2014年11月16日

戦後70年:1945年1月1日帯広中三年生の苛酷な造材支援

来るべき2015年は、第二次世界大戦終結から70年にあたる。
新聞など戦後70年の特集が組まれているが、せいぜい「8月15日」までであろう。
都市への無差別爆撃が始まり、北海道も空襲を受け、敗戦へ一気に突き進む前半、そして戦争終結から進駐軍の占領政策を受ける後半を通じて「北海道新聞」が1945年をいかに伝えたかを、一日一日掘り起こしていくことにする。

1945年(昭和20年)の元日。
最低気温は函館-12.2度、旭川−18.2度、札幌-15.8度、釧路-19.8度、帯広-25.6度、網走-14.8度、稚内-9.8度。凍てつくような寒さで北海道は新しい年の朝を迎えた。

北海道新聞の一面トップは、天皇陛下(昭和天皇)が最高戦争指導会議に親臨されたことと、それに伴う宮内庁談話である。
(以下、1945年:昭和20年1月1日 北海道新聞1面より)


天皇陛下には 有史以来の戦局下に 昭和20年の新春を迎へさせられ 天機麗しく 玉體が上にも御健勝拝し奉ることは一億蒼生の等しくせいかに堪へぬところである。


上記の書き出しで始まる記事では、天皇陛下がいかに四六時中、戦争遂行のために気を配って自ら行動もしているか、宮内大臣の談話として説明している。


陛下はかかるうちにも再興戦争指導会議 又は 枢密院会議等に親臨あらせられ 最高国策の上に聖断を下し給ひ 或は随時侍従武官を前線へ御差遣の上 具さに将兵の労苦を労はしめ ・・・ 軍民いよいよ多事なるにあたって 一般国民がつねに敢闘の精神をもって防空に従事し 生業に挺身して 一路戦力の増強に努むることに御満足あらせられ、なほ機会あるごとに一層の努力を御奨励に相成っていらせられることには畏き次第である。



北海道新聞の社説は「必勝の新年を迎ふ」である。

「大東亜戦争の下、ここに四たび 新春を迎ふ」という書き出しで、「今や戦局は比島をめぐりて 極めて重大にして」とある。

1944年10月17日のレイテ沖海戦、10月20日の米軍のレイテ島上陸作戦から、レイテ航空戦を経過し、大損害を受けた日本軍は、1944年12月15日には米軍のミンドロ島侵攻を許していた。
さらに、マリアナ諸島も奪取されており、大規模な本土空襲の危険性も指摘されていた。

このことは「神州三千年の歴史に未だ嘗て見ざりし重大局面といはざるを得ない」としつつ、「幸に前線には世界無比の忠誠 勇敢なづ皇軍将兵あって」しかも「特別攻撃隊の必死必殺は 敵をして狼狽」させるとしている。まだ希望はあると。

今や悲劇として語り継がれる「特攻隊」の存在は、この頃すでに、負け戦の中でも数少ない対抗手段としてすがるほかなかったように思えてならない。


われらは茲に光輝ある期限二千六百五年の新春を迎ふるにあたり 特に銘記すべきは、決戦の年ことまさに本年にして しかも大東亜戦争勝利の栄冠を獲るべき重要なる年は 本年をおいて外にないといふことである。
さればこの信念を堅持し 力の限り、権限の一切を捧げて航空機増産に努め 前線にある神兵の不憎復命の崇高に従ふべきである。



元日の紙面にもフィリピンの戦いに関する「大本営発表」が掲載されている。
見出しは「特攻隊・年頭飾る大戦果」とあり、12月29日以降、フィリピン・ミンドロ島へ上陸した米軍の増援輸送船団に特別攻撃隊の航空機が突入、輸送船三隻を轟沈、大破炎上五隻、さらに巡洋艦二隻を轟沈という大戦果を挙げたとの発表であった。

▼1945年(昭和20年)1月1日 北海道新聞より。大本営発表による特攻隊の「大戦果」が報じられた。
道新19450101大本営発表.jpg

続いて二面をみていくと、トップの記事は「針葉油」である。

深刻な石油不足、航空燃料不足解消の切り札として、トドマツやエゾマツから油を搾り出して活用しようというアイディアである。
記事では活字がつぶれて詳細の判読が難しいが、どうやら北大工学部や北海道林業試験場などの研究により、樺太・北海道に広がっている針葉樹林の中でも、エゾマツ・トドマツの樹皮などから航空燃料「針葉油」の精製に成功し、これを「科学の凱歌」としてとりあげているものである。


研究の成功によって旧臘 陸軍燃料本部より係員が来道
・・・
これに陸軍燃料本部札幌出張所が全面的に協力することになった

これに対する努力は 大体 中学校生徒、青少年団、国民学校児童などを・・伐採した枝葉・樹皮を集め精油するものである

(1945年:昭和20年1月1日北海道新聞2面より抜粋)


20歳以上の青年は兵隊にとられているから、「針葉油」の原料となる木材の伐採や樹皮を集めるなどの作業には中学生・小学生の動員が計画されていることがわかる。

なお、林業試験場署長の談話として、採油は簡単で「門松も燃料になる」としている。
この当時、本州では「松根油」の増産に精をだしていたが、これはアカマツの根であり、『北海道でも松根油に劣らない「針葉油」が発見されて、大いに喜んでいる。門松も燃料にという意気込みで頑張ってほしい』といったものだ。

油をとらないまでも、北海道の冬山の森林では造材作業が進む。
同じく2面から。十勝の上士幌町の山奥での造材作業での一コマが描かれている。


冬山はまさに造材の決戦場だ、学徒部隊は大量多山に出動した、食糧戦に頑張り通した農家も動員された、受刑者まで伐木に全力をそそいでいる。

杣夫も学徒も農家も、互いに手を結び合って責任の作業場に
大地をゆすって倒れる大木の傍に立って 高らかな笑ひがきかれるのも 頼もしい新春昭和二十年の姿である

「道つけも楽でないもんだろう」
「これくらい、なんでもないですよ」
「またレイテの状況教へてくれんか」

焚火の煙を避けながら造材学徒は 新聞も滅多に読めない木材人夫のため 比島決戦の話を続ける
ミンドロ島に敵が上陸したこと、特別攻撃隊が壮烈な突撃を敢行したこと

さうか、さうだったのか
特攻隊の話になると、労務者の目は いひ知れぬ感動に輝く
戦争に対する距離感がぐっとせばめられたやうな気持ちだ

「さあ、餅でも食って頑張るかな」

突然一人の人夫が大きな声で笑ひながら立ち上がった
戦勝を確信する朗らかな笑ひが 深閑たる山気をゆする
いつしか焚火を離れ 戦士たちは作業についた
十勝三股の山奥に描く 造材戦士 憩ひの一ときだ



真冬の山奥にまで「学徒動員」である。相当な広範囲にわたり、学生が労働力として活躍していることに改めて驚く。もちろん年末年始もない・・・。

ここに描かれている学徒は、記事によれば帯広中学校(現:帯広柏葉高校)の三年生である。
1944年(昭和19年)12月10日に80名が入山、粗末な山小屋を「天仰荘」と名付け、寝泊まりしながらの造材支援作業にあたっていたようである。


午前七時 想像に絶する十勝特有の寒気を衝いて・・・・学徒は作業場に辿りつき 道つけ除雪、ボサ割りに従事する 作業用のボッコ靴、軍手は支給される



いくら頑張っていても、コラアと怒られることが多かったようだ。冬山での造山作業は苛酷で、工程別の作業のどれが滞っても、すべての作業に影響する。
時にはでる不平もこらえつつ、真冬の山奥でノルマ達成にむけて厳しい作業に従事していたようである。

このほかも、学徒の話題は多い。


いざ先輩の復仇 勇躍、経専生飛機増産へ

待ちに待った飛行機増産へ
レイテに散った先輩神鷲・道場大尉、牧野少尉に続くみちが いま学徒たちの前にひらかれた
三十一日午前十時 ●●県下●●飛行機製作所へ 小樽経専学徒一年・百十四名は南 石河 吉野の三教授に引率され 車中で迎へる正月に 父母の心尽くしの背負い袋 その上に鉄兜といういでたちを整へ 戦ふ学徒たちは出発した



小樽経専は、のちの小樽商大である。文中の石河教授は、小樽商大名誉教授の石河英夫とみられる。
神鷲とされたのは、道場七郎、牧野顕吉という小樽高商出身の出征兵士であった。
小樽駅を出発した一年生の学徒たちは、青函連絡船の車中で年越しとなり、船酔いもあって大変だったようだ。元日の朝は青森であった。

文中で伏字となっている彼等の向かった先は群馬県小泉町。海軍最大の飛行機製作所である中島飛行機小泉製作所があった。ここで学徒たちは「連山」と呼ばれる試作機の製作作業に携わることとなるのである。

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2014年11月17日

戦後70年:1945年1月2日ウサギの村・上湧別

1945年(昭和20年)1月2日の北海道新聞。

一面トップは、天皇陛下が元日の御祝膳に野戦兵食を選び、前線将兵の労苦を偲ばせ給ったという記事である。献立も掲載されているが、陸軍野戦兵食と海軍野戦兵食それぞれが出されたらしい。

次に、元日の午後7時20分から放送された小磯首相の訓示の内容が詳しく出ている。
米軍のレイテ島上陸から二か月、ミンドロ島にも上陸を許し、他の用地も奪われつつある今は「比島全域は天王山である、さればこそ特攻隊もひとりレイテのみに止まらず 比島全域の戦場に活躍することになった」と。

そして、特攻隊を先輩とする現地の皇軍将兵も「全員特攻精神を発揮」して明朗・敢闘の戦いを繰り広げている。従って、銃後の一億人も同様に特攻精神を持ち、生産に邁進して、前線の特攻隊に報いることが大切であると。

社説も「ミンドロ島の補給戦」となっていてフィリピンの戦局が昭和20年年頭の一番の関心事であることをうかがわせる。

1944年(昭和19年)12月26日のミンドロ島沖海戦で日本軍は米軍の輸送船団に攻撃を加えて半数を撃沈する大損害を与えた(という過大な戦果の大本営発表)ということを喜ぶ一方で、ミンダナオ島周辺はもとよりフィリピンの海は豆大の小島が碁石のようになっており、日本軍の現地基地の航空戦力や潜水艦の危険にさらされるなか、「損失を半数程度にとどめて目的地に達する戦力に警戒を要する」として、決して楽観できるものではないという話で現状をまとめている。
そして、米軍の動きはルソン島守備の日本軍の兵力を分散させ、その隙をついて上陸してくる目的であることが明白で、我々は米軍の補給の弱点を突き、均衡を破るための「飛行機の増産を成功させること」、つまり制空権の掌握が勝利への道、と結んだものだ。

戦況を伝える記事の中でも「太平洋戦争は今や全く比島決戦一本に集約された感がある」というように記述されている。「全島のわが将兵は 悉く特攻隊精神」を持って血みどろの奮闘をしているのだと。

とにかく全体を通して語られている「特攻」だが、それについても解説している。


特攻隊こそ日本が過去三年の苛烈な戦争の試練の結晶として到達した境地であり 組織の歴史と影響を保障し 貫かんとする鉄石心の示現であることが 彼等(米軍)にもわかってきた

彼等の倫理・哲学・戦争観をもってしては理解し難い この「体のある爆弾」が現実に眼前を天駆けり 敵艦船は相次いで海底に沈められて行った
・・・
かくて魂と兵器の集積からなりたつ わが反撃勢力の真髄に触れた敵米は この恐るべき反撃戦力を より多き物量の投入と時間の短縮によって乗り切らんとする戦法に出て来た
(1945年:昭和20年1月2日 北海道新聞1面)


戦地には盆も正月もない。
同じく1面には元日にミンドロ島のサンホセにある飛行場を、日本軍の航空部隊精鋭が「本年度初の爆撃」を行ったことを伝えているし、一方で、小さくではあるが大晦日の鹿児島にB29が三機侵入したとの記事もみえる。

二面に行くと、初詣の様子を伝える記事が一番上に掲載されている。


本道の総鎮守・札幌神社では・・・昭和20年の新春にうつらんその朝から 初詣の人波が社頭を埋め 必勝の神助を仰ぐ祈りが捧げられた

夜を徹して奉仕する神卿とともに札幌青少年●員の参道整理や 神社代表らの献金を叫ぶ声々が参道に溢れるなかに モンペ姿で孫の手をひく老母や・・・老いも若きも降雪に歩調をきしませて・・・



マイクロフィルムの質が悪いのか、そもそもの印刷がわるいのか、活字がつぶれて判別不能の文字がこのころの記事には多い。

なお、元日午前0時10分より、北海道新聞提携・札幌市協賛で、札幌神社・三吉神社・護国神社の三社をまわるという参拝行事もあり、一般市民約1000人が参加した。
学徒代表のラッパの音にあわせて凍てつく寒さ(氷点下15度程度)の中、道路を行進していったという。

続いて「増産の春」という名のコラム。


レイテではいま 血の決戦が続き 特攻隊は必死必殺の翼を敵艦船の頭上に叩きつけている
前線将兵のこの魂に 銃後もまた生産戦にひたむきな戦ひが続いている
その汗の結晶が飛行機になり 艦船となり 兵器弾薬となって前線へ送られ 敵アメリカを撃滅しつつあるのだ

しかしわれらは直接戦力となるこれら王姿兵器生産とともに その活動力となり基盤となる資材増産の重要性を忘れてはならない

食糧増産は肥料があって可能である
カゼイン生産には牛が牛乳がなくてはならない
飛行服を造るには毛皮は不可欠である

これら資材が十分にあってこそ 軍需工場のベルトは増産の鼓動を保ち 飛行機は前線へ飛び立つことが出来るのだ
増産に明け 増産に暮れた昭和十九年に続き 更に苛烈となる”増産の春”昭和二十年を迎えた道民に 一町一村馬力をあげて挺身する これら特殊な生産戦の現地報告を送ろう



この「増産の春・現地報告」でとりあげられているのは、一風変わったエピソードから始まる話。
場所はいまの湧別町上湧別である。


『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』
某さんが高らかに経を謳すそばにならんで念仏を唱える栄さんの眼からふつふつと涙がわいてくる

阿部栄さんは”兎婆さん”といはれるほどの愛兎家で 死んだ兎のために兎塚を建立してやり かうして坊さんまでよんで供養しているのである
塚の前にはニンジン、オカラ そしてひとつまみの塩も供へられ 隣近所の子供たちも神妙な顔で整列している

栄さんは死んだ愛兎たちに呼びかける
『お国の宝であるお前たちを一匹前の兎に仕立てあげずに死なしてしまったのは きっとわたしの育て方に足りないものがあったのだろう、許しておくれ、お国の役に立たずに死んだお前たちはきっとわたしを怨んでいることだろうの』
それは丁度 わが児を皇国の危急に役立てずに亡くした母の嘆きであった



上湧別村の部落々々には、きまって栄さんのような”兎婆さん”が一人か二人いる
はじめ”兎きちがい”といわれたこの人たちの、よそ目には気違ひ染みたほどの兎への愛情が 今 上湧別を北海道一の”兎の村”へまで押し上げた大きな陰の力の一つであった

兎婆さんたちをはじめ 村の愛兎家たちによる兎飼育の歴史は古い
だが それは女、子供の小遣ひ稼ぎといふ考え方と 満知な愛情だけの飼い方であり 雑多な在来種を無系統に殖やしているに過ぎなかった

近親交配も忌まなければ スナツフルやコクシジウムなどの病気についても、殆んど知らなかった
だから支那事変がはじまって 養兎家の考え方が飛躍し ”北の兵隊さんへ兎毛皮を送ろう”と新たな産気に燃え 新しく兎を飼ひはじめる人を増して 昭和九年 最初の軍用兎毛皮供出には二千七百十一枚の割当を完納はしたが それはいづれも劣悪な飼育のため皮の室は不良、形は小さく、したがって価格も平均八十銭程度 軍部の注意を受ける始末であった
”これでは戦さのお役に立たぬ”と自ら恥じた村当局は 議会に養兎係を設け 本州から優良種兎を移入 その普及と養育法の改善につとめた

昭和十三年に就任して来た瀬井村長がまた大の兎好きだった。
その年のうちに村内富美(ふみ)部落を種兎部落に指定し 種兎棟を設けた
道庁、酪連、北見郡議会などの指導を仰いで 優良種兎をぞくぞく移入し 斯く実行組合に配布した
兎の村の形態は着々と整へられて行った

村内の兎はすべて立派な白色改良種一種となり 昭和十六年の移出兎三千八百余頭の平均価格は二円五十銭まで向上した そこへ大東亜戦争の勃発だった

村民の意欲はさらに高まり 全村千四百戸のうち一千戸までが養兎家となった
品種を阻害する謹慎後半を避けるため 全村種兎の血統登録と優良兎の選別も行われ 昭和十七年の移出兎は四千六百頭まで上った

春から秋にかけてだけ子を取っているのを 冬を通して繁殖させようといふのであって これによれば普通の二倍以上にもあるのだが 煩雑と手数を嫌って実行しているところは少ない
それをこの村では全村挙げてやりつづけている 真に兎を愛する人の多いこの村であればこそであらう

しかもなほ改良の手は続けられた
昭和十八年には村長を組合長とし 全村を一丸とする養兎組合が設立された

婦人会各班には養兎部が置かれ 兎婆さんたちが、うってつけの部長に推された
またかつて兎気違ひと呼ばれた一人である澤口作一さんの考案なる「報国養兎日誌」がつくられ 各戸の兎舎につるされた
この日誌には兎の飼い方が詳しく 判りやすく記され 繁殖成績表、収支簿、兎の箱に貼る登録番号と血統のカードもついていて 一冊二年は使えるといふ便利なものである
こんな小さな工夫もどしどし向上に役立って来た


上湧別では戦時中、軍に納める毛皮用の兎を村を挙げて生産していた様子が詳しく報じられている。
昭和19年、上湧別の村長は8頭、助役は22頭、郵便局長は100頭を供出した。
上湧別の北兵村地区の青年団では1000頭以上、富美国民学校生徒は共同飼育で100頭など、当初の割り当ては6300頭であったが、12月末には8000頭を超えた。


これは全村千四百戸が一戸残らず五頭以上を供出し 八千五百村民が一人残らず供出したことを物語る
そのかみ気違いとよばれた人たちの兎への愛情は 報国の熱情へまで高まり 間断なき工夫と指導と組織によって、いまや見事な実を結んだ

『兎は かはいい ものぞな』

はじめ兎婆さんたちが日癖についていたこの言葉が、いまは村民すべての言葉になった


ペットとして一部で飼われているにすぎなかった上湧別のウサギは、兵隊の毛皮用としてほぼ全戸が養育するほどの産業となった。
しかし、終戦後は毛皮の需要は消滅し、ウサギの需要はほとんどなくなったことを受け、昭和30年代にはほぼ養兎産業は消滅したということである。
上湧別のウサギは再びペットとしての座に戻ることになった。

なお、こぼれ話のひとつとして、美唄のある炭鉱で「天理教挺身隊」として働いている老人も紹介されている。
厚岸町字ポントに住む成澤友吉さんで83歳。
はじめは炭鉱側でも「この年では・・・」と二の足を踏んだものだが、炭鉱生産に殉じたいという友吉さんの意気にうたれ、「煉瓦焼き」に働いてもらうことにしたそうだ。

こうして一月二日の紙面は尽きた。
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2014年11月22日

戦後70年:1945年1月3日疎開の風景・豊浦で迎える正月

今回は1945年(昭和20年)1月3日の北海道新聞。

この日も社説は「前線の要求する飛機を送れ」というタイトルである。
フィリピン戦の戦況が刻々と悪化する中ではあるが、社説の中では補給や兵站の上から「わが方は優勢の地位にあることだけは動かすべからざるところである」として、絶対優勢の利点を生かすには「飛行機の数」が大切であり、前線の要求する日に皇軍の眼前に現実として飛行機が現れて居ることが大切と説いている。


わが国の航空機生産高は最近極めて好調を呈したといふものの 比島戦闘において活躍し 敵艦船を沈せしめ 比島の敵航空基地を破壊しつつある飛行機の数量は われらの想像以上に十分ではないのが実際の状況であると考へなくてはならない。
・・・
前線の航空力が優勢になったならば 即ち攻勢転移の時を捉へ 比島の上陸敵兵を海中に追い返し、比島近海に群る敵補給艦船を海底の藻屑と化せしめ 続いてペリリユー、モロタイ、ニューギニアに一大攻勢を輿し サイパン、テニヤンはもとより太平洋の各島嶼から敵兵を追いまくり、太平洋の制空制海権を確保することが出来るのである

ここまでは直ちに実現を期し得られないとしても 現在比島訓練の要求する飛行機を生産し 輸送出来たならば戦局は有利に展開するであろうことは明らかなるをもって 下 昭和二十年は極めて明朗なる前途を望みつつ飛行機増産に力を尽くさなくてはならない。



まだ日本本土への本格的な空襲は始まったばかりの頃で、航空機の制作工場などはこの頃はまだ稼働率は高かったと思われるが、制空権を失いつつある状況の中で、航空機は作っては次々と落とされ、そして航空機工場もこの後次々と米軍爆撃目標となって破壊されてゆき、戦争遂行能力を急速に失ってゆくことになる。

一面トップは、レイテの地上戦がいよいよ激烈になってきたというニュースである。
1944年12月の一ヶ月の戦いを振り返りながら、神出鬼没の米軍を、もぐらたたきのように撃退を繰り返し、現状のフィリピンの戦局は「膠着状態」。日本軍の航空基地殲滅作戦と、米軍による日本軍の補給路遮断孤立化作戦がせめぎあって行われているという分析をして結んでいる。

しかし、日本の補給物資揚陸港となっていたレイテ島西部のオルモックは12月半ばに米軍が掌握していた。補給を絶たれた日本軍が撤退目標としたパロンポン港も12月25日に米軍が奪取、レイテ島の日本軍は完全に四面楚歌に陥っていた。つまり現実は記事に書かれているような膠着状態ではすでになく、米軍によるレイテ島の日本軍の掃討作戦中といった状態だったのである。日本人にとっては非常に悲劇的な状況であった。

同日の紙面ではこのほかの戦局として、大晦日の硫黄島に大型敵機が執拗に飛来したこと、また30日にミンダナオ島南部にB29が数十機も飛来したこと、中国戦線でも大晦日に中国・湖北省老河口にある中華民国の航空基地を空爆したことが記載されている。

また、1月2日の夜に満州国の国務総理が「聖戦第4年を迎えるに来りて」という題の放送を行ったことも報じられている。
米英は「人類の敵」であり、これを殲滅してゆるぎなき大東亜を建設するという目的のために、精鋭無比の日本の皇軍将兵に協力し、大東亜各国民族の力を結集して敵を打ち破る。というような内容の話であったようだ。

これらの記事の脇には明治大学の大学予科と明治女子専門学校の入学願書受付を1月10日から20日の間に行うという広告が掲載されている。勉強どころの世の中ではなかったかもしれないが、道内からも応募できたのだろうか。

二面に行くと、一番最初の記事は「煌々戸外に洩る光 燈管、大半は落第」というものである
灯火管制下にある北海道において、その徹底がなされていないという意味であろう。

1945年(昭和20年)1月3日 北海道新聞2面より

札幌市のごときは多く燭光爛々として戸外に洩れ
・・・
隣組単位に”互戒”せしめるよう 隣努力すること
さらに市電も十時以降の入庫車両といへども また十一時の最終編成の警戒燈制をもって運行しなければならない
・・・
大晦日の暁など (札幌)全市的に未管制であった
隣組回覧板あたりで徹底しているところもあるが 中央部から山鼻方面はことに未管制状態であった
実施要項が発表されることを知らぬ向もあるようだろうが 今日今夜から直ちに実施してほしい
燈火管制の実施はすでに承知のはずであって ・・・ 注意を受けることは不名誉と心得てほしい


隣組による相互監視による、統制のさらなる徹底があることを予告されているような記事である。
一方で「温かい隣組に感謝」という記事もある。

1945年(昭和20年)1月3日 北海道新聞2面より


温い隣組に感謝 迎へた明るい雪の正月

三十余年も住み慣れた土地をいざ離れるとなると 恥ずかしい話ですが未練がでて 一時はいろいろ思い悩んだのですが 一刻の躊躇も許されない決戦の様相を思ふと知らずしらずのうちに これが自分達一家に与えられた実業である事を強く痛感しました


昨年六月 虻田郡豊浦村に 東京都からはるばる疎開した横山正平さん(三八)は自己の信念を貫徹した疎開の模様を かう率直に語るのであった。
横山さんは疎開前は区役所の主事補社会教育係主任と区会書記長を兼務するといふ錬達の士であった
その将来のある横山さんがなぜに率先 疎開一番乗りをしたのか この華々しい決意の影には 母堂ミヨさん(六二)が常に訓す尊い教訓があった

過去に執着してはいけない。
いまぞ国土防衛のため率先疎開しませう、一刻も早く決意を固めることです


この激動が同氏の疎開熱を刺激し 一方、愛児・征子さんの教育のこともあって 疎開の決意は不動のものとなった。
そして六月はじめ 家族七人と令弟・義雄さん(二三)も一緒に 未知の土地豊浦へ着任、予て約束のあった虻田の工場へ班長として就職し 人生の新たな第一歩を踏み出したのである

それから数ヶ月 同村・朝井村長や武田助役の厚遇と部落の温かい世話により、なごやかなうちにも質素な疎開初の元旦を迎へたのである
妻コヨさん(四二)は生粋の東京生まれであったが はじめての北海道の正月を迎え 質素ながら東京と比較してずっと豊富な配給物資と隣組の素朴な扶助の精神に 疎開して来てほんたうによかったとしみじみ語るのである

子供達もいまはすっかり馴れて 元旦を楽しく遊んでおります
私達もこの元旦を期して 部落の皆様と同様 一日も早く村の人になり切るつもりです


当の横山さんも

わたしは疎開して一番先に村長さんをはじめ皆様の温かい心に接し ほんたうに感激しています
疎開に際し、物よりも心 の受け入れが何より必要ではないかと考へます

殊にあわただしい歳の暮には隣組の皆さんが何かとお世話下され 何と感謝の言葉をのべてよいか判りません
おかげさまで輝かしい元旦の佳き日を拝し感泣しています

私はここを永住の地と定め 最後まで職場に挺身し 御奉公する覚悟です。


質素で明るい疎開生活者の元旦 子供達を囲んで満ち足りた昭和二十年の元旦を語る横山さんの過程には 逞しい決意を身近に感じながらも 豊かな国民の戦う生活の温かさが溢れていた



高橋さん一家が豊浦にやってきた1944年6月は、まだ東京の空襲も本格化する前であるから、「30年以上住んだ東京」でしかも、区役所の役人としてそれなりの安定した地位・暮らしがあったことを考えると、この時点での職をなげうってでの疎開の判断は、相当な決意がなければできないことであろう。

結果的にこの記事の三か月後には東京大空襲もあり、焼け野原になってしまうことを考えると、相当の先見の明があったといえるのではないだろうか。

隣組の人の心が温かい、というのはおそらく装飾でもなんでもなく、豊浦の人の人情味あふれる部分だったと思う。

また、室蘭から岩見沢へ店ごと疎開することになった話も。


前線へ征く気持ち 力強し”疎開転業”の弁

工都の元日の朝は いつもと変わらぬやうに煤煙に曇っていた、そして作業衣の人の群が続々と職場に急いでいた
比島の決戦場に続く北の補給第一線の室蘭の 決勝の意気勝る元日の街の相−−窓越しにこれを眺める柿本六也氏は今さらに戦局の激しさを感じ 疎開とともに転業するわが身をしみじみ振り返ってみるのであった

柿本氏は京大農学部出身、昭和十一年九月以来 現在の●●町に鋼材工具販売業を営んでいたが 防空疎開が告示されるや 同氏の居住地域は疎開地域に指定された

かねて柿本氏はこの疎開とともに輝く転業を決意し 営業十年の”柿本正二”の金看板に名残りを告げ 岩見沢市に疎開することになったのだ
五日より建物撤去開始といふ、暮も元旦もない決戦調の疎開の作業を前に柿本氏が語る疎開の談・・・


