忘れられた記憶の掘り起こしも、新しいステージへと進むことにする。
団塊ジュニアといわれる我々の世代、両親は当然「団塊の世代」となるわけだが、私の場合、祖父母は全員が大正生まれである。日本の近代史は昭和20年の敗戦により分断され、大日本帝国だった時代は多くが軍事国家のモノクロのイメージで否定的に描かれ、その中にちょうど我々の世代の祖父母が誕生し、子供時代を過ごした大正の時代がある。その記憶も今や「戦前の困難な時代」といったイメージの中に、影に没して姿がみえない。
平和国家として経済的発展を遂げ、今に続く戦後70年。一方で、日清・日露の二つの戦役に勝利し、アジアの有力国としていわゆる普通の国のひとつであった時代に埋もれた、大正の北海道の様子を掘り起こしてゆく。
初回は今から100年前。1914年(大正3年)の話である。
この年、サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件をきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦布告。オーストリアを支援するドイツ帝国の陸軍がベルギーに侵入したことからイギリスは1914年8月4日にドイツに宣戦布告した。
ドイツ東洋艦隊による通商破壊を防ぐため、イギリスは日英同盟に基づいて日本に対し参戦を要請した。
現在であれば憲法上問題といわゆる集団的自衛権の行使も、この時代はなんの問題もない。
日本政府は1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行い、日本は8月23日に宣戦布告して、この第一次世界大戦に参戦する。
いわゆる第一次世界大戦の東洋での戦いは、9月までに、太平洋におけるドイツ帝国の植民地だった南洋諸島のうち赤道以北の島々(ドイツ領マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)を日本が占領。さらに、ドイツ帝国東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を日英連合軍が攻略し、11月7日の青島陥落によって事実上終結となった。
本国から遠く離れたドイツの租借地を当時アジア最強の軍隊を持つ日本が占領するなど、至極簡単なことだったように思えるが、そこには少なからず戦闘があり、そして同時に戦死者も発生している。
楽戦ムードの日本の中で、最も衝撃的だったのは、巡洋艦・高千穂の撃沈であった。
1914年(大正3年)10月21日 北海タイムス
●高千穂艦沈没 当時の光景
高千穂沈没地点は大公島の西膠州湾口を距る七哩(マイル)の箇所にて 時は十八日午前一時の事なり
我が封鎖艦隊は十五日来 小山の如き 怒涛逆巻ける中を 我が封鎖艦隊は第一線に水雷戦隊、第二線に高千穂外仮装砲艦○○○○ 之を担任し 東西に分かれ 各受持ち区域を游伐中、俄然大音響を発すると共に大水の柱の中に高千穂は艦影を没せり 此の間五分に過ぎず
同艦は掃海任務の外に或る特別任務を有せる為め 艦の倉庫内に○○○○夥しく蔵せしかば 敵 機雷の爆発と共に是も爆発し 沈没は瞬く隙なかりき
艦長・伊東大差以下二百八十四名の乗組員中 助かりしは十三名のみにて 甲板上に勤務中なかりしものなり
此の地点は敵機雷沈設の場所ならず 察するに敵機雷はボートマインと云ふ小なるものにて 前日来の暴風雨に揺られし為め 繋索切れて浮流し来りしものならんと
記事中では、暴風雨のために流れてきた機雷が当たり、爆発撃沈となっているが、実際にはドイツ海軍の水雷艇「S90」による雷撃による撃沈であった。日本海軍の艦艇としては初の撃沈である。
記事中伏字となっているのは、「機雷」である。船体に多数搭載していた機雷に誘爆したことで大爆発を起こし、瞬時に沈没、乗組員280人のうち、助かったのはわずか13人という大惨事であった。
同日の紙面より
●高千穂生存者の談
高千穂生存者談、沈没の夜 伊東艦長は当直将校に対し 船の執るべき進路を指示し 命を受けし当直将校は信号兵三名と共にブリッジに在りしが 四分の三の乗員は午後八時寝に就き 四分の一の乗組員も十二時交代し 就寝せり
後 一時間を経し頃 俄然大爆声を聞き 続いて三度爆音を聞き 船は激しき震動を感じ 最後の爆音止みし時 海水既に上甲板に達せり
すわと跳起き者もあらんも 既にハンモックと共に強く天井に吸ひ付られしを 出でんともがけども能はず 窒息せる者もあるべく 機関兵中惨憺たる負傷をなせる者もあるべし
危難を免れし我等三名は 最初の爆音震動にて海中に跳飛ばされ 艦船沈没の瞬間 三名も一旦渦巻く中に巻き込まれたり 併し やがて浮上がりし時は同僚の姿見えず 無数に何物か浮かべるものにすがり 波間に翻弄さるる事約半時間にして救助されたり
艦長以下睡眠のまま多分死せしもの多からむ
(二十一日東京電報)
当直の一部の乗員以外はほとんどが就寝していたことも被害を大きくしたようである。
10月23日の北海タイムスでは、艦長以下の人となりを詳しく報じている。
▼艦長・伊東祐保(45)
留守宅は東京白銀今里町150。夫人ミヨ子(43)と長男祐一(11)、長女シマ(5つ)、次男育二郎(4つ)の三人の子が遺された。
記事では、趣味道楽は特になく、邸内の小さい畑を耕作するのを楽しみとしていたとある。
兵学校教官当時、多くはない収入で多くの書生を養っていたが、ある年の大晦日、全財産を債権者に払い、残る少しのお金は書生達の小遣いとして与え、正月は「酒の肴がほしいが、金はないの鳥を捕ってくる」と銃を担いで狩猟に出たという逸話あり。
▼軍医・小島忠三郎(34)
温厚な性格で、軍医学研究の間に文学や尺八にも親しむ。
▼分隊長海軍大尉・松田昌正
東京第四中学、攻玉中学に学び、明治39年海軍兵学校卒業。自宅は横須賀で、夫人末子(23)は最近長女ヨシ子を産む
▼水雷長海軍大尉・堀江平弥(32)
岐阜県稲葉郡縣村出身。明治35年海軍兵学校卒業。性格温厚で、親孝行として有名だったらしい。
未亡人ミツ(26)、長男彌(わたる、5つ)、次男具平(3つ)留守宅にあり。
▼副館長・海軍少佐古賀賢吉(36)
佐賀県人で兵学校を卒業後、海軍省。明治45年津軽・航海長、大正2年12月高千穂副艦長。
未亡人良子(23)。実兄・古賀英氏は大阪で弁護士、妹が二人。
▼機関長・機関少佐安達栄蔵(34)
東京四谷左門町の生まれ、東京第四中から海軍機関学校へ進み、軍艦・鞍馬に勤務。高千穂機関長拝命。
未亡人春子(25)あり。
これら、艦長以下、乗組高官の年齢は今と比べると非常に若いのではないだろうか。
まだ遺された子供も小さい。
上官には北海道出身はいないが、乗組員の中には北海道出身の水兵が含まれていた。
最初に戦死が報じられたのは、深川出身の水兵・堀田菊松である。
1914年(大正3年)10月23日 北海タイムス
●本道の名誉の戦死者 海軍水兵
雨竜郡深川村字大鳳畑346番地 戸主平民農業・堀田松太郎弟 堀田菊松(明治二十一年四月二十一日生 明治四十四年徴集)は海軍水兵として出征の所 本月十八日 名誉の戦死をなせし旨 横須賀人事部より電報を以て二十日村役場に通報ありたるを以て 村役場に於ては直ちに この旨遺族に通達せりと
右 堀田菊松は高千穂艦に乗込み 沈没と同時に名誉の戦死を遂げたるものならんと
(20日深川通信)
次回は堀田菊松やその他の北海道水兵たちの話を詳しく。