新聞など戦後70年の特集が組まれているが、せいぜい「8月15日」までであろう。
都市への無差別爆撃が始まり、北海道も空襲を受け、敗戦へ一気に突き進む前半、そして戦争終結から進駐軍の占領政策を受ける後半を通じて「北海道新聞」が1945年をいかに伝えたかを、一日一日掘り起こしていくことにする。
1945年(昭和20年)の元日。
最低気温は函館-12.2度、旭川−18.2度、札幌-15.8度、釧路-19.8度、帯広-25.6度、網走-14.8度、稚内-9.8度。凍てつくような寒さで北海道は新しい年の朝を迎えた。
北海道新聞の一面トップは、天皇陛下(昭和天皇)が最高戦争指導会議に親臨されたことと、それに伴う宮内庁談話である。
(以下、1945年:昭和20年1月1日 北海道新聞1面より)
天皇陛下には 有史以来の戦局下に 昭和20年の新春を迎へさせられ 天機麗しく 玉體が上にも御健勝拝し奉ることは一億蒼生の等しくせいかに堪へぬところである。
上記の書き出しで始まる記事では、天皇陛下がいかに四六時中、戦争遂行のために気を配って自ら行動もしているか、宮内大臣の談話として説明している。
陛下はかかるうちにも再興戦争指導会議 又は 枢密院会議等に親臨あらせられ 最高国策の上に聖断を下し給ひ 或は随時侍従武官を前線へ御差遣の上 具さに将兵の労苦を労はしめ ・・・ 軍民いよいよ多事なるにあたって 一般国民がつねに敢闘の精神をもって防空に従事し 生業に挺身して 一路戦力の増強に努むることに御満足あらせられ、なほ機会あるごとに一層の努力を御奨励に相成っていらせられることには畏き次第である。
北海道新聞の社説は「必勝の新年を迎ふ」である。
「大東亜戦争の下、ここに四たび 新春を迎ふ」という書き出しで、「今や戦局は比島をめぐりて 極めて重大にして」とある。
1944年10月17日のレイテ沖海戦、10月20日の米軍のレイテ島上陸作戦から、レイテ航空戦を経過し、大損害を受けた日本軍は、1944年12月15日には米軍のミンドロ島侵攻を許していた。
さらに、マリアナ諸島も奪取されており、大規模な本土空襲の危険性も指摘されていた。
このことは「神州三千年の歴史に未だ嘗て見ざりし重大局面といはざるを得ない」としつつ、「幸に前線には世界無比の忠誠 勇敢なづ皇軍将兵あって」しかも「特別攻撃隊の必死必殺は 敵をして狼狽」させるとしている。まだ希望はあると。
今や悲劇として語り継がれる「特攻隊」の存在は、この頃すでに、負け戦の中でも数少ない対抗手段としてすがるほかなかったように思えてならない。
われらは茲に光輝ある期限二千六百五年の新春を迎ふるにあたり 特に銘記すべきは、決戦の年ことまさに本年にして しかも大東亜戦争勝利の栄冠を獲るべき重要なる年は 本年をおいて外にないといふことである。
さればこの信念を堅持し 力の限り、権限の一切を捧げて航空機増産に努め 前線にある神兵の不憎復命の崇高に従ふべきである。
元日の紙面にもフィリピンの戦いに関する「大本営発表」が掲載されている。
見出しは「特攻隊・年頭飾る大戦果」とあり、12月29日以降、フィリピン・ミンドロ島へ上陸した米軍の増援輸送船団に特別攻撃隊の航空機が突入、輸送船三隻を轟沈、大破炎上五隻、さらに巡洋艦二隻を轟沈という大戦果を挙げたとの発表であった。
▼1945年(昭和20年)1月1日 北海道新聞より。大本営発表による特攻隊の「大戦果」が報じられた。

続いて二面をみていくと、トップの記事は「針葉油」である。
深刻な石油不足、航空燃料不足解消の切り札として、トドマツやエゾマツから油を搾り出して活用しようというアイディアである。
記事では活字がつぶれて詳細の判読が難しいが、どうやら北大工学部や北海道林業試験場などの研究により、樺太・北海道に広がっている針葉樹林の中でも、エゾマツ・トドマツの樹皮などから航空燃料「針葉油」の精製に成功し、これを「科学の凱歌」としてとりあげているものである。
研究の成功によって旧臘 陸軍燃料本部より係員が来道
・・・
これに陸軍燃料本部札幌出張所が全面的に協力することになった
これに対する努力は 大体 中学校生徒、青少年団、国民学校児童などを・・伐採した枝葉・樹皮を集め精油するものである
(1945年:昭和20年1月1日北海道新聞2面より抜粋)
20歳以上の青年は兵隊にとられているから、「針葉油」の原料となる木材の伐採や樹皮を集めるなどの作業には中学生・小学生の動員が計画されていることがわかる。
なお、林業試験場署長の談話として、採油は簡単で「門松も燃料になる」としている。
この当時、本州では「松根油」の増産に精をだしていたが、これはアカマツの根であり、『北海道でも松根油に劣らない「針葉油」が発見されて、大いに喜んでいる。門松も燃料にという意気込みで頑張ってほしい』といったものだ。
油をとらないまでも、北海道の冬山の森林では造材作業が進む。
同じく2面から。十勝の上士幌町の山奥での造材作業での一コマが描かれている。
冬山はまさに造材の決戦場だ、学徒部隊は大量多山に出動した、食糧戦に頑張り通した農家も動員された、受刑者まで伐木に全力をそそいでいる。
杣夫も学徒も農家も、互いに手を結び合って責任の作業場に
大地をゆすって倒れる大木の傍に立って 高らかな笑ひがきかれるのも 頼もしい新春昭和二十年の姿である
「道つけも楽でないもんだろう」
「これくらい、なんでもないですよ」
「またレイテの状況教へてくれんか」
焚火の煙を避けながら造材学徒は 新聞も滅多に読めない木材人夫のため 比島決戦の話を続ける
ミンドロ島に敵が上陸したこと、特別攻撃隊が壮烈な突撃を敢行したこと
さうか、さうだったのか
特攻隊の話になると、労務者の目は いひ知れぬ感動に輝く
戦争に対する距離感がぐっとせばめられたやうな気持ちだ
「さあ、餅でも食って頑張るかな」
突然一人の人夫が大きな声で笑ひながら立ち上がった
戦勝を確信する朗らかな笑ひが 深閑たる山気をゆする
いつしか焚火を離れ 戦士たちは作業についた
十勝三股の山奥に描く 造材戦士 憩ひの一ときだ
真冬の山奥にまで「学徒動員」である。相当な広範囲にわたり、学生が労働力として活躍していることに改めて驚く。もちろん年末年始もない・・・。
ここに描かれている学徒は、記事によれば帯広中学校(現:帯広柏葉高校)の三年生である。
1944年(昭和19年)12月10日に80名が入山、粗末な山小屋を「天仰荘」と名付け、寝泊まりしながらの造材支援作業にあたっていたようである。
午前七時 想像に絶する十勝特有の寒気を衝いて・・・・学徒は作業場に辿りつき 道つけ除雪、ボサ割りに従事する 作業用のボッコ靴、軍手は支給される
いくら頑張っていても、コラアと怒られることが多かったようだ。冬山での造山作業は苛酷で、工程別の作業のどれが滞っても、すべての作業に影響する。
時にはでる不平もこらえつつ、真冬の山奥でノルマ達成にむけて厳しい作業に従事していたようである。
このほかも、学徒の話題は多い。
いざ先輩の復仇 勇躍、経専生飛機増産へ
待ちに待った飛行機増産へ
レイテに散った先輩神鷲・道場大尉、牧野少尉に続くみちが いま学徒たちの前にひらかれた
三十一日午前十時 ●●県下●●飛行機製作所へ 小樽経専学徒一年・百十四名は南 石河 吉野の三教授に引率され 車中で迎へる正月に 父母の心尽くしの背負い袋 その上に鉄兜といういでたちを整へ 戦ふ学徒たちは出発した
小樽経専は、のちの小樽商大である。文中の石河教授は、小樽商大名誉教授の石河英夫とみられる。
神鷲とされたのは、道場七郎、牧野顕吉という小樽高商出身の出征兵士であった。
小樽駅を出発した一年生の学徒たちは、青函連絡船の車中で年越しとなり、船酔いもあって大変だったようだ。元日の朝は青森であった。
文中で伏字となっている彼等の向かった先は群馬県小泉町。海軍最大の飛行機製作所である中島飛行機小泉製作所があった。ここで学徒たちは「連山」と呼ばれる試作機の製作作業に携わることとなるのである。