疎開をいひ渡されて流石にはっとしました、いろいろの感激が一事にこみあげてきました、しかし次第に冷静に立ち返るにつれて自分の行くべき道は、はっきりとわかったのです
わたしの商売は御存知のように鋼材工具の販売ですが 時局の影響を受け最近はいよいよ・・になっています。
それに商品の性質上、新たに営業所を求める困難さは申すまでもありません
一方戦局は深刻化しています。北の第一線といはれる室蘭が何時攻撃を受けるか危急の瞬間に・・・と考えた時ぐづついている自分のおろかさにはっとしました
そして疎開転業の決意は決まったのです
疎開によって物的にも心的にも室蘭市の防空意識が強化されると考えると私達の小さな犠牲も国家的には実に大きな意義があると思ひます
第一線へ征く気で 私は疎開地へ転業します。
店のものが四人前線へ征っていますが この疎開転業によっていささか傍らに置くことにもなりませう




岩見沢には明治21年創業の柿本商店がある。建築資材などを販売している。
室蘭から岩見沢へ「柿本商事」の看板で疎開して転業するとは考えにくいので、ひょっとしたらもともと岩見沢の柿本商店と室蘭の柿本商事は何かつながりのあったのかもしれない。

次に献金の記事。

1945年(昭和20年)1月3日 北海道新聞2面より

盲目の乙女 献翼

二日のお昼頃 札幌市役所の献金受付窓口へ 杖にすがった一人の女性がおとづれ 一通の封筒を差出して立ち去った
係員が封をとって見ると

戦局の重大性と特攻隊精神にじっとして居られない心境をのべ
自分は盲目で戦の生業に働くことが出来ないことを申しわけなく思ひ、せめてもと産業戦士に治療の奉仕を続けてきたが、それではもの足りなく これは治療によって得た僅少なものではありますが 翼の一端に加えていただきたいと


切々たる赤心をつづった点字の手紙と 金六円六銭のお金が封入されてあった

この女性は札幌盲学校生・市内南四条東一丁目・高橋文子さん(二〇)といふ


この正月、炭鉱は珍しく休暇となっていたようであるが、その機会を利用して道内各地の選炭施設では一斉に修理に入っていた。その模様も記事になっていた。

こうして昭和20年の正月三が日は過ぎ去っていった。
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2014年11月23日

戦後70年:1945年1月4日B29の脅威と北海道女子挺身隊

1945年(昭和20年)1月4日の北海道新聞をよむ。

まだ年末年始の出来事に関する記事も見える。

ヨイコの除雪奉仕

元旦を期して護国神社へ必勝祈願に参拝する市民のために、札幌十一校の学童一千二百名は 三十一日神社の境内および参道の除雪に出動奉仕した



札幌市内の当時の国民学校、今の小学校の生徒が大晦日に札幌の護国神社の参道を除雪したという記事である。この話の続きに、一般市民1000人の「集団参拝隊」の行事(1月2日記事)が続いてくることになる。

しかし、この日の紙面の大半を占めるのは「空襲」に関する話題である。

1面より

名古屋、大阪、浜松に昨日九十機来襲 十七機撃墜 二十五機撃破

【大本営発表】(昭和20年1月3日19時30分)
一、本一月三日午後 マリアナ諸島よりB29約九十機 主力を以て名古屋 各一部を以て大阪及び濱松附近に来襲せり、名古屋及び濱松に於て 焼夷弾に依る若干の損害ありたるも重要施設及び工場には殆ど被害なし
一、十八時迄に判明せる遊撃戦果 次の如し
 撃墜十七機(内 不確実四機) 損害を与えたるもの二十五機
 我方二機未だ帰還せず、右撃墜機中 三機は体当たりに依る

去る二十七日 約五十機で関東地区に来襲し その八割に上る四十一機を撃墜破されるといふ手痛い損害を受けたマリアナ基地のB29は 爾後約一週間にわたり夜間少数機をもって関東に来襲したが 三日午後二時頃より約一時間にわたり 約九十機内外をもって本土に侵入した

敵は主力をもって名古屋地区に、また大阪、濱松方面にそれぞれ一部をもって来襲したが わが制空舞台はこの敵を迎撃して熾烈なる空戦の後 十八時までに判明した戦果は撃墜せるもの不確実四機を含めて十七機、損害を与へたるもの二十五機、計四十二機を撃墜破し 来襲機の半数に近い大損害を与えた

なほこの撃墜機中の三機は体当たりによりもので その三名は生還し一名が熾烈なる戦死を遂げた


大本営発表では損害は「若干」とされてはいるが、1945年(昭和20年)1月3日の空襲について調べて見ると、名古屋や浜松では死者を出すような被害を受けている。大阪は実質的に市街地への初空襲だった模様である。また記事にはないが、B29は1機が神戸まで到達し、神戸へ初空襲を行っている。

なお体当たりによる撃墜に関しては事実であり、群馬県出身の代田実中尉が小牧飛行場より名古屋上空のB29へ突入、一機を墜落させ、自身は落下傘で降下したものの、受傷のため翌日戦死しているとのことである。

同じく1面では、欧州方面の航空戦の模様について、ドイツ軍の側からのリポートが大きく扱われていた。

こういった状況から、北海道でも空襲の脅威へどう備えるか、という内容の記事が2面に掲載されている。
空襲へひるまない心構えとともに完備しておくもの、それは「待避所」と「地孔」であると。


警報に呉れ 警報に明け ここに迎えた決戦の新たなる年の春に銃後等しく常在戦場、生産に防空に 滅敵の闘魂弾が上にも昂揚し 空襲にも金輪際ひるまぬ心構えと準備の点で完璧の防空体制にも早や揺るがぬ自信も出来た

だがその反面 一機二機の空襲に馴れて 空襲をあまく見る傾向も出て来たのではないかと恐れられる
今までの空襲は序幕であって 今後は当然 更に本格的な大規模空襲が予期される
この際こそ肝心だ、戦う決意新たなる信念とともに国民各位は待つあるの構えを急速に整えていただきたい、との趣旨で 内務省防空総本部から来るべき本格的空襲に備える諸対策中 一般に重要なる待避所と地孔の整備強化の一般指導方針が新たに発表された



待避所、すなわち「防空壕」ということになろうと思われるが、250キロ級の爆弾であれば、7メートル以上離れていれば安全ということで、位置や構造も、爆撃後に防火活動にすぐ移れるようにするなどという指針が示されている。

地孔のほうは、家財道具などを一時的に埋めておくものである。穴の中に財産を投入し、20センチの土を上にかぶせておけば、たとえ灼熱地獄であっても地孔内の温度は20℃内外に保たれるため、揮発油を入れておいても問題ない、との結論になっている。

また、「耳の訓練」に関する記事もある。


B29の爆音 ラジオで耳の訓練

B29の来襲がますます頻繁となり 警報発令以前に敵機がすでに上空に侵入するやうなことも今後充分あり得るので 放送協会では 四日午後七時の報道に引き続き 十分間録音によるB29飛翔状況を全国に放送して 国民の耳の訓練に依ることとなった

これは同協会の長友技師以下四名の協会員が旧臘二十五日から二十八日までの四日間、一、二、四、六、七、八、十一機と来襲するB29を的確に細く、録音盤に収めたもので 味方機に比較すると B29の持つ特有な重量感と 小太鼓を連打するに似た四発の爆音などが判然表現されている

なほ放送協会では引き続き専門家に音の文責を依頼した上、月光などの各種戦闘機などとの対比放送を行ふことになっている。


NHKでは戦争証言アーカイブスの「戦時録音資料」のページで、同様に戦時中に録音された各種爆撃機や戦闘機の音を公開している。
ここには件の「B29の音」についてはないのだが、当時このような録音資料をラジオで放送し、空襲警報が出ない場合でも自らの身を守ることができるように教育していたことがわかる。ある意味「防災教育」の最初のようなものであろう。

空襲の危険性の高い軍需工場に派遣された「女子挺身隊」の生々しい声も、当日の紙面には掲載されている。
特派員レポートをみてみよう。


私達に続け

【富士航空●●工場にて本社特派員】海を越えてすでに一年 ”女子挺身隊北海道部隊”は帝都各所の生産工場にぢっくり腰を落ち着けて”レイテに連なる補給戦”を戦い続けている
”苛烈の戦況来れば来れ”
昭和二十年 必勝の年が明けて やがて彼女らは懐かしの北海道から新たな同志を迎える

記者は某日富士航空計器の職場を訪ねた・・・女子挺身隊に漠然とした不安を持つ父兄はもちろん 新挺身隊員に関してもまたとない読物になるだろう

★語る隊員
小林きよ(24)余市、西山和●(19)釧路、松村悦子(19)余市、池上カズ子(17)余市、本間 静(18)根室、安井和子(18)旭川

設備は清潔 寮生活
私たちが今まで経験して来た家庭生活を基盤にして すべての寮生活を考えることは戦時下としていけないことです、新しい世界を創り上出す戦時生活であると思って出来るだけ努力しています。
寮の設備などの点も何ら心配することはありません、寮生活はかへって団結心を高め 組織の力を獲得する上に家庭生活に見出せないよさを持っていると思ひます

お金に不自由なし
一日一円二十五銭から一円三十銭頂きます
その中から食費一日三十四銭(一ヶ月十円二十銭)健康保険月一円、寮費 月一円二十五銭から三十銭、貯金約四円程度差し引いて その残りを渡してもらふわけですが 他に夜業手当などがありますから お金に不自由することはなく 貯金も楽に出来ます

休むのが勿体ない
お休みは月二回の電休日ですが 休むのが勿体ないくらいです
此の日には知人や親せきを訪ねる人が多いやうです

出発準備は身軽に
作業衣なんかは給与されますから衣類は殆んど不要です
下着類、それに下駄、防空頭巾があれば十分間に合います、はがきや切手類は持って来ればそれに越したことはありません
食物も十分ですが、非常食にするめとか身欠きにしんを持っている方もあります
なるべく身軽な準備を心掛けた方が無難です

見たり敵の断末魔
連日の空襲も物の数ではありません
憎いB29を睨めただけで勝ち抜かねばといふ気持ちがもりもり湧いてきます
防空施設が完備してる上に 味方の制空舞台の働きは素晴らしいものです
この間だって あの大きな銀色の敵機が見事に墜ちたんです。
私たちはそれをよく見ました

備えさへあれば空襲は決して恐ろしいものではありません
空襲などに恐れて もし一人でも挺身隊に入ることを躊躇する方があるならば それは戦場から離脱する卑怯者と呼ばれるでしょう
私たちは敵機を追い払うために働いているのです



本文中割愛したが、このインタビューにはそれぞれの項目に「寮監」からの補足が付け加えられている。
実際の所は自分たちの働く工場は空襲では絶対に攻撃目標となるだろうし、恐怖は相当感じていたであろう。
また、冒頭の
「今まで経験して来た家庭生活を基盤にして すべての寮生活を考えることは戦時下としていけないことです」という部分が、挺身隊として働く覚悟をよく表していると思う。

挺身隊ではないが、道内の学徒も各地に動員されている。
元日の記事では帯広中学校の生徒が糠平の奥で造材作業に駆り出されていたが、苫小牧の学生の様子も記事になっていた。


戦ふ前線へこの翼 正月返上の学徒隊奮闘

まこと前線に正月はない
その文字どおりを戦ふ、ここ北方基地の●●海軍航空廟である
ずらりと翼を休めた新鋭機「彗星」「零戦」の向ふに「陸攻一式」が葉巻型の体を横たへている

俊敏そのもののやうな双発機「月光」の冷え切った翼の上に這い上がって 苫小牧高女四年の乙女たちが査問に忙しい
一本一本の翼にをみなわれの純情を注ぎ込んでゆくやうな姿である
胴体や発動機にとりついているのは 札幌第一、第二両校をはじめ各地国民学校から来ている通年動員の高等科児童である
車輪の高さと背比べするやうな少年が もう立派な工員となりとった苫小牧中学の学徒と並んで働いているさまはまことに美しい
だがどの顔も必至だ、若人の純一の熱情は火と燃えて秋々たるうちに激しい闘魂を打ち込んでいる

一機でも多くと叫んでいる前線に、一刻も早く整備してこの飛行機を送り出さなければならないのだ
直接前線の戦力に影響する責任を果たすために 歳末も正月も何よりあろうはずがない

遊橋・総務科長がいふように
『ここの全工員が一日休んだら●機の飛行機生産が停止するのと同じだ』

火の気のない大工場に 朝八時から夕刻四時まで働きつづけるのは確かに苦しいには違いないが、正月だからといって帰宅を願い出た者は一人もいない

元日の午後 寄宿舎で休養しただけで 二日からはさらに集合のかかった作業がはじまった
『我らの工場はゼット旗の戦場にて大和魂の血潮なり 御稜感の下 我らが赤誠を凝らして一発撃沈の礎となし学童征戦の魂と成さん』
高く掲げられた廟長訓を仰いで 学徒部隊の気は益々さかんだ

けふも決戦の大空に繋がるZ旗工場に 必勝の正月は火花を散らして戦われている



所々むずかしいところがあるが、伏字になっているのは「千歳」の文字であろう。
当時、千歳には海軍の航空基地があり、ウィキペディアにも「千歳飛行場には隣接して第41空廠も建設されており、千島列島方面の哨戒任務に従事した各種航空隊にとって重要な補給基地として、また疎開してきた教育航空隊の訓練場として終戦まで活用された」とある。
この記事の舞台は、この第41空廠であろう。

苫小牧高女、苫小牧中の学徒だけではなく、札幌の高等小学校の児童も千歳まで動員されていたことには驚く。労働力不足も相当なものである。

なお、連日の特集となっている「増産の春」は、この日は後志の前田村(現:共和町)が舞台。
農閑期の副業として生産されている「縄」である。

大正はじめに自前での縄作りが始まった前田村では、昭和6〜7年の冷害凶作を冬場の一家そろっての「縄作り」による収入で乗り切ったという。1940年前後には全道で最初となる縄の自治検査や規格統一を実施するなど、高品質の「縄作りの村」として一躍有名となっていたそうだ。
そのあたりのくだりが紹介されていた。

こうして1月4日の紙面は尽きたのであった。

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2014年11月24日

戦後70年:1945年1月5日弁当箱もオモチャも根こそぎ金属供出へ

1945年(昭和20年)1月5日の北海道新聞をよむ。

二面には「家庭金属 根こそぎ前線へ」という見出しの記事が目につく。


優秀機を大増産するため 今度のアルミ製品を中心とする金属の家庭回収は 苛烈な戦局を反映して たとへ代替品がなくとも根こそぎ供出して 本土侵攻の敵機に叩きつけようとの熱意を盛り上げているが 回収対象が従来の製品と違って日用必需品であるのと 短期間の快速回収が要請されている事情から 回収運動の末端における実施現場の面に幾多の課題が残されているにかんがみ 本社では道庁、翼賛会、日婦、公区各代表を招き より多く、早く、明るく回収を完遂するには如何にすべきかについて あらゆる角度から検討した



昭和16年8月に発布された国家総動員法にもとづく悪名高き「金属類回収令」である。
既に昭和13年には金属不足が表面化しており不要不急の金属類の回収を呼びかける声明が政府から発表されており、昭和14年にはマンホールや鉄の柵などの回収へと進んだ。そして昭和16年の太平洋戦争前から各家庭の金属製品もどんどん回収していく形となっていた。

戦局の悪化で昭和20年の初頭には供出すべき金属もほとんどなくなっていたと思われるが、それこそ「乾いたぞうきんを絞る」かの如く、生活必需品も含めた家庭の金属を「根こそぎ」回収することを徹底しよう、それにはどうしたらよいだろうか?というのがこの記事である。

「明るく回収」など、当然望むべくもないのだが・・・

では、その議論の内容をみていく。
出席者は以下の通り
・北海道庁 経済第二部長 黒河内 清氏
・北海道庁 金属回収課長 伊藤 諸俊氏
・翼賛会 道支部事務局長 阿部 平三郎氏
・札幌市白石連合公区 事務長 三浦 勝三氏
・日婦 札幌市支部副支部長 平瀬 エシ氏
・本社員 佐野道会部長外
※当時の活字がつぶれている部分があるため、名前や役職が一部不正確です


黒河内
従来の家庭回収は贅品不用品回収だったが 今度は鍋など日常必需品でも余裕ある家庭では最低限度にがまんしておき 他は極力供出して 飛行機の増産に役立ててもらおうという趣旨だが、この場合も強制回収などはせず あくまで忠誠心に訴えてゆきたい
物資不足の折 各家庭にはお気の毒だが 供出量が戦場の生死を支配し 戦局の鍵を握るといふことをよく理解されて 生活を再構成し 神様にお託しする気持ちで供出の熱意を示してほしい

本社
今日は軍隊が必要といふなら鍋でも蓋でも出そうといふ国民の気持ちは十分達成されていると思うが 代替品の事情は?

伊藤
・・・家庭の不自由はお察しするが その他の事情から代替品の見通しは政府でもちょっとついていないようだ
しかし家庭用品などで最低生活にどうしても必要な品まで根こそぎ供出するといふのではなく 最低必需品の保有は認めている
結婚記念のもの、あるいは由緒あるものをはじめ 子供が利用して不必要になったとか その他家庭の隅々、戸棚、机の中を子細にさがせば 忘れられていたものがまだ相当あるのではないか
回収といふとすぐ台所の鍋にこだわるが 金属製シャープペンシルの壊れたのやメダル、色付きオモチャ等の小さい物などに目を注ぐのも一方法と思ふ



出だしの議論だけみてみても、金属製品は鍋などの生活に必要なものでも「最低限度の保有」程度しか認めず、子供のおもちゃまでもが、今や回収対象となっていることがわかる。「不自由は承知の上」でのお願いである。それにしても、既にシャープペンシルはあったんですね。

続けて

本社
さきにアルミ製品だけは年内に完了すると発表されたが まだ全道的には本格的な活動は見られぬが

伊藤
準備期間の関係で農業用は大体予定通りだが、家庭回収の方は遅れている
一般金属といっしょに一月末官僚の方針で 一月八日を期し 全道一斉に大運動をする予定だ
・・・
一月八日といはず 出来るところはどしどし実施してほしい

本社
過去の回収で 代金支払いの保証、回収品の棚ざらし、横流れ等が折角の熱意を浪費させたが 今回は大丈夫か

伊藤
今次回収の性格からいって そんなことはあっては申訳ないことであり 回収即輸送、戦力化を期して準備に尽くしたしたのと 末端もなれてきたからそれらの点は絶対心配ない



なかなか本社の質問も手厳しい。
もちろんこの記事にも軍の検閲が入っているのだろうが、今回の回収の清潔さを証明するために、過去の汚点を責める質問をも認めたということか。


本社
公区の回収状況はどうか

三浦
旧臘二十七日 一斉回収を実施した結果は あまり芳しい成績ではなく 回収品の内容は約八割まで鍋、釜、弁当などの売品で骨董品はなく 主要の屑としては重量に二割乃至二割半の分量であった

不成績の原因は回収徹底の準備期間がなかったのと やはり使ひつけた品物に対する愛着心が 手放し難くしているやうだ
反面 立派な完全品を出した人もあり また若夫婦が出すといふのに姑さんが反対だといふので われわれが出かけて よく回収の重要性を説明して 漸く納得して貰った所もある

本社
家庭回収は婦人の熱意に訴たねばならぬが 日婦の運動方針や婦人の立場からの心構えを戴きたい

平澤
台所用品は余計なものはあまりないので 心ある家庭では前の回収で相当供出したため その後の代替品補充難と補修難で困っている
しかしあの回収の新聞記事で 飛行機生産に占める回収アルミ その他の軽金属の重要性を再播種し これは今までのやうな気持ちではいかぬ どんなに不自由を忍んでも供出しなければ と覚悟を新たにした

ただ最低必要限度をどこへ置くかが問題で 回収目標量が示されていないだけに運動の実施は難しい
そして指導層の方々が根こそぎ供出をし 皆の眼前で惜しい品物をも どしどし潰してみせることだ

また回収品は目の前におかず 即刻運搬すること、アルマイトとアルミを別に考えている向きも多いから同製品であること、回収アルミがボーキサイトより六割近くも飛行機生産に経済だといふ点等をよく徹底されたい


アルミ製品の回収では、鍋・釜・弁当箱あたりが供出されていることがわかる。
また、若い夫婦が供出しようとするのを姑が止める、といったくだりは、三世代同居があたりまえだったこの頃の家庭の姿が垣間見える。

日婦(大日本婦人会)の女性から出た、指導層の人が率先して根こそぎ金属を供出して、みんなの前で惜しみなくどんどん潰してみせろ、というのもまた、なかなか過激な意見であるが、そのまま掲載されている。
我々は当時の国内での言論統制は今の北朝鮮レベルかと想像してしまいうのだが、実際はそこまで統制されたものではなかったのかなと、この記事を見て思う。


本社
まだまだ家庭の精神生活面が必勝態勢に切り替えていない
最低生活という言葉なども生活をきりつめて不自由をしのぶことがわれらの日常の戦いであり それが決戦にたち向かう最高の生活でなければならぬのだから、ほんとうは「最低生活」でなく「再興の生活」といふべきだ
そうした精神指導面その他について翼賛会の考えを

阿部
精神は最高に、生活は最低にという論理的進めかたは知識層にぴったりくるが一般的にはやはり「最低生活」にするんだといふ呼びかけかたの方がピンとゆくようだ
今度の回収は代替品の補充が出来ないのと 多くの家庭 ことに下層へゆけばゆくほど 生活は平常からぎりぎりいっぱいの生活であり 下手をすると生活を酷くさせ 民意を委縮させるから この運動を通じて 飛行機増産を急増させると同時に、一層戦意の昂揚に効果あらしめるには余程上手に指導しなければならぬ

そこで皆に納得ゆくやうな回収原因の十分な説明が第一で 説明の資料を十分こしらえて遊説隊を全婦人班常会へ出動させ 理解と熱意の昂揚を図りたい
割当はしなくとも出来ればある程度の目度を示せば 決心の照準がつき よくなると思う
例えばアルミの弁当箱を一箱供出といふ風に目標があれば 末端が非常にやりよくなる
弁当は握り飯でも我慢できる

本社
水筒だって一斉供出できぬことはない 国破れてなんの弁当箱、水筒ぞだ
しかし骨董屋に二十円 三十円也の水筒が下っているなどはどうか 問題は代表品の無いのが悩みだかなんとか創意と工夫でやれぬか
本道で出来るかどうか知らぬが 水筒の代替に瓢箪?を家庭菜園でつくるとか その他こうした打算はないものか

伊藤
全道的には面倒でも地区的に代用品のつくものがある場合、市町村でやってもらうつもりだ
例えばアルミの弁当箱の変わりに木箱を補給するといったやうに

本社
代替品が都合つかぬならせめて補修体制を急速に整備してほしい

黒河内
目下準備中だが遅れて済まぬ
関係組合、その他を動員して「日用品活用協会」を整備進行中だから近く発足させたい
その間 応急措置として出来るだけ補修資材を各業者に流して補修する

水島
代替品が無くても修理が潤滑にゆけば大変助かる
要するに回収の重要性がわかれば もりもり出来ると思ふ
すでに前の回収で全部供出して つぎはぎだらけの鍋、釜でやっている家庭もずいぶんあるんだし、学童を通じてのこ普及も一策で 先生が率先して握り飯を食って見せ、お弁当箱とアルミの箸は献納というふうにゆけぬか

本社
地方の旅館なぞではまだ鉄の火鉢や鉄瓶、真鍮の洗面器等 相当目につく
先日ある鉱山のクラブの洗面器が紙勢で 市街地の旅館のが金属製だったので考えさせられた
また、中以上の家庭で火鉢、鉄瓶の類からまだまだ目につく

伊藤
愛着心の心境はわかるが敵機が連日本土を狙っている今日、人前にそういふ物を見せることが卑しいという倫理観を皆の努力で急速に確立したい

本社
アルミ、金属供出の場合 前のフトンのように十枚持っている者も一枚、二枚より無いものも一枚のような平等は絶対避けるべきで これが不平の最大原因だ
ある家庭、ない家庭がそれぞれ分に応じて公正に出す、皆が一緒に耐乏する供出態勢でゆけば 決して不平は出ない

水島
今までの例では中以下の家庭の方がよく協力するやうだ

阿部
公区の役員如何で成績が違ってくる、各家庭一点主義といった画一主義に陥らぬよう各役員はもちろん全部の熱意と努力で明るい回収を実現したいものだ
公区の役員が沢山出そうな家庭を訪問する、ところがこれよりないといはれるとそれ以上踏み込めないのがこれまでの実情であり 保有していることが恥辱だといふところまでもってゆきたい
愛国心、忍耐、心はみなもっていながら 生活の面ではまだ
これをかきたて燃えさかるように指導員が率先道つけをしてやる そうでないと逆に重税感を與へて不平となり
出るものも出なくなるから 親切に回収の意義を婦人や年寄りにまで浸透させれば きびしい生活を通じて より戦意の昂揚になると信ずる


なんだか、最後までこの議論を読み進めながら、現代の「消費税」の議論と似ている面があるなぁと感じた。
現物にしろ、お金にしろ、いかに庶民の不平が出ないようにするのか、皆で知恵を絞っている。
今は「将来の暮らしや社会保障、景気のために・・・」といった漠然たる幸福が税金などさまざまな負担増の目的であるが、当時のような「すべては戦争に勝つため」という目的のほうが、現実味があって協力はしやすかったかもしれない。いいか悪いかは完全に別としての話だが。

連載の「増産の春」は、妹背牛で正月返上で堆肥づくりに精をだす農家の話である。


増産の春

お雑煮がすんだら学校の拝賀式にゆくものはさっさと学校にゆけ、ほかのものは午前中だけ堆肥のきり返しだ、わしはな組合の共同作業に出てくる、宮崎さんのとこ 息子さんの応召で堆肥のきりかえしが遅れているでな、正月早々気の毒ぢゃが 一軒から一人ずつ出て援助するのや


雨竜郡妹背牛村・南六号の水田で囲まれた村上民次さん(47)の家庭
応召中の次男てい次さんをのぞき ずらり十三人親子水入らずの雑煮の席についた
村上さんの顔は神酒にほんおり明るい
村上さんは昨年の明治節、厚生大臣表彰の栄誉に輝く子供部隊の隊長さんだが 一歩おもてに出れば部落会長をして隣組を束ね、山一棟・・実行組合長として食糧増産の先頭をきり 村会議員としては村政の中堅に立つ

・・・

紋つきを脱ぎ、作業着にゴム長をはいて『組長さん』になった村上さんは正月日和の街道に出た
村上さんがふれて廻ると 家々からホークを肩にして宮崎さんの堆肥場に集まった

村役場からは元日だけ休んで二日からの正月休みを返上しろといって来たが 農家、ことに堆肥の増産に精を出す農家には返上する休みなんかない
眠っているときが盆と正月、眼があいているときは増産の戦いである
だから祝うお雑煮もそこそこに堆肥の共同作業に出かけたのである

第一線の兵隊さんにや正月もない、わしらも同じや、戦地の倅に負けられんわい

翻える日章旗のもと本国を護る将兵の激闘を思い、元旦の汗を流すのである


妹背牛はもともと泥炭地であり、米の増産にはよい堆肥づくりというのがどうしても必要であった。
これを妹背牛村第六区南の柿崎信次郎氏が早くから熱心に行い、「堆肥の柿崎」として農林大臣賞も受けたそうだ。この一人の頑張りが村中に広がり、この時代では妹背牛全村で堆肥の増産に取り組んでいた。
村上さんの大六区山二棟農事実行組合は、昭和19年度の北海道地方増進会で第一位の栄冠を獲得している。

この時代、堆肥づくりは「駄農と精農」をはっきり文句なしに区別するといわれたそうだ。

さて北海道新聞1面。社説は「敵の空襲と道樺民の覚悟」というタイトルである。
同じ紙面には1月3日、午前7時40分から14時30分にかけて沖縄、台湾を500機の米軍艦載機が攻撃してきたという大本営発表。さらに台湾からは1月4日も400機が来襲との報告である。

戦闘の中心はフィリピンから台湾・沖縄へと移りつつあった。B29を中心に爆撃機が本州の空にしばしば侵入、北海道や樺太も、いよいよ米軍の攻撃目標となる時期が近づいてくることを徐々に紙面でも訴え、備えを呼びかけている。
これもなんだか、大型台風の脅威に対する防災の呼びかけと似たようなものかもしれない。自然ではなく、人間。フィリピンが落ちた段階で、なんとかならなかったものか。。。

1面トップは「比島決戦・敵の侵攻激化」
まだ、北海道民はフィリピンの戦いが佳境にさしかかった程度と認識していただろうか。

大本営発表によれば、神風特別攻撃隊は、1月3日朝、ミンダナオ島に於いて敵輸送船団を攻撃し、大型輸送船二隻を轟沈、駆逐艦一隻を撃破とある。
輸送船に飛行機ごと突っ込んでいく・・・というのは、これもまたどうにかならなかったものか・・・。

その他、樺太庁の昭和20年度予算の決定などが掲載されている。
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2014年12月01日

戦後70年:1945年1月6日函館師範の特攻隊員「元気で待っている」

1945年(昭和20年)1月6日。
この年の冬はひどく寒く、札幌も函館も、1月すべての日が真冬日である。
特に函館ではこの日の寒さは記録的で、最高気温が-9.1度。1月としては八甲田遭難や旭川の最低気温を帰路下1902年1月24日、25日以来43年ぶりとなる低さであった。現在でも1月の第6位の低温の記録として残っている。

このほか最高気温は倶知安-10.1度、小樽-8.3度、札幌-7.2度、旭川-8.2度、稚内-8.5度、網走-5.2度、帯広-6.2度(最低-27.7度)、浦河-7.7度(1月7位)。道南方面の寒さが際立つ。

この日の北海道新聞、1面は特攻隊の戦果がトップで、次が昭和20年予算で政府が増税を行うことになったという記事が続く。華々しい戦果を伝える記事と並ぶのは、国民にさらなる負担を迫る、増税に関する記事である。外の寒さも相当なものだが、ふところの中もこれ以上ない寒さでろう。

石渡大蔵大臣が「戦勝を決す増税」としているが、紙面では「支那事変以来現在まで八回にわたり平年度約六十七億六千万円に上る増税が行はれており 今次の平年度十八余円に達する増税は 事変以来九回目」としている。
情報局発表による昭和20年度の増税項目は、1)分類所得税、2)法人税及び特別法人税、3)通行税、4)酒税、5)入場税となっている。

次にトップの大戦果についてみてみよう。掲載された大本営発表から経過を。

一誠隊の三機名中 空母等三隻轟沈

【大本営発表】(昭和20年1月5日16時30分)
一、一月四日早朝 敵輸送船団はミンドロ島サンホセ湾に 又 同日午後 敵機動部隊はパナイ島西方海面に進入せり、我 特別攻撃隊一誠飛行隊の三機は戦闘機擁護の下に一月四日夕 右 敵機動部隊に突入し 航空母艦一隻及び戦艦若しくは巡洋艦二隻を轟沈せり
我 擁護戦闘機一機自爆、二機未だ帰還せず

・・中略・・

四日大本営発表の如く 輸送船約三十隻を基幹とする敵船団は ミンダナオ島よりスール海に進入 三日朝七時半頃ミンダナオ海において わが神風特攻隊の攻撃を受け 大型輸送船二隻轟沈 駆逐艦一隻撃破の損害を受けつつも わが皇軍陣を突破して四日払暁サンホセ湾に入った

また同船団を擁護しつつ●航してきた空母四隻を基幹とする敵機動部隊は四日午後ミンドロ島南方のパナイ島西方海面に進入して来たが、わが陸軍特攻隊一誠飛行隊の三機は 一機よく一隻を貪り 空母一隻、戦艦もしくは巡洋艦二隻を轟沈し、擁護戦闘機もまたこの戦闘において一機自爆、二機未帰還の犠牲を出した


1945年1月4日。米軍の護衛空母「オマニー・ベイ」は、神風特攻旭日隊の彗星(指揮官風間万年中尉)の突入によって轟沈されていることが明らかになっており、この大本営発表についてはほぼ正確である。
沈みゆく夕日をバックに空母に接近、艦橋に突入し右舷を破壊。同時に投下された二発の爆弾は飛行甲板の内部と右舷付近で爆発した。米軍側の死者・行方不明者も100人近くにのぼる。

毎日のように出撃していく神風特別攻撃隊。
出撃を悲愴な決意で待つ隊員へのインタビューが2面に記事となっている。


北海道の子供さん 元気で出撃の日を待っているよ

【比島前線基地大森報道班員五日発】
敵機の爆撃下にあって学友に生産戦に敢闘している内地学徒諸君に幾度か特攻隊員を送ったこの前線基地から 神鷲出撃前の言葉を伝へたい

昨年出陣した諸君の先輩は 血のにじむような一年の鍛錬に見事に逞しく鍛えられ 今この比島の大空に荒鷲として連日遊撃戦に爆撃行に息つく間もない程に飛翔いている
明るく笑って出撃する神鷲は 後に続く諸君を信じて壮烈な体当たり攻撃を敢行して行った
今日もこの基地に明日の出撃に待機する特攻隊の神鷲が到着し そしてその大半は諸君の先輩なのだ

この神鷲達から特に諸君に伝える言葉を聞いた

●少尉(立命館大学)
今 栄えある特攻飛行隊員に選ばれて この決戦場に死に場所を得たことは無上の光栄である
自分が死ねば 弟が後に続くものと信じて喜んでいける
後輩への言葉といっても何もない、なくても自分達以上によく判ってくれると確信している

●少尉(専修大学)
今の心境はまさしく『俺は天皇の兵』の言葉に尽きます

●少尉(高知師範)
自分はほんの短期間だったが高知の大●国民学校で児童を教へた
今でも幼い子供たちの顔が瞼に浮かびます
自分が立派に特攻隊員となって出撃することを知ったら 荒鷲の歌の好きな子供たちがどんなに喜ぶかと思うと 死に場所を得た喜びで一杯です

●少尉(中央大学)
決戦場に来て感じることは祖国の美しさです
今までなぜ気づかなかったかと不思議な位です。
祖国の偉大なる歴史を想像するこの戦ひに名誉ある特攻隊員に選ばれたことを感謝している

「桐」少尉(函館師範)
北海道の子供達に 自分は元気で出撃の日を待っていると 一言伝えて下さい

●少尉(東京農大)
皆が続いて特攻隊員たらんとする状況は われわれ兄貴分よりも弟達の方が却ってよく判ってくれていると信じているので 安心して行くことが出来る

●少尉(大分高商)
本日富永閣下から諸君の決意によりわが皇国は働くのである。諸君の忠誠心は永遠に亡びないのであるとの有難いお言葉を頂きました
われわれから受け継いだその精神が 永久に弟から子へと伝わっていくことの出来る日本といふ国の雄大さをしみじみと感じている



文中の●の部分は楓や桃、杉などの木の名前がついている。誰が特攻隊員なのかわからないようにしているのであろうが、親や兄弟の心を思うととても複雑であるし、高知師範や中央大の学徒兵の残した言葉の中にある無念さに触れると、心が揺さぶられる思いがする。

googleで検索すると、この記事が載った当日、フィリピンで出撃した北海道第二師範(函館師範)出身の特攻隊員がいたことがわかった。
第十九金剛隊の富澤幸光海軍中尉(江差町出身)で、昭和20年1月6日11時フィリピン・マバラカットより13機の零戦のうちの1機として出撃。まさにこの日、フィリピン方面にて23歳で戦死している。
記事にある階級とは違うが、同一人物の可能性も十分にありうると思われる。

「金剛隊」について、また「富永指揮官」についてはNHK所蔵の日本ニュース第241号(1945年:昭和20年1月11日公開)でも見ることができる。

死にゆく出撃の日を「元気で」待っているという言葉。
とても矛盾したこの言葉は、非常に心に重く響く。やはり、このような言葉が出るような世の中にしてはいけない。

「特攻」の文字が出てくる記事がまだある。


”今年はとり歳、私たちのとし”と これはまた五人組の酉年特攻隊があらはれて 靴の増産に神風精神を発揮しているという

旭川市三松靴工場の樋笠ハル子さん、高橋トミ子さん、蓮田ユキエさん、尼川利子さn、丸山須磨子さんの五人は 今年二十四歳だ
ともに酉年生まれ、いずれも模範工で 樋笠さんが指導員、高橋さんと丸山さんが班長、残る二人も第三工場の主力である

しかも同じ職場の同じ部門を受け持って 猛烈に敢闘しており、五人とも無欠勤、無遅刻
家長格の樋笠さんをはじめ 出征夫人の妻である高橋さんや 挺身隊として出動している丸山さんに尼川さんなどいずれも受賞家回(?)といふ

三十一日の夕刻、昭和二十年は私たちの歳ですから 特別に頑張りましょうと編成が出来上がり そして五人組は早出も発業も一手に引き受けて 人の●だけ働くことを申し合わせたのだ



同い年ということで職場で意気投合したのであろうか。

このほか1月6日の紙面では、厚岸湖の鰈(カレイ)が好漁という話が写真つき記事で載っている。
氷下街網によりすでに二十万貫の漁獲があり、近年にない豊漁で浜が賑わっているとのこと。

また、「地底の神風」として石炭の増産政策により、北海道から九州に送り込まれた炭鉱マンたちの記事も掲載されている。
三井田川鉱業所に送り込まれた炭鉱夫の談話として「九州の坑内は非常に温度が高く、全身汗みどろとなって上がって来るのであったが 一たん坑外に出ると意外に寒く、不慣れな本道鉱員は例外なく風邪をひく」と、環境に大変苦労している様子が垣間見える。

この風邪ひきはどの炭鉱でも共通した悩みだったようで、応援の鉱員は口をそろえて「火の気か乾燥施設がほしい」と要求していたそうである。このほか、衣類や足袋、石鹸などの必需物資も不足し、かなり不自由だったようだ。

「増産の春」は木炭用の「萱俵」の生産に邁進する伊達の話。

以上で主な1月6日の記事は終了である。


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2014年12月07日

戦後70年:1945年1月7日北千島飛行隊の亡き成清軍曹

1945年(昭和20年)1月7日の北海道新聞を読む。

戦時中の暮らしを語る上で「配給」という言葉は必ず出てくるが、この日の北海道新聞の紙面には、配給物資購買通帳に関するお知らせが記載されている。


【札幌市役所回覧板】
配給物資購買通帳交付について

本月より使用の通帳を近日中に公区長より交付しますから 特に左記事項を注意して下さい

一、本通帳は昭和二十一年十二月まで使用しますから 必ず適当の表紙を附けて 汚損、破損などのないやう大切に取扱ふこと
二、世帯内に輸出入 または出生 死亡など家族に異動のあったときは 速に公区長に申出て 訂正を受けること
この際 鮮魚、薬品などの購入人員の訂正も受けること
三、乳幼児または病人用の配給物資で市役所窓口より配給を受ける場合は 一月中に限り 必ず新規通帳を同時に持参のこと
四、旧通帳は十二月分砂糖および十月分以降のマッチ購入済まで大切に保存のこと
五、通帳の購買券によって配給を受けるときは 所定事項を必ず記入 認印のこと
六、幼児には引き続き 次の通り増配米を実施します
年齢区分:満二歳より満七歳まで 米穀配給量 四一瓦(グラム) 備考:入学時において本分配を中止す

七、不備な通帳は取替へますから 公区で取纏めて申出て下さい
(経済課)

家庭用塩購入

一、本月一月より新配給物資購買通帳六七頁の購入券を使用して下さい
二、一月分購入のときは新購買通帳六三頁の配給券一枚を(一枚は明年度の分です)最寄りの販売店にお預け下さい
三、前年度十二月分未購入の方はなるべく一月中に購入の上 旧購入票を班長にお届け下さい
四、公区長は旧購入票を全部収集の上、第二配給係までお届け下さい


さっぽろ文庫の「昭和20年の記録」によれば、この頃の配給米は一人一日2.3合で、それも米ばかりではなく麦やでんぷんはまだしも、大豆や馬鈴薯、カボチャまでもが抱き合わせで配給されており、米は何日分にもならなかった、とある。
調味料の配給も。毎月のようにあたるものは味噌と醤油くらいのもので、肉や魚は月に一度か二度、あとは豆腐や納豆、焼麩で、それも数量はほとんど一日分か二日分という状態だったと記されている。

「腹が減っては戦はできぬ」という名言とはうらはらな状態であったといえよう。
それでも火事場となれば、不思議と力が出たのだろうが、次は根室の話題。


さる三日の根室町立病院付近の火事に出動した警防団の救護部は 寒さに震える罹災者達にいろいろ注意や激動をあたえたり、三角布を頭巾ばりに幼児らにかぶせるなど細かいところまで気を配ったので 町民から感謝の的となった

ことに第一分団救護部員らしい女性が 裸足で母親にすかって泣く子を見つけ『凍傷になったら大変よ』とさっそく救急鞄から脱脂綿を出し指先を包み 足に包帯して去った

救護といへば 負傷者相手の仕事と思ひ勝ちだが、こんな措置も立派な救護であり、この心掛けこそ有事即応の生きた実践である



戦争中だから、火事による被害がどれくらいなどとは公表されないのであるが、この記事を見る限り、なかなか大きな火事だったように思える。

火に油を注ぐ、というわけではないが、この頃はタンカーも鉄ではなく木で作らねばならなかったようだ。


木造油槽船の進水

戦時型木造油槽船としての本道第一番船が 新春 決戦の南海をめざして進水した、
苛烈な戦局は 油槽船の木船化を要請するに至り 楢崎造船鉄工所ではこの建造命令を受けてから”日本一の良い船を造れ!”と全工員挙げて建造中であったが このほど見事に竣工、五日進水式を挙行した



この記事にはどの町だったのかの特定がないが、「楢崎造船鉄工所」との記載があり、室蘭での出来事のようである。
一方、「室蘭」との場所がわかる形での記事もある。


荷役戦に女軍敢闘

室蘭港の荷役に挺身する●●名女子軍は 毎日白雪を蹴って男子荷役戦士とともに石炭の山に体当りを敢行している。
モッコ一杯の輸送はそれだけ戦力増強に寄与することになるのだ
女子荷役戦士たちはよく認識して一塊、一杯の石炭でも多く運ぶことを最大の手柄としている
かうした工部女子荷役戦士の逞しい勤労精神は 元旦早々から輸送目標の○割を完遂する見事な凱歌を表し 関係機関の感動に 蒸気まさに沸点に達している



北海道の石炭の積み出し港として重要な役割を果たした室蘭。
出征による人手不足で、石炭運びのような力仕事も女性が活躍していたことがわかる。

さて、札幌では警防団の観閲式が行われていた。


断乎護らん幌都

決戦の新春 札幌警防団観閲式は六日午前十時から 北一条通警察署前で挙行、原警察部長を観閲官として高橋憲兵分隊長、三嶋市長ら来賓も参列、本団を含む全市○○分団の精鋭は佐藤・札幌署長らの観閲を受けたのち分列に移り、南部団長以下の警防部隊はりうりやうたる行進喇叭に都大路を駆して 敵機いかに執拗に来るとも 断じて護る 純然たる士気を示した



以上に挙げたような記事はいずれも二面のすみのほうに小さくまとめられているものである。

この日、二面で一番大きく扱われたのは、北千島で戦死したひとりの軍曹についての物語である。

その人は、成清巌・軍曹。当時22歳
福岡県出身(記事では山内郡三幡村とあるが、該当町村なし)で、昭和15年4月に陸軍航空学校へ入港、大刀洗陸軍飛行学校を経て上等兵、同年十二月飛行第五四戦隊飛行部隊附兵長、昭和十八年八月伍長、昭和十九年八月軍曹。そして昭和十九年十一月七日、占守島東方海上でB25爆撃機へ体当りを行い戦死した。

なぜ、大きく扱われているのか。それは一面に答えがあり、1月6日、陸軍省より「体当り攻撃」で命を落とした将兵に対して感状が与えられたと報じられている。その中の一人が成清巌軍曹なのであった。


銃弾の翼ものかは 紅蓮の焔と散る 北溟に薫る成清軍曹

【北東方面長谷報道班員(本社特派員)発】
南の決戦場レイテ島問題に於て大和魂の遺憾なく発揮、肉弾戦法で未曽有の武勲をうちたてた陸海軍特別攻撃隊に一億の感激昂まるとき、南と相前後して報ぜられた成清巌・軍曹機の北千島上空の体当り攻撃は さきに北溟の空を・・した・・少佐の体当りの朱淳とともに 皇国北鎮戦史の一ページを捲って 永劫輝く不滅の光芒を放つものである。咲き盛る・・惜しげなく皇国に捧げて敵と刺し違えた 壮烈 成清軍曹を●●曹長に聞こう

十一月七日 この日 北の前線の空は珍しく晴れあがって・・・
しかしこうした日、前線の荒鷲基地は空の静寂にも似ず、一段と緊張の色を濃くするのである
西部アリューシャンの超低気圧が静寂に差支のない変り、憎い敵機がうるさく来襲するからである

・・・

成清軍曹は『今日は必ず落とすぞ』と元気に叫んで出撃した。
敵の来襲機はアッツ基地の海軍機・ロッタヒード・ペンチユエラーB34・7機と同陸軍機ノースアメリカンB25・四機で、成清機が捕捉、肉弾突撃したのは、折柄附近航行中のわが艦船を狙って超低空で・・しつつあったB25・四機の編隊である

●●隊長を先頭に、爆群は将にわが艦船上に殺到せんとしていた敵編隊の真正面から火蓋をきった
あわてて乱射する敵の火焔を潜り 果敢な肉薄攻撃が続けられた

狙う敵先頭機が隊長の一撃で煙を吐くと見るや、後に続く成清機は翼も契れんばかりに敵頭上をかすめ 四番機に猛射を浴せかけ、外れたと見て反転、そのまま食下がって前方へ抜け出ようとした、壮烈な体当たりはこと時だった
前方から攻撃をかけて行った成清機が敵とすれ違うかと見えた一瞬、無念、被弾したか 翼がぐらりと揺れ『あツ』といふ間もなく敵の頭上にのしかかって行った

灰色の空に飛び散った紅蓮の焔、成清軍曹の闘魂がそのまま火となって敵機は微塵に砕け散り、成清機の影もまたそこには求め得べくもなかった

前線基地に到着してこのかた、成清機は出撃の都度、肉薄攻撃の一番槍をつきつけ、いつも愛機の弾痕に奮戦を印して帰投するが 幾度も敵機撃破の殊勲をたてながら 軍曹は敵を陸地に落とせぬのを口惜しがっていた

逃げ足の早い敵機との交戦が、多くの場合海上遠くで行われ 折角落しても敵の残骸が海中深く没し去ったからである

この日 敵来るに勇み立って愛機に乗る軍曹は『今日は何か拾ひものをさせてやるぞ』の声高く 整備員に呼びかけて出撃したのであったが、華々しくも潔く散った若鷲はこの戦闘でその約束を果たした

戦闘の現場付近に浮遊していた敵B25の片車輪、敵搭乗員の救命具、それに俘虜となった時にでも使用する心気だろう、浅ましい性根を物語る手つかずの日用品セットなどがそれである

ピストに在るときは愛犬”ブス公”と戯れ 贈られたマスコット人形を枕元に吊して「みなさんおやすみ」と顔を下げては皆を失笑させた紅顔の若鷲は 骨を捧げて大和の花と散り果てたが その魂は永世北溟の空に止まって皇国警護に任ずるであらう



▼B25に体当り直前と思われる成清軍曹の戦闘機「隼」(1944年11月7日)
19441107.jpg

成清軍曹は縁戚にあたる人物が苫小牧にいたようで、苫小牧町錦町在住の新保松次さんが、成清軍曹の人となりについて語っている。
それによると、子供のような無邪気さで、休暇の時には苫小牧の新保さん方をたびたび訪問。好物の赤飯をほおばり、当時苫小牧中一年の年永君や苫小牧東小在学の照子ちゃんたちとトランプをした遊んだりしたそうである。
北千島への出撃の前は、登別に行きたいという希望が叶い、心から喜んでいたという。

以下、新保さんたちの話

成清軍曹は私どもの家に遊びに来てはお母さんの愛しみがわかって来たとよくいっていた
軍曹にはお母さんはないのですが 神戸市烏帽子町にいる姉の成清フサエさんを自分のお母さんだと呼んで よく便りを出していた
私共の倅の宣彦が予科練を志願して行っているものだから 飛行隊関係の兵隊さんをみると宣彦の兄のやうな気がしておよばずながらお世話するので喜んでくれたのでしょう
成清軍曹が非常に快活だが どちらかといふと無口な方で、赤飯が大の好物だといふので軍曹が訪ねて来るとよく赤飯を出すと 子供達とバンドを弛めて食い比べなどをやって笑っていました


また、戦友の話も載っている。


北方から神州を冒さんとする敵軍は執拗に北の最前線を襲うがその度に北の荒鷲の攻撃を受けて命からがら逃げ帰る、来襲のときすでに逃げ腰の敵機はわが荒鷲飛び立つとみるや寧ろ逃げ出すので、捕捉して叩き落とすことは容易な技ではないのだ

”正々堂々と来さへすれば一機残らず叩き潰すのですが”と北の荒鷲達はいづれも体当りをもって敵のB25を打ち落としたのだ
この烈々たる闘魂いま感状の栄に輝く、以下は成清軍曹の面影を語る空の兄弟達の基地軍談記である

I中尉・・・成清は快活な、そして全身これ闘魂といふやうな男で爆弾みたいだった
K曹長・・・V軍曹、お前は成清と同期だったな
V軍曹・・・昭和十六年東京の陸軍少年飛行機学校を卒業すると 操縦の方をやることになり 大刀洗の学級に入り、そこを卒業するまでずっと一緒にいたが 大刀洗の学校を卒へると自分は戦闘機、成清は爆撃機に乗ることになって別れてしまった
しかしその後 成清も戦闘機の方に廻ってまた一緒になり、今われらの神鷲と仰ぐ横崎少佐の指導を受け 猛訓練を積んだ
M伍長・・・成清軍曹殿は一年も一緒にいたが 負け嫌いな、われわれ飛行機乗りの中でも目立って負け嫌いだったのを思ひ出す
V軍曹・・・今年の●月、成清が北千島に来る、僕が基地に帰るといふことになったのだが、僕が帰るとき、北千島の方は心配するな、後に残してきた後輩たちの指導を頼むぞ、と張り切っていた
B兵長・・・成清軍曹殿はほんとうに僕達を可愛がってよく指導してくれた、そして北千島の前線へ出動するときも、北千島のことは心配するな、向ふへ行っても元気でやって来る、お前たちは猛訓練を積んで俺に続けと論してくれた
A兵長・・・自分たちはS基地に来た時一緒になり、それからO基地、こことくつついて廻り 何かと教えて貰ったが 常に兄のような優しさで指導してくれた、自分たちが解らねば呑みこめるまで何度でも教へてくれ非常に嬉しかった
V軍曹・・・あれば福岡、自分は鹿児島といふやうに同じ九州出身であり、それに同期だった関係もあって、特に親しくしていたが、趣味といえばトランプくらいのもので、台北一中時代には水泳を大分やったものだとよくいっていた
I中尉・・・成清も横崎少佐に続いたのだから 君らも成清に続くのだな
A兵長・・・自分達はよい先輩をもって心から嬉しく日々の訓練に猛進している、きっと成清軍曹殿に続いて敵機をやっつける覚悟です。



座談会をみていると、南方のような特攻ではなく、練度を積んで敵機を撃退、負けない戦いを目指しているように思える。、

なお、1月6日発表の感状の概要は以下。
1)阿部戦闘飛行隊
 1944年6月15日、中国より北九州へ飛来したB29を迎え撃ち、地上制空部隊と協同して10機以上を撃墜
2)木村定光・陸軍准尉(阿部戦闘飛行隊所属)
 1944年6月15日夜の北九州B29来襲空戦に参加、4機を撃墜
3)成清巌・陸軍軍曹
 1944年11月7日、北千島・幌莚海峡に進入するB25・四番機に体当り攻撃を敢行、散華
4)見田義雄・陸軍伍長
 1944年11月24日 B29の7機編隊を100キロにわたり追跡、銚子南東30キロ海上で一機に体当り攻撃を敢行、散華
5)澤本政美・陸軍軍曹
 1944年12月3日 B29の7機編隊を立川上空の高高度で捕捉、印旛沼東方上空で一機に体当り攻撃を敢行、壮烈なる戦死
※澤本軍曹は同時に陸軍少尉に特進、勲六等受章光旭日章を受ける

さて、同じ二面では、春ニシン漁への学徒動員についても紙面が割かれている。
道庁は昭和20年の春ニシンの目標漁獲高を55万石と決定。これは前年よりも14%も多い数字で、これを漁獲、処理するには当然並大抵なことではない。そこで学徒・勤労隊を動員しよう、ということである。

既に昭和19年の春ニシン漁にはじめて学徒800人が動員されていたが、この昭和20年はなんと1万7000人の学徒が動員される計画がなされていた。

あらゆるところへ動員される学徒たち。

一学徒による要望が、投書欄に載っていた。


防寒具の配給

砂白金採掘の一学徒ですが 冬期作業の靴や手袋がなくて水中作業に困っています。
受入側では配給してくれぬので凍傷にかかりますが これについて指導当局の御高配を願ひます
(深川町・一学徒)


一面では、1月6日の九州西部の空襲について(B29が70〜80機)
また、小磯首相の4日の初閣議での「レイテの戦況は必ずしも可ならず』との発言などを受けて、重要工場は地下へ移すような取り組みについての記事がある。
また、米軍がルソン島上陸を企だてていることや、リンガエン湾海域での特攻攻撃についての概要を大きく紙面を割いて説明している。

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2014年12月08日

戦後70年:1945年1月8日木製ドラム缶誕生

1945年(昭和20年)1月8日の北海道新聞。

1面トップは「ルソン島決戦の火蓋切る」であり、大本営発表とともに米軍のルソン島・リンガエン湾で始まった上陸作戦について報じている。

1月6日、リンガエン湾に空母十隻内外に護衛された70〜80隻の大型上陸用舟艇が侵入、上陸を企画して同湾サンフェルナンド湾岸に激しい艦砲射撃を行っているのに対し、日本軍の航空部隊は連続猛攻を加えつつあり、多数の艦船が炎々と燃えている。といった調子で、「目下のところ敵は、わが航空部隊の猛攻の前に その上陸企画 意の如くならないものと判断される」としている。


我が巨砲開く

【ルソン島リンガエン湾最前線にて川崎報道班員】
三年前の皇軍上陸地点・リンガエン湾に六日現れた敵輸送船団は 七日も引き続きサンフェルナンド、バウァン、ダモルテスをはじめ 湾岸のわが防御陣地に対し執拗な艦砲射撃と空母よりする艦載機の空襲が繰り返されている
わが陸上陣地はこれに対し一斉に巨砲の火蓋を切り 砲声は殷々と湾内を蔽っている

湾岸の小丘に立てば沖合僅か●千米に近づいた敵機動部隊は、戦艦 或は大型巡洋艦らしき巨艦を先頭に立て 陸岸に向かって二分間に一発位の間を隔てて艦砲を発射しながら緩い速度で南下していく
一群が去ればまた次の一群が現れ 絶え間なき艦砲射撃を続けている

その数七十余隻
紺碧の海に光る敵艦の軍艦陣を 湾岸の陣地の中からわが陸軍部隊の勇士達は歯ぎしりしながら睨みつけている
『畜生ッ 今に上って来て見ろ われわれがここで全弾を打ち尽くさぬ間は一歩も退かない。飛行機よりは軍艦のほうが手ごたえがある』と●●部隊長はいひ放った

その間も敵艦載機は一瞬のと切れもなく空襲を続けている
グラマンやカーチスの入り乱れ わが陣地の空を舞ひ 不敵な急降下を繰り返しして爆撃や機銃掃射を浴びせて来る、何時に変わらぬ敵の上陸作戦の常套戦術である、その盲爆を受けて炎上する煙が見える

六日午後わが特攻隊が記者の前で敵機動部隊の真っ只中に突入した
敵の打ち上げる弾幕は猛烈で 七十余隻の大小艦艇は一斉に砲門を開き 砲煙は直ちに空一面を真暗に蔽いつくした
その中に敢然として燕のやうに飛び込んでいく わが神鷲の凄まじさ
敵艦艇が紺碧の海上を右往左往している有様が丘の上から手に取るやうに見える
パッと上った大きな煙は確か轟沈の戦果を物語るものであろう

凄絶 正にルソン島決戦の火蓋は切って落とされたのである
さすがに夜に入っては敵も討ってこづ 不気味な静けさが湾内をすっぽり包んだ

要所要所のあちらこちらから曳光弾の色々の燈火が上る
わが鉄壁の守りに恐れをなしたのか ただ沖合を行進して艦砲射撃を加へるのみで なかなか上ってこない
わが戦士はいつ近づいて来るかもしれない敵上陸部隊のエンジンの音に聞き耳を立ててじっと息を殺している



米軍としては湾岸に見える陣地は艦砲射撃と艦載機の爆撃で徹底して破壊してから、いよいよ上陸ということを考えている。この艦砲射撃は三日続き、いよいよ1月9日から上陸してくることになるのだ。

同じ一面にはポルトガル・リスボンの同盟通信からルーズベルト米国大統領の一般年次講演(6日)の内容が記載され、マリアナ諸島に空の要塞を建設し、これから熾烈な爆撃を加えることと、これからの戦闘では多大の困難があるという見通しを示したということなどが、小さい活字でびっしりと報じられている。

二面のトップはフィリピン決戦がレイテ島からルソン島へと移行している中、銃後の北海道民への決意の呼びかけを元フィリピン方面陸軍最高司令官・本間雅晴中将へのインタビューという形で記事にしている。

これによれば、現状の戦況を、米軍は島伝いにフィリピンにとりつき、中国大陸の米空軍と連絡して大東亜共栄圏を南北に遮断し、南シナ海と日本本土のシーレーンを遮断することにより日本を戦争継続不能の状態に陥らせるのが目的としたうえで、レイテやミンドロ島を取ったところで、まだ主島のルソン島は日本の手中にあり、まだまだ敵が優位と決まったわけではないと述べている。

そして今、最も大切なのは随時敵の基地を叩けるだけの飛行機の確保であり、もし敵が獲得した島に航空基地を整備され、自由に使用されれば、物量の面からいってフィリピン・南シナ海の制空権・制海権は奪取されてしまう、だからこそ、敵の足場を叩き得るだけの飛行機を準備すること、飛行機増産に努める必要があると、重ねて強調をしている。


今や国内は政府も軍も国民も 互いに理解し協力して 戦争完遂、艱難克服に精通しており、その一体化が完成しつつある、
特に敵機は頻繁に本土爆撃を試みている、爆撃によって戦争意識を低下せしめようとするのは馬鹿げた考えで、ロンドンでも、ベルリンでも、また重慶ですら全く逆作用を呈している
日本国民が爆撃くらいでへこたれるわけがない、その度ごとに敢闘精神が燃え上がるのである

もちろん国内情勢中にもまだ細かい点については不満足な点も見出されるであろう
例えば軍需会社の中にもまだ利益追求の呪縛から脱却し切れないものもあるやうであり、これについては軍需工場をすべて軍隊組織に改編する如き施策も考えられるであろう

さらに国民としてはこの際 各自の一人一人が真に一兵であるとの意識に徹底せねばならない
国内生産戦に働く一人一人がまた防空団に活躍する一人一人が同時に一個の兵であり、それは前線に戦う兵といささかの相違もないといふことを明確に自覚しなければならない

すでに時と所と同はない、内地即前線であることが戦局の様相である

敢て最悪の事態のみを考慮する必要はないが、万々一の場合、南方から油が来なくなったらアルコールと松脂油で飛行機を飛ばせようではないか、ボーキサイトが補給できなくなったら鉄十貫目からアルミニュームを取らうぢゃないか
一億国民は須らく内地戦死の精神に深く徹し、各自の職域に挺身する覚悟を務めることこそ この大戦に勝ち抜く所以である



万一であってもフィリピンが落ちればかなり厳しい、ということがこの当時すでに言われている。
これは、空腹でつらくとも戦いに勝ち抜くために今こそ努力せよ、というような「ムチ」の役割だったのかもしれないが、実際にフィリピンが落ちても「本土決戦」を叫ぶわけで、全くもって後から見るとどこが損益分岐かはっきりしない。従って、焦土にされて原爆を落とされるところまでいかないと敗北を受け入れられなかったのかもしれない。

本間中将の話も、結局最後は精神論となるのであるが、士気を上げるための道庁の取り組みが中将の記事の下に小さくみえているので紹介しよう。


俵も自給だ

道農業会、増産指揮本部では従来、道外より移入していた包装用加工品の自給対策を樹立すべく全道農家に俵の増産を呼びかけているが これが促進策として俵増産標語を募集中のところ その入賞者を決定した

なほ入賞者は次の通りであるが、なかには援農部隊として泊村に入っていた北海中学の中北龍夫君が三位に入賞している

一位 勝つためだ、俵も自給だ増産だ (札幌村 ・谷・夫)


俵の増産がよびかけられる中、その他も増産が呼びかけられている。
そのひとつがまず牛乳。


牛乳の大増産 カゼイン必勝の鍵へ奮起せよ

直接航空決戦に繋がるカゼイン増産は全道飼育農家ならびに関係者必死の努力で最後の増産戦へ突進しているが 現在の実情はさらに一段の頑張りが要請されている

すなわち六日の幌農公社工場長会議で報告された昨年のカゼイン増産結果はその根幹たる原料乳では前年に比し四月、五月が最も悪く、一一・四パーセント、一二・五パーセントと減産したが その後これを挽回 若干づつ上昇線を迫っている、しかし四月から十二月までの累計では前年に比し五・六パーセントを減産、計画に対しては十七・五パーセント減といふ状態で 例年なら相当急激な減産を見る冬季間に若干でも挽回していることは今後の見通しに大きな期待がかけられるとはいへ 飼牛農家の昨年に倍した頑張りが絶対必要になっている


カゼインは飛行機の翼やプロペラに使用される合板の接着剤として活用されていたそうである。
「とにかく飛行機増産」の号令により、酪農家の牛乳生産にも相当なはっぱがかけられていたことになる。

石炭の増産風景も相当なものである。
たとえば、三井砂川鉱業所の一例。


三井砂川鉱業所●●鉱の男女青年隊●●名により結成された『特攻推進隊』の戦果は 十二月十四日から十八日まで四日間の第一次挺身期間に石炭六百四十九トン、古金物回収四十車、古坑木回収五千本の輝かしい成果であった、しかしてこの戦果は隊員の残業、すなわち午後五時より真夜中の十二時乃至一時までの闘ひにのみよったものであった、正に二人分、三人分の敢闘の賜であったのである

この力は深夜の切羽で作業の合間につたないながら三十一文字を・・
ただ一つ おのが腕を武器として 勝利の日まで 身をは挺さに負けず
と職場挺身(事務所永原キミさん)と詠んだまごころ
そして互いに励ましあう同窓としての結合、また坑内を職場とする隊員が坑外や事務所の男女隊員に対し ビックの相場に当ったなどといふ坑内外一丸の・・によって生まれたものだが、増産運動に清新な筋金をと身を尽くして刻み込んだこの推進隊の気概と戦果は地底の士気を一段と高揚せしめているのである



午後5時から深夜0時を過ぎる残業を自主的に行い、増産や回収作業を皆で頑張る。
こういった姿が美しいとされていたわけであるが、現在ではこのような残業を毎日のように強いる企業はどんどん人が逃げていくブラック企業である。

日本人でさえこうなのだから、強制労働についていた方々の扱いなど、それはそれはひどかったものであろう。

さて、物資不足の折、ついにこんなものも木で作ることになった。


木製ドラム缶登場 海に浮かべて揚陸できる優秀品

血の一滴のガソリンや重油、潤滑油などに油脂類の前線補給あるひは貯蔵に使用されるドラム缶を生産するには貴重な資材を必要とするが 一片の鉄も重要兵器の増産に集中しなければならなぬ決戦の秋、乏しい鉄資源を使わぬ他の代替資材が強く要求されていたところ 北海道工業試験場の少壮技手によって木製ドラム缶が考案され、軍当局より在来品を凌ぐ品と折り紙をつけられ、今や道内数箇所の工場を動員して大量生産に入った

これこそ郷土の豊富な資材を挙げて決戦に注ぎ込まんとする北方科学技術陣の逞しい戦争努力の一つである

ちょっと見たところ黒く塗った酒樽くらいにしか見えない木製ドラム缶ではあるが、これには長い研究による合板曲木加工の科学技術の粋が込められている
考案制作者である坪田傳治技手は すでに軍用馬橇、軍馬用カンジキ、軍用鎧など北方作戦に寄与する各種の曲木加工品を発明した少壮技術者であるが 当時制空権下に死闘したガタルカナル島の陸軍の補給には船舶が接岸できぬためドラム缶に糧米を詰め 波間に浮かせて送ったといふ報道は 坪田技手に「油をつめても沈まぬドラム缶』を案じした

酒樽用の資材が移入されなくなった代用として合板曲木の酒樽や木製牛乳缶をすでに完成していたので その経験も十分に生かしたが、長期の輸送や貯油にも耐える堅牢で耐油性の強い事が第一に要求されるドラム缶であるから非常な苦心が伴った

資材としては全く金属を用いず飛行機、舟艇用以外でも本道産の木材なら樹種を選ぶことなく大豆カゼインで接着した九枚重ねの合板のみで独特の曲木加工法で制作されるのが特色である

技術的にも最も苦心を払ったのは「タガ」で 樽をはめるのには特殊の二層になった合板の「楔タガ」の考案に新理論を生み出した
外側の耐水原料にはビッチを用い、内部には板を入れて外部に対する抵抗力を加えた
・・・

こうして百リットル入りの輸送用と貯蔵用の二種類が完成された
木製品の利点としては特殊な工具や高度の技術を必要とせず、未熟練の転業者、女子による流れ作業として好適で、治具もすべて木製である
更に戦場において銃弾が貫通しても応急補修が迅速に出来るし、金属製に比べて使用命感が少ないことは当然だが、これは製作の容易なことによって補いうるであろう

木材の性質上、暑熱よりも寒気に強いから、北方作戦に最適とされ、殊に揚陸不可能な激しい状況下においては海面に浮かばせて戦地へ送ることも出来るわけである

いま決戦四年の北辺に戦雲おおう時しも、前線の戦力となる貴重な油槽網が、北の科学技術陣の創造した木製ドラム缶で補給されることとなった



家庭からも根こそぎ供出をはかるほどの金属不足で、いろいろなものが木で作られるようになってゆく。
ちなみに前日の紙面には「木製タンカー」の出現も掲載されていた。

そもそも、当初「ドラム缶」が発明された経緯は、ドラム缶工業会のホームページによれば「原油や灯油の運搬、貯蔵用には木樽が使われました。しかし、これには木製であるため暑さ寒さに弱いという欠点がありました。この木樽に代わる容器として登場したのがドラム缶」とある。

ドラム缶の発明は20世紀初頭。半世紀を経て、日本人は歴史の時計の針をもとに戻していったのか・・・。

木製ドラム缶の活躍が期待されていた北方。
その空の守りの役割を担っていた女子学生の話題も掲載されている。


必勝こむる双瞼 任務終れば生産戦へ 監視哨の乙女

雪深い酷寒の森林にポツンと取り残されたやうな監視哨で 年末も正月もなく見えざる敵と戦ひ、勤務おえれば山を下って生産戦に活躍している乙女の一隊がある

ブツツ、キスカにB29の基地を完成した敵は 虎視眈々、北方から国土を狙っている
隙あらばいつなん時来るかも知れない この逼迫した情勢下に 『来れ敵機!断じて逃さず』と捕捉必勝の血潮を沸らす北海乙女に正月などはあらうはずはない

大晦日も午後三時の交代時間、職場から作業服のまま駆け付けた班も 平日の如く冷静に任務を遂行し 休み時間も普段通り彼我新鋭機の識別、気象観測の勉強で過ごし、夜はオーバーにくるまって初日を待った

この激しい決戦のさなかに僅か一週間三十六だけの御奉公では申し訳ないと ここの全隊員は揃って増産職場に勤め、監視哨が終れば明日はふもとの工場でペンを握り 奇怪と取り組む生産部隊の乙女でもある

深雪と寒冷、それにもまして山の静寂 監視哨に立つ身にしみているが 防空陣地を死守して明朗敢闘する彼女たちの血潮をさますことは出来ない
乙女の防空特攻隊はけふもまた見えざる敵と間断ない戦いを続けている



このほか、1月8日の紙面では、岩見沢の理髪店組合員が冬山の造材作業に従事する人や学徒のために、無料散髪の奉仕をすることとなったという記事も書かれていた。
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2014年12月15日

戦後70年:1945年1月9日帝国砂白金・凍った川に飛び込む産業戦士

1945年(昭和20年)1月9日の北海道新聞。

一面トップは、1月8日に皇居・二重橋前で行われた「陸軍始観兵式」の模様である。

記事によれば、昭和天皇は陸軍御軍装に大勲位、功一級金鵄勲章などの勲章・記章を着用し、自動車で宮城を出発、「君が代」が流れる中、二重橋へ到着。軍楽隊の『抜刀隊』の勇壮な行進曲の流れる中、陛下の御眼前を歩兵部隊、工兵部隊がまず進み、続いて砲兵部隊が砲車を伴って進む。最後に騎兵部隊が紅白の櫓幡を寒風にはためかせて疾駆していった。
最後に「君が代」が再び吹奏されて、観兵式は終了である。時は午前10時24分。

北海道新聞の社説では、戦局と銃後の生活とが乖離しているとして引き締めに躍起である。


戦局の苛烈なことは 万人がその目で見、耳で聞いて十分承知しているが、然し銃後の生活はこれに対応するように近頃果敢であるかどうか、

銃後もまた戦場なりといふが 果たして銃後の生活一切は戦場でありや否や
観念と実際は一致せず 戦局と生活の歩調は合致していないこと これ即ち現下最大の欠陥である。

必勝の年、昭和廿年において先づ第一に反省せらるべきは実にこの一点である。


この社説の中で、米内海相の言として、ミンドロ島の彼我の制空権は伯仲し、敵の手に委ねざるを得ない実情にある、という「日本不利」の情勢について触れられている。
当時の道民は、勇ましい調子の記事の中に、ポロポロと垣間見える「本音」のような記述によって、薄々、敗色が濃くなっていくことを感じていたのだろうか。

社説の隣には、リンガエン湾で続く米軍の激しい艦砲射撃の模様を伝える記事が大きく出ている。
そして「比島の全機・特攻隊」という記事には、フィリピンの前線基地の報道班員からの悲壮な報告が掲載されている。


ルソンに進軍せんとする敵輸送船団が六日午前リンガエン湾侵入の報が基地に入った
これに続く二百有余隻からなる大輸送船団がバナイ島西方海面北上中の情報が入ったとき 特攻隊が相次いで進撃した、直捲機も出撃した、しかしどの飛行機も基地には帰らなかった、愈よ 比島作戦の雌雄を決する決戦の秋が来たのだ

・・・比島航空決戦に文字通り死力を期して整備し続けてきた整備員たちは、最後の整備をすませてスコールに打たれながらも、誰も翼の傍らを離れなかった

出撃の時が来た、先刻以来のスコールはすっかりあがって 遠方には美しい虹がかかっていた
全神鷲を前にして 参謀が状況を説明した
現在の状況として何を為さねばならぬかは 誰の胸にもそれとは口には出さぬが よく判っているのだ

・・・

T少尉以下 出撃の神鷲は、基地の静寂を破って一番気が離陸した、続いて二隊員が翼に巨弾を秘めて上空に浮いた、飛行場上空を一週するや 堂々たる大編隊を組んで西の空へ消えていった


2面のトップには、出撃する特攻隊員の様子についての記事もみえる。


【某基地にて冨士村報道班員発】

「君も征く われも征かむ 特攻の 散って甲斐ある 若櫻」
と別れの一首を謳ひ 当年十八の若櫻 佐野一●飛長(山梨県出身)は 攻撃袋をたった一つぶら下げたまま 無造作に機上の人となった
・・・
いよいよ出撃の命が下って別れの手を振り ニコッと笑ったときも 林檎のやうな愛さしいえくぼをみせ「決戦」と染め抜いた白鉢巻をしかとまきしめて 潔くも大いなる出陣であった

「何かいひ残すことはありませんか」と問うても 頭の中は敵艦船に命中のことのみと見え「敵の輸送船団の●●にのところぶつつけりゃ敵さんはどんびしゃだ」と無邪気のうちにも激しい戦闘心にいきり立っていた
腰のバンドに「●子より」と書いてある小さな人形を下げていて・・・

江●飛長(熊本県出身)も他の飛長と同じく予科練出身
「南無妙法蓮華経」の白鉢巻姿も凛々しく 十八歳とは見えぬ堂々たる姿で「マニラの空を飛ぶ・・・」と軽く口ずさんだ歌調子もよく 出撃前にいたるも愛機の手入れに余念がない
「指揮刀よりは日本刀が欲しかった気がしますね 我軍の飛行機乗りは皆が特攻隊といっていいでせう 選ばれたわれわれはなんと身の光栄に感謝したらいいか判らないですよ」
クルリとした眼差しで少し右肩を下げてヒョコヒョコと歩む姿が 記者の眼には未だはっきりと思い出される

また 栗本勉飛長(大阪市出身)の特攻戦闘隊員としての基地出発の別れの言葉は・・・遠く出で立つのを、これが何時もの日課でもあるやうに淡々たる面持である
「父に今まで孝行をしないのが気になるだけです 私の動きを知ってくれたら どんなに喜んでくれるか・・・昨晩は不時着当時の夢を見たが 戦艦に当るまでは死んでも死に切れない」と痩身をかがめてはしきりに「今日の飛行はどうかな」と空を仰ぎみていた

加納一飛曹(熊本市出身)二十歳
「次男坊の私はいつ死んでもいいとよく父からいはれていただけに いひおくこともないですね
どこで死んでもいいと思っているが、ただ野垂れ死にだけはせぬ考えだ」
と明朗果敢に談笑を続けていたが 山崎一飛曹の肩を叩いて「オイ山崎、貴様は突込むとき眼をあけているが 俺は最後まで敵艦を睨み付けてやるつもりだからナァ」と・・・

浪末政吉兵飛長(宮崎県出身)は童顔をほころばせて
『出発といっても別にいひ残すことはない、飛行機に乗るまでは誰もがもっている人間としての哀愁とか思い出に頭は一杯でしょうが 一度飛行機に乗ってしまえば ただの忠実なる攻撃精神のみです。もう何も考えもしませんし 何も思いません、機上にあるときが私達の人生です』

若き神鷲達は 一機また一機 雄々しく羽ばたいた
この基地は再び生きて還らぬ神々の出陣を かうして次々と迎えているのである
決戦の深刻は 今 刻々と基地に伝わっている赤心尽忠の若気満々の精神に続き 銃後一億は神風の吹き起こる凄絶無比な赤心を心として即刻立ち上がろう



勇ましい言葉で結んでいるが、出撃そして死を前にした20にいくかいかないかのような若者の姿を毎日見送る記者の心の中もまた透けてみえるような記事である。

ルソン島は北海道からは遠い出来事であるようにみえたが、米軍の攻撃は北方にもなされていた。
道民には、こちらのほうが怖かっただろうか。


六日 幌莚島に艦砲射撃

【北東方面山口(本社特派員)報道班員発】
一月六日午後三時頃 敵艦艇約七隻は幌莚島の一部戦地に艦砲射撃を加えたるも わが防御部隊はこれを直ちに撃退した
また七日同一地区にB24二機侵入し 警備せるわが航空部隊の活躍により致命的損害を受けるものの如く 辛うじて洋上に飛去した わが方の損害軽微である



続く記事によれば、アリューシャン列島を基地とする米国北米艦隊の一部が、1944年11月22日の松輪島攻撃以来、一か月半ぶりの攻撃を幌莚島へ行ったが、日本軍の攻撃によってなすところなく遁走した、という内容である。
北千島に関しては、大きな侵攻を企画しているというよりは、偵察的な軍事行動であろうということであったが、今後二次、三次と繰り返し来襲する可能性もあり、南北より日本本土を挟撃しようという不敵な企画があることも考慮しなくてはならない、と結んでいる。

では二面より銃後の札幌、北海道の記事をいくつかみてみよう。


新春初の北部軍遠乗会

決戦の新春に颯爽たる北部軍司令部恒例の初遠乗会は八日朝行はれた
午前九時二十分 樋口軍司令官を先頭に将官総勢二十数騎は轡を並べ 駒の嘶き勇ましく 月寒を出発 白雪を蹴って札幌神社に至り 神殿に参進して聖戦第四年の完遂を祈願、小憩ののち再び駿足を蹴って正午 軍司令部に帰った



軍の偉い人たちは軍馬に乗って神社に必勝祈願であった。

また、工場や鉱山に関してはさらなる増産への引き締め策である。


機械も人も遊んでいないか 創意工夫でまだまだ昂る能率

夜間も運転できる機械をただ遊ばせているやうなことはないか、あるひはまた炭車や貨車の函繰りが悪く ぶらぶら遊んでいる鉱員はないか−軍需生産増強の鍵は一つにかかって能率の向上にある−と北海軍需管理部ならびに北海地方鉱山局では道内工場及び鉱山に対し 非能率的なものの排除と 積極的な能率向上法の実行を強く要請、同時に能率向上の具体的要領を作成して実効を期することとなった

・・・一例を挙げると十時間の労働時間中 実際に働く時間は僅か三、四時間に過ぎず あとはぶらぶらしているといった鉱山鉱員のいることや 出来上り製品の○割がものの用にたたぬといった●●工場、不注意による修理が続出し 欠勤者が多いといった工場 工場員の適性を無視して出鱈目な・・・を行っているところなど かなりの数にのぼっているのである


造ろうとしても物資不足、材料不足でどうにもならない工場など、この頃はもうあったようである。
休みたくて休んでいるわけではなかったろう。

頑張っている人の中には、朝鮮半島出身者もいるようだ


よし命を捨てよう 凍る激流に素っ裸 見事開く増産突撃

零下●●度の酷寒と猛吹雪を冒し 骨の髄まで凍る激流に真っ裸となっておどり込み、砂白金増産の鍵を握る水止作業を敢行、見事これを完遂した やまの九戦士の功績が 九日付をもって北海地方鉱山局長より表彰され、同時に神風特攻隊にも比すべき増産戦士として本道鉱山に布告された

この九戦士は帝国砂白金有限会社●●鉱業所の西川光、近藤・・、田中・・・、池村・・、本間新春、・本徳次郎、竹岡・・、大原光樂、南・・の諸君で、旧臘二十五日、同鉱業所において砂白金採取現場である●●川の水止作業を実施、中川の両岸より進めた工事が暫次中心におよぶや堰止められた川水が溢れ出し 物凄い激流となって舟艇による作業操作が不可能となり 工事中止のやむなきに立ちいたった

この時 九勇士が”命を捨てましょう”と志願、骨を凍らせる酷寒と猛吹雪をものともせず 素っ裸となってざんぶと激流におどり込み、一時間有余の水中作業に挺身、見事に難作業を完遂して砂白金増産の完遂路を築いたのであった

作業をおえた九勇士には直ちに手厚い看護が加へられ 生命に別条なきを得たのだが その壮絶意欲の烈々たる正に生死を超越し 敵艦に命中する神風特攻隊に劣らぬものと今回の表彰となり 全道鉱山に布告されるに至った

この九勇士の大半は半島出身の鉱兵であるが 本道全鉱山の鉱兵はこの九勇士に続く決意がなければならぬ



帝国砂白金有限会社について、札幌開発建設部によれば、昭和18年に旭川を本社に設立され、鷹泊(雨竜鉱業所)、和寒、夕張に鉱業所が設置された。とある。
特に鷹泊には大隊本部が置かれ、機械を使った採取とともに、道路や鉄道の駅が整備されるなど国家的大事業になって、昭和19年には、砂金採取のために雨竜川の河道が切替えられたとあるため、おそらくこの記事の舞台は雨竜川であると思われる。
朝鮮半島からの労務者は、それこそ「タコ部屋」のような扱いだったとの話もあり、この美談も果たして自主的に実施したものか、それとも命令によってやらせたものか。。。

このほかの記事としては
・木材工場での「女子目立工」の活躍。黒沼ハナさん(20歳)
・12日に札幌グランドホテルで蔬菜の配給体制の協議を実施予定
・札幌市円山国民学校で8日午後1時より母親学級実施
・女子挺身隊の道外派遣第二弾で、日婦網走町支部長の有末ヤエ子さんが、派遣先の神奈川まで付添で世話
・北大予科の志願者減少 合計3665名で昨年より1072名の減。11日に第一次合格者発表へ。
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2014年12月20日

戦後70年:1945年1月10日記録的な寒さと札幌市民

1945年1月10日の北海道新聞をよむ。

この年の冬は、記録的な寒い冬で、札幌の最低気温記録もこの1945年に出ている。
札幌の1月上旬の最低気温を書き出してみると
1月1日 -13.8度
1月2日 -15.0度
1月3日 -11.0度
1月4日 -15.0度
1月5日 -16.2度
1月6日 -13.0度
1月7日 -14.4度
1月8日 -7.4度
1月9日 -8.1度
1月10日 -13.2度
となる。もちろん、この当時の気象は軍事機密だから、予報の発表もなければ観測結果の発表もない。
市民は異常に寒い冬だとは、実感では感じていたが、どの程度かはわからなかっただろうし、もちろん暮らしに対策を施すことも難しかったであろう。

そんな中、1月10日の紙面にこのような記事をみつけた。


水道の出し放し 断水の処置
 全係員が戸別に調査


最近市内各家庭で水道の凍結を防ぐための素人考へから 水道の出し放しをしている向多く、このため現在市の水道使用量は普通の約一倍半の多さに達している、水道一日の濾過能力には限度があり 現在の状況では水圧がぐんと低く承って水の出が悪くなるほか 火災時に消火栓の機能を悪くする憂ひもあり 各家庭で徹底的な節水にはからぬ限り 全市断水の憂目を見なければならなくなるので 市水道課では 八日各公区を通じて市民に警告を発すると同時に 水道課全員をあげて市内各家庭を戸別訪問し 節水の警告をきかず未だに水道の出し放しをしている不心得な家庭に対しては断水の処置をとることとなった

冬季の水道の用心得としては出した水が白色となって勢いが増すのを見届けてから詮を閉め コトンコトンと官内に水の落ちてゆく音が聞こえる状態になれば 落ちた水のたまる所は地下三尺の不凍結層であるから絶対に凍らない、少量の出し放しをつづけていると水勢が弱いところから吸いこみが悪くなり 繊細な装置の機器が凍って破れることが多いから出し放しは危険である

◇井口水道課長談
一戸の水道の出し放しによって約十戸分の水が浪費され 全市では使用水量の約四割の大量が捨てられていることは全く遺憾に堪へない
水は無制限に使ってよいもの、無駄に流してもよいものといふ間違った概念を徹底的に改め ”水は兵糧”であると一滴の節水にも留意し 有事の際に最大限に使う余裕を常に保っておきたい



水道管の水落としではなく、少しの水を流しっぱなしにするという凍結防止策をとる家庭が多いため、水道の使用量がふだんの1.5倍に達するという状況となり、「真冬の節水作戦」に乗り出すことになったとは、なかなか大変である。

寒さが厳しいと、雪の量も多くなる。札幌の1月上旬の降水量は49.7ミリ。ほぼ同じ量の降った1972年(省亜47年)の降雪量は73センチ、1987年(昭和62年)は83センチ、2004年(平成16年)は74センチだから、この年も10日間で80センチ前後の降雪があったものとみられる。除雪も大変である。


市電の足を護る 隣組の除雪奉仕

あへぐ市電に隣組の援軍−白魔の跳梁に排雪車も通りきれず 悲鳴をあげた市交通事業所では この急場を切り抜けるため 九日午後 最も運行困難な北五条線および桑園線の沿線各公区に除雪奉仕の援助を要請したところ 各公区では市民の足を守れとばかり 各家庭にある老幼婦女子を直ちに動員、大雪に埋まった線路も復匙、雪掻きを輝ふ除雪部隊の敢闘で忽ち掘り出された



ササラ電車が進めないくらいになっているのだから、相当積もっていたのだろう。
まだ正月明けで冬も半分もきていないというのに、この状態では先が思いやられたに違いない。

頑張って除雪をする人たちもいる一方で、「欠勤」も問題になっていたらしい。


▽・・・官職や会社に勤めている女子事務員の勤務状況は必ずしも良好とはいへないのが現状である、ことに正月に入って より勝手な理由をつけた欠勤が目立っている

▽・・・軍需生産の采配を揮ふ北海軍需管理部においても この傾向が見受けられたので 同管理部では八日 女子職員を帝国繊維●●工場に引率、女子行員や女子挺身隊が休日返上で頑張っている有様を見学させ 反省を促した

▽・・・ひと頃 用を嫌って事務所に逃げ込んだ女子が見受けられたが かうした腐った精神にも似た”自分勝手”な欠勤が 比島決戦の今日あってよいかどうか猛省せよ



仕事をサボるのは「腐った精神」として断罪している。
まあ、今の世にあっても、自分勝手な理由の欠勤はよくないことである。

こちらも女子に関する違った記事


進学の門は狭くならない 北星高女の分は他校で増募

四月から開校される庁立女子医専が北星高女の校舎を当分の間使用するため 同校は昭和二十年度から新規生徒募集を中止することになった、
疎開学童の来札やその他の事情で進学児童の増加している今日、札幌市および近郊の進学児童父兄、国民学校に相当な反響を呼んでいるが 入学難緩和のために道庁では札幌市にある二、三の女学校に生徒に生徒を増募させて同校で入学させただけの生徒は収容されれうことに決定しているから 昨年程度の進学数は確保されるわけである

なお北星高女に在学中の生徒はそのまま卒業まで勉学を続け 女子医専移転の暁には再び同校の生徒募集は開始されることになっている
医専校舎の新築は現在のところ 資材の関係で見通しはついていないが 早急なる実現が企画されている



北海道立女子医学専門学校は、太平洋戦争の影響で医者が軍医として戦地に赴いたことによる国内の医師不足の緩和対策の一環として設立された。女子は兵役がないため、徴兵されずに銃後で一般市民の診療に従事してくれることが期待されたのである。
建物ができていないのに、急きょ開学が決まっているというのが当時の切羽詰まった状況を物語る。
あおりをくらったのが北星高等女学校であるが、伝統校でもあるこの学校が新規生徒募集休止にまで追い込まれたのは、やはり開学にアメリカ人が関わっていたことで「敵性」として見られたのであろうか。まあ、それをいうなら北海道の開拓なぞアメリカの影響を存分にうけていたのであるが・・・?。

そんないろんな矛盾の含んだこの時代の「ヨイコ」とはどんな子供だろう。
こちらはよいこの記事


ヨイコの国防献金

市内女子高一年竹内陽子さんはじめ 北光国民学校初三竹内晶子、華野マサ子、有岡洋子、吉田勝江、初一竹内静子さんの六名は、三日から八日まで四丁目、狸小路等の街頭で市民に呼びかけて集めた国防献金七百十九円三十五銭を九日 本社に寄託した



国民学校は当時は初等科が6年、高等が2年なので、初等科3年生は「初三」、初等科1年生を「初一」と記事で表記している。ということでこの酷寒の中、高等女学校1年のお姉さんに率いられた小学1年〜3年の子供たちが街頭で「国防募金」を実施して、719円余りも集めたというから、これはなかなかすごいことである。

頑張ろう、と言っている人たちはまだいて、1月8日は北海道農業会が主要町村農村農業会代表を招集して「食糧増産」のために特攻魂を持って今年(昭和20年)の必勝食糧戦を行おうと気勢をあげていた。

その中の懇談会の中で、こんな本音も・・・


現在 何々運動と称するものがあまりにも多く 新たに運動を起こしても”またか”といふ感じでよりせぬ場合がある
とくに精農化運動といふ題目が面倒でピンと来ない
今年やる場合は、もっと判りやすく しかも”感激”をもって体当り出来る展開方法を考究すべきである



「●●運動」が多すぎて、もはや心を打たない。「またか」という感じ・・・とは、偽らざる本音であろう。

厳しい締め付けの中、抜け道やズルをする人もいるようで・・


殖える購買通帳
交付に慎重を期せ


札幌市では目下 公区を通じて新配給物資購買通帳を交付しているが 最近の傾向として 事実上同一世帯と認められるにも拘わらず 単に物資の配給を受けるために別世帯として通帳を請求する家庭が増加し 公平適正な配給を乱しているが 市経済部では通帳交付に一段と慎重を期するよう公区役員に次の如く要求している

同一家庭内にあっても全然べっせ隊の場合は別であるが 東京の娘が疎開してきたとか、二男が結婚したが家がないので同居しているといふ場合に 単に物資の配給を受けるために別世帯として購買通帳を請求する場合がしばしばある
住宅難や疎開のために今後ますますこの傾向は濃くなると思ふが、どうみても事実上一世帯と思はれる家庭が 石炭も木炭も二世帯分の配給を受けるといふことでは適正な配給とはいへず ひいては公区民の感情問題にもなる、公区役員は戸籍上の分家などに関係なく 実際に一世帯を構成しているかどうかをよく調査して通帳を交付するやう特にお願いする



戸籍上は二世帯でも、一緒に住んでいるのなら一世帯として配給購買手帳を申請しなさいというような話である。
本州からの疎開、建物強制疎開など、仕方なく一緒にくらさざるを得ないのに、二世帯と認められないというのはまた世知辛い話である。でも、物資不足で配給量も全然足りないわけだから、当局もなんとかして市民に渡す量を減らしたい。ここは市役所と住民のだましあい、化かし合いといったところもあったか。

海の中でも軍隊同士が化かし合い、だまし合いを行っていたが、相手を見破る役目を仰せつかっていたのは少年であった。


ほらあいつは鱈だ 魚の鳴声が判る
神業の耳、少年水測兵


生命線は氷の棒
港口を出ると程なく 船体は早くも名だたる怒涛の中に突入する
忽ち風速計が三十米の線をピンとはね上がる
「傾斜・舷八十度」
艦橋からの伝声管が保針不能の報告を伝えてくる
艦体の傾斜がある限度をすぎると操舵は不能になる、ところがこの常識を外れた怒涛では殆んど全行程を舵なしで行くことが珍しくない、勿論煮炊きなどはやれない、基地を出て二日目には握り飯に代わった食事が次の日には二度になり、後にこれが一度になり 時によると数日も食事なしの航行が続くこともあるといふ
こうした時に凍り付いた甲板上での兵員の作業の労苦は言語に絶する

艦橋は浴びた波の飛沫が次々と凍りつき 二尺近くも氷の衣を着る
生命網(荒天網)はいつの間にか一本の太い氷の棒となる
こんな中での航海中 作業のための犠牲者も数多い
不注意といふにはあまりにも危険な作業なのである、この艦でのついこの間、狂涛のためにさらはれた犠牲者があった、この激しい大時化の夜のことを語った艦長は爾後にかうつけ加えた

こんな兵隊の最後を果たして犬死といへるでしょうか

少年水測兵の活躍
吹雪に眼先を奪われ 怒涛と闘ふ船に水測兵器、電波兵器等の近代兵器はわれらの眼となり耳となる
T上水は少年水測兵で この艦での最年少者、上陸でもするととても一人前に取扱ってもらへない
ところが一旦荒海の中に入るとこの少年兵の貫録はぐっと上がる、荒天を利して執念深くつけ狙う敵潜水艦に対し 水中探索機につけたT上水の耳は全員と船をあげての要衛をがっちり担っている
「北東●●、スクリュー音」まだ幼な顔の残ったT上水の声に乗って船体は進んでいく
まだ子供の域を抜けきれないはずのこの北洋の若武者は記者にこんなことを呟いた
「手荒く難しいんです、なんとかして敵の影をとっちめなくちゃ
よい事を教えて上げませうか、かうやっていると魚の鳴いてる声がちゃあんと入って来るんです、
ええ 嘘ぢゃありませんよ、はらあいつはきっと鱈ですよ」

北洋の花火大会
出港第●日目
たて続けに敵潜水艦情報が入って来る、警戒船備のまま進出、北の太陽は午後二時を過ぎると急に傾き始める、三時といふのにもう陽の落ちた海に 夜光虫が輝きはじめる
ただこの夜光虫は歌に歌われる南の海のそれとは全く動きが異る

北の海でもその名物地帯である●●海峡付近にかかると荒れる
十米近い浪頭を一様一様の光の玉が見えると 忽ちに光源は波に乗って紫色に走る
藍色の海の妖火ともいひたい

虫の魔術は艦の行先に怪しい光の文字を数キロ平方にも亘ってまき散らすことがある
彩の全くない北の海で 海の勇士達はしゃれた名前をつけている 曰く「北洋の花火大会」


潜水艦の探知は当時は「音」でとらえられる時代だっただろうが、耳がよいのはやはり若い者ということか。重要な役割をこの記事のとりあげた北千島配備と思われる艦艇では少年兵が努めていたようである。

怒涛の海に怪しく光る夜光虫。その様は「花火大会」とも称されている。
どのように見えるのだろうか、見てみたいような気もする。

以上はすべて二面の記事である。

一面では、地方財政の円滑運営のために市町村民税の5割程度の引上げを実施するという記事。さらに負担が国民に増すこととなる。
そして、今では「幻の大戦果」として名高い「台湾沖航空戦」による戦果につき、陸軍省からの感状が贈られたという話題。
フィリピン・リンガエン湾は8日には輸送船100〜150隻が侵入、空母も10隻以上を数え、いよいよ本格的上陸作戦を目前として艦砲射撃も激烈さを増す。
日本の航空部隊は全機特攻隊となって必死必中の壮絶な猛攻と伝えている。
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2014年12月21日

戦後70年:1945年1月11日篠路村村民からの贈り物

1945年1月11日の北海道新聞を読む。

1面トップは、ついに米軍のルソン島上陸作戦が開始されたことを伝えている。社説も「敵つひにルソン島へ上陸」というタイトルだ。


【大本営発表】(昭和二十年一月十日十五時三十分)
一、一月六日朝来 リンガエン湾内に進入、同湾沿岸に対し艦砲射撃を実施中なりし敵は 一月九日九時四十分頃 サンファビアン及リンガエン付近に上陸を開始せり
二、所在の我地上部隊は之を遊撃激戦中にして 我航空部隊 亦敵艦船に対し 必死必沈の猛攻を加へつつあり



続いて記事は、太平洋の運命を決めるルソン島決戦の火蓋が切って落とされたと記載している。
1月6日から艦砲射撃を始め、9日になって上陸作戦となったのだが、上陸まで三日かかったのは航空部隊と地上部隊の反撃が激烈だったから、という調子である。

1月8日付の紙面にルソン島の艦砲射撃の激烈さを伝えてきた、川崎報道班員のレポート記事を読んでみる。


水陸戦車で盲押し 強引な米兵ども
見たぞ、動かぬ醜骸の山


【リンガエン最前線にて 川崎報道班員九日発】
敵米兵は その泥足を遂にルソン島にかけた
奢りたかぶった彼らは不敵にもわが『要塞ルソン』の鉄壁の防御線に向かって裏口から強引に押入らうとしているのだ、
六、七、八の三日間 わが神鷲特攻隊の猛撃に追巻くられ リンガエン湾内を右往左往していた敵輸送船団は九日早朝から熾烈を極めた艦砲射撃と艦載機の庇護下に上陸作戦を開始し 多数の上陸用舟艇に移乗した敵兵は午前十一時ころダモルテスからサンファビアン附近一帯の海岸に向かって一斉に上陸を強行して来た

沖合遥かに敵艦船を眺め 切磋捲腕して待ち構えていたわが部隊は『畜生 之でも喰へ』と一斉火蓋を切った
敵の砲爆撃は益々激しさを加へ 面を上げられない風のやうにわが陣地に蔽ひかぶさる

キッと顔をあげて海上を見れば 敵は約百隻の輸送船団から二列で 大きいのは四千トン級 小さいのは二、三十トンのあらゆる種類の上陸用舟艇を駆逐艦が護衛して次第に近づいて来る
白々と陽に光る舟艇群の憎らしさ バッと閃光を放って爆発する小気味よさ 勇士の眼には今はもう敵の砲撃もなく空からの爆弾もない、敵舟艇群の真っ只中に真っ白な飛沫を上げる弾だけを睨んでいる

海岸から五十米 敵舟艇はガキッと止まった 遠浅なのだ
と敵兵が海中に飛び込んだ 今ぞとわが機銃砲が銃身もさけよと射ちに射った

敵米兵どもの血の色に リンガエン湾の海水も染まるとばかり咆哮する
火砲は憎しみの炸裂だ
大型船艇の前部がバッと開いて水陸両用戦車が砲を打ちながら轟々と海の中を突進して来る
すかさずわが火砲が日を吐く、ああ見よ 一瞬敵戦車は火の玉だ
『やったぞ』と叫ぶのも胸の中 敵戦車は後から後から続く
射っても射っても敵は続く
わが陣地内では次第に傷つき 仆れるものは多くなった
戦車を先頭に敵兵の海岸に辿りつくものがだんだん多くなった

波のない静かな浜へ 敵は砂浜に滲みこんだ血潮のやうに押しひろがって来た
草木、水田、湿地を越えて敵戦車は道路に辿り付いた その時である
記者は見た
道路の両側のたこ壺式壕の中に潜んでいた勇士が大きな爆弾を両手に抱いて戦車の直前に潜り込んだ
轟然見上げる火柱
偶然 この神の如き融資の突然の姿を見た記者は 殴りつけられたやうな爆風にぱっと地に伏せる
再び眼を見開いたとき 道路の上には黒々と大きな穴が掘られ 鉄片が散乱しているだけで 敵戦車も勇士の姿もなかった



川崎報道班員は確実に最前線の戦闘に巻き込まれているわけだが、決死のリポートを日本へ届けてきている。
読者がこの記事を目にしているとき、彼はひょっとするともう死んでいるのかもしれない。従軍記者も敵から見れば殺すべき的のひとつなのである。

もう少し離れたところにいる別の報道班員のレポートも記しておこう。


【比島前線基地 吉村報道班員十日発】
敵アメリカは九日遂にリンガエン湾に上陸を開始した
この日 快晴のリンガエン湾を山上より臨めば サンファビアンおよびダグバン正面に游伐する敵護衛艦艇の猛烈なる艦砲射撃の下ダモルテスサントトーマス沖合にあった敵船団は午前九時 サンファビアン正面にて散開、陸地目がけて突進し来った

この時護衛艦艇の上空一面に轟然対空砲火の弾幕が張り巡られたと見る瞬間、敵大型軍艦から突如噴火の如き黒煙が噴き上がった
見れば黒煙の薄らいだ海面には既に軍艦の姿は消え去っていた
正しくわが特攻隊の敢行した体当り轟沈だ、ああこれぞ国の護りに見る崇高無比の神鷲の姿であった
われわれは思はず双眼鏡を手にして『ありがたう』とただ胸が一杯になる思ひである

九時四十分 敵の上陸部隊は遂にサンファビアン、リンガエンの二方向を目指すらしい
上陸用舟艇の一群れが朝日を側面に受けて はっきり白く光って近づく
わが防御陣地からつるべ撃ちに射ち出す砲撃に 先頭舟艇は血祭りにあげられ 続いて二隻、三隻が砕ける
しかしながら敵上陸第一梯団も猛烈な砲爆撃に擁護されて遮二無二突進を続け、遂に五隻、八隻と海浜に到達した

舟艇からアメリカ兵の黒いかたまりがばらばらとなって陣形を整へんと必死に走っている
わが陣地から射ち出す砲弾の炸裂にあちらこちらにアメリカ兵のかたまりがばたばたと砂浜に仆れて動かなくなる
しかし第一上陸梯団に続いて、第三梯団が上陸を開始した、三、四千トンもありさうな大型舟艇十五、六隻が海岸に突進して来た
正午ごろ、彼我の砲声が段々と海岸に響いて ルソン島決戦の幕はこの朝 リンガエン湾岸に切って落とされたのである。



吉村報道班員は川崎報道班員のいる最前線から少し離れた山の上から、この様子を見ている。ということになっている。
決死の水際の攻防戦が繰り広げられた・・・ような形となっているが、実際のところ米軍のリンガエン湾上陸作戦は、ほとんど無血上陸だったとの話がある。というのも、日本軍は最初から水際防衛作戦を放棄して、3万人ほどの兵力の大半を湾から30km以上離れた山岳地帯に展開しており、海岸近くに残っていたのは、ごく一部の偵察小部隊に過ぎなかったそうなのである。

上陸日が「1月9日」であることも、米軍はビラを沿岸にまいて教えていたし、すべてが予定通りであり、「上陸を三日も送らせた」というのも強がりである。上陸して来た米軍の兵力は約19万。圧倒的であった。

ということで、自爆の勇士も、特攻による戦艦の轟沈もなく、もちろん水際での日本軍の「撃ちてし止まむ」という反撃も作り話なのかもしれない。

二面にうつると、改めて「勝ち抜く手は飛行機」という、本間中将の談話が掲載されている。
「この先、二、三年のことを考えるのをやめ、最後的努力をするときが今来ている」と。

そして「飛行機を頼みます」と題して、篠路村(現札幌市)からの食糧寄贈のニュースが続く。


工場へどんと運んだ全村民赤誠の俵

これはまことに僅少ですが私達村民が春から秋にかけて文字通り粒々辛苦 額に汗して得た結晶を各戸から集めたものです
前線で尊い味方機が体当りをしたと聞くたびに『ああ飛行機が欲しい』とどんなに地団太踏んだか知れません、比島に直結する飛行機増産にぢかに従事できない私達にはせめて皆さんにこれを召し上がって頂いて 私達農村人の精神を 一本の鋲、一本のネヂに打込んで立派な飛行機をを激戦の大空へ飛ばせて頂きたいのです、一刻も早く一機でも多く

と 九日のひるさがり 神風の鉢巻も凛々しい王子航空●●製作所の工員の前に篠路村村民の心づくしの白米四俵、大豆六俵、小豆六俵、玉葱、蔬菜十一俵がさし出された、

これは完納村・篠路村の翼壮が 一億感激の十二月八日 全村民に呼びかけて農家は保有米を 非農家は節米して一勺、二勺と粒々集めて贈ったもので 正に全村の汗を飛行機に託したものである
この日受け取った工員一同は 俵の山を前にして ワッと歓声をあげ 農工一致の感激場面を展開した

林村長の贈呈の辞に対し、斎藤工場長は
労力不足の農村から届いたこの尊い品々は 有難く頂戴し 工員の食堂に廻したいと存じます
この汗の結晶を噛みしめるたびに村民の熱願を味ひ、誓って翼の増産に努力を注ぎ 御言葉通り立派な飛行機をつくって御覧にいれます
と感激の挨拶を述べた



おそらくこの話の舞台は、王子航空機江別製作所であろう。
王子製紙の製紙工場から軍の命令で転換した飛行機製作所であるが、ここで造っていたのは「木」の航空機である。物資不足で、もうアルミや鉄の飛行機を製造するのは難しかった。
本間中将のいうような、フィリピン決戦の鍵をにぎる飛行機増産なぞ、もう無理だったのだ。

しかし、記事は戦争継続に向けて、中将のいう「最後的努力」を迫る文言が並ぶ

たとえば「必勝増産へ体当り 赤誠貫く報告畑」というタイトルは、1月10日召集の支庁長・農業会支部長会議を報じる記事のタイトル。

生産計画の枠外に「報告畑」という45000町歩(約45,000ha)の耕地を別に設け、自家用はこちらで賄う。もし生産計画で不足しているものがあったら、この報告畑から補填する、というようなことが決められている。
「完納」やら「不足補填」やら、もはや農家は年貢の世界である。

農家でなくとも、昭和20年は馬鈴薯のほかに潤滑油用としての菜種の生産、衣料用の大麻の増産もまた割り当てられ、協力を要請することもこの会議で決められた。

苦しい生活をわずかでも楽にしようとする取り組みもなかったわけではない。


修理や交換一手に
近く日用品活用協会が生まれます


新規補充難と一部回収運動の強化により一層不自由となる日用品・衣料などの明るい迅速な修理や不用品の交換会を全道一手に指導する北海道日用品活用協会(仮称)が国費と地方費補助で近く札幌に本部を、十市十四支庁に支部を開設する

補修の方では道民の最も困っている衣料品、ゴム靴類、地下足袋、ゴム製布靴、革靴、バケツ・・・ストーブ等、交換会の方ではよろづ屋式に衣料品、暖房用品、裁縫用品、洗濯用品、衛生用品・・・冷房冷蔵用品、家庭用工具、家具、寝具、育児用品、学童用品、文房具、ラジオ、時計等が目下の対応であるが、必要に応じて範囲を拡大する方針・・・



1月5日の記事の「金属供出座談会」の中でも「代替品の見通しがつかない」とされていた話だが、まずは物々交換を仲立ちする組織を立ち上げよう!ということであった。

なお、北海道の学徒動員事情についても、二面には大きく詳細に掲載されている。
当面省略するが、気になった一部分を掲載すると・・


矜持を尊重せよ

学徒は純一無垢な愛国心に燃え 職場に挺身しているのである
受入側は学徒の矜持、純真性を尊重し 苟くも単なる労務員として取り扱ふが如き また金づくで使役するといった態度は厳に慎まねばならない
特に学徒の特性に応じた作業の選択は健康発揮、ひいては生産能力工場からも格段の配慮が加へらるるべきであり 職場をして真に働く教場たらしめることである

思想的転換期にある学徒受け入れにあたっては最新の注意 就中職場の雰囲気と指導者或は幹部の態度は学徒の一挙手一投足に敏感に影響するのである、学徒の操行問題を云々する前に これら受入先業者の一段の留意と反省を促してやまない



学徒を生産力工場のために、劣悪な環境でこきつかうような事例や訴えも多かったのだろうか。


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2014年12月22日

戦後70年:1945年1月12日国鉄胆振線の隠された工事理由

1945年1月12日の北海道新聞をよむ。

この日の一面は、フィリピンの航空戦で戦死した飛行第二六戦隊の坂口唯雄少佐(戦隊長)、野口義憲軍曹、飛行第五二戦隊の澤山義隆大尉(戦隊長)へ陸軍省から感状が授与されたという記事からはじまる。

次いで、どこまでが本当かわからないルソン決戦の話。
リンガエン湾の船舶数は大小あわせて約三百隻。艦砲射撃や艦載機の爆撃は低調となってきたが、その理由は「わが神鷲の敵艦隊群に対する連日の猛攻の結果」としている。
もちろん、本当のところは米軍がリンガエン湾上陸に成功したからであろう。

一面真ん中には「勝機は今や紙一重」とし、国力総動員で敵勢を突き破れ、との見出し。

フィリピンの戦局は9日のルソン島上陸を迎え、いよいよ日米決戦の重大段階を迎えるに至っており、もちろん戦局の前途は日本陸海軍の敢闘によって、必ず敵は破滅することを確信するとしている。
特にアメリカ軍は欧州戦線と太平洋戦線の二正面同時作戦を行っており、フィリピンへの物資の輸送距離は日本のそれと比べて15倍。航空機を主軸とする潤沢な兵器の補給があればアメリカのフィリピン制覇の野望を許すものではないと。

しかし、既に日本では、ドラム缶もタンカーも戦闘機も、「木」でつくるような物資不足。無いものは作れないし送れないのであった。

二面の記事から。悲しき表彰の模様を。


愛児の死 秘めて敢闘

決戦四年を迎え 愈よ完璧の陣容を誇る藩都防備陣の鏡として 小樽署では十日 次の五氏を表彰した
なかでも安川定雄氏(四二)は第三分団の消防部班長として日頃の熱意と果敢な活動ぶりは関係者の感激の的であったが 去る十二月の総合防空訓練の最中に 長女澄江さん、二男進さんの二人の愛児をうしなったのであったが、警防隊員は銃後の兵士、一時も勤めを離れてはならない・・・と誰にも告げず悲しみを秘めて訓練に参加、皇国護持の警防魂を遺憾なく発揮した



防空訓練はいわゆる「バケツリレー」に象徴されるような、空襲時に炎上する家屋への消火作業などが主であったが、何が起こったのかはこの記事では定かではない。はたして昭和19年12月の記事にもこのような記事はとりあげられるものか?

1月の記事をここまで見てきた中で、事故や事件に関する記事はほとんどみられず、放火など火災記事が一部小さく扱われている程度である。防空訓練による不慮の事故死などは「不名誉なニュース」として報道されることはなかったのだろう。このあたり、報道機関の事情としてどうだったのか、もう少しこの時代の話がオープンになっていてもよさそうなものだが。

そんな中、ちょっとした事件の記事がひとつ。


逞しい『神風精神』
猛火にめげず 電鍵を死守


十一日午前九時三十五分頃 札幌駅札幌電信電話室の北側の窓硝子がパッと明るくなった、
火事だ!
それは全く突然の出来事で なかで働いていた年若い男女通信士や隣室の電話交換手は瞬間ちょっと動揺したが 絶対離れることのできない職場である、電鍵を打つ手は、プラグを握る手は 刻々迫る危険にも乱れず動いている

五間とはなれていないので 猛烈な火焔がうづをまいてひろがってゆくのが手に取るやうに見える
火勢は隣の建物に燃え移っていよいよ激しくなった、風がかはれば この建物へ延焼すること必至だ
だが誰一人として座席を離れるものはなく 最後まで整然として列車の運転命令、本道と本州を結ぶ輸送動脈の中枢神経の任務を遂行していった

『職場死守!』火を睨み 電鍵を打つひとみは針を射すやうに鋭く冴え 左腕に『神風精神』の腕章をしっかと巻いて この非常にいささかも動ぜぬ乙女たちの姿は何かしら尊いものを感じさせた

金子助役は語る
”混雑のときはよけいなことを考へず、いはす命を守ることです
この混雑の中に一本の電信の配信も受信も遅れもなく 任務を完遂できたことは 将来の空襲時に対し いささかの自信を得た”



電鍵(でんけん)とはモールス符号を出力するための装置。モールス信号は現在でもアマチュア無線などで通信の現役であることには驚くが、当時はモールス信号でのデータの送受信というのがいろいろな面で重要だったのだろう。
火事にも動ぜず、命よりも優先される通信というのは、そこだけ聞くとちょっと理解は難しいが、「空襲時に対し」というところで、なるほど当時はそういう考えもあるかと納得するものである。

ところで、戦争で傷ついた人たちの工場というものがあったようだ。


傷兵工場事前調査

さきに道庁では傷兵工場十一工場を指定したが 次の七工場に対し 就業予定職種の適否、衛生管理の可否、その他宿舎設備の良否等の事前調査を行い 療養所入所中の傷痍軍人の配備、既就職傷痍軍人の配備に資することになった

調査班では各傷痍軍人療養所長、軍人援護局道支部などで構成される
日程左の如し
清水●●工場十八日、函館船業●●工場二十日、日鉄北海道作業所二十二日、王子航空●●工場二十六日、松岡木材●●工場二十七日、新田ベニヤ●●工場二十九日、松下航空●●工場三十一日


松岡木材は明治40年の創業で、旭川市の近文に製材、合板工場があった。このため伏字になっている部分は「近文」であろう。
新田ベニヤは日本初のベニヤ板の製造販売を行った会社で現在は「ニッタクス」という名前になっているとのこと。幕別に十勝工場があった。
いずれにしても、当時まで戦争による傷は「名誉の負傷」。傷痍軍人にも作業・就業の斡旋がなされていたことを示すひとつの事例である。

そして猛烈な勢いで工事を終えた鉄路の話。


決戦「鉄の輸送路」は邁進
僅かに五十五日で一年の難工事完成


【壮瞥にて特派員】新有珠の尊神火おろしを聞き、その列車は真新しき鉄路をひた走る、喜びの日章旗を翻へし 沿線の歓呼の声をぬって処女列車は邁進する−−昨夏の事故による”決戦の鉄”の輸送路、胆振線壮瞥−上長流間六十一キロ付近の復旧をめざす迂回路線建設工事が十一月下旬から五十五日間にわたる伊達、壮瞥、徳舜瞥の三町村敢闘によって完成し 十日午後三時半 待望の処女列車が運転されたのである

胆振線は昨夏 国鉄が買収した旧胆振縦貫鉄道線である
=中略=
暫時その意義が失われてきた支線とはいえ、この鉄路は戦ひの決戦にかける輸送路であるから正式国家の一大事だと 北海道地方行政座談会?の議題となり、長流川に沿い 新有珠の麓をめぐる迂回線を建設することになった

資材や労力の不足がちな今日、わずかな距離とはいへ、なかなかの難であったが、決戦の輸送路あやふしに俄然沿線三町村の人々が奮起した

南洋の神風に呼応し われらも北鎮の補給戦に体当りしようと動員隊を志願するもの、農家、郷女青年弾、学校はもとより町内会、部落会、荷馬車組合および各・・からこの工事にはせ参じ 霜柱を砕き、吹雪をおかして突貫した

地下●米に達する凍結、呼吸も出来ない硫黄?瓦斯の襲来、その他悪条件を物ともせず建設を進め、食糧や医療の不足は村民たちの熱意で押し切られた
しかもこの輸送路の完成するまで 暮れも正月もあるものかと強行、
徳舜瞥の藤原鐘次郎村長は 元旦から米噌、燃料を背負って戦列に参加し 数日間役場職員奉仕隊の戦闘に立ち、同じく伊藤義晴校長以下青年学校生徒百名、壮瞥女子青年団、有珠の国民修練所修練生五十名の活躍は大いに完成を早め 殊に地元の壮瞥女子青年団は佐藤レイ子訓導(二三)を隊長として 連日・・もおよばぬ働きをみせた
また壮瞥村長佐・・氏は世話役として奔走したので村民の出動率はもっともよく 宿舎も進んで提供したり大切な保有米や野菜なども快く供出された

このやうな空前の協力体制に工事の主催たる札鉄局も感激して総力を発揮し 伊達紋別工事区長:西本三郎氏や喜茂別保線区長:小野寺哲郎氏のごときは 着工以来作業位、巻脚絆のままでゴロ寝している

三町村の出動人員は札鉄局関係を除き、実に延一万二千人に達し 普通ならざっと一年はかかる工事を僅か五十五日で見事に完成を告げ 十日午後二次現地の開通式には札鉄局長から壮瞥、徳舜瞥両村に感謝状をおくってその功績をたたえた
試験も無事に終へ 下り貨物車は治療が新しき鉄路に両輪を響かせて邁進すれば 村人たちから期せずして万歳の声が続出した

いまこそ建設の労苦が報いられた その喜びに女子青年隊の娘さんたちはいつまでもいつまでも万歳を叫び うれし涙が頬に光っていた



1944年〜1945年で壮瞥ときてピンと来る方は、そこそこの北海道災害史マニアである。
この記事中では「事故による」とだけしか書かれていないが、国鉄胆振線の壮瞥−上長流間ではこのころ、畑が突然じわじわと盛り上がり、ガスを上げながら山を形づくるという「地殻変動事件」が起きていた。

爆発的な噴火を20回近く繰り返したあと、12月から溶岩の山が盛り上がり始め、この1月10日には山の高さは10〜20mであったが、9月には185メートルの高さまで盛り上がった。

この山はのちに「昭和新山」と名付けられることとなる。

つまり、昭和新山の活動による線路の付け替え工事を、地元住民による突貫工事で行っていたということだが、火山のそばで、記事中に見えるように「瓦斯(ガス)」まで出ているという状況での作業は、環境として相当困難で危険なものだったように想像できる。一年かかるといわれたところを二か月弱で開通にこぎつけたというのは、記事通り相当な努力があったことであろう。

小樽でも学童があちこちの職場にかりだされ、がんばっている記事もある。


授業は現場 戦ふ小樽の学童

決戦輸送、通信の長期協力に小樽市国民学校勤労報国児童は小樽築港電力区、南小樽駅へ手宮校十一名、樽女校十二名 量女校十名、高島校四名、計三十七名の女子学童が 十七日から三月二十四日まで電気技術員、車両検査員、客車清掃手、駅員などの見習い補助に、小樽郵便局には十五日から三月二十四日まで市内十一校から内勤男女各二十名、外勤男女各十名、そのほか市内郵便局内勤に女子五名が通信事務補助、主として電報などの軽郵便物配達に また小樽貯金支局に手宮二十二名、樽女校十名、量女二十名、高島七名の女生徒計五十九名が帳簿整理ならびに計算事務手伝いに出勤するが 女子学童の長期動員は今回がはじめてで 市児童動員部では働く児童の学力低下を防ぐため 受入側と打ち合わせ 出動中は常時教員を現場に送って、修身、国語、歴史、数学を重点的に授業することとなり、鉄道は樽女校から、貯金支局は量女校、小樽郵便局は手宮校が受け持つことになっている



小樽の小学校の子供たちは、三学期がまるまる動員ということが決定されたこととなる。
まだ小学校なのに、働きながら勉強もしなければならない。二足のわらじをはいて歩かねばならなかったのである。

疎開児童の記事もみえる。


僕ちっとも淋しくないよ
仲よく疎開のヨイコを囲む


疎開するのも御国のためだ と幼い心にも決心し 五年間住み慣れた室蘭から なつかしい学校や仲よしのお友達とも別れ 昨年の暮、札幌市に疎開してきた元室蘭北辰校初三の柳町忠造君はお母さんのかねさん(四三)と妹の育子ちゃん(五つ)と三人 伯父さんにあたる市内南十一条西十四丁目 柳町久造さん方に身を寄せ、昨日から幌西国民学校のヨイコとなったが

”忠造さんは勝つための疎開で室蘭から札幌へ参ってきたお友達ですから けふから皆さんは古くからの友達のやうに仲よしになってあげませう”

と 受け持ちの矢島先生からきかされた幌西校のヨイコたちは 早速忠造君をとりかこんで、いろいろ話しかけては仲よしぶりを発揮した、

忠造君は工作室で
僕 疎開してきてもちっとも淋しくなんかない
札幌の学校でうんと元気で勉強しますから御安心下さいって戦地のお父さんにおしらせするんだ
と元気いっぱいである



札幌の幌西小学校へ室蘭へ疎開による転校である。
当時は冬休みが短い(1月10日まで)ので、昨日から新学期で登校しているということであるが、父親が戦地ということではなかなか心休まらない部分もあったであろう。

そして当然、「今日から始業式」的なのんびりとした記事は一切ないのであった。
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2015年01月05日

戦後70年:1945年1月13日下駄で通勤しよう!

1945年1月13日の北海道新聞をよむ

一面トップはフィリピンの戦い・ルソン島の戦線拡大に関する、12日15時30分大本営発表の内容。

これによれば、1月9日、10日の二日間で、輸送船計3隻、巡洋艦3隻、航空母艦1隻、さらに巡洋艦か駆逐艦1隻を轟沈、さらに大破炎上させたものが輸送船7隻、航空母艦1隻、航空母艦もしくは戦艦2隻、戦艦1隻と巡洋艦2隻である。

この大本営発表の戦果。一ヶ月集めたら、どれだけの米軍艦船が轟沈・大破させられたことになるのか。
数えていた人も当時はいたかもしれないが、到底信じられないような数字の航空母艦・戦艦・巡洋艦・駆逐艦・輸送船が轟沈させられていたことになろう。各10隻は下るまい。合計100隻は下るまい。
それでもなお、米軍が日本軍を押し込んで攻めてくるのだから、その戦果の数字を信じたとしても、それを上回る米軍の物量の勢いには背筋の凍る思いをしたのではないか?どうなのだろう。

さて、このような戦局の中、政府は情報局より5つの重点施策を発表した。
その内容を紙面から掘り出すと以下の通り。


生産、防衛を一体に
 五重点施策を断行 全国力急速に戦力化


情報局発表(十二日午後五時)
防衛と一般行政の吻合 並びに施策運営の迅速果敢と浸透実践を図り 国内総力を挙げて生産および防衛の一体的強化を期するため 地方行政協議会長と軍司令官及び鎮守府司令長官との連繋を一層緊密にするの方策を講じ その態勢の下に中央の計画に基づき 差当り左の重点施策を実行することとなれり

(一)防空体制の強化
(二)軍需増産の徹底強化
(三)食糧の飛躍的増産と自給体制の強化
(四)勤労態勢の強化と国民皆働動員
(五)所在物資等の徹底的戦力化



続く記事によると、大東亜戦局は米軍のルソン島上陸により重大段階に達し、この戦局に対処するために小磯内閣は昭和19年の暮れから新たな方策を練りつつあった。
1月4日の初閣議において強力政治の具現等の所信を表明し、その内容に沿って総合計画局で具体案を検討した案が1月12日に閣議にかけられて決定。発表に至ったとのことである。

では軍官民の緊密な連携が呼びかけられた北海道の姿を、二面から拾ってゆく。

まずは奇妙な呼びかけから・・


下駄通勤でいかう ますます窮屈になる靴

北海道鞄・履物類統制組合では「昭和二十年の配給計画はかう樹てました 生産増産に支障をきたさぬやう 重点的配給にあたりたい」と地下足袋の新しい配給計画書を道庁に提出した

それによると 新年度に本道に配給される履物のうち 農業、林業、労報国系団体や鉱山関係に重点的に配給される地下足袋は昨年より約三割減が予想され 結局全道的に三百四十万足の不足を生じるといふ

この不足補充について統制組合では
「使用期間の延長を指導すること 悪品を回収して更生足袋とすること、さらに使用場所を考慮して 各事業場や各自が代替品の研究にあたってほしい」
と望んでいる

またゴム靴は大量二十万足確保の目安がついているが 生産陣への配給のほかに 学童にも若干配給する計画をたてると 約四十八万足の補填方法をとらなければならないことになり そのために何より 修理の徹底にあたらなければならないとし 各家庭に「靴を修理してください」と呼びかけるほか 修理業者の極力努力を求める

一方 皮革靴については皆無といってよいくらいに見通しがつかないといはれ 特に都市生活者の極端な節約を要望し 「いまさらおていさいでもないから 下駄通勤にあたってほしい」と強調 そのため下駄の生産を増強することを約束している

なお草履については配給機構上 この統制組合を経由しないが 地下足袋やゴム靴の代替品として 履物類総合配給計画の中に繰入れることになっている。



配給制だった履物も、その中心は地下足袋やゴム長靴だが、主に鉱工業や農業、学徒など生産方面に重点的に振り分けられる上に、それでも品薄。修理などで長持ちさせて使うのが奨励されている。

しかも革靴に至っては配給はまったく期待できず、都会でも体裁を整える必要はないから、「下駄通勤」が奨励されるという有様であった。

耐久生活の一端をのぞかせる記事はまだある。


▼決戦生活の新工夫▼

イタヤカヘデから砂糖を−道内いたる所の山野に自生するイタヤカヘデの生長旺盛な直径一尺乃至は二尺くらいある若木を選び その幹に鉈で割目を作り、切り口に葦か燕麦稈を挿入、瓶のやうな容器で受け止めておくと甘液が一滴づつ出てくる、一昼夜には優に一升くらいの液がたまり 甘味も相当あるので調味にはもってこいです

また煮詰めて濃くすれば一層効果的であり、ただ甘液を取るには春季新芽の出るときに限られているから木を選ぶことが大事です
(上風連 西巻松琴)

イタヤカヘデの樹液には約一%程度の砂糖分を含んでをり 煮詰めると特殊の香気あるものとなります
(工業試験場)


砂糖不足で甘い味付けにもなかなか苦労するところ、道内の山野のカエデでメープルシロップをどんどん自作しようという記事である。

「甘いもの」に関しては「伝声管」という投稿コーナーにひとつ投書が載っている。
札幌の話である。


◇話は少し古いが教育に携わる者としてかようなことがあってよいであろうかと その筋の方々に反省を求めたい。
といふのは一月一日のことであった。
その日学校では児童一人に三十銭ずつ飴を配給するから 忘れずに持って来いと前もって連絡があった。

◇(判読不明)その金を忘れて来た児童がいた。すると教師はその子供達には飴の配給をせず『今度一つも悪いことをしなかったら その時やる』とお預けにしてしまったそうだ

◇他の児童は珍しい飴を沢山貰って嬉々としているのに お金を忘れた子供らは叱られた挙句・・・(判読不明)・・・配給の飴をあたえるのに・・・かうまでしなくてもよいのであるまいか

◇僅かの金のこと 教師が金を立て替えて飴は渡した上 注意すべきで 前記のやうな心なき沙汰は教師としてすべきではないと思ふ。
(札幌・一市民)


物資不足の折、甘いものも少ない正月の札幌。飴が当たるなぞ、それは大変貴重なことであろう。
ところが、わずか30銭のお金を忘れた・・・もしくは用意できなかったばかりに、飴をもらって嬉々とする子供と、もらえない上に叱られる子と、まさに明暗が分かれたということがあったようだ。

この時の札幌のある小学校の子供たちは、もらったほうも、もらえなかったほうも、一生、このことは忘れず覚えているに違いない。

続いて対照的な二つの記事を。


神鷲の母を慰問

日婦道支部では一月下旬、郷土の生んだ四神鷲、君場七郎大尉(小樽)、石川清晴少尉(札幌)、佐々木友治伍長(当別)五十嵐春・二飛曹(音更)の生家にそれぞれ理事を派遣して神鷲の母を慰問するとともに その生い立ちを詳しく聞き 神鷲の後につづくものを育くむ母たちの生きた手本として全道会員にしらせることとなった



名誉の戦死といわれたこの時代であっても、子供を若くして「体当り攻撃」で亡くした母親たちが、果たして「同じように神鷲を育てるための見本」として他の母親に紹介されることは、心苦しく大変つらいことでなかったか?ちょっと今の世の神経では耐えられないと思われる。

こちらの兄弟の母親はどうだったろう。


兄弟揃って志願

決戦の大空に活躍する 海軍甲種飛行予科練習生の応募は一月五日で一旦締め切ったが 札幌市では身体検査の前日まで申込みを受付け 盛上がる学徒の熱誠に応える

石狩支庁管内の町村を含む札幌市関係の身体検査は二十日から二十五日まで市役所三階議場で行ひ 合格者はさらに二月三日に一中、二中で体力試験、口頭試問を受けるが 現在までの応募成績は他管内に比して必ずしも良好といへない
これは都市と他管内の特殊事情にもよるが 市兵事課ではこの機を逸せず応募するやう つぎの如く呼びかけている

応募者の中に血書で志願した北中の上浩司君、兄弟揃って志願した光星工業の長谷川儀一、竹二郎両君など 何時もながら少年の熱誠には感激のほかないが 予定人員に達していない

札幌市の身体検査まではまだ一週間もある、この最後の機会を逸せず どしどし応募して決戦の大空におくれをとらぬやう 将に父兄、学校関係者の努力をお願いする
現在応募成績の比較的良好なのは市立中学、市立工業、札商などであるが 時局に対する父兄の熱意と学校関係者の熱意によってはまだまだ多くの若人を決戦の大空に送ることが出来ると思ふ

たとへ前日の応募者でも市兵事係では直ちに出願日時その他を指示し 受験に遺憾のないやう取計ふが 身体検査には国民学校初等科六年以上の通信簿、青年学校手帳、中等学校学籍簿もしくはこれに準ずるもの又は学業に関する証書、鉛筆、風呂敷、昼食、学力試験には鉛筆、小刀、消しゴム、三角定規一揃、コンパスを忘れぬやう、なお学力試験は中学二年修了程度の数学、国語、・・について行ふ



この時局、決戦の大空へ向かう=特攻して爆弾もろとも飛行機で敵艦へ突っ込む ということだから、死への片道切符に志願するようなものである。
やはり、年頃の子供を抱えた親の中には反対するものもいただろうし、口では勇ましいことを言っていても、生への執着から志願しないものもいたであろう。だから予定人数に達しないのである。

それにしても血書で飛行機乗りに志願していくというのはすさまじい。

なお紙面で取り上げられている光星工業の長谷川義一、竹二郎両氏は特攻で散ることはなかったようで。戦後は「はせ川観光」の社長や札幌ススキノのNPOの理事として、札幌の飲食業界で活躍した模様である。


お産は退避壕で

警戒警報または空襲時における妊産婦をどうするか?について北見産婆組合では過般大会を開き 協議の結果 警報の発令された場合には区域内の全産婆さんは機械器具を持参して助産救護所に集まり万全の策を講じ、一方空襲時にあっては退避壕内で適当な措置を講ずることができるよう 妊婦と連絡をとって 非常時下の妊産婦擁護にあたることになった

十勝馬を改良

決戦下馬の増産に力を入れている十勝では 昭和十九年度は飼料不足による栄養低下のため前年より一割三分減の不成績を示したので 今年は平年時の生産より七割増を目標に対策を立てた
さらに軍の要請に応ふるべく 新種馬の改良に重点を置くことになったが 政府の定めた登録馬の重種馬を除いた管内全部の重種馬の登録制を実施することとなった

根室湾の氷下漁

根室湾の氷下漁業は昨冬五十日間に三百万貫の水揚で中には一人一万円以上を漁獲したものもあったが 今冬は漁期を控えて新規出願が八十系統もあり 昨冬開業した九十六箇統は優先的に着業するので 今年は近年に無い盛況ぶりで 本月末までには二百系統を超えるものとみられている



北海道でも空襲が現実視されるなかで、お産はどうするかといったことが真剣に議論されたり、また人間だけではなく、馬までも栄養不足。その中で景気がよさそうな根室の氷下漁にはどっと人が集まってくる・・・

そのような姿が昭和20年1月半ばの北海道にみえていた。

このほかの記事としては、、、
・アルミニウムの回収は「申し訳程度」で熱意が全然みられず頗る不良。根こそぎ供出しようという記事。
・配給は市の指示通りに行い、独自ルールはご法度であるという記事。
・政府が学童疎開の対象を国民学校の三年生(小三)へ引き下げ、三年生から六年生を疎開対象としたうえで、期間を一年のばすという記事。
・学徒の配置換えが職場によっては増産の妨げになっているという話。
 ⇒夕張の鉱業所にいた函館工業生徒60名は昭和19年11月より三菱美唄事業所に配置、代わりに岩見沢中の40名が入ってきたが、それまで援農しかやってなかったため、改めて第一歩から訓練・指導が必要だった、とか。
・決戦の航空糧食として「ハマナス」の実が採用される。ビタミンCが豊富で、道新が「北千島の兵隊が野菜不足克服のためにハマナスを盛んに食べているという記事がヒントとなる。

面白い記事もいろいろあるが、時間がない。本日の所は以上。
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2015年01月10日

戦後70年:1945年1月14日砂糖を我慢しよう

1945年1月14日の北海道新聞を読む

1面はトップが河南作戦等に関する戦功へ、小川部隊・水越武軍曹などに感状が贈られたという記事からはじまる。
次が「週間戦況」。フィリピン方面だけではなく、マリアナ方面、モロタイ島、ビルマ方面といった、この時期の前線の動きが詳しく報じられている。
例えばマリアナ方面では外電がグアムに米軍司令部ができたことを報じていることを引用し、硫黄島にはすでに敵の飛行機が盛んに来襲するようになっており、今後B29による本土への空襲も熾烈になることは免れず、警戒が必要であるとの分析を行っている。

続いてフィリピンの基地からの特電。
12日午後、ルソン島西方海面において、日本軍の潜水艦が敵水上部隊を細く、攻撃戦艦一隻を撃沈したとの報道である。(ただし、これに該当する戦艦は実際にはない模様)

あとはルソン島の決戦に関して、日本軍が躍動しているという記事がある一方、その隣には「水際を死守せず、むしろ陸上で殲滅すべき」というコラムもある。米軍のリンガエン湾上陸作戦は艦砲射撃があり、上陸作戦があり、日本軍はこれらの米軍の攻撃に特攻をはじめとして捨て身の攻撃で奮戦したはずが、14日の記事ではルソン島の陸上で決戦だ!となっていて、その日その日の記事は連戦連勝のようにみても、数日の新聞を集めてよくよく考えて見れば連戦連敗なのは明らかになるというのは、なんともやるせない。

なんだかこのあたり、日本は勝てる!決勝トーナメントだ、あわよくばベスト4だ、相手も強いが勝てない相手ではない!とあおるだけあおり、連戦連敗しても「まだ望みはある。相手の弱点をつけば・・・」みたいなことをやる、あのサッカーワールドカップの報道に非常によくにていないだろうか?本当の実力を隠し、かざり、あおる。今の世のほうが「大本営」がないぶん悪質な気が・・・。
結局のところ「報道機関の国民のだまし方」というのは、戦時中も今も、よく似ているような気がするのである。

さて、昭和新山の形成を「事件」と報じた新聞ではあるが、昭和20年1月13日に発生したとされる「三河地震」に関する記事が道新にも掲載されている。


東海地方の地震

十三日午前三時三十分頃 東海地方に人間に揺れを感ずる自身があった
名古屋地方気象台の観測によると 震源地は紀伊半島南方沖とみられ 震度は中震程度であったが旧臘七日の震災により被災せる家屋等に若干の被害を生じたが、大きな被害はない



約一か月前に発生した昭和東南海地震の被災地を襲ったこの地震はマグニチュード6.8という大きな規模で、2000人以上の死者を出す大惨事であった。しかしこのような自然災害に関する出来事は報道管制がしかれ、新聞で全容が報じられるようなことはほとんどなかった。発生が報じられているのは、割と異例なことといえよう。


札幌市役所回覧板

一月分入院患者用鶏卵

一、一月一日現在の入院患者により 一人あたり五十匁の割合
二、配給期間 十五日より十八日まで

納豆配給

一、蔬菜の不足を補うとして 納豆を蔬菜の配給券で配給します、但し農家を除く
二、醸造の都合で三回に分割し、今回は四人世帯までの一般世帯にのみ配給します



これは配給の予告などを掲載している「札幌市役所回覧板」のコーナー。
蔬菜不足のために納豆配給というのは、寒い冬だったから生産量が少ないからなのか、それとも農村の疲弊が原因か。

また、配給関係としてはこれとは別に、米の割り当て量不足を補うために2月から全道で「混食」を実施することとなったという記事もみえる。二月は米の送料の5%、三月〜四月は25%を大豆にする予定ということである。食べ物もみるみる不足して来た。

不足するものを補うものは精神力しかないのか・・・


男子凌ぐ労働

男子工員にも辛い 特殊の重労働を見事やりとげ 飛躍的に能率を向上している女子挺身隊の敢闘ー

札幌市○○製鋼所では 重要方面の注文による鋳造品の制作に大忙となっているが 鋳造のとき発生する砂をニューマチックハンマーで削り落すことが、全作業行程中でも最も疲労のはげしい作業で 男子工員も十分な成果をあげ得なかった

ところが十二月二日からこの現場に出勤した 札幌市外豊羽の女子挺身隊・阿部コユミ隊長以下二十名は 勤労管理奉仕人として派遣されている札幌市会議員。錦戸弥一郎氏の指導の下に この仕事に当たり 猛烈に身体をゆするニューマチックハンマーを抱いて奮闘、従来の二倍半といふ驚異的能率をあげて同所の奈良勤労課長をはじめ関係者一同感嘆せしめた

錦戸奉仕員は先づ隊員一同に対し 軍隊式の組織訓練を叩き込み 全員を十名ずつに班に分けて 三十分交代作業として
交代は阿部隊長の号令一下 整然と行われ、作業中はずっと体をゆるめず わき見をする者すらいない

錦戸氏は語る

私は阿部さん以下隊員の働きぶりを実に感心しています。
男でも二時間もやれば体の痛みに耐えかねる仕事を 三十分交代とはいひ乍らも よくぞやり抜いてくれるものだと思います、この人たちの敢闘ぶり 真面目さは全工場に非常によい影響をあたえています



ニューマチックハンマーは、圧縮空気を使ってリベットを打ち込むときに使うハンマーだそうであるが、鉄工所で女性が扱うにはなかなか大変な工具。何しろ男でも辛いと、弱音を記事に載せられるような重労働である。「軍隊調」の指導とはいえ、もう命令されたらやるしかないのであろう。

この日から連載がはじまった記事がある。タイトルは「耐久が生む戦力」。つらい。


耐久が生む戦力(一)

比島決戦が一台消耗戦であることは百言を要しない、かうしている束の間も銃後国民が全力をあげて生産した”魂の物資”はどしどし戦勝一路へとつぎこまれている
しかし前線ではなお一機でも多く、一滴でも多く送れーとの血の叫びをつづけている
銃後の生産が、補給がまだまだ足らないからだ
ここにおいて ことしこそは国民生活の思い切った切り下げを断行し たとえ一枚の紙 一握りの砂糖といえどもすべてこれを生産、戦力の増強に打ち込む気概をしめさなければならない

なアに紙一枚くらいとか、自分だけよい生活なぞという思想はこの際きっぱり返上、貧しくともまた 乏しくても動ぜぬ 強靭な戦意をもって明朝敵達に勝つため 耐久生活を戦ひとる事に徹底し われらの祖父たちが日・・・ささげて・・・した・・・ぎりぎりまで断行してみようではないか



ちょっと締めの言葉が印刷が悪くて判読できなかったが、いずれにしても道民に「生活の思い切った切り下げ」、貧しくても乏しくても勝つためにがんばるという暮らしを徹底させようという方向性がみえる。

まず第一に北海道の人たちが「断つ」ことを要求されたのは「砂糖」であった。

この記事は、読者である主婦をたしなめる風体で、書かれている。


久しぶりにお会いして貴女から お砂糖の飴の話を聞いてわたしは背筋の寒さを覚えました
その人たちはどんな気持ちで毎日の報道を聞いているのでしょうか

お砂糖の僅か一匙でも それがあの航空決戦に大きな戦力となっていることを知っていれば 決してそんな非国民な行為は日本人として出来ないはずです
貴女の話を聞いて私は黙っていることが出来ず、少しでも砂糖か如何に戦っているか知って頂き お互いに勝利の日まで乏しい生活に耐へ抜きたいとこの手紙を書いています
それが私達台所をあづかる主婦の日常の闘いだと存じます

文化の進歩は砂糖の消費量によって占はれるといふほど 私たちの過去の生活は莫大な砂糖を消費しました
喫茶店に行けば美しい角砂糖が山と盛られ、盆、正月には五斤、三斤と知人へ白砂糖を届けるのが一つの社交にさへなっていた
統計によると戦前 私たちは一人一年平均二十斤から二十五斤を無造作に使っていたさうで 現在の消費量から比べると雲泥の相違です

お砂糖の配給が減った理由は誰でもまづ船腹の不足による輸送難といふことにお気づきでせう
そうです、わが国の砂糖は大部分が台湾および南洋で生産され 全消費量の九割五分は内地で消費されていました
それが大東亜戦争とともに南方からの航海が危険となり移入が困難となったばかりでなく 砂糖よりもまず戦争に必要な兵器食材を運ばねばならないのです

ことに今日の決戦を左右する飛行機材たるボーキサイトを廻航なければなりません、文字通り砂糖どころではありません

これに対して貴女方は 移入しなくても北海道で甜菜砂糖が出来るといふでしょう
もっともですが北海道はビート糖が年々三十五万ピクルから四十万ピクル生産され 現在では本道の消費量もこれで十分賄い得ます
だが一寸待ってください、砂糖は輸送の点で不足したのではありません、砂糖は立派に高級航空燃料となって神鷲とともに決戦に参加しているのです、ですから本道で生産されるからといってそれを私達が食べては罰が当たります。このことは案外貴方達には知られていないようです

=中略:砂糖の航空燃料への効果の説明=

本道の砂糖も前線で叫ぶ航空燃料を生むため どしどし今年から出陣することになりました

私たちは一匙でも一匁でも砂糖を節約して 一機でも多く 神鷲たちを仇敵必殺に存分の活躍をしてもらはねばなりません
私達全員の人々が一人一匁を節約したら 年に七十三万貫が浮くといはれますが これでブタノール抽出インオクタンを精製すると六百機の飛行機が一時間以上も敵艦上空を乱舞できる勘定になり その尊い時間でどれほどの大戦果がなるか、これを思えば砂糖の力が如何に決戦に貴重なる資材であるかお判りでせう

幼い児たちまで甘いお菓子を返上して元気に頑張っているではありませんか、
私たちのあずかっている台所も直接戦力につながっているのです

さあ頑張りませう、勝つ日までは−



データを示したうえで、こんなことをいわれては、はいそうですね、我慢しましょう。。と云わずにはいわれない。砂糖がほしいというのは「非国民」の考えなのであった。

▼紙面に掲載された、主婦から砂糖が遠ざかる絵
19450114.jpg

この真冬。真っ白な雪が砂糖だったら。。。と嘆きたいくらいの雪が昭和20年の1月は各地に積もっていたが、当然のことながらデータは一切秘匿されている。

そんななか、道内の「大雪」による影響をうかがわせる数少ない記事がこちら。


雪に負けるな輸送陣

二、三日前から列車が一余月ぶりで正常に復活した
こんなことは国鉄はじまって以来のことで こんどの雪害のため 輸送陣が非常に大きな損失を蒙ったと香田札鉄局長は真から嘆いている

雪を除けろ、雪を除けろ
降雪のときより晴天の日こそ 除雪に最大の努力を払うべきだ
”備えある輸送対策はこれだ”と 二十三万札幌市民は 札幌保線区の協力要請に応じて 公区からは主婦も 職域からは会社の社長さんも、新聞社員も勇猛果敢に出動、除雪作業に聖汗を捧げている

このため札幌、苗穂の駅構内は一日一日ひろびろと排雪され 機関士たちが通過のたびに こんどの勤労隊に感謝の敬礼をしている
それにこたえる勤労隊員の顔は明るい、この除雪奉仕は雪のある限りつづくであろう



この年の札幌の雪の量は1月の観測史上10傑には入ってこないので、1メートルまでは積もっていないようだが、ともかく1月すべて真冬日だから、約120ミリの月間降水量は全部が雪。降るたびに除雪だから大変ということになる。

このほかの記事としては、輸送船に乗船した道新特派員の山口報道班員による、北洋の戦場レポート。
初陣の少年兵が迫る魚雷に銃弾を撃ち込み、方向を変えさせて間一髪で輸送船を救った模様を「地味な武勇談」としながらも「死の北洋に咲いた若桜」として紹介している。

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2015年02月02日

昭和20年:1945年1月15日時間表のない駅に列車時間を知らぬ駅員

1945年1月15日の北海道新聞を読む。

1面トップは大本営発表。1月14日の、マリアナ方面から飛来したB29による名古屋空襲について。
豊受大神宮・宮域に爆弾が投下され、神楽殿五棟などに損傷を受けたとの内容で、「同神宮付近には工場その他重要施設は全くなく 敵機の筆舌につくせぬ暴挙」と記事は攻撃事態を激しく糾弾している。

また大陸方面からは同日、台湾に大型機五十機が来襲したことも伝えられている。

2面はマッカーサーと山下大将のフィリピンをめぐる因縁についての記事が多くを占め、連載「耐乏が生む戦力」は第二回で「塩」がテーマである。ともに書き起こすほどの内容ではない。

全体的にネタ薄なこの日の記事であるが、「戦う郷土」という囲み記事より。


乙女 木炭を背に

北見滝ノ上女子青年挺身隊は 萬字炭鉱からさらに山奥の見るとマップで木炭増産に敢闘している
十七歳から二十一歳までの乙女達は 二里の雪道を山から谷を降りながら十貫俵を背に木炭を運び出している
誰一人不平をいはずに働く姿は力強く 美しい

木材増産の学徒へ

木材の増産に学徒勤報隊として二十日間三股で挺身した帯広中学校三年生八十人は『辛かったが根限り働いた』と意気高らかに引揚げたが 生徒らの率直な希望を纏めると次のごとくなっている

一、靴は配給されたが 小さくて間にあわず 草履を履いたが・損が早くて困った
手袋は帰る頃に配給されたが もっと早く配給して欲しい
一、どんな粗末なものでもよいから合宿所に机が欲しい、新聞は是非見たいものだ、それから次に行く学徒は風・りと外傷薬を用意されたい
一、・・を乾かすのに炬燵が大型一つよりないのは不便だった 小型を多数設置されたい、部屋を清潔にするため 是非掃除用具が欲しい
=帯広=

火を消す

去る四日の室蘭の火事は 空襲必至下の本道の空鎮に対して 色々の示唆を与えたが 仲でも・・は延焼防止に非常な効果をあげた
当日は厳寒のため水が凍り 注水作業が困難を来し破壊作業以外に効果なしと見えたが、小笠原六郎氏宅に延焼せんとした時 居合わせた警防団員が全員で・・を作って・・・に投げつけ、雪のふすまを作ったところさすがの劫火も忽ち火勢衰え 鎮火させることを得た
単なる・・ではあるが・大な効果のあることを証明した
=室蘭=


印刷&マイクロフィルムとも状態が悪く、室蘭の記事は何が効果があったのかさっぱりである。
元日の記事では新聞でフィリピン戦の戦況を伐採作業員へ読んで聞かせていたはずの帯広中学校の学徒からは「新聞が是非見たい」という要望があった、ということは元日の記事の信ぴょう性が大きく揺らぐものである。しかし「机がほしい」とは今の世の学生は訴えるだろうか。向学心があるなあと思うのであった。

次は、戦時下の国鉄職員の対応を嘆くコラム。


▽・・・十一日長輪線のある中間駅のことである
一旅客が長万部来乗 札幌行急行列車の接続時間を駅員に訊ねたが、その答えがまことに国鉄らしからぬ頼りないものであった、

曰く
▽・・・『時間表を村役場に貸したから、接続時間はわかりませんねェ』

▽・・・近ごろ 国鉄職員の不親切がよく話題になるが、これは正にその不誠実、無責任の一例である
かつて官公吏の模範とされていた国鉄職員の勤勉ぶりは一体とこへ姿をひそめたのだらうか、
時間表のない駅、列車時間を知らぬ駅員、ともに一考あって然るべきものである



今や、平成生まれの20代前半の若者に「コクテツ」と言っても「ポカーン」とされてしまうのであるが、要するに今のJR北海道。民営化されて安全性はともかく(ではダメだが)サービスは国鉄時代より相当向上しており、昔のように駅員のほうが乗客より偉いというような態度はない。

この日の他の記事としては1月12日の閣議決定による五大重点施策の達成にむけて、北海道でも中小の軍需工場の労働力にどしどし女子を動員して最高能率をあげよう!というもの。そして昭和19年12月30日の紙面に掲載された、「敵艦に体当りして日本を守る」と叫んで息絶えた留萌町(当時)の小玉少年の死に感動した新十津川の農民が、自家用米を供出することにしたというエピソードなどが掲載されている。
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2015年02月08日

昭和20年:1945年1月16日豊受大神宮で痛憤、蔬菜配給不足に不満

昭和20年、1945年1月16日の北海道新聞を読む。

1面トップはルソン島が本格的な攻防戦に入ったことを伝えている。

1月15日の大本営発表では、米軍が海岸から続々と上陸し、山地帯の日本軍陣地へ近接していることを説明している。一週間前に猛烈な艦砲射撃を受けて、日本軍は勇猛果敢に反撃して特攻戦を重ねて撃退していたはずが、一週間でこれである。「上陸用舟艇撃沈破十四隻以上、人員殺傷約一千名」としている戦果も空しい。

一方、本土では14日の名古屋方面の空襲で、豊受大神宮・宮域に爆弾が投下されたことが大問題となっていた。

紙面より。

一億痛憤爆発 小磯首相談話
談じて許せぬ醜奴の蛮行


十四日午後 マリアナ諸島より名古屋附近に来襲せるB29の一部は 一億国民の尊崇し奉る伊勢の神域へ盲爆をあへてし 一億の憤激は最高潮に達しているが、小磯首相は十五日午前九時半閣議途中 宮中に参内、全閣僚を代表して天皇陛下に拝謁仰せつけられ 哀心より恐懼 お詫びを申し上げ 閣議終了直後左の如き談話を発表した

一月十四日 マリアナより来襲せる敵機が 伊勢の院息を冒し 豊受大神宮の宮殿に若干の被害あらしめましたことは不運悲痛痛憤禁じ能はざるところであります、
もとより被害は極めて軽微であり正殿は全く御安泰でありますが そもそも神殿が敵弾に襲われるといふ如きことは皇国以来かつてあらざるところで 臣下として真に恐懼措く所を知りません

私は今朝閣僚を代表して天覧に謹んで深くお詫び申し上げましたが 恐懼の念なほ休まざるものがあります。
道義なき敵は今後もあらゆる義戻りを通しうすると考へられますが 私はこの機会に道義の戦ひにおいても断じて米英を撃滅せんことを国民各位とともに誓ふものであります



豊受大神宮への空襲を小磯首相が昭和天皇へ詫びるという事態に発展していたのであった。
また、これとは別に15日午後、大達茂雄内務大臣が「お詫び参拝」のために東京を離れて西へ向かっている。

この事態をも、軍部は米軍の品格を貶めて戦争継続のさらなる発奮材料にしようとしていた節がうかがえる。
たとえば、この日の紙面の北海道新聞の社説より抜粋


社説 この事実を見よ

人面獣心の鬼はつひにその本性をさらけ出した。B29の豊受大神宮への爆弾投下がそれである。
一億の恐懼痛憤表現すべき言葉を知らぬが、この際 われわれの痛憤激怒は徒らに口角泡をとばし腕をまくって力むのみではならず、これを機会にあらためて敵の意図を掴み 一億自身深い反省のうちに恐懼を痛憤を勝利に直結せしめて 敵殲滅の万途を練り直さなければならぬ。

・・・中略・・・

ここにおいて知るべきは 対日戦に秘められた敵の決意は決して生易しいものではなといふことだ。
彼らは嘗て 対日戦の勝利を仮想し その際、日本処分案なるものを世界に宣伝したことがある。
その内容とするところは日本をして明治維新当時の日本に還元させ、日本は軽工業品、農業国として存在せしめるといふのであった。
わが国民一人としてこの報道に必要以上の関心をもったものはないのであらうが 今回の事態を前にして知るべきは この報道も確かに敵の謀略に過ぎず、彼らの本心は日本の完全抹殺、大和民族の絶滅にあるに相違ないといふことだ。



この豊受大神宮空襲に対して、札幌神社には敵を撃滅する誓いをたてる市民の姿がみられたそうである。
その模様が二面トップになっている。
一部を書き出してみよう。


神前に敵撃滅の誓 浄雪踏んで札幌神社に祈る市民

・・・略・・・

札幌神社には浄雪をふんで敵撃滅の誓ひを捧げる市民の姿 引きもきらなかった

『口にするも畏れ多い 伊勢の神域を、むざむざ敵のやからに汚させたことは、わたしたちの努力がまだまだ足りないからでございます。いまこそ力をあわせて必ず米軍を撃ちつくします』

誓いの言葉もはっきりと神門の雪に ・・・ 屋上に折から御札、門松を焼く煙がたなびいていた



1月15日といえば「どんど焼き」である。この記事からは、札幌神社のどんど焼きがこの日に行われていたであろうこともわかるものである。

さて伊勢の空襲も不満だったろうが、このころそれ以上に配給の野菜不足が相当住民の不満だったのだろうか。「蔬菜配給」が不足している理由について、詳しく説明する記事が掲載されている。
これは、1月12日に札幌グランドホテルで、全道の生産者や消費者の代表、各市町村の配給責任者、道の青果会社などの代表者が一同に集まり蔬菜の配給体制を協議した会議の模様を引用する形での記事となっている。

野菜不足の原因については、端境期に移入していた内地ものが、輸送関係で杜絶した。また北方作戦の展開や生産補充方面の需要拡大により、本来消費地だった北海道は供給地となった。また、昭和19年の作付面積が計画を下回ったうえ、天候も不順だったため、大都市だけで約一千万貫、その他をあわせて約二千万貫の不足となっているとの説明がなされた。

また昭和20年の生産計画についても、供出と配給のバランスがうまくいけば不足する事はないという楽観した見方である。一人あたり一日百匁近い配給があるという計算結果が提供された。


消費者の声

消費代表A=農村への協力熱意は既に非常にまで昂まっている ・・・略・・・・
生産費に・・する価格の再検討の要がある。・・費ぐらい消費地が負担してもよい
昨年札幌市で二万円負担したが、暮にどんと出回った。
今月は殆んど入荷はないが、暮の分でどうにか食ひつないでいる
当時勢不足で出回らぬのなら・・隊でどしどし運ぶ計画だったが 札幌にばかりやれんといはれて引き下がったところ、他の不足地帯へ出荷されずに雪の下に眠り、腐敗してしまった。こんな無駄が不平をつくり、供出熱意喪失の原因となっている

配給機構も信用の出来る明朗なものにならないこのか、自分は責めたいが補償金其の他の関係で組合が引き止めている−とヤケ半分の業者を見受けるが、入荷品は隣組へ一括渡しであとはノンビリでは困る

消費代表B
よく消費者は非協力だといはれるが 隣組や市会をみると話題は生活確保に尽きている
隣組ではいくらでも手伝うが配給店のための協力は困るといふ
なんとか信頼のおける公共的配給機構につくり 市町村がこれに介入して、日常生活に差支えないようにしてほしい
生産面では供給圏を確立してくれれば生産農家もこれは鉱山、工場へ、或は札幌市へと行き先がはっきりして熱の入れ方が誓ってくると思う
とにかく作物の完全蔵入れ、全量配給へ、買い出し部隊も単に非難せず、これを労務に利用すべきだ

配給統制組合=二十年度の生産面積はよいとして、生産重量を計量的につかむかが問題だと思う、その数字をつかまぬと・・の危険性がある・・・・中略
配給店がいろいろ非難されるけれど 配給会社から店へ移す間に三分から五分は目減りする。牛蒡など一割も減る。生産地はなるべく土をつけてよこすからだ
目減分は全部配給業者が負担している、不正配給云々も入荷量は全区長に提示し、目減りの見込み重量を区長と相談の上 配給を行う仕組みで、余量の出た場合も全区長に相談して自由販売なり次回配給にストックするようにしている
中には余量を自分のところへ取り寄せる区長もあると聞く

消費代表A
配給日に遅れると配給せぬのは不都合だ、届けてくれるべきと思う、また公区によって配給方法の異なるのは徹底を欠く原因となるから、これは全市一律の方策をとってほしい

公区長A
誰がやってもいろいろ誤解、不平は出る、しかし誰が見ても公平だという風にやらねばならぬ
各班長もこの点で非常に苦労しているが、班長を交代制でやると了解も早い、留守や病気の家の分は班で購入してやっている

公区長B
冬の対策として秋のうちに隣組なり手元で貯蔵するようにしてほしい
業務用の蔬菜が余っているやうだが 一般に廻してはどうか

経済部長
根本問題は絶対量を如何に生産し、生産されたものを如何に完全に持ち込むかにある
そのために必要な機構改革もやり 金も出すつもりだ、来年の配給についてはどうしても業者にまかせておけぬなら公区との結びつきも一層考えられるが、しかし市役所がもっと公区長と連絡を密にし、公区は隣組と連絡を密にして 隣組の協力強化で不良店監視も出来ると思ふ



食糧配給に関しては、一種の社会主義的な政策をとっているわけではあるが、必要な量がちゃんと届いていないと、どうしてもどこかで不正しているとか、だれかが得をしているとか、そういう話が出るものである。

言論統制下とはいえ、当時の消費者の不満というのもある程度紙面にはあらわれているのではないだろうかと思う。
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2015年02月22日

昭和20年:1945年1月17日昭和天皇に「不安なき」と奏上も・・・

1945年(昭和20年)1月17日の北海道新聞を読む。

まず、この日に掲載できなかった天気図からみていこう。1月16日6時の地上天気図である。

19450116天気図.jpg

当時、気圧は「mmhg」でだいたい1気圧=1013hPa=760mmhgみたいな関係となるのだが、気圧の高い・低いはやはり数字の大小で変わらないので、当日の気圧配置が西高東低の冬型の気圧配置であったことがわかる。輪島付近には小さい低気圧も描かれている。

最高気温は札幌-7.3度、稚内-8.8度、旭川-7.6度、函館-7.5度、網走-6.1度、帯広-6.1度。
最低気温は札幌-19.4度、稚内-11.0度、旭川-17.5度、函館-13.2度、網走-18.5度、帯広-24.9度。
北海道は非常に厳しい寒さである。

では17日の紙面である。
1面のトップ記事は、昭和天皇が16日午前、北海地方、東北地方、関東地方、中部地方の4地方協議会長から各地方の事情について御聴取、種々の御下問をあらせられたことを伝えている。
記事によれば、各会長は約30分にわたり、所管の地方事情を奏上したとあるが、当時の北海地方行政協議会・会長である坂千秋・北海道庁長官による談話。


道樺の責務重大 奮起・聖慮に応え奉らん

坂地方協議会長談話

畏くも天皇陛下に本日拝謁仰せつけられ・・・奏上の光栄に浴し なほ長き御下問を賜りましたことは誠に恐懼 感激に堪へぬ所であります
私は北海地方行政協議会会長として その管制区域たる北海道および樺太は 何れもわが北方防衛の第一線として戦力培養の重要基地であることに鑑み 軍需民需も緊密に相協力し 相扶け その負荷する使命の完遂達成に心力の限りを尽くし御奉公申し上げている旨をまづ奏上し、なほ北海地方は土地広く 海岸線長く、稀なる漁場に恵まれ、また各種の重要地下資源、貴重なる森林資源などあって 四百万道樺民は必死の努力を傾注して これらの迅速的確なる戦力化に一路邁進している旨 奏上致したのであります

・・・

かくして私共は今日 皇国非常の秋に際し ますます北方の重大使命を理解し 軍官民共和一致御奉公の旨を致しをる由を奏上致しましたるところ、畏くも船舶不足の折から 千島その他離島方面の住民が糧食に困るようなことはないかとの有難き御下問を拝し 恐懼して それぞれ予め適当の措置を講じ手配を致しておりますため不安なき旨 奉答申し上げたところ 重ねていろいろの農産物などを輸送の関係から腐らすやうなことはないかとの御下問を賜はり、誠に恐懼して 各方面の輸送関係など暫次逼迫せる今日 全くそのことなしとは申し上げかねまするが 関係方面 極力そのことなきを期して努力中であり、なほ将来ともに尽力いたします旨を奉答申し上げました、

聖慮のほど只々恐懼感激の極みでありまして 時局並びに地方民のことを深く御懸念あらせらるる有様を御召のほどを拝し 道樺民はいよいよ堅忍報告の真義に徹し 宏大・・なる・・に報い奉らんことを深く期するものであります



前日の記事では野菜配給に関して消費者団体からの突き上げもみられた現状ではあるが、天皇陛下には糧食不安なしとの回答を坂長官がしている。
昭和天皇も、この頃の船舶不足により日本全体へ物資、特に食糧が行き届きにくい現状を認識していたのか、北海道・樺太の食糧事情を質・量ともに心配している様子が見受けられる。

戦況としては、ビルマ方面のアキヤブ付近から「皇軍自主的撤収」が完了したことを伝えている。
また、ルソン島ではサンファビアン東方の平原での日本軍と米軍が激しい戦闘となっていることを伝えている。

続いて感状・特進に関する記事。
1944年(昭和19年)10月15日、レイテ島沖の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し、戦死した有馬正文海軍少将に対し、17日午前0時をもって特別進級と叙 功一級、授金鶏勲章、叙 勲二等授旭日重光章が授与されたことが大きく伝えられている。

また、1944年(昭和19年)10月21日から11月5日に至る間に、第一神風特別攻撃隊・隊員としてフィリピン方面で戦死した、久納海軍少佐以下36名の「神鷲」にも恩賞が授与された旨、全員の名前を挙げて記載されている。

では二面をみていこう。

札幌の徴兵検査に関する記事である。


札幌の徴兵検査

札幌市の二十年度徴兵検査は二月一日から十二日まで市役所議場において執行するが 今回は例年二十日間にわたって実施したものを特に短期間で終了するため 受検者は検査通達票裏面で記載した受験心得を熟読して 遅漏なきを期せねばならない

とくに前年の例によると検査日時を間違へる者があるが 指期日時および市役所交付の受検者心得などは家族も承知しておく必要がある


徴兵検査の日程も短くなっているが、学業の時期もどんどん短くなっている


理科系学徒の仕上教育 七月以降三個月間に実施

軍需生産の学徒勤労に依存する事ますます強きを加へているが 理科系学徒を職場に釘づけにすることは 科学技術者の後続を断つこととなるので 政府は新年度の学徒動員方針を決定するに当たって 差当り現在出動中の理科系学徒の節校教育を実現することとなり 今後の戦局および生産事情に特別の情勢のあらぬ限り 次の方針によって実施する旨 十六日文部、厚生、軍需三省通牒を関係方面へ発した



この通牒では、現在出動中の学徒は現在の動員先から移動しないことを原則として、理科系の大学と専門学校の最高学年の学徒は7月から9月末の3か月間、卒業直前に仕上げ教育を行うという予定としている。
また、あわせて昭和19年10月に大学二年生となった理科系の大学生も1月中に動員されることに決まり、昭和20年3月に中学を卒業して高校等へ進学する予定の学生も、そのまま現在の動員先で頑張り通すことなどが決められた。

投書欄「伝声管」には札幌市電の混雑緩和策が。


市電緩和の一策

◇電車の車両の故障、乗務員の不足は敢て札幌市のみのことではない。創意工夫により電車の混雑を緩和するやうせねばならぬ。
◇市民も感謝をもって敏速に乗車すべきであり、乗務員に世話を焼かせず、乗車したら広くなり一人でも多く乗れるやう共に乗車道徳を徹底すべきである
◇が混雑緩和の一策として駅前−豊平および一中前間として各折り返し運転とすること、北十八条行きおよび西二十丁目意気は停車場前を起点とする、三台くらいで折り返し運転すれば運行も円滑となり 勢い混雑が防止されるのではあるまいか・・・
(札幌・一市民)


その後、市電の乗務員不足を解消するために、札幌では女子高生の学徒動員が行われるのだが、それはまた後日。

労働者不足はかなり深刻であり、こんな記事も。


母も生産戦列に起たう 延べ三百万の乳幼児の世話に待機

比島前線の血闘に応える途はただ一つ、銃後一億の戦力を航空戦力の急速なる増産に・・するの外はない
いま、老いも若きも、男も女も一途に焔と燃えて 醜敵殲滅に邁進しなければならぬ秋、幼な児をもつ母たちがこの戦列に加わることに拍車をかけ、推進する施設の補充が断行されようとしている

すなわち保育所の増設がこれであって、農村といはず、工場、鉄鉱山を問はず『母よ戦列へ!』の態勢が強化されることとなった



働く女性を増やすための保育所の増設・拡充の取り組みに関しての記事である。
目的は現代とは大きく異なるが、働く若い女性を増やすという視点では似たようなものか。

足りないのは労働力だけではない。
野菜不足である。


野菜 何故幌都に姿を見せぬか

例年冬季間における”蔬菜”獲得に努力し来った札幌市当局は 今年こそと市民の期待に報いるべくつとめながらも 今冬も遂に二十三万市民に”野菜難”をかこたしめるに至った

昨年来 一人当たり一日七十匁の配給を言明したにも拘わらず 幾何もなく一人当たり五十匁に減量し 道民割り当ての七十万貫を夫々近郊農村たる篠路(五万)札幌(五万)琴似(四十万)白石(十万)石狩(一万)当別(五千)札幌市(八万)手稲(五千)等より獲得すべく活躍をなし来ったが 入荷数量は意の如くならず 市民に配給された野菜は秋大根を除いて現在まで僅かに玉ねぎ一人当たり五百匁と冷凍南瓜一人当たり四十匁に過ぎなかった



野菜不足の原因としては。記事では「荷受機構の不熱心」を挙げている。
また、近郊農村から獲得すべく割り当てられた70万貫の野菜がどこに消えたかについては、農村が「供米」に労力を集中させた結果、そもそも蔬菜生産がおぼつかなく、生産量がわずかだったことがあるとしている。

ただ、市民が近郊農村に出かけて野菜の買い出しに行っている現状(いわゆるヤミ売買などだろうが)からみれば生産地に現物があるのだから、市や道、荷受機関の協力によってもう少し改善できるのでは?という話となっていた。

北海道・しかも札幌でもこうなのだから、野菜の獲れない道北・道東はもとより、千島や樺太はもっと厳しい状況だったのではないだろうか。
陛下に奏上したような中身としてはかけ離れた、「食の不安」そして「不満」を感じながら、厳しい真冬の日々を耐えねばならなかったのが現実なのであった。

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2015年03月02日

昭和20年:1945年1月18日ウソの電報で娘を呼び戻すな!

1945年(昭和20年)1月18日の北海道新聞を読む。

今回も、この日の紙面に掲載できなかった前日の天気図からみていく。1月17日6時の地上天気図である。

19450117天気図.jpg

日本付近は西高東低の冬型の気圧配置となっているが、日本海中部から北海道付近は弱い気圧の谷になっている。札幌の最高気温は-5.4度、最低気温は-17.3度で、どちらも前日よりは2度ほど高くなった。とはいえ、今の時代ではありえない酷寒ではある。

旭川の降水量は0.4ミリ、札幌も1ミリと、雪の量は少ない。道東方面は降水は無く、帯広は最低気温が-27.0度と1月中旬の最低を記録した。一方、函館の降水量は6.3ミリだから7〜8センチ、もしくは10センチくらいは雪が降っただろうか。

さて、この寒さの中、見えない脅威が北から迫っていた

二面より。

悪性感冒に注意

大正七、八年 世界的に流行した悪性流行性感冒は 我国でも罹患者二千万人を数え いまなほ世人の記憶には この感冒に対する恐怖感がまざまざと残ってをり 昨年は敵米英に跋扈、彼等の心底を寒からしめたのである

日本国土には侵入せずに終わったが、今年はシベリア、満州方面から侵入の危険性もあり この感冒の性質上 一年目よりは二年目が悪性に流行し また艦船当初は区別が非常に困難で 二、三人の犠牲者が出るまで判定がつきかねるし 寒地本道には危機が多分にあるので 道庁では二月からの流感期に備えへて 鉄壁の防疫対策を樹立、補給決戦に備ふ道民を病魔から守ることとなった



この頃は「インフルエンザ」という名前ではなく「悪性流行性感冒」となっている。
身体に堪える寒さ続きの上、野菜不足、栄養不足だから風邪の菌が入り込めばひとたまりもない。ましてインフルエンザなど命に関わってくる。
既に学校は始まっており、「鉄壁の防疫対策」が早速試されることとなるのであった。

次の話題は過酷を極める供出について。


出たぞ一貫九百匁の茶釜 あと一週間・最後の頑張りに期待

新春初の奉戴日を期して一斉に火蓋を切った銀の回収は 初日から続々と赤誠がもたらされ 三越二階買上所には連日供出者が列をなすといふ 赤誠ぶりを示し 買上げ実施以来八日間の戦果は 六三八名三三四六件に達している

供出の主なるものは 花瓶、カップ、盃、キセルなど細々しいものが多く 第一次、二次、三次と三回にわたっての回収でさすがに残り少なくなっていることを物語っているが、未だ上層階級には隠匿品やしまい忘れがある見込みで これには投書、勧告状などをもって 別途回収の方法も講じている

特殊なものとしては三澤市長の御下賜の煙草盆等十点をはじめ 一貫九百匁もある大茶釜などが目立っている。

このほか隣組で取り纏め回収する分はまだ成果が上がっていないが これも近く公区及び日婦役員の協力によって供出を促すことになっており 市では残されたこの最後の一週間に大きな期待をかけている

なお今回の回収に銀貨が殆んど姿を見せていないが 供出洩れのないやう望んでいる



大詔奉戴日は1月8日。これを期して始まったアルミと銀の回収のうち、銀についての回収状況の記事であった。アルミのほうは、鍋も蓋は木で代用して供出する、タンスの引手や帽子掛けまでも根こそぎ供出ということになったが、それでも期待したほどの量が集まらず、銀も含めて、血眼になって探し回るといった情勢であった。

続いては子供がかわいいという話なのだが・・・


娘に恥よ 盲愛の親

関東地方の軍需工場にある本道出身挺身隊員たちの空襲下なほ毅然たる態度と生産意欲とは尊敬の的になっているが、その親たちの中には空襲下の娘の身を案ずるあまり、偽りの電報で帰郷を促し、却ってその・気さを裏切り 必勝への生産を阻害している者がある
多くの息子を戦線に捧げて清々しい日本の母たちに比べるとき 娘一体の安逸のみをねがふ これらの親たちは正に戦線から脱走を勧める米奴にもひとしい

道庁では今後市町村または動員側からの公電のないかぎり帰郷は認めないこととする一方、動員隊に命じ帰郷隊員一人一人について実情を調査 悪質のものに対しては断固たる措置をとることとなった

・・・

本道出身の女子挺身隊員はその働きぶりにおいて他府県の範とするに足るとの感想をいただいてをり 空襲下にあっても臆せず恐れず、ぎりぎりまで職場を守り 敵機が近づいてやうやく退避するといふまことに頼もしい姿でした
防空施設も完備していて被害も全然なく、これなら何も案ずることはないと安心したのですが 空襲の実際を知らぬ親たちには困ったものです
電報が来ても『わたしはここを死に場所ときめて働きに来たのですから・・・』とけなげに踏みとどまっている女性も少なくはない
いま一億は挙げて戦っているのです、娘の身を案ずるのは親の至情ではありますが 一家の安泰のみを願って国家の危機をよそにすることは 日本人としてこの上なく恥づべきことです
戦線に一人息子を送っている親の心になって 娘さんの願いのままに働かせることが取りもなおさず比島の戦線に自らも参加する事であると深く深く考えて頂きたい

また「空襲の状況はどうか、被害はどうか』と訊ねてよこすものもいますが、これも防衛上、厳につつしんでいただきたいことです



一面では通信費の値上げについて記載されている。
郵便料金と切手の種類を整理し、封書は十銭、葉書は五銭などと決められ、4月1日から実施となった。
また鉄道運賃も4月から旅客運賃が引き上げとなることも発表された。特に一等車、二等車の旅客への運賃引き上げ率が大きかったとのことである。

一面トップはフィリピン・ルソン島リンガエン湾岸で、いよいよ日米両軍の主力が激突する見込みという記事である。

二面トップは16日の天皇陛下の御言葉にあった離島の食糧輸送は大丈夫かどうか、そのあたりを千島方面へ向かう船の実情をレポートしている記事となっている。
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2015年03月07日

昭和20年:1945年1月19日雪と氷の防空壕を造ろう!

1945年(昭和20年)1月19日の北海道新聞を読む。

まず、この日の紙面に掲載できなかった前日の天気図からみていく。1月18日6時の地上天気図である。
19450118天気図.jpg

この日も冬型の気圧配置にはあまり変化はない。オホーツク海南部に東西にのびる気圧の谷があり、道北方面で等圧線の傾きが大きくなっている。
稚内の最高気温は-2.9度で、前日(-9.1度)より6度以上も高くなって寒さは緩んだ。一方、函館の最高気温は−5.8度までしか上がらず、札幌も-5.4度と南西部では厳しい寒さが続いた。釧路や根室の日照時間は8時間を超えたが、網走は4時間弱で降水もあり、どうやらこの気圧の谷が影響したようだ。

札幌は最大風速が3.3m/s(西)で、平均風速も1.1m/s。平均雲量は1で、日照も7時間あり、厳しい寒さではあったが、かなり穏やかな一日だった。

では、1月19日の紙面をみていくことにしよう

ルソン島はリンガエン湾での戦闘の模様が、松崎・佐藤報道班員からレポートされている。


【リンガエン前線 松崎報道班員18日発】
=略=

敵上陸以来三日間でリンガエン湾戦線は 北はサントトーマス、南はリンガエンに至る約五十キロの海岸線に拡大されたが敵がその侵攻過程、戦力の大半を注ぎ込んでこの決戦を挑んできたにもかかわらず 敵の進出は極めて遅くビド河渡河を巡り 同方面に戦車の主力を集中しながら ビンデイ同地○○のわが前線陣地に・止られ 十日夜以来大なる戦況の発表も示していない

これは連日必死必中の猛撃を加へる わが特攻隊員の奮戦と 全員斬込隊を志願して敵陣に進入する地上部隊将兵の烈々たる闘魂によるもので 殊に特攻隊の奮戦は目覚ましく 六日未明以来来る日も来る日もリンガエン湾上空を包む盲撃な敵対空砲火の弾幕の中を突っ込んでいく必死必中の体当りは 昨日三隻、今日は四隻と敵艦船を次々に海底に葬り去り これを仰ぎ見る地上部隊はいよいよ敵撃滅の闘魂を高めている

これに呼応して 夜間斬込隊も陣地前にマイクロフォンを設けたり 菱形の有刺鉄片をばら捲いたり 軍用犬を放ち照明弾を打ち上げたりして厳戒をつとめる敵に愛刀を振り回して縦横に切りまくり大戦果をあげtげいるなど その勇猛は今次比島決戦の華といふべく敵をリンガエン湾水際に釘づけにして完膚なきまでに叩きのめさんとする豪放無比な山下将軍の・・を目の当たりに見るとき ますます必勝の新年が油然と沸き立つのだ



このほかにも「夜間斬込隊」を敵が恐れて、軍用犬を配置したり、釘を打ち付けた木材を多数散乱させたり、夜は戦車も退避させて見張りをつけている、といったレポートもなされている。

次は増税法案が衆議院に提出されたという記事。
18日に衆議院に提出された増税法案の中身が大蔵省より発表された、
「国民税負担の現状と税務行政の現況を考慮し 簡素かつ重点的に」考えられていたこの法案は、所得税や法人税、特別法人税、通行税、酒税、入場税の6つの税目にわたり税率の引き上げが行われ、国民貯蓄組合法など11の税制改正が行われるという中身である。
紙面ではそれらの増税細目について詳細に小さい活字で報じている。

これらの税制で、平年では18億500万円、初年度は19億2300万円の増収が見込まれるとされた。

2面では「有難いお菓子」という活字が目を引く。
全国各地の疎開児童に、18日、特にヨイコにはお菓子が配られ、さらに勉学につとめるようにしたという短いニュースである。この頃のお菓子は宝物のように扱われたであろう。

連載の「耐乏が生む戦力」はアルミが題材。
飛行機一機に必要なアルミは、一銭アルミ貨で計算すると1053万8000枚にものぼる、などと解説されている。

飛行機の大増産は急を要するため・・・

・・・わが戦友の鍋、釜はじめ弁当箱、コップ類など家庭から、研究室からB29に体当りすべく堂々の出陣を開始したのだ、なにしろボーキサイトからアルミをとり飛行機を造るよりも 回収アルミの方が時間と費用が約六割節約できる・・・


しかし回収はうまくいかない現状もあるようで、


・・・(台所にいる)われらの仲間を無理解にもしばりつけて出陣させぬ者が以外に多い
隣組がうるさいから今度はこれだけ、あとは次の回収に備へておきませうとか、若奥さんがなかなかしっかりものでシャープペンシルの細かい物まで探し出し 台所用品も三つあったアルマイト鍋のうち他にセト引鍋もあるから一つでなんとかやれますからと二つまで出そうとしたのにお姑さんと旦那さんが反対で出さずじまいになった、これなどはまだいいとして 未だに全然回収通達のない隣組もある、こういう不熱心なのは知識階級に多い、なんたることぞ・・・


などと嘆いている。
しかし「知識階級が出さない」と新聞に書かれるとは、たまったものではないだろう。
官職にあるものなどはちゃんと供出をやっていても「まだ隠している」とみられたりしたのかもしれない。

続いてはコラム「望楼」からお金の話。


=望楼=
▽最近十銭、五銭の少額紙幣が姿を現はして来たが 何しろ額面があまりに小さいので 新しいうちはともかく、少し汚れたり古くなったりしたものは、つい粗末にされて長い間に紛失してしまふものが少なくあるまいと気に病んでいたものもある

▽第一次大戦直後の景気時代の話だが、根室町に小銭が・・したところ 当局の特別許可のもとに現安田銀行根室支店の前身根室銀行から十銭、二十銭、五十銭、一円の金券を発行し 根室町に限って一年間流通させたが 期間満了後その金券の回収されずにお流れとなったもの四千円に達し、結局銀行の懐中をこやしたわけ

▽その当時の根室町だから 流通した小銭金券はおそらく二、三万円程度のものだらうが、それが一年間に四千円もフイになったのだからともかく小銭は粗末にするものと見える
今度の少額紙幣はおたがいに大切にしよう


この記事で言っている「少額紙幣」は、昭和19年に発行されて流通した「八紘一宇塔10銭」と呼ばれる10銭紙幣や、「楠公像5銭」と呼ばれる5銭紙幣のことである。
楠公5銭は、さっと検索すると現在400円位の価値になっているようである。

続いて、戦時中には珍しい「事故」のニュース。


電車が正面衝突

十八日午前七時半頃 札幌市電西線西六線停車場の・・・に入った一〇二号電車(運転手・・・)が一中方面から進行して来た一〇四号電車(運転手佐々木・・)に気づかず発車して正面衝突、いづれも運転席を大破、一〇二号車の乗客札幌市南六西十七本間紀一さん(五八)は東部に軽い擦過傷、両電運転手は顔面に全治一ヶ月程度の傷を負った



この程度の事故で記事になるのに、全道各地でいろんな死亡事故・重大事故が起きていようものだが、それはほとんど記事で見かけない。やはり士気とかに影響するのか、戦争遂行や生活に密着する記事のほうが優先されるような当時の編集方針なのだろう。そういう意味では「悪い・怖いニュースのない新聞」というのは、ちょっと新鮮?

では、怖い怖い空襲に対する備えについての記事を。

雪で見えぬ退避壕 これでよいかと市民に警告

中京、関東地方に敵の醜翼が頻繁し 国内戦場と化した今日 わが北方にも何時いかなる時にB29が頭上に襲来するやも計り難い、しかるに札幌市民の防衛体制は再三再四の警告や厳戒にもかからわず 未だしの観がある

特に冬期防衛に対しては全く無関心に等しく 防空施設は積雪の下にうづもれ 遮光の点においても非常に不徹底な現状にあり 市防衛課では非常の場合を憂慮して防空は国土を護るはもとよりであるがまづ”自己の生命財産を護る”ための防衛心に徹することを要望している

【施設】
自己の生命を護る防空壕や退避壕はどうか、自己の財産を護る水槽や遮光は完全になされているか−全体的に見て全然不良である、防空壕、退避壕はともに積雪の下にうづもれて非常の際に役立つべくもない状態である
早急に防空壕は入り口の雪を除去し 退避壕は無蓋のものは中に積もっている雪を取り除け 有蓋のものは入り口を常に開けておくべきである

【水需】
不断の準備はいかに凍結期でも水の確保を図るべきである、水槽の凍結防止に当たっては当局の指示に基づき 一段の創意と工夫を凝らすべきである

【燈火】
午後十時以降は警戒管制程度に遮光すべきであるに拘わらず殆んど実行されていない、なほ午後十時以前といへども就寝時には必ず遮光し 午後十時以後は就寝前といえども遮光することは従前通りである

【服装】
一部市民の中で買出しの際は巻脚絆に鉄甲を背負って物々しく出かけるが 巻脚絆や鉄甲は買出しの具ではない
男子の平ズボン、女子の長コート等服装の点においても防衛心は弛緩している

【除雪】
大体において徹底され良好である
更に十字路の曲がり角は直角に除雪されているが 自動車が走る際 直角に切れていると行動が鈍るので 曲がり角は角を取り除き 自動車が自由に曲がれるやうに早速励行してほしい


この当時の除雪は、曲がり角も「直角」に除雪するというものだったんですねえ。
今は機械除雪だから、車が通る道すがら、曲線で除雪されていくのは当たり前で、「角」の立った除雪は排雪時にしかお目にかかれない。この当時の除雪の写真とか、どのくらいきれいに直角除雪されていたのか、見てみたいものである。

さて、この記事で「雪にうづもれる」という不備の指摘されている防空壕であるが、その防空壕を「雪で」作ろうと呼びかけるトンデモ記事が掲載されている。


造らう雪と氷の防空壕 B29が来ても平気

冬季北方に空襲はないなどとは飛んでもない考え方だ
戦争の現実を直視し給へ 北にも空襲は必ずあるのだから 天与の防空資材たる雪と氷を利用して待つあるを待め、と年末噛んでふくめるやうに新聞に出ていた北部軍当局要請の『雪氷の防空的利用』を教科書にししてここ(札幌消防署第一小隊本部−豊平)の人たちが造ってくれたものだ

あの新聞記事が出てから我輩はじりじりして早く造ってくれるのを待った
まごまごしている中にメリケン野郎がやって来るかも知れんと思ったからだ、皆んな我輩を造るのにずいぶん大変がっているやうだが、ここの人たちは積み上げるのに二時間、中を掘りぬくのに三時間、それこそアットいふ間に造ってくれた

自慢する訳でないが外観も堂々として内部も十人位は楽に入れる広さだ
保温も申し分なし 総て軍の教科書通りだから愉快である
我輩がこうして頑張っている限り たとへアリューシャンからB29がやって来たとて むざむざ奴らの毒牙にかかることはないから大いに頼りにしてくれてよい

ただ腹が立つのは我輩の兄弟がもっと活発にどんどん生まれなければならんのに

情勢はいよいよ重大になって来た、ノホホンと構えていられるときかといひたいよ
隣組など休日を利用して二つ三つ造るのにわけはあるまい
念のため 我輩の身長、胸囲、其の他の参考数字は次の通りだ
頼むから我輩の兄弟が皆頭見渡す限り林立しているってな具合にやってくれ


ということで、寸法は、入り口の高さ90センチ、内部洞の高さ1.5メートル、壕外部の高さ2.25〜2.5メートル、壁の厚さ0.75〜1メートル、入り口前防御壁の高さ1.2メートル、厚さ75センチというのがその「身長・胸囲」というものである。

これはいってみれば「大きなかまくら」であり、こんなかまくらなぞ、上空数千メートルから降って来る爆弾の直撃に耐えられるわけがない。
空襲への想定の甘さに、顎が落ちる思いである。。。そりゃ札幌市民も造らないだろうに。
posted by 0engosaku0 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 1945年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月08日

昭和20年:1945年1月20日吹雪の中の敵潜哨戒

1945年(昭和20年)1月20日の北海道新聞を読む。

まず、この日の紙面に掲載されなかった前日の天気図からみていく。1月19日6時の地上天気図である。

19450119天気図.jpg

留萌の西海上に低気圧があり、北海道には西から気圧の谷が近づいてきている。
気圧の谷の前面で、北海道は一瞬冬型が緩んで穏やかになったためか、札幌の最低気温は-17.0度を記録し、厳しい冷え込みとなった。
降水量は札幌は0.8ミリと、雪にして1〜2センチと少なかったが、日本海側では留萌で7ミリ、小樽で8.1ミリ、倶知安も7.1ミリ、江差7.9ミリと、10〜15センチはまとまって降ったようである。一方で帯広は8.5時間、網走は7.5時間、釧路も6時間以上日照があるなど、道東方面は晴れ間が広がった。気圧の谷の影響は小さかったようである。

では記事をみていくことにする。
一面では米軍の「精密爆撃」部隊の襲来について伝えている。


昨日敵機約八十機 阪神地方に来襲す

【大本営発表】(昭和二十年一月十九日十七時四十分)
本一月十九日午後 マリアナ諸島よりB29 約八十機 主として阪神地方に来襲せり
遊撃結果に関しては目下調査中にして 我方地上にて若干の被害あり

比島への補給源破壊を狙う
最近マリアナ基地のB29は頻々として大阪、神戸を中心とする関西地区を偵察していたが 十九日午後一時四十分頃 B29約八十機は紀伊半島方面から七機団に分かれて阪神地区に侵入し 爆弾焼夷弾を混用投下し 同二時三十分頃 南方海上に退去した。

阪神地区に対して敵が有力部隊をもって来襲したことは今回が初めてで 敵攻撃機団はルソン島を中心とする太平洋戦局の進化に伴ひ わが補給源泉の破壊 就中わが航空機生産の低下を狙ったものであることは明らかであるが わが航空部隊と地上防空隊の敢闘によって被害は最小限度に食ひ止められた

わが制空部隊による遊撃戦果は目下調査中である
また、この間 敵はそれぞれの数機をもって名古屋・静岡県下、関東地方に・・的来襲を試み 濱松附近に投弾したが 被害は僅少であった。


1月19日の空襲は、明石市が攻撃目標であった。川崎航空機明石工場とその周辺地域にB29による爆撃が行われ、攻撃は30分程度と短かったようだが、300人以上の死者、600戸以上の家屋焼失を招いた。
また浜松市でも2機による空襲で4人の死者を出している。

このうち、明石市の空襲については、一般戦災ホームページで、煙のあがる川崎航空機明石工場の写真をみることができる。

本格的な本土空襲の始まりを受け、日本政府は完全防空壕の増設や、堅牢建物の利用統制など、「五大決戦施策」の第一項の防空体制の緊急強化に19日乗り出している。これも一面で詳しく報じられている。


【情報局発表】空襲対策緊急強化要綱

現下の情勢に鑑み 政府は防空敢闘精神を愈よ提起せしむるとともに 去る一月十二日決定せる防空施策の一環として空襲対策の緊急強化をはかるため本日閣議において左の如き決定した

第一 都市疎開の強化
(一)人員疎開の強化促進 ・・・略
(二)衣料などの分散疎開保全の強化 ・・・略
(三)建物の疎開の追加実施 ・・・略

第二 戦時緊要人員の残留確保
 帝都その他重要都市に残留を要する戦時緊要人員は その範囲を明定し、これが地方転出防止に際し強力なる措置を講ずるとともに昼夜死守の敢闘精神を昂揚せしむ

第三 堅牢建築物の利用統制
 帝都その他重要都市にある堅牢建築物(地下施設を含む)にして一定規格以上のものの利用を統制し 戦争遂行上重要なる用途に限り これを使用せしむることとし 然らざる利用者に対しては強力なる干渉により または所要に応じ防空法または国家総動員法を発動してこれが利用を縛る

第四 防空消防力の強化
・・・略

第五 防空土木施設の追加整備
・・・略

第六 罹災者対策の強化
(一)罹災者および収容計画の強化
罹災者の収容に充つるため 重要都府県をして空家其の他の民家を予め借り上げ確保せしめ 被災地に残留を要するものにつき遊休建物の利用、合宿施設の整備などの措置を講ず
(二)罹災者に対する保護の強化
戦時災害保護法による保護費の限度を引き上げるとともに保護の迅速化をはかり各種法外援護施策を実施す
(三)略



いろいろと項目があるが、罹災者(空襲被害者)のことも考えられていることが、ちょっと意外だった。
重要都市の家屋の借り上げなどと書かれているが、結局将来には「無差別爆撃」が待っており、すべてが焼き払われる運命にあることが切ない。

このほか、政府は「戦時物価審議会」の創設をすることになり、これも19日の閣議で決定、情報局より発表した。

二面に行くと、トップはフィリピンでの戦闘に関する勇壮な記事である。
マニラに滞在中の陸軍報道班員からは、マニラの日本軍は「一兵余さず殲滅する」と士気を高くして激突の日を待っていると記されている。

またルソン前線基地の報道班員からは、日本軍の挺身斬込隊が壮絶な戦果をあげているということを報告している。

一方、北海道新聞の報道班員は、北の戦地にいた。


北方戦線翼の敢闘戦記

【北東方面前線基地報道班員(本社特派員)発】

いま北方最前線にあるわが航空部隊は 熾烈なる吹雪と闘ひつつ執拗に来襲する敵機を迎撃するとともに 怒涛吠える北方洋上に出撃して 補給路を攪乱せんと跋梁する敵潜水艦の掃討に、哨戒に、船団護衛に阿修羅の如く活躍を続け その苦闘は言語に絶する

北方の守りは燦然たりといふその裏面にかうした鋼の敢闘あることを見逃してはならぬ、それは荒天吹雪に明け暮れる北方空の血戦でもある、記者はその苦闘を物ともせず、ただひたむきに敵撃滅の闘魂に燃えて出撃する荒鷲たちと居をともにし 搭乗もして具さにその辛酸を味はった

以下は銃後に贈る北方戦線翼の越冬戦記である

整備員
暮れるに早い北方最前線のこの基地は けふも朝から吹雪が続いていた、すでに飛行場は整備科の除雪隊が除雪車をくりだして空高く物凄い雪煙を噴き上げ壮観そのものである
格納庫では〇〇名の整備員がエンジンを暖めていた、機械を点検するもの防寒装備の作業に寸気を争う多忙さである、・・までにはすべてを完了せねばならぬのだ
最深の注意を愛機に傾倒している整備員の顔は真剣そのものである

発信のときは整備完了の〇〇機が〇の爆弾を抱いて・を接し滑走路上に待機する
搭乗員を前にして隊長の〇〇中尉は哨戒海面を明示したのち『敵潜発見の場合は直ちに一撃再撃、三撃を加える−よしッかかれ!』とと胸にじっとしみわたるような力強い命令を興へた

〇〇中尉以下搭乗員は颯爽と愛機に飛び乗った
風速〇〇米の中にエンジンは轟音を立てる、調子は素晴らしくよい、愛機を見つめて立ちならぶ整備員の顔はいかにも満足したやうに微笑む
やがて〇機は雪煙を蹴立てて相次いで離陸した

高度〇〇米相当な低空だ、基地上空を一度旋回した後、機首を〇〇方面に向け ぐんぐん飛び立った
発進してから〇時間たったらうか 指揮所の見張り員が〇機の帰投を知らせる、整備員は滑走路上に飛び出した、やがて〇機は基地上空に姿を現した、丁度このとき吹雪はカンシャク持ちのやうに激しさを加へていた
視界は極度に悪い、着陸の機会をつかまうと幾度となく上空を旋回する〇機の轟音がただ吹雪の中からかすかに伝わってくるばかりである

整備員は雪だるまになりながら空を仰ぎ しきりに気を揉んでいる
〇分間かうした努力ののち 吹雪の切れ間があった この瞬間を何で逃さう
〇機は相次いで着陸 無事帰投した

指揮所で〇〇中尉から搭乗員たちにけふの哨戒に対する講評が行われていた
悪天候下の飛行を少しも気にかけていぬらしい
北の吹雪を乗り切る荒鷲の勇気はまことに偉大である

敵潜哨戒はこのやうに不断の努力を傾注して殆んど毎日続けられていった


記事はこのほかにも船団護衛の様子や、陸海軍が一体となって守りについている様子などが説明されている。

このような報道班員も、敵からの攻撃に対して標的とならないわけではない。
この記事の後には、北海道新聞東京支社勤務で同盟通信社員である横山栄吉報道班員が、中国・広西省で敵機攻撃により右大腿部骨折の重傷を負ったというニュースが掲載されているのである。

さて、銃後の北海道でも「雪との戦い」が繰り広げられている。


雪壁に挑む切羽魂

飛行機の兵器、弾薬生産の原動力として一日もゆるがせに出来ない北海道の冬の採炭
各炭鉱は一面雪との闘争でもある、年毎 冬の炭鉱がどれだけ雪に苦しみ、石炭を運ぶ雪路がいかに吹雪に悩まされて来たか、過去をふり返るまでもなく 今冬もまた日毎白魔との闘争に明け暮れている

中でも美唄町を中心とする附近の炭鉱と鉄道の雪との闘いは激烈を極めているが”この雪に勝つことこそ戦争に勝つことだ”との固い信念をもって雪壁に挑む三菱美唄鉱業所〇〇鉱を中心とする選炭鉄路の敢闘をみよう

雪のため家を埋められ道路をふさがれても驚かぬ 三菱美唄鉱業所〇〇鉱の鉱兵達も輸車路の全滅は深刻な事態であった
外界がいかに吹雪、大雪であらうとも石炭は掘れる、だが輸車路が埋まっては掘った石炭の輸送が不可能だ
一日も早く一哩でも多くと案ずる鉱兵を驚愕させたこの朝(十二月二十七日)の積雪は一米を超えた

その以前から降り積もった雪を加へると〇米に達した 輸車路も雪の中に没した

しかも鉱山には幾度かの試練に鍛へられた屈強な・・があった
後藤所長の命一下、全山をあげて石炭ならぬ雪との果敢な戦争を開始 全従業員は勿論、所長婦人から鉱宅の主婦らも出動できるものは全部出た、国民学校も初等科三年以上はすべて動員された、事務所の職員も各科一人か二人留守番を残して全部出動、白魔との闘いに飛び込んでいった

”一時間でも早く輸車路を 少しでも早く石炭を掘らねばならない”
切羽に挑む闘魂をそのまま雪壁にみせ 手練のスコップをふるって氷を破り雪をはねた

この全員の超人的努力に奇蹟を生み 一日半定時間十八時間で全輸車路は機能を取り戻し その日直ちに二番方は坑内へ採炭に向かった
しかし鉱山の雪との闘いはこれで終わったのではない
輸車路の復旧でホッと一息つく間もなく 今度は線路の除雪へ新たな戦ひを挑まねばならなかった

これが暮れも正月も返上して頑張りぬいた雪との敢闘記録なので
雪による被害はほかにもあった、石炭の輸送はとかく停滞気味となり貯炭場の雪にも多くの人を割かねばならなかった
しかも輸車路による二日間の減産を取り戻すため 十八日から全山をあげて三日間頑張る大採炭を決行した強い責任感、恐ろしいまでに強靭な闘魂、そして不死身の肉体、これらが完全に大障害を克服しつつあるのだ


こうして運び出す石炭ではあるが、輸送されたきたほうには、氷が混じってなかなか大変だったらしい。
別の記事「札鉄 石炭の輸送に非常措置」によれば、粉炭に混じる氷だらけの微粉炭が輸送しているうつに石炭車もろとも岩のように凍結し、ハンマーヤつるはしで半日も石炭車をなぐりつけるといった困難な作業が行われていたようだ。

この異常な寒さの冬は、石炭輸送には非常に困難があったことをうかがわせるものである。

さて1月20日、日本ニュース第242号が封切りとの宣伝が為されている。
その当日の日本の様子は、また翌日の紙面に譲ろう・・・。
posted by 0engosaku0 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 1945年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする