2014年11月09日

北海道大正の記憶その1 第一次世界大戦・巡洋艦高千穂の沈没

1912年樺太日記が終了し、気づけば2014年も立冬を過ぎて、新しい年、2015年の足音が少しずつ聞こえ始めている。
忘れられた記憶の掘り起こしも、新しいステージへと進むことにする。

団塊ジュニアといわれる我々の世代、両親は当然「団塊の世代」となるわけだが、私の場合、祖父母は全員が大正生まれである。日本の近代史は昭和20年の敗戦により分断され、大日本帝国だった時代は多くが軍事国家のモノクロのイメージで否定的に描かれ、その中にちょうど我々の世代の祖父母が誕生し、子供時代を過ごした大正の時代がある。その記憶も今や「戦前の困難な時代」といったイメージの中に、影に没して姿がみえない。

平和国家として経済的発展を遂げ、今に続く戦後70年。一方で、日清・日露の二つの戦役に勝利し、アジアの有力国としていわゆる普通の国のひとつであった時代に埋もれた、大正の北海道の様子を掘り起こしてゆく。

初回は今から100年前。1914年(大正3年)の話である。

この年、サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件をきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦布告。オーストリアを支援するドイツ帝国の陸軍がベルギーに侵入したことからイギリスは1914年8月4日にドイツに宣戦布告した。
ドイツ東洋艦隊による通商破壊を防ぐため、イギリスは日英同盟に基づいて日本に対し参戦を要請した。
現在であれば憲法上問題といわゆる集団的自衛権の行使も、この時代はなんの問題もない。
日本政府は1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行い、日本は8月23日に宣戦布告して、この第一次世界大戦に参戦する。

いわゆる第一次世界大戦の東洋での戦いは、9月までに、太平洋におけるドイツ帝国の植民地だった南洋諸島のうち赤道以北の島々(ドイツ領マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)を日本が占領。さらに、ドイツ帝国東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を日英連合軍が攻略し、11月7日の青島陥落によって事実上終結となった。

本国から遠く離れたドイツの租借地を当時アジア最強の軍隊を持つ日本が占領するなど、至極簡単なことだったように思えるが、そこには少なからず戦闘があり、そして同時に戦死者も発生している。

楽戦ムードの日本の中で、最も衝撃的だったのは、巡洋艦・高千穂の撃沈であった。

1914年(大正3年)10月21日 北海タイムス

●高千穂艦沈没 当時の光景

高千穂沈没地点は大公島の西膠州湾口を距る七哩(マイル)の箇所にて 時は十八日午前一時の事なり
我が封鎖艦隊は十五日来 小山の如き 怒涛逆巻ける中を 我が封鎖艦隊は第一線に水雷戦隊、第二線に高千穂外仮装砲艦○○○○ 之を担任し 東西に分かれ 各受持ち区域を游伐中、俄然大音響を発すると共に大水の柱の中に高千穂は艦影を没せり 此の間五分に過ぎず

同艦は掃海任務の外に或る特別任務を有せる為め 艦の倉庫内に○○○○夥しく蔵せしかば 敵 機雷の爆発と共に是も爆発し 沈没は瞬く隙なかりき

艦長・伊東大差以下二百八十四名の乗組員中 助かりしは十三名のみにて 甲板上に勤務中なかりしものなり

此の地点は敵機雷沈設の場所ならず 察するに敵機雷はボートマインと云ふ小なるものにて 前日来の暴風雨に揺られし為め 繋索切れて浮流し来りしものならんと


記事中では、暴風雨のために流れてきた機雷が当たり、爆発撃沈となっているが、実際にはドイツ海軍の水雷艇「S90」による雷撃による撃沈であった。日本海軍の艦艇としては初の撃沈である。

記事中伏字となっているのは、「機雷」である。船体に多数搭載していた機雷に誘爆したことで大爆発を起こし、瞬時に沈没、乗組員280人のうち、助かったのはわずか13人という大惨事であった。

同日の紙面より

●高千穂生存者の談

高千穂生存者談、沈没の夜 伊東艦長は当直将校に対し 船の執るべき進路を指示し 命を受けし当直将校は信号兵三名と共にブリッジに在りしが 四分の三の乗員は午後八時寝に就き 四分の一の乗組員も十二時交代し 就寝せり

後 一時間を経し頃 俄然大爆声を聞き 続いて三度爆音を聞き 船は激しき震動を感じ 最後の爆音止みし時 海水既に上甲板に達せり

すわと跳起き者もあらんも 既にハンモックと共に強く天井に吸ひ付られしを 出でんともがけども能はず 窒息せる者もあるべく 機関兵中惨憺たる負傷をなせる者もあるべし

危難を免れし我等三名は 最初の爆音震動にて海中に跳飛ばされ 艦船沈没の瞬間 三名も一旦渦巻く中に巻き込まれたり 併し やがて浮上がりし時は同僚の姿見えず 無数に何物か浮かべるものにすがり 波間に翻弄さるる事約半時間にして救助されたり

艦長以下睡眠のまま多分死せしもの多からむ
(二十一日東京電報)


当直の一部の乗員以外はほとんどが就寝していたことも被害を大きくしたようである。

10月23日の北海タイムスでは、艦長以下の人となりを詳しく報じている。

▼艦長・伊東祐保(45)
留守宅は東京白銀今里町150。夫人ミヨ子(43)と長男祐一(11)、長女シマ(5つ)、次男育二郎(4つ)の三人の子が遺された。
記事では、趣味道楽は特になく、邸内の小さい畑を耕作するのを楽しみとしていたとある。
兵学校教官当時、多くはない収入で多くの書生を養っていたが、ある年の大晦日、全財産を債権者に払い、残る少しのお金は書生達の小遣いとして与え、正月は「酒の肴がほしいが、金はないの鳥を捕ってくる」と銃を担いで狩猟に出たという逸話あり。

▼軍医・小島忠三郎(34)
温厚な性格で、軍医学研究の間に文学や尺八にも親しむ。

▼分隊長海軍大尉・松田昌正
東京第四中学、攻玉中学に学び、明治39年海軍兵学校卒業。自宅は横須賀で、夫人末子(23)は最近長女ヨシ子を産む

▼水雷長海軍大尉・堀江平弥(32)
岐阜県稲葉郡縣村出身。明治35年海軍兵学校卒業。性格温厚で、親孝行として有名だったらしい。
未亡人ミツ(26)、長男彌(わたる、5つ)、次男具平(3つ)留守宅にあり。

▼副館長・海軍少佐古賀賢吉(36)
佐賀県人で兵学校を卒業後、海軍省。明治45年津軽・航海長、大正2年12月高千穂副艦長。
未亡人良子(23)。実兄・古賀英氏は大阪で弁護士、妹が二人。

▼機関長・機関少佐安達栄蔵(34)
東京四谷左門町の生まれ、東京第四中から海軍機関学校へ進み、軍艦・鞍馬に勤務。高千穂機関長拝命。
未亡人春子(25)あり。

これら、艦長以下、乗組高官の年齢は今と比べると非常に若いのではないだろうか。
まだ遺された子供も小さい。

上官には北海道出身はいないが、乗組員の中には北海道出身の水兵が含まれていた。

最初に戦死が報じられたのは、深川出身の水兵・堀田菊松である。

1914年(大正3年)10月23日 北海タイムス


●本道の名誉の戦死者 海軍水兵

雨竜郡深川村字大鳳畑346番地 戸主平民農業・堀田松太郎弟 堀田菊松(明治二十一年四月二十一日生 明治四十四年徴集)は海軍水兵として出征の所 本月十八日 名誉の戦死をなせし旨 横須賀人事部より電報を以て二十日村役場に通報ありたるを以て 村役場に於ては直ちに この旨遺族に通達せりと

右 堀田菊松は高千穂艦に乗込み 沈没と同時に名誉の戦死を遂げたるものならんと
(20日深川通信)


次回は堀田菊松やその他の北海道水兵たちの話を詳しく。
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2014年11月10日

北海道大正の記憶その2 第一次世界大戦・青島陥落と高千穂乗組員の死

1914年(大正3年)11月8日。立冬を迎えた北海道は喜びに湧いていた。

前日の11月7日、日本陸軍がドイツ艦隊の根拠地・青島を攻略。午前5時10分に小湛山北砲台を占領、午前5時35分に台東鎮東砲塁を占領、午前7時にはイルチス、ビスマーク、モルトケ各砲台を占領、ドイツ軍は天文台上に白旗を掲げ、ついに陥落したのである。

青島の戦いが日本軍の勝利で終結したことを祝い、7日のうちに函館と小樽で祝賀会・提灯行列が行われたほか、札幌でも祝賀提灯行列が8日午後5時より行われ。旭川でも8日午後2時より祝賀会開催と、大小を問わず、北海道のどの町でも祝賀行事が行われた。

札幌の提灯行列の模様をみてみよう。

1914年(大正3年)11月9日 北海タイムスより


●地に敷ける星の海原

青島陥落の報を得て 歓喜極まりなき札幌区民は 八日午後五時より先づ提灯行列を行い 祝意を表したり
参集したるは区内確実業組合 斯く学校生徒児童 各銀行会社 官公衛其他一般有志等 約一万五千の大衆にて

午後四時 大通西六丁目記念碑前にて三発の号砲が鳴り渡ると共に 予て用意の提灯を携へ四方より集まるもの 陸続として西五、西六両町に亘る広庭はしばらくにして人を以て埋まる

何れも歓呼して止まざる賑はひの裡(うち)にも 整然たる節制あり

実業団たる二十四組合員 約一万の人々 夫々立札に従ひて整列し 銀行会社中にも帝国製麻の職工千二百名 第日本麦酒の職工六百名 何れも意匠を凝らせる提灯服装にて 音楽隊を先頭に繰り込めるは異彩を放ちたり

・・・・

定刻午後五時に至るや 一万五千の大衆一整に大日本帝国万歳を三唱し 極りなき喜びの声をあげつつ行列先づ動き始む
高桑商店寄贈の音楽隊を先頭に四列となりて長蛇の如きまた乱れ散る光の流れとも見べき美観壮観を現出して 行列は先づ集合地より南一条西五丁目に出で 左へ南一条通りを東三丁目頓宮に至る

・・・・

先頭は尚も同所より北一条西三丁目に出で 区役所前に至り万歳三唱 尚も北三条に進み、左へ道庁正門前に至り 万歳三唱の後 到着順にて漸次退散 午後七時全く散会したり

此間空前の盛観を見んとて 沿道に群れ集うもの数を知らず 限りなきまでに連なる光の流れを見送りて
・・・
札幌の天地 一時は光の都と化し 歓呼に包まれて漸次更け行き渡りぬ


立冬を迎え、日暮れの早くなった宵の札幌の街が、祝賀の提灯行列の灯によって、キラキラと輝くものとなった。

一方で、第一次世界大戦の中では比較的短期間に終結を迎えた東洋の闘いにおいて、ひときわ大きな犠牲となった巡洋艦・高千穂の撃沈。
北海道各地から出征し、この高千穂に乗組んでいた兵士の葬儀も、同じ11月に行われた。

最初に報じられた犠牲者である、深川村出身の堀田菊松が当時の紙面では一番大きく扱われており、1914年(大正3年)10月28日の紙面には家族へのインタビューが記事に掲載されている。

雨竜郡深川村字大鳳畑346番地。現在の妹背牛町大鳳(おおほう)地区に住む農業・堀田松太郎の弟・堀田菊松。

明治37年(1905年)2月、菊松が15歳の時、愛媛県新居郡玉津村、現在の西条市から妹背牛へと一家をあげて移住するが、明治39年に父親54歳で死去、松太郎が家の跡を継ぎ、菊松は農業の手伝いのかたわら、大鳳校長の桑原義彦のところへ4年間夜学に通い、勉学に励んだ。欠席は一度も無かったという。

明治44年(1911年)6月20日、志願して機関兵甲種合格により横須賀の海兵団へ入団する。
最初は「浪速」に乗組み、次いで満州号に乗る。ここでは蒸気配管の故障を直そうとして大やけどを負うが、回復、大正2年(1912年)11月には一等機関兵に昇進、さらに大正3年(1913年)8月13日に運命の高千穂へ配属、すぐに出征の途に就いた。

兄・松太郎の語る所によれば

私等は百姓の事で 新聞などは日中とても見て居れず 何時も畑から帰って来て 晩のみ見るのですが 二十日の晩は畑から帰って来ると 虫の知らせであったものか 急に新聞が見たくなり 灯の明りで新聞を見ました所 高千穂艦の沈没とありましたものですから ハッと胸を驚かせ 弟・菊松は戦死したものと覚悟はしましたけれど 母の耳には入れませんでした

それというのは 弟・菊松は平素よりして母を大切にし 孝養怠りませんものですから 母も菊松を大変に可愛がり 一昨年休暇で菊松が帰省の時にも 薬など買求めて来るなどして手紙には始終母は如何して居るか 達者で居て呉れ 母を大切にしてくれとのみあるものですから 本年も休暇には菊松が帰省するものと母は待ちに待って居たのです

それですから 若し母が菊松は戦死したなどと耳にしたならば 万一の事 母は気でも悪くはせぬかと気遣ひ それで私は兄弟等には話をなし 口止めをして 畑から帰ってきた其足ですぐさま妹背牛市街地に至り 海軍省へ菊松の安否を知りたく打電しましたが 翌21日午後五時頃 役場から二十日付の封書を以て
「ホッタキクマツ 一八日センシス イゾクニ ツタエト」の電報が横須賀人事部より来たからとの通知でありましたし 又 妹背牛在郷軍人分会長・遠藤庄次郎の許からも通知がありましたものですから 愈々覚悟を致しました

母は分会長・遠藤庄次郎氏から聞いて 初めて驚き 一時は気も狂はんばかりに泣き伏しましたが 更に気を取り直し 一家としては悲しみ尽きませんが 御国のために誠に名誉ですとて
(以上:1914年(大正3年)10月28日北海タイムスより)


戦死が伝わり、夜学・大鳳校の先生だった桑原義彦氏も涙を浮かべ、名誉の戦死ではあるが、夜学に通っていた時も成績よく、品行方正であり、いかにも惜しい人物を亡くしたと述べ、また、大鳳の青年会長だった渡辺宇平氏もお悔やみの席で、菊松が実に模範とすべき会員であったということを述べたという。

▼堀田菊松:北海タイムスより
19141028堀田菊松.jpg

名誉だけれども残念、悲しみは尽きない。と、ある程度、喪った悲しみを本音で言うことがこの時代はできたのか。

堀田菊松は名誉の戦死者として1914年(大正3年)11月16日、深川村葬が営まれた。場所は妹背牛尋常高等小学校・校庭である。

式場は紅白の幔幕を張り廻し、祭壇を設け、寄贈の供えや造花で彩られた。
空知支庁長や深川警察分署長、村会議員一同、在郷軍人一同に、妹背牛の学校生徒や青年会員、一般参列者をあわせると約1500人もの人が集まって、菊松を送った。

亡くなったのは堀田菊松だけではない。
十勝・幕別村字白人出身の二等主厨・三好梅次氏。高千穂の乗組員である。
11月25日に幕別・白人小学校にて葬儀実施。やはり公職者に小学校生徒等あわせて1000人以上の出席者があった。
梅次は明治25年(1892年)3月26日生まれの22歳、白人尋常小学校から幕別高等小学校へ進み、実業補習学校などでさらに学を修めた。篤実なる性質だったという。
海軍兵を志願し合格、明治44年6月横須賀鎮守府の海兵団へ入ったというから、菊松とは同期で仲がよかったのかもしれない。この年の8月には幕別へ帰省していたが、時局切迫により呼び戻され、出征していった。
父・善吉氏は記者に涙も見せず、「戦死は本懐の至りなり、本人もさぞかし満足なりしなるべし」と語っている。しかし、出征前、故郷に送った行李には、教科書や中学校講談録、講習中の筆記帳などがおさめられていたのがみつかる。まだまだ道半ばであった。

11月16日には栗沢村(現栗沢町)茂世丑で、海軍三等兵曹・加藤丑五郎(25)の葬儀も行われている。こちらも高千穂に乗組んでいた。
やはり上幌尋常小学校の式場には紅白の幔幕をひき、祭壇が設けられた。
終始、遺族等の人知れずすすり泣くのを見て、一般参列者ももらい泣きしたものが少なくなかったという。

青島の戦闘では、イルチス砲台奪取戦において、歩兵伍長・池ヶ谷孝一郎(23)が敵弾にたおれて、戦死した。
池ヶ谷は釧路町(現釧路市)米町・釧路水産組合検査員・利作氏の長男。
明治41年釧路第一尋常小学校を卒業後、父親の郷里・静岡へ行き、東京瓦斯会社に就職、マントル製造技師として働いていたが、大正元年に徴兵により静岡連隊第七中隊に入営、この年の11月で満期除隊のはずだったが、再役志願し、模範下士官として伍長に抜擢、11月4日に静岡を出発したばかりであった。

父・利作氏は記者の問いに「軍人の戦場に赴く 生は万一に期すべく、死は常に期せざるべからず 自分へは公報は達せざるも親戚よりの通知により承知し よく家門光栄をに輝かせてくれたと 唯 感涙にむせぶほかありません」と語っている。
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2015年01月26日

北海道大正の記憶その3:大正4年1月11日機関車トーマス?客車の忘れ物

相当多忙で更新が滞ってしまった。
今日も時間がないので、昭和20年はお休みとして、大正時代の軽い小話で勘弁してもらおう。

大正4年(1915年)の1月。札幌は穏やかな新年だったようだが、旭川は三が日にドカ雪があったようである。
今回取り上げるのは、1月13日の紙面。正月気分はすっかり抜けるころだが、まだまだのんびりしていたのだろうか。機関車トーマスに出てくるような事件が発生していた。


●汽車の物忘れ

昨日網走線列車が二時間半網走駅へ遅着したるは、同列車が小利別駅に於て炭水を補給し発車の折 不注意にも客車の連結を忘れ 其儘発車したる為 再び置戸駅より引返したるに依るなりと
(十二日網走電報)



網走線はのちの池北線で、ちほく高原鉄道となって2006年4月に廃止となった鉄路である。
陸別町の小利別駅と置戸町の置戸駅の間は約16キロもあり、途中には池北峠もあるなど、汽車としては馬力の必要な区間であった。このため、石炭と水を補給して峠越えとなったのだが、置戸駅までやってきて、「客車がない」ということに気付いたのだろう。これは慌てたに違いない。

結局一往復余計に走り、網走到着も二時間半の遅れということである。待ちぼうけを食らったお客さんも、唖然・茫然だったに違いない・・・。

自動車が少なかったこのころの「交通事故」にはもっぱら「馬」と「汽車」が絡む。
同日の紙面より。


●馬と心中轢死

十一日正午頃 上川郡上富良野農大学田居住・東竹次郎(五三)が馬橇に薪を満載し 下富良野方面に行進中 十勝線下富良野駅を西に距る約一哩の踏切を横切らんとせる際 函館発釧路行旅客列車急行し来るに 馬は驚き線路に飛込み 竹次郎も引かれて馬諸共轢死を遂げたり
(十二日旭川電話)



馬ソリと汽車の衝突事故というのが、この頃の冬の交通事故の「花形」である。
馬は機械ではなく生き物なので、人間の意にならない想定外の事態も発生する。このため、このような「馬に轢かれて諸共轢死」といった事態も引き起こされたのである。

▼おそらく事故現場と思われる踏切
 下富良野駅(富良野駅)から北西に約1.5キロの所、西学田二区の所にある。今も昔も周囲には何もなく、冬はなだらかな雪原が広がっていたに違いないが・・・


また、同日の紙面には、朝の眠りを意外な形で覚まされた話も。


●天井から薪が降る

小樽汐見台町四十八番地の日雇業・有田政吉(五六)方にて 十二日午前六時頃 轟然たる大音響を発し 続いて男女の悲鳴聞ゆるより 隣家の者第一部消防番屋に急報し 消防手十数名及び小樽署の片野警部補 外数名現場に駆け付けたるが

同家は四戸長屋の中央にあり 入口の六畳間天井に三寸角六本を渡し 薪材百貫目を載せ 乾燥し その下に政吉及び 妻セキ(五十)長男政次郎(十六)の三人が臥し居たるが 薪材の自量にて突然墜落し セキ 政次郎は幸い無事なりしも 政吉は左足を角材に圧迫され軽傷を負ひたり 其他に損害なかりし



日の出の遅いこの季節、まだまだ暗闇の午前六時に突然天井が抜けて角材が降ってきたら、大変驚く。
この一家も、夢か現実かさっぱりわからなかったに違いない。
一家のあった小樽市汐見台は、現在は小樽潮陵高校などがあり、住宅も多数立ち並んでいる。小樽アメダスも近く、今年(2015年)も雪の量が多いので、薪は落ちてこないにしても、屋根の上に積もる雪の量には冷や冷やしていることであろう。


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2015年07月20日

北海道大正の記憶その4:大正9年8月2日全道中等学校野球大会・初代王者は北海中

今回は、北海道の高校野球の歴史の最初をみていく。

2015年に100周年を迎えた高校野球。北海道代表がはじめて全国大会に姿を見せるのは大正9年(1920年)のことである。この年に初めて「北海道大会」が設けられたことで、出場が可能になったのだ。
当時はどのような様子だったのか、北海道新聞の前身・北海タイムスを調べてみたのだが、当時の中等学校野球選手権大会の主催は同じ新聞社・朝日新聞であったことからか、扱いは小さい。

しかも、その盛り上がりに水を差すような?記事もみられた。

1920年(大正9年)7月18日 北海タイムスより


宙に迷える全道中学の野球選手 八月一日の試合行悩む 対抗試合禁止の申し合わせで

来月一日北大及び太洋後援の下に北大グランドに於て 全道中等学校の野球優勝試合に行はるるに就て、端なくも問題が惹起しつつある

夫れは全道庁立中学校が対抗試合禁止を申合せてあるので何人の主張たりと雖も 此の申合せを無理して 学校側が挙行させるか否や
若し挙行を許すとすると 申合は何等の権威もないものであるし 去とて許さぬ訳にも行かぬであらうから 此の納まりはどうなるか 浪花節ではないが頗る興味ある問題として 全国の運動家が注目しつつある

右につき笠井長官は語る
『凡そ運動と命名し得るものに絶対の弊害のないものはない 殊に野球は最も男性的な好運動である 大にそれ丈裏面に伴う弊害も又あるかも知れないが 是はスポーツマン各自が自覚すればよいので 過般本道各中等学校会議に申合せた対抗試合禁止問題の如きは 永遠的に継続す可き性質のものではない
適当な時期に解禁す可き事 勿論である』と、

又 大場視学官は往訪の記者に語って曰く
『庁立中等学校の対抗野球試合禁止問題は嘗て語った事もある通り 自分の関知する事ではないが 私の考へとしては之は時期の問題だと思ふ、私は初め知らずに居た位だから記憶には無いが 確か明治四十二、三年頃で今から十二、三年以前の申合せであるから 今はもう解禁するか否かに就いて教育者が考へなくてはならぬ時季だと思はれる』

更に此の問題の発明者たる山田(札幌)一中校長曰く
『此問題に就ては屡々(しばしば)世の誤解を招くが 実際私だって運動を軽視する訳ではないから 正科の柔道剣道などは大いに奨励して居るのである
唯 野球庭球は前の申合せもあり絶対に是を禁止して居る、併し生徒が運動の為に一度や二度 試合する位ならば決して制止する訳でない
ボールは得て熱狂し易い遊戯で 是が為に大切な入学試験に落第したりする様な事があってはと言ふ老婆心から禁止問題も起こしたに過ぎない』云々

一方 各校生徒は試合が出来るものと信じ 大喜びで練習して居たのを同校長は二中能校長と協議し 各中等学校長に対し禁止申合せを厳守することに骨を折っているから 目下選手は中に迷ふている


この記事を読む限り、この年に初めて中等学校野球大会の全道大会が実施されることになったのだが、当時は野球については「対外試合禁止申合せ」というのが北海道庁立の中学校、いわゆる公立校にはあったので、この申合せをどうするかが問題となったようである。

この記事にある明治42〜3年頃の出来事というのは、札幌中(現札幌南高)と北海道師範(現道教大)の野球の試合で応援団同士がいさかいを起こしたことがきっかけとなっている。当時すでに10年ほど経っているので視学官は知らなかったとしても、自らが関わった札幌一中の校長は知っているというのもうなずける。

さて、当の中学校の野球選手たちは「念願の対外試合ができる!」と喜んでいたところにこの記事が出るとなると、相当不安もあったであろう。そして公立校の参加を減らし、大会の盛り上がりをそぐという、朝日新聞への北海タイムスの対抗心というのも垣間見えるのである。

果たして8月1日。大会は開催され、試合も行われた。
北海タイムスには決勝戦の模様が掲載されている。

1920年(大正9年)8月3日 北海タイムスより

◇北中対樽商

東京朝日新聞主催全道中等学校野球優勝試合の第一日に於ける第四回戦の樽商対函中のゲームは 第九回の表にて樽商−二 函中−四 にて薄暮に迫り中止せるも 樽商の勝利とし 昨日午後一時過より北中対樽商の決勝試合を開始せり

観衆は数千に達し 決勝戦の事とてプレーヤーは勿論各観衆に至る迄頗る緊張し 拍手は間断なく沸き 何れも熱狂せり

樽商先行 球審は東京朝日の上村君 塁審は大洋の橋本君にて 第一回の表は零、裏は一点を得 北中軍郵政を示せり
第二回戦は両軍無為 第三回戦にては北中三点を得 北中軍は計四点となれり
第四回戦表は樽商一点を得 裏には北中軍一点を得 第五回戦表に一点 裏は零 第六回戦は表零裏二点 第七回戦は両軍無為 第八回は表一点裏四点 第九回の表は零

結局三泰十二のアルファの大スコアを以て北中軍大勝し 優勝旗は北中チームの手に帰し 四時半終了せり

是に於て 全道中等学校最優秀チームは北中と決定せり


8月2日の紙面には一切、野球に関する記事がない。このため、何チームがこの全道中等学校野球大会に出場したのかはわからないが、少なくとも函館中(現・函館中部高校)と小樽商業学校(現・小樽商業高校)、そして初代王者となった北海中(現・北海高校)の3チームが出場していたことがわかる。函館中と小樽商が対戦しているので、前述の「庁立中学校の対外試合禁止の申合せ」もこの大会に関しては一部の学校では解かれたものと考えられる。

準決勝は日没により中止となったが、リードしていた函館中ではなく小樽商業が勝利を得て、決勝に進んでいるのは、なんだか不思議である。

決勝戦は北海中の圧勝であった。
スコアを数字で書き直してみると・・・

▼北海道大会・決勝(1920年8月2日)
小樽商 000 110 010 3
北海中 103 102 04X 11

あれ?記事では3-12で北海中勝利となっているが、記事のまま点数を書き写すと3-11のスコアに???

各種文献でも3-12で記録が残っているようなので、どこかで1点足りない。記事のミスなのか???
いずれにしても、初の決勝戦は小樽商と北海中の間で戦われ、北海中が優勝したことには変わりはない。

さて、優勝した北海中。全国大会ではどうだったか。

1920年(大正9年)8月16日 北海タイムス


北中敗戦

(十五日神戸発電)
全国中学野球大会 今朝九時二十分開く
劈頭 北海中学対長岡中学仕合を為し 長岡先攻 北中一回に一点を揚ぐ
二回両軍零 三回長岡三点を得 北中振るはず
四回両軍零 五回両軍一点を加へ 六回北中二点を得 七回両軍零 八回両軍零
九回長岡二点を加へ 七対四にて北中敗戦す


第6回の全国中等学校野球大会。まだ甲子園は無く、鳴尾球場が舞台となった。
北海中の相手は新潟県の長岡中である。

朝日新聞のホームページによれば、当日のイニングスコアは以下の通りである。
▼一回戦(1920年8月15日)
長岡中 004 010 002 7
北海中 100 011 001 4

ということで、北海タイムスの記事と朝日の記録とは一致しない。
もう、ここは北海タイムスの記者がいいかげんと思うしかないか。。。

兎にも角にもこうして、今に続く北海道の高校野球史ははじまったのであった。
posted by 0engosaku0 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 大正の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする