1912年(大正元年)10月5日土曜日。
この日は、網走に鉄道がやってきた日。

▲1912年10月5日午後2時の天気図
台風が2日に九州に上陸、3日に日本海へ抜けて低気圧に変わり、4日には東北地方を横断して、北海道の南岸を通過していった。
5日は低気圧が千島方面へ進み、網走は低気圧後面の湿った北寄り風の影響で曇り空。
午前10時は13.2℃あった気温も、その後は冷たい雨が降り出して、午後2時には9.5℃に下がり、肌寒い天気だった。
【網走の天気】
最高気温14.7℃ 最低気温8.8℃ 平均湿度91%。曇り昼前から夕方は弱い雨(降水量0.8o)
午前3時。網走の空に花火が上がった。
この日、網走停車場から初めての列車が出ることを伝える合図の花火である。
一番列車は北見(当時は野付牛)行。網走の発車は午前4時40分というから、夜明け前の暗がりの中に一番列車が出て行く。
旅客が乗る二等車と三等車、それに貨物が4台くっついて、いわゆる貨客混合の列車である。
列車はしきりに花火が打ちあがる中、「万歳」の声に見送られて網走を発車していった。
一番列車は午前6時半に美幌に到着。
今なら特急で約25分、普通列車でも30分で走り抜けるこの区間を、当時は汽車でゆっくり一時間だ。
一方、北見からも網走に向けて記念の一番列車が出発。こちらは午前10時半の発車で、紅葉の端野を走り抜けていく。
この模様は当時の新聞記事で味わっていただこう。
▼端野駅の紅葉
五日 雨晴れ 曇り勝なる空ながら 近く連続せる小山の景色 ゑもいはれず 紅葉は百花の妍(けん)を競ふよりもはでやかなり
午前十時半 列車は野付牛を出て 有志停車場に見送り 枝豆とビールを車内に搬入し 来賓網走歓迎委員 野付牛有志等 車内に談話の話を咲かせ 軈(やが)て端野駅に着けば 有志十数名送迎す
列車は暫く停車の後 更に前進 此時用意の枝豆ビールを分配され 野付牛より拉し来れる芸者数名が間に斡旋す
車内は喧々囂々 蜂の巣を突きたるが如し
簡易停車場 緋牛内を過ぎ 美幌駅に至る間 八百二十五フィートの隧道あり
附近の紅葉既に十二分に達して 落葉 将に近からんとす
途中鉄道院より弁当 菓子 茶等 一同に饗せり
(1912年:大正元年10月6日「北海タイムス」より)
車窓からの紅葉を見ながら、枝豆にビール。飲んで食べて、芸者と騒いでと、開通一番列車で観楓会である。
紅葉がピークを迎えていた「825フィート」の隧道というのは、緋牛内トンネルのことだろう。
長さも271mと、フィートをメートルに換算するとぴたりと合う。
▲緋牛内トンネルのある場所。拡大して注意深く見ないと、入り口も出口もわからない
ここは常呂川が流れる北見と、網走川が流れる美幌や網走を分ける「分水嶺」となっている場所だが、標高はわずか80mあまり。
低い峠だが、地理的には大きな意味を持つ場所なのであった。
しかも、土壌は粘土を交えた火山灰とあって、風で飛び、雨で崩落と、工事は難航したとのことだが、なんとか短いトンネルを通し、線路をつなげたのである。
網走行の列車が終点に到着したのは、お昼過ぎの12時40分。
やはり到着と同時に歓迎の花火が打ち上げられ、数百名がホームで一番列車を迎えた。
海の交通に頼っていた網走が、これで鉄路により、両手に刀を得たような形にみえるが、当時の偉い人?がこう言っている。
「網走をして完全なる発達を遂げしめんには如何なる手段を請うぜるべからざるか 築港の完成 是なり」
つまり、鉄道が通ったからといって喜ぶな、網走は港が大事なのだと。言っている。
そして、「海を離れての網走は 遺憾ながら野付牛の利便と釧路の繁栄に如かず」とまで言っている。
果たして、網走の港の整備は遅れ、第一期工事の竣工は1930年(昭和5年)、さらに「開港」は1980年(昭和55年)となった。その間、利便のよい野付牛が北見市と名を変え、オホーツクの経済の中心となっていくのであった。

▲大正初期の網走 (網走港湾事務所 網走港100年パンフレットより)