の最優秀卒業生は函館出身の蛯子孝作氏であった。
この記事の続きには、予科と実科の卒業生全員の名前が記されているのだが、北海道出身者は各学科に1〜2名程度しかおらず、内地出身の学生が多いから、”道産子”が一番を取るというのはなかなか名誉なことであったろう。

蛯子氏は大正になってから、当時日本領の台湾に渡り、台湾総督府の煙草課の技手となる。そして大正の終わりには台北煙草工場の工場長を務めた。その後「笠島」に姓が変わり、戦後も専売公社で煙草についての研究を続けていたようである。

ところで、同じ日の紙面にはもうひとつ時計に絡んだ記事がみえる。

●看守の時計を盗む

樺戸監獄 看守合宿所 成田音三郎は 去る四日 何者かに懐中時計一個を盗まれ 爾来 月形警察分署に於て犯人捜索中なりしが 被害者の同僚 若月才吉と判明し 札幌地方裁判所検事局へ押送さる
(1912年:明治45年7月7日 北海タイムスより)


看守が看守の時計を盗み、牢屋行き・・・

本日はここまで。
posted by 0engosaku0 at 00:17| Comment(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする