2020年07月21日

北海道歴天日誌 Part1 網走に鉄道がやってきた(1912年10月5日)

てんきやの風船の日々では、気象ネタと歴史ネタを主に扱いながら徒然なるままに書き連ねてきたが、今回からは両方を融合した読み物をしばらく書いてみようと思う。

1912年(大正元年)10月5日土曜日。
この日は、網走に鉄道がやってきた日。

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▲1912年10月5日午後2時の天気図

台風が2日に九州に上陸、3日に日本海へ抜けて低気圧に変わり、4日には東北地方を横断して、北海道の南岸を通過していった。
5日は低気圧が千島方面へ進み、網走は低気圧後面の湿った北寄り風の影響で曇り空。

午前10時は13.2℃あった気温も、その後は冷たい雨が降り出して、午後2時には9.5℃に下がり、肌寒い天気だった。

【網走の天気】
最高気温14.7℃ 最低気温8.8℃ 平均湿度91%。曇り昼前から夕方は弱い雨(降水量0.8o)


午前3時。網走の空に花火が上がった。
この日、網走停車場から初めての列車が出ることを伝える合図の花火である。

一番列車は北見(当時は野付牛)行。網走の発車は午前4時40分というから、夜明け前の暗がりの中に一番列車が出て行く。
旅客が乗る二等車と三等車、それに貨物が4台くっついて、いわゆる貨客混合の列車である。

列車はしきりに花火が打ちあがる中、「万歳」の声に見送られて網走を発車していった。

一番列車は午前6時半に美幌に到着。
今なら特急で約25分、普通列車でも30分で走り抜けるこの区間を、当時は汽車でゆっくり一時間だ。

一方、北見からも網走に向けて記念の一番列車が出発。こちらは午前10時半の発車で、紅葉の端野を走り抜けていく。
この模様は当時の新聞記事で味わっていただこう。

▼端野駅の紅葉

五日 雨晴れ 曇り勝なる空ながら 近く連続せる小山の景色 ゑもいはれず 紅葉は百花の妍(けん)を競ふよりもはでやかなり

午前十時半 列車は野付牛を出て 有志停車場に見送り 枝豆とビールを車内に搬入し 来賓網走歓迎委員 野付牛有志等 車内に談話の話を咲かせ 軈(やが)て端野駅に着けば 有志十数名送迎す

列車は暫く停車の後 更に前進 此時用意の枝豆ビールを分配され 野付牛より拉し来れる芸者数名が間に斡旋す

車内は喧々囂々 蜂の巣を突きたるが如し
簡易停車場 緋牛内を過ぎ 美幌駅に至る間 八百二十五フィートの隧道あり

附近の紅葉既に十二分に達して 落葉 将に近からんとす
途中鉄道院より弁当 菓子 茶等 一同に饗せり

(1912年:大正元年10月6日「北海タイムス」より)


車窓からの紅葉を見ながら、枝豆にビール。飲んで食べて、芸者と騒いでと、開通一番列車で観楓会である。
紅葉がピークを迎えていた「825フィート」の隧道というのは、緋牛内トンネルのことだろう。
長さも271mと、フィートをメートルに換算するとぴたりと合う。


▲緋牛内トンネルのある場所。拡大して注意深く見ないと、入り口も出口もわからない

ここは常呂川が流れる北見と、網走川が流れる美幌や網走を分ける「分水嶺」となっている場所だが、標高はわずか80mあまり。
低い峠だが、地理的には大きな意味を持つ場所なのであった。
しかも、土壌は粘土を交えた火山灰とあって、風で飛び、雨で崩落と、工事は難航したとのことだが、なんとか短いトンネルを通し、線路をつなげたのである。

網走行の列車が終点に到着したのは、お昼過ぎの12時40分。
やはり到着と同時に歓迎の花火が打ち上げられ、数百名がホームで一番列車を迎えた。

海の交通に頼っていた網走が、これで鉄路により、両手に刀を得たような形にみえるが、当時の偉い人?がこう言っている。

「網走をして完全なる発達を遂げしめんには如何なる手段を請うぜるべからざるか 築港の完成 是なり」

つまり、鉄道が通ったからといって喜ぶな、網走は港が大事なのだと。言っている。
そして、「海を離れての網走は 遺憾ながら野付牛の利便と釧路の繁栄に如かず」とまで言っている。

果たして、網走の港の整備は遅れ、第一期工事の竣工は1930年(昭和5年)、さらに「開港」は1980年(昭和55年)となった。その間、利便のよい野付牛が北見市と名を変え、オホーツクの経済の中心となっていくのであった。

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▲大正初期の網走 (網走港湾事務所 網走港100年パンフレットより)
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2020年07月26日

北海道歴天日誌 Part2 初雪降るなか北大生の宝探し(1912年10月22日)

1912年(大正元年)10月22日。

この日、北海道では、大正になってから初めての雪が各地で舞った。

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▲1912年10月22日午前6時の天気図

前日21日に樺太付近を低気圧が通過し、西高東低の気圧配置となって寒気が入ってきていたところに、22日には日本海に低気圧が現れ、東北地方を通過して行ったことで、日本海側・太平洋側関係なく、広範囲で雪が降った。

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▲観測記録や新聞記事による「初雪」の場所

札幌は午前5時30分から雪が降り出し、函館では少し早い午前2時35分から雪になった。
新聞では、帯広から「明治25年以来、これほど早い初雪はなかった」とか、函館から「昨年より35日も早く、近年稀に見る早い雪」などと、早い雪に驚く電報が届く様子が記されている。江差で一寸、旭川で二寸など、日本海側を中心に、初雪がそのまま積もった所が多かった。

※なお、樺太ではこの年の初雪は10月7日だった。

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▲各地の気象データ

この日、札幌の農科大学(現・北海道大学)では新入生の歓迎会を兼ねた秋季大運動会として、校門から月寒の種畜牧場(今の羊ヶ丘のあたり)まで二時間かけて歩き、牛乳を飲んで、「宝探し」ゲームを行ったとのこと。

この”宝探し”の内容が「なぞ解き」のようになっていて面白い。
当時の新聞の切り抜きを以下にご紹介する。

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▲お宝のヒント (1912年:大正元年10月23日北海タイムスより)

一方、新聞にはこのような話も。

●あれも人の子 樽拾ひ

昨日午後十時頃 札幌区南四条西五丁目 共同便所の側雪の中に佇める女の子あるを 来札中の武川村市街地 植木喜作が憐み 現金二十五銭と焼芋十銭を買與へ 芋商 南四条西六丁目 大原茂三郎も同情して 襦袢三枚を與へて着せ その筋へ保護方を願出たるが 山鼻イノ(十六)とのみにて 極めて発育不完全の子供の如く 居所氏名判明せず 目下 親元を捜索中なりと
(1912年:大正元年10月24日北海タイムスより)

初雪と寒さが残る街角に、温かい人情噺であるが・・・。
今回はここまで。
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2020年08月03日

北海道歴天日誌 その3 開業二日で初立往生・・・音威子府(1912年11月7日)

1912年(大正元年)の11月8日。

この日の北海タイムスには、このような記事が出た。

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宗谷線の音威子府駅と咲来駅の間で雪が約70センチも積もり、列車が立ち往生・・・というニュースなのだが、これがこの冬初めてだったということで「立往生初め」と呼んでいる。

初雪とか初氷とか、秋から冬にかけて季節の「初物」はあるけれども、当時は汽車が雪で立往生しはじめるのも「いよいよ本格的な雪の季節だなあ」なんて一つの風物詩にしていたのか、興味深い。

11月の初旬にもかかわらず、汽車がストップするほどの大雪となった、11月7日の天気図をみてみよう。

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▲1912年(大正元年)11月7日6時の地上天気図

きれいな西高東低の気圧配置となった。
上空には真冬に匹敵する強い寒気が入ったようで、7日の最高気温は函館でも0.4℃にとどまり、札幌は-1.2℃、寿都-1.3℃、旭川-2.6℃など日本海側では真冬日となったところが多くなった。

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函館や札幌、旭川ではまとまった降水を観測する一方、東部の帯広、釧路、網走は降水がほとんどない。典型的な西風タイプの強い冬型のときの降水分布となっている。なお、降水は全部雪になったとすると、函館や札幌は5〜6センチ、旭川も4〜5センチは積もったのでは?と思われるが、音威子府や名寄方面は収束雲が入ったのか、相当の大雪になったようである。

この日、小樽の量徳寺では親鸞650回忌の「大遠忌」があったのだが・・・

・・・菩薩の数は前日より大分減じて約二十名位のものだった 中には幼稚園通ひらしい男の児が装束を着けてから 足が冷たいと泣き出し 両手で眼を擦ったから堪らない

盛装の奥様が顔師の所に連れて来て お世辞たらたら直して貰ふもあった・・・
(1912年:大正元年11月8日北海タイムス「雪降りの大遠忌」より)

ということで、雪や寒さに泣く子が出るほどだったよう・・・。

ところで、「初の立往生」となった音威子府〜咲来間であるが、実はこの路線は11月5日に開通したばかり。

つまり、開業たった二日で雪による交通障害に見舞われたということなのだが、このあたりは道北でも有数の豪雪地帯。
除雪体制も整っていないこの時代にあって、何も冬を目前に無理やり開通させなくてもよかったのではないか?なんて思ってしまった。
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2020年08月04日

北海道歴天日誌 その4 二つの鐘(1912年11月17日)

1912年(大正元年)11月17日。

この日の北海タイムスには、2つの鐘に関する記事が掲載された。

まずひとつめ。

●盛な梵鐘撞初式

札幌区豊平町日蓮宗経王寺境内にて鋳造せる大梵鐘は 先頃竣工したるより 昨十六日午後二時より 盛大なる撞初式(つきぞめしき)挙行したるが、今 其 順序を記さんに

午後二時 寺鐘と共に檀家 総代 世話人 外 檀徒一同 本堂へ着席
軈(やが)て 住職 松井日量師を先頭に寺院僧侶、末寺住職 次に音楽師、稚児二十名昇堂
松井住職の告白文 此間 献香 献供物あり

開経●に移り、稚児祭文より唱題のうちに 一同設けの鐘楼堂仮行堂に練り出したるが、同堂の大梵鐘は白布を以て蔽はれ 周囲は寺紋の幔幕、紅白の幕を引回し 荘厳を極め、行列は世話人 楽師を先きに 仮行堂を七廻りし 夫れより導師松井住職の祭文、稚児の供華ありて 大梵鐘除幕式に移りしが

除幕は南二条東一丁目の堺本千代子といふ当年九十三歳の老婆にて 鐘声 空に響き、次に撞初当日の施主 一番鐘岡田ハナ子、二番中村しん子、三番本間ゆみ子、四番石黒いな子、五番石井つね子、六番金子きせ子、七番関口よし子にて

夫れより発起人田中重兵衛氏、田中イソ子、金子定義氏、稚児一同、功労ある総代 故中村甚右衛門氏遺族・・・現総代田中重太郎氏外四氏、常務幹事、世話人の撞初式あり

唱題についれ一同退席 帰堂したるが、式後 鐘楼堂屋上に飾りある投餅式ありて 全く撤式せしは四時三十分過ぎにて
頗る盛大の式を挙行したり。

札幌の豊平にある「経王寺」の鐘が完成し、檀家や地域の人が集まり、初めての鐘をついたという話。
最後はもちまきで終わって盛況だったということであるが、鐘の音の感想はとくに書かれていない。

この経王寺は、100年以上たった現在も札幌に残る。
何でも、札幌五代寺のひとつとされ、創建は明治8年(1875年)と古い。

記事にある松井住職は明治41年にお寺を引き継ぎ、当時5年目。この鐘だけではなく、寺の墓域を定めたり、説教所を創設するなど活躍し、関東大震災(1923年:大正12年)の後、東京へ移ったとのことである。

鐘の話はもうひとつある。舞台は帯広。

●帯広梵鐘撞初式

帯広町西一条なる大谷派本願寺支院 梵鐘は 本年夏 永野 若園 水藤 其他の有志発起となり 信徒の多大なる寄捨を得て鋳造せしは 当時詳報せしが 其の後 鐘撞堂の新築 其の他の用意全く成り 十四日 撞初式挙行

朝来好晴なりしかば 近郷より善男善女 詰掛け 本堂はいふに及ばず 寺院の周囲 人山を築き 其 雑踏 いはん方なく

先づ午後二時過 僧侶の読経と共に鐘を包み置きたる白布を撤したり

当日一百円の寄捨をなし第一に撞きたるは 上帯広村 棚瀬ナカ
二番鐘 帯広町 林ヨシ
三番鐘 同 大槌トク

右撞き終りて 婦人会信徒順次之を撞き終るや 予て設けの場所に積み置きし餅を撒き 全く式を終へたり

こちらは真宗大谷派帯広別院で行われた、梵鐘の撞初式の様子。
明治31年(1898年)創設ということで、こちらも歴史は長い。場所は移転したものの現在も帯広にある。

記事の鐘については、帯広別院のホームページに詳しいが、帯広競馬場に施設を作り鋳造したそうで、非常に大がかり。出来上がった梵鐘は大八車につまれ、紅白の引き綱を付けて当時西1条南18丁目にあった寺まで運んだという。

帯広の撞初式も最後はもちまきで終わっているのも面白い。

さて、記事では帯広の撞鐘式は「朝来好晴」としているが、この日の天気図をみてみると・・・

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▲1912:大正元年11月14日午後2時の天気図

低気圧が発達しながら日本海から北海道付近へ進んできており、全道的に天気は下り坂だった。
このような気圧配置の時、十勝は低気圧接近時は風はなく穏やかなことが多いので、「朝来好晴」となったのかもしれない。

帯広では午前6時は雲量は6だったが、午前10時以降は雲量10の本曇り。午後2時以降は湿った雪も降り出してくるという天気だった。
(最高気温4.4℃、最低気温-5.5℃、降水量2.3ミリ)

では、11月16日の札幌はどうだったかといえば、こちらは吹雪だった模様。

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▲1912年:大正元年11月16日6時の天気図

14日に北海道にやってきた低気圧は15日には千島方面へ進み、16日は冬型の気圧配置となっていた。
札幌の最高気温は-1.6℃と真冬日。最低気温は-7.2℃まで下がった。そして雪も午後は降りやすい状態が続いた(降水量は1.2ミリ)。

ということで経王寺の鐘は、雪の降る中、積もる中、豊平の地に鳴り響いた・・・ということになる。

ただ、もちまきだけは、雪を解かすほどの熱気だったであろう。

なお、大正元年11月に撞初式を行ったこの2つの梵鐘だが、ともに同じ運命をたどる。
第二次世界大戦末期に、弾丸や戦車などを作るための金属として、供出させられてしまったのだ。

どちらの寺も、戦後に新しい梵鐘を作り、今に至っているのであった。

本日はここまで



このため、
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2020年08月07日

北海道歴天日誌 その5 11月として異例の寒波とドカ雪の中で(1912年11月29日)

1912年(大正元年)11月28日

この日から翌29日にかけて、札幌は大雪となった。
11月29日の札幌の最深積雪は57センチ。これは令和の今に至るまで、11月史上1位の記録としてそびえ続けている。

29日午前6時の天気図をみてみると・・・

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▲1912年:大正元年11月29日6時の天気図

冬型の気圧配置。等圧線は南北にのび、全般に北寄りの風が吹きやすい形。
ただ、北海道付近をよくみてみると、等圧線の間隔が一本だけ開いていて、真ん中で折れ曲がっている。

北風の吹きやすい冬型の気圧配置となる場合、晴れて冷えた内陸に局地的な高気圧ができることがある。この天気図は、そのような形になっていたことを示すもの。
事実、旭川では29日未明に晴れ間があり、気温も−15℃前後まで下がっていた。

この結果、内陸から吹き出す冷気が日本海沿岸の沖合で季節風とぶつかり、収束雲の帯ができる。
これが、札幌に集中して流れ込んだため、大雪となったのだ。

札幌は28日の夕方から1時間に1〜2センチの割合で雪が降り、夜中に一旦やんだが、午前2時過ぎから9時頃にかけては1時間に3〜5センチの勢いで激しく降り続いた。

28〜29日の二日間で降水量は46.9o。26日までは数日にわたり暖かく、このドカ雪まで札幌の積雪がほとんどなかったことを考えると、実際の降雪量は60〜70センチに達しただろう。実に物凄い大雪であった。

なお、29日の夜から30日にかけては旭川では11月としては異例な冷え込みとなり、最低気温は29日夜に−20.4℃、そして30日朝に−20.8℃を記録した。ちなみに旭川で11月に−20℃まで下がるのは1892年の11月27日〜28日に−25℃まで下がったときと、このときと、2回しかない。

このため、11月としては記録的な寒波が北海道に流れ込んできたことと、北風系の冬型気圧配置だったことの双方が作用して、旭川の記録的低温と札幌の記録的大雪が現れたのであった。

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▲1912年11月29日に生まれた各地の気象記録

札幌や旭川だけではなく、この日は函館や釧路、網走でも最高気温や最低気温の低温記録が出ている。
まさに北海道の11月としてはメモリアルな日である。

この寒さを体験した人々の話題を、新聞紙面から拾っていこう。たとえば・・・

●夜寒と宿無し者

旭川町 十一月二十八日は摂氏の氷点下十七度より十度を昇降し 其の翌二十九日午後十時頃に至り 弥増 温度下降し 実に摂氏の二十度八分を示し 酒凍り 醤油凍り 酢も油も凍り 路行く人の髭に 氷柱垂れ 馬車馬の蹄 又はたてがみは真白く凍り結び 殊に 馬の蹄の氷塊 玉蜀黍の如く毛にブラ下がり サラサラ カラカラと異声を発するも 奇しく二十九日夜は 七時頃より霧といふより寧ろ湯気といふべきガスの濃厚なるが一面に立ち込めたり

このガスが刻々に下降し 寒気のために家々又は並木 塀 柵 等に霜柱や雪の花を結びたり

二十九日夜十一時頃より 一時 二時頃にかけて 旭川警察署に無宿の男女数人 寒くて死ぬるから 一時休まして呉れるとて 入り来り ストーブに一時暖を取るものなど出で 余り気の毒なればとて 当直の警官等は無理にも退去さして 却って凍死させぬとも限らずとて 大目に見て暖らしたところ 一人は二人 三人 五人 十人と来ては 暖らして呉れいと 哀願せり

近く 労働者救済会設立さるるは良計画といふべし
(1912年:大正元年12月3日 北海タイムスより)

あまりにも寒いので、警察のストーブにあたりに来た者がいたが、ちょっと許したらどんどん集まってきたという話である。
霧やガスの話が出て来るが、石狩川などの川面からあがった川霧が街に広まったもの。

旭川の寒さも大変だったが、札幌の雪も大変だった。

●警察の非常招集 大降雪を冒し活動

二十八日午後十時 札幌警察署に於て 突如非常召集令を発したれば 内勤部 外勤部 非番刑事 特務 各駐在の総員五十余名は 何事の出来と 直ちに本署を指して集まりたるが

此のうち 千歳 漁 広島 輪厚 簾舞 白石 茨戸 十軒 手稲 琴似 新琴似 札幌村 月寒 藻岩の十四駐在所へは 態夫 又は電報にて一般署員よりも早く召集令を発したるも 折柄の大降雪なりしため 駐在所員の参集には非常に困難を感じ 殊に 千歳 漁の如きは 本署より七里又は十里の距離あり 其の困難は実に想像の外にて 遅きは午前二時 漸く 本署へ到着したる次第なり

斯の如く参集時間の差あるを以て 本署員は駐在巡査の到着を待たず 十二時より行動を開始したるが 当夜の召集は 主として区内の浮浪漢 密淫売者 賭博其の他 匿れたる犯罪にありて 現行 非現行を問はず 或は 傷害事件 強盗事件 殺人事件が出来するやも知れぬ総ゆる曲者を検挙するものにて

刑事及び特務巡査は 貸座敷 木賃宿方面の捜査に向ひ 外勤巡査は区内各要所に張込み 挙動不審者の如何 取調を為し 午前四時 新たに走来たる駐在所員の新勢力を加へ 一斉に飲食店 蕎麦屋等 各小料理店に臨検し 大々的獲物を得て 午前六時に引揚たるが

検挙の主なるものは 賭博二件人員十人、密買一件一人、料理店飲食店雇人無届使用二十件二十人、同上無届解雇三件三人、同上無届客宿者七件七人、誰何七百六十二人、窃盗未遂一件一人、詐欺未遂一件一人にて 合計事故七百九十八件なりしが

目下夫々取調中なれば 右に就ては追って後報すべし

当夜は密行捜査開始の時 既に積雪尺余に及び 尚 益々 黒白も分ぬまでに降りしきりたれば 密行捜査は言われぬ困難にて 署長初め是等の指揮、監督員も溝に落ちるやら物に衝突するやら まるで雪達磨の如く転び歩く様 其の苦心努力 実に御苦労の至りなりき

斯くて当召集の目的は昨朝六時を以て一先づ引き揚げたるが 前夜来の大降雪にて 区内の道路を埋めたると 且 前夜の密行捜査にて大いに歩行の困難を感じたる大熊署長は 更に小憩の後 署員を集め 午前十時より区内除雪の大励行をなさしめたり

除雪は午後一時全く終り 本署へ引揚げ 小憩の後 午後二時より演舞場に於て 撃剣会を開き 署長の訓話 及び 茶菓の饗応あり
午後六時散会した
(1912年:大正元年11月30日 北海タイムスより)

警察の”夜の街”一斉捜査がドカ雪にぶつかり、捜査には大変困難を来したらしい。
黒も白もわからないほど降りしきったというのが、この雪の降り方のすさまじさを現わしている。

今回はここまで。
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2020年08月13日

北海道歴天日誌 その6 新兵の入営風景(1912年12月1日)

大正にあって令和にないもの。一番は「軍隊」であろう。

1912年(大正元年)12月1日は徴兵検査を通過した若者たちが兵士として入営する日。
当時、北海道の新兵は、札幌の「月寒連隊」と旭川の「第七師団」にそれぞれ入営していった。

今日はまず、記事をみていこう。

●月寒聯隊の新入兵

昨日は月寒聯隊の入営日にて 遠き者は一両日前より区内の各旅館に宿泊し居たる者 午前七時頃より親近者に送られながら 月寒指して急ぎ 又区内の入営兵及び札幌近郊の入営者は全部午前七時半迄に 豊平橋前へ集合の筈なれば

午前七時頃より是等の入営者は何れも多数に見送られ来りしも 是等の出立後 時間に遅れて到着する組もあり 午前中の豊平橋より月寒までの間は 十数台の馬橇 烈しく往来し 非常に賑ひたり

見送人の中には大学生や婦人も数多見えたり

本年は其筋の厳達ありしため 旗を立てたる入営者少なかりしも 中には大々的に祝旗を押立て来れる組もありしが 是等の旗は大抵憚りて 豊平橋前に於て引揚げ 只 万歳の声を以て 名残を惜しみぬ

さて之れよりの彼らは 五六名づつ一団となり 細く淋しき道を辿りて月寒へと急ぐ
此間に於ける彼等の胸中や如何に 只々心配の事のみ交々湧き来りて 実に胸中の動乱止むなきものありしならん

要を得ぬ喧騒に知らず 一歩一歩の運びは軈て 連隊の営門前となり寒天の勤務に不機嫌なる人心知らぬ歩哨の 叱るか如き質問に始めて吾れに還り 米つきバッタ宜しくの芸を演じ 一難関を通り過ぐれば いと厳格なる誓文捺印の第二関門ありて 胸を撫で卸す間さいなき裡に 愈々各大隊中隊小隊さては各分隊へ分配となり 茲に班中に籍を置く事となりしはよけれと

これからは被服其の他一切の兵士としてなくて適わぬ七つ道具を渡され 情け深かき二年兵の先輩に世話女房役を勤めさせ ズボンの前後に穿くや 寝台の頭入り芸当に笑声 隊内に満つるといふ図に漸く一安心といふ態

斯くする間も刻一刻と移り 二年兵の大欠伸の出る頃は それはそれは何とは形容の字たき悲しき 哀れ深き底知れぬ消灯喇叭を細く長めて耳朶に入る

規律正しき軍隊の除幕のさいを開かれ 人声は大風の後のやう気配さへ聞こえぬ 真の暗 斯くなりては堪ったものに非ず
只今瞑想にかられ一睡さい求め得ぬのだ

彼等入営兵の一夜の胸中こそ実に実に嬉しいやら悲しいやら 喜怒哀楽の一大戦闘ならん
(1912年:大正元年12月2日 北海タイムスより)

札幌は豊平橋のところまで入営祝いの旗などを立てながら付添の人が来ていたが、その先は月寒までの道のりは新兵だけで歩いていく・・・
そのような姿がみられたようである。時間がない、金がある者はタクシーならぬ「馬橇」での送迎もみられたようだ。

続きには旭川の様子の記事もあるが、こちらは全道各地から支庁の兵事係が数十人から二百人の新兵を引率して旭川やってきて前日の11月30日に到着。指定の旅館に宿泊し、師団の軍医による身体予備検査を受けたとのことである。

この検査だが、「真裸に立って頭からお尻穴のはてまで検査」というものであり、これを火の気のない場所でやったというから、相当に寒かったのではないかと思われる。

では入営日の天気をみていこう。

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▲1912年12月1日午後2時の天気図

この日は冬型の気圧配置がゆるみ、低気圧が日本海中部から北海道付近を通過し、千島方面へ抜けて行った。
札幌は最高気温は1.5℃で、降水量は10.9ミリを観測。湿った雪が7〜8センチほど新たに積もったようである。

旭川は最高気温−1.2℃と真冬日。最低気温は−13.3℃と、この年の12月上旬の中では一番冷え込んだ。降水量は2.5ミリで、やはり3〜4センチは新雪が積もったことだろう。

函館は最高気温2.2℃で降水量は12.1ミリ。天気の観測記録をみると、雪で降っており、降雪量は16.8センチとなっている。まとまった雪となった。寿都も降水量が20ミリ程度と、道南・道央でまとまった雪となった模様だ。一方、帯広や網走の降水は微量で、道北・道東方面は雪の量は少なかった。

今回はここまで。
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2020年08月14日

北海道歴天日誌 その7 人造精白米のお味は? (1912年12月19日)

銀シャリと聞いて、最初に思い浮かべるのは二人組の芸人か、それとも炊き立ての白米ごはんか。

今でこそ、米のご飯は白いのが当たり前で、玄米は「健康食」のような扱われ方だが、大正時代は白いご飯は贅沢品であった。
銀シャリというのは、炊いた白米のご飯が銀色に見えたから、ただの”シャリ”ではなく銀シャリと呼ばれるようになったそうだが、東京などの「内地」でさえそうなのだから、北海道のそれは貴重度・贅沢度はさらに高い。

誰でも簡単に食べることができなかった贅沢な白米だけのご飯に、感謝の意を込め「銀シャリ」と呼ぶ。
フトコロの寒い庶民は毎日銀シャリは食べられないまでも、何とか白いご飯は食べられないか・・・?

そんなこんなで、大正元年12月、札幌ではある試食会が開催された。

●人造精白米の御飯や寿司の試食会

十九日午後四時から東京庵で人造精白米の試食会が催うされた

同庵の大広間に参列した方々は 先ず 橋本勧業部長 宮部・南両博士 三宅学士 後 浅羽 阿部 足立 高桑 高橋 持田 古谷 渡邊 其の他 札幌区の錚々たる諸氏のみで それに各新聞 雑誌記者諸氏を加へて 四十余名であったが 北海道人造精白米株式会社 発企主唱者 横山貞氏は 試食会開催の趣旨を慇懃に述べられて 玉蜀黍製の米飯をドウか召上って戴きたいとあった

それから杯盤に移って 人造米八分 白米二分の寿司が出た
ナカナカ巧く出来たもので 直ちに賛美する所となった

数刻後 三宅農学士は大島博士台湾出張に付き 自分が代わって今晩の御招待に対し一言申上げる とあって 玉蜀黍製の人造精白米に多大の賞賛を與へられて 食糧問題に及べる有益の談話があったには 主唱者側の深く満足する所であった

次に人造精白米の御飯のホヤホヤしたのが盛られて配られ 一同 箸を͡把って試みたが 殆んど打見た所 全くの米飯で 玉蜀黍から斯うしたものが出来るとは妙なのだと感嘆された

勧業部長の橋本さんは 之は確かに下層民の福音だといはれた
宮部博士はニコニコされながら吾々も買って食べます 屹度売れますとは御世辞でなかった
南博士は 外国のホムニーもちょうど之に同じなものです 人造精白米のために玉蜀黍が一石七円といふ値段が出るやうになったら本道農民の幸福ですと仰せられた

慥(たし)かに参列者一統の賞賛を蒙ったので 主唱者の横山貞氏 小杉寅蔵氏等は大相喜んで お客様方へ謝辞を述べて廻はられた

米らしい位でなく 殆んどそれに伯仲して 炊いた所が白米の御飯と見える

其の見える所だけでも ドレ程家庭用として喜ばれるかと思はれた

労働者には之を食って腹持はドウかとの疑問があったが 宮部博士は三宅学士の話された如く 其 消化率を見れば 腹持は米より好い筈といはれた

主唱者諸氏及び札幌区の有力な実業家の発企に依って 其会社が又 浅羽 東 阿部 其他各名士の賛同に依って出来るといふのであるから 何れ本道民が此 人造精白米に歓喜する時節が来るまで 同時に本道産業上 大に喜ぶべき効果ももたらされるのだ

吾輩貧民として 当夜人造米飯に舌鼓を打って 一升十一銭程度で買へると聴き 早く売ってくれると好いなと 腹の底から希望されたのを白状して置く
(1912年:大正元年12月21日 北海タイムスより)

東京庵というのは札幌における第一号の割烹。開拓使が東京の蕎麦屋を札幌に招いて1872年(明治5年)に開業。その3年後には料理店も兼業させたことに始まる老舗である。

とうもろこしをどのように加工したのかはわからぬが、白米に似たものが出来上がり、学識経験者に議員、有力者に北海道を代表する割烹料理屋に呼んで試食させ、その模様を新聞記者を呼んで公開し、しかも評判もよかったという。
「人造精白米」にとっては、これ以上ない広告である。当事者たちも、これは売れる!日本に広まる!と思ったことであろう。新聞記事もそう記事を締めている。

しかし、みなさんご存知のように、今の世の中にとうもろこしを原料とした代用ご飯はない。
スタート時にこれほどの好評を得ながら失敗に終わったのである。それは一体なぜなのか・・・?

ネットで検索をかけただけではさっぱり糸口がつかめないが、やはり”採算性”だったのかなあ。

ではこの試食会が開催された日はどのような天気だったのか。

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▲1912年12月19日午前6時の天気図 <デジタル台風:100年天気図データベースより>


本州方面から北東に進んできた低気圧が根室の南海上へ進んできており、北海道付近は冬型の気圧配置に変わろうとしている。
ただ、この冬型の気圧配置は一時的で、夜には大陸の高気圧の一部が東北地方ヘコブのように張り出し、冬型は弱まった。

この日の札幌の天気は以下。

19121219 札幌お天気カード.jpg

真冬日で、雪も降り、寒い一日であった。
午前中は細かい雪の吹雪で、昼過ぎに一時的に強く降った後、午後3時過ぎに止んだ。降水量は6ミリで、雪に直すと10センチ弱くらい。
ただ、天気の回復は早く、夜には雲量は0〜1と快晴となり、冬の星座が札幌の空にきらめいた。最低気温は-10℃を下回ったが、これは夜の9時から10時頃にかけて観測されたもの。

ということで、件の試食会は雪が降りやんだ頃に始まり、終わるころには晴れていたという状況であった。

どうみても幸先はよかったのだが・・・。

今日はここまで。
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2020年09月09日

北海道歴天日誌 その8 1912年12月20日 室蘭大火

明治・大正の頃は、木造家屋が多かった上、消防力も未発達だったことから、道内各地に”大火”と名のつく大きな火事の記録が刻まれている。
特に多いのは函館で、おかげで耐火建築物も流行ったところもあった。また、人口密度の低い所も例外ではなく、明治44年は道北では大規模な山火事が起き、稚内などいくつかの町が灰塵に帰した。

今回取り上げるのは室蘭の大火。
室蘭で大火があったというのは、メジャーな記憶ではないようなので、ここで掘り起こす事とした。

時は1912年:大正元年の12月20日午後6時5分。

室蘭の街に警鐘が鳴り響いた。

当時の室蘭町濱町のある家で、3歳の子供がランプを落とした。
この家の隣には石油の行商人が住んでおり、このランプから出た火事の炎が積まれていた石油缶に燃え移った上、折からの西風にあおられて周囲に燃え広がったのである。

ところが消防には水が一滴もない。なぜかといえば、水道が凍結していたからである。

ポンプからも水が出せないとなったので、江戸の火消しと同様、燃え広がる火を先回りして、家屋を破壊して食い止めるという手段に出た。しかし、効果は薄く、多くの家や建物が焼けていったのであった。

19121220室蘭大火の図.jpg
▲室蘭大火の図 (1912年:大正元年12月22日 北海タイムスより)

午後8時40分頃にようやく鎮火したが、焼失面積は約5,000平方メートルで、全焼は471戸にものぼった。
当時の室蘭は5,500戸程度であり、1割近くが焼けた計算。

火元の家の子供が焼死し、死者は1名。
そのほか、重傷2名、軽傷36名を出したが、そのうち消防のケガ人が25名と格段に多かったのも特徴。

被災者は一時、室蘭小と武揚小の避難所に収容された。
ところが当時の室蘭は不景気の中で、空き家が1,000戸もあったことから、被災者が次々と空家に移り住み、住居の手当の必要はなかったようである。

さて、大火には強風がつきもの。この室蘭大火の日の天気状況は・・・

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▲1912年:大正元年12月20日午後2時のの天気図

西高東低の冬型の気圧配置だが、日本海西部に低気圧があるので、道南から東北にかけては冬型が緩んだ形となっている。
だから、風はあまり強くなかったようにみえるのだが、午後6時の風速は、札幌が2.4m/s(SSW)、函館が6.0m/s(WNW)、寿都8.1m/s(W)となっていて、室蘭も函館や寿都と同じくらいの風はあったのではないかと考えられる。

最高気温は函館が-3.1℃、寿都-4.9℃、札幌-5.0℃。寒さは厳しかった。室蘭でも水道が凍って消防の水が出せない、というのもうなずける。

以上が大正元年の室蘭大火であった。
今日はここまで。
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2020年09月17日

北海道歴天日誌 その9 凱旋途中に師団トップが海難遭遇(1906年3月6日)

時は少しさかのぼって1906年(明治39年)3月。
日露戦争に勝利した日本では、満州や朝鮮から兵の”凱旋”が続いていた。

北海道は、旭川に拠点を持つ「第七師団」の兵は大連から船に乗り、日本海を渡って室蘭へ上陸。
そこからは鉄路で、室蘭本線〜函館本線を乗り継ぎ、旭川に向かっていくという予定であった。

ただ部隊は何千人という規模である。一隻の船ではとても乗り切れないため、何隻も船を連ねて帰還して行くこととなる。
無事な航海であればよいのだが、春先の日本海である。低気圧が通れば、嵐にもなる。

このため、はるばる太平洋まで回ってきたり、あちこちの港に避難したりと、凱旋の帰路は天気との戦いだったようである。

先陣を切って第25連隊を乗せた「丹後丸」が3月3日に無事室蘭に到着。
その後も続々と船が室蘭へ入って行ったが、よりによって司令官を乗せた船に災難がふりかかった。

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▲1906年:明治39年3月6日6時の天気図 (原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」)

東北地方を挟んで「二つ玉」の低気圧。
もともとは日本海から進んできたひとつの低気圧であるが、これが発達しながら東北地方を通過、道南の海は荒れた。

第七師団長を乗せた船「陸奥丸」は3月5日に青森港を出帆したが、北に進むに従って吹雪となり、波も高くなってきた。
困難な状況となりながらも更に北へ向かい、6日の未明には津軽海峡をまわって室蘭の南の海上に達したのだが、吹雪も烈しく、波もさらに高くなってきたため、室蘭に向かうのはあきらめ、船を一旦函館に避難させることとした。

こうして津軽海峡に再び入り、函館港の沖合にまでやってきたのだが、吹雪で見通しがきかず、港口を探したがなかなか見つからない。

そうこうしているうちに夜になり、運を天に任せるしかないと思っていたところ、午後7時ころ突然の衝撃。船は座礁した。

これは大変ということになったが、不幸中の幸いにも船は海岸近くの磯に乗り上げたということがわかり、提灯を持って駆け付けた漁民にロープを渡すことができた。

大迫師団長とともに陸奥丸に乗り組んでいた当時の道庁室蘭支庁の佐々木支庁長が、陸と海の通信を取ろうと、このロープを伝って上陸を試みたが、風と波で揺れるロープに翻弄され、途中で海に落下した。

しかし、着衣のまま早春の海を泳ぎ、海岸にたどりついて漁民に大迫師団長乗船と救助を依頼、そのまま気絶した。

その後、もう1本ロープを張り、2本のロープをわたす形でカゴをぶらさげ、船客を船から陸へ運んで救助することに成功したのであった。

上陸してみると、そこは知内の地であった。

後日、大迫師団長が北海タイムスの記者にこのときの模様を話している。

・・・吾輩は其の当時 ちょうど寝台の上に横になって居た所が、急に変な響きがして船が止まったので、何事かと思ふて居ると 事務長が来て、船が座礁しましたから御注意なさいと云った

其の中に 船が段々横に傾いて来るし、「座礁座礁」と云って 彼方此方で騒ぎ出したから自分は寝台を下りて 先づ剣を吊り 帽を冠った

武官がだから、どうせイクなら武装したままでと思ったのである

それで靴を履こうと思って 不図 窓の外を眺めると、海岸が直ぐ側に見えたから、茲に又 欲が出て 是れなら仕度には及ばぬと 靴だけは見合わせた

其の中に 船は浅瀬に乗り上げたものと知れたから、漸く安心をして 皆に騒がないやうに諭した

初めて出会ったことだから 一時は矢張り覚悟を定めたのさ」

「千トン以下の船に乗るなと 子々孫々に申し残しておかう」
(1906年:明治39年3月11日 北海タイムスより)

3月6日の函館のデータをみると、天気は午前・午後とも「地吹雪あり」と記され、午前中は東の風が10メートル前後、午後3時ころからは次第に北から北西に風向きを変えて、やはり10m/s前後と強く吹く状況が続いている。

陸奥丸は函館沖から東風によって知内付近まで流されたが、最後は北〜北西風なのに風上側の海岸に座礁したというのは、潮回りのせいか、帆の向きなのか。

知内には、1802年にも野辺地から函館に向かった南部藩兵の帆船が座礁して50人近い死者を出しており、「船の墓場」のようなところなのかもしれない。

しかし、日露の激戦をくぐり抜けた大迫師団長は、この座礁劇にも無傷。
知内の旅館に一泊し、翌日は馬ソリで当別へ。ここから船に乗り、函館に寄ってから室蘭へ。8日0時、今度は無事到着し、数発の花火とともに桟橋で出迎えを受けたとのことであった。

師団のトップが災害に巻き込まれたわけで、今なら結構な事件扱いになるのだろうが、完全に歴史に埋もれてしまった。
はたして大迫師団長の子孫は、小さい船に乗ってはいないだろうか・・・!?
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2020年10月25日

北海道歴天日誌 その10 満開のサクラに季節外れの雪(1913年5月8日)

今回は1913年(大正2年)の春の出来事。

現在の北海道神宮は、当時は”札幌神社”という名前だったが、既にサクラはたくさん植えられていて、札幌区民はもちろん近郊からも大勢の花見客が訪れる場所となっていた。

この年の札幌のサクラは5月1日に咲き出し、5月7日には満開となった。

4月に開校したばかりの札幌二中(現:札幌西高)の生徒は、6日に神社のサクラを横目に円山登山を敢行。
また、小樽からは観桜団が組織されて神社のサクラを見にくるなど、花見たけなわであったのだが、冬将軍まで花見にやってきてはたまらない。

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▲1913年(大正2年)5月9日付北海タイムスより

●花に霰

圓山の花は測候所の予測より早く 南風に唆かされて 満開となりしに

昨日は朝来 頓に北西の風吹き荒み 寒冷を加へて 横斜に降れる雨が霙(みぞれ)と化し 午後に及んで霰となり 満地 時ならぬ白妙を敷き 木々の花の興ざめ顔なる哀れの状

憎や花を恨める風の悪戯か 斯ては 一年一度の花見も殺ぎ去るかといと口惜うなりぬ

立夏の節を過ぎて斯かる例は少きをなんあれさりながら 圓山の花の唇が凍てつくも ただ少時ぞ

春の血汐の湧き立つ 其の花魂は 誰に見せうとて 口紅刷かうぞ「どうぞ子 皆さんお花見に子 被入してネ」と花魂が物言う風情なり

此日曜日迄は大丈夫 見ごろにて天気も回復するよし
(1913年:大正2年5月9日付 北海タイムスより)

この年の中央気象台月報は、なぜか天気記事の掲載がないので、ホントのところは不明なのだが、5月8日の札幌は、日付の変わる頃の気温が10℃近くあったものの、朝にかけてぐんぐん下がり、朝から夕方にかけては3℃前後で推移した。この時間帯の降水は0.0mmなので、ぱらつく程度ではあるが、雨に雪が混じっていてもおかしくない気温である。

札幌ではみぞれだったが、旭川では完全に雪となった。こちらも同じ日の紙面にある。

●旭川は積雪二寸 十五年来未曽有

七日夜時々降雨あり 北西の風強く吹きしが 八日午前八時二十六分より雪に変じ 只今(午後二時二十分)二寸余積り

上川測候所開始以来十五年間に於て 最も遅く雪の降りしに (明治)三十三年五月二十七日なれども 其日は単に雪の降りたるのみにて積らず
二寸余も積りたるは上川測候所開始以来初めてなり
(八日旭川電話)

こちらはデータがしっかりしていて、この日観測された6センチの積雪は、現在(2020年)においても5月の積雪ランキングで2位タイの記録として残っている。5センチ以上の雪が積もった記録としては、今に至るまで最も遅い記録である。

なお、紙面では、「天塩地方銀世界」とも書かれているため、道北方面は広範囲で平地でも積雪状態となった模様である。

この日の天気図をみてみよう。

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▲地上天気図(1913年:大正2年5月8日14時) ※デジタル台風「100年天気図」より

小さくて見にくいが、低気圧が発達しながら北海道の南岸を通過し、千島南部に抜けたところである。
また、日本海には「高」の文字が見える。一時的に冬型の気圧配置となっていた。

5月9日の天気概況には「千島南部で降雪」とあり、広範囲で雪になったようである。

5月に入ってから一週間は、15〜20℃くらいの暖かさが続いていた札幌は、このみぞれを境に、10日ほど最高気温が15℃に達しない日が続く。
まさに花冷えの合図となった雪となったが、そのぶん満開の花の見ごろは長く続いたのかも・・・。
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2020年11月02日

北海道歴天日誌 その11 小樽熊碓で巨鯨を解体!(1913年6月7日)

1913年(大正2年)6月6日。

この日は穏やかに晴れたのだが、朝の冷え込みは季節外れに強烈で、最低気温は札幌は2.2℃を記録。網走と根室も2.2℃、旭川は0.8℃、釧路0.6℃、帯広は−0.8℃まで下がった。

この影響で、江別では一帯に強い霜がおり、カボチャなどの農作物にも被害がでるほどであった。

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▲1913年(大正2年)6月6日6時の地上天気図

天気図をみると、オホーツク海に中心を持つ高気圧が北海道を緩やかに覆っている。
一緒に北から寒気も入ってきたのであろう。こういう形は道東を中心に遅霜のおりやすい気圧配置である。

一方で、霜がおりるほど穏やかで晴れているのだから、漁業には好都合。

この日、天売の沖合の日本海で、一頭の大きなクジラが捕獲された。
この鯨が小樽に”水揚げ”するという一報を聞き、北海タイムスの記者が駆け付けている。

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▲小樽でのクジラ解体記事(1913年:大正2年6月9日 北海タイムス)

午前10時すぎ、小樽港沖合に姿をあらわした”第一博運丸”は、60尺以上、つまり18mをこえる大きなクジラを伴って小樽熊碓海岸に近づいた。
そしてクジラは解体場所へ水揚げされてゆく。

その部分の記事を書き起こしておこう。

●熊碓海岸に巨鯨解剖

・・・略・・・

午後一時半に至って長大なる一萬貫の「海の王」は解剖盤上に横はれり
時に鯨体は左腹を下にし 頭を汀の波に打たせ 三百六十枚の長髭は整然として唇の下に表はれ 右眼は直系二寸大なり

解剖手は各々 鯨包丁を提げて背部に溝を作り 轆轤(ろくろ)を締め 之より解剖に着手す

先ず 腹を割き 内臓を処分して後 尾 背 腹部の上面脂肪皮を剥ぎ取り 更にキャプスターを掛けて引揚げ 三時 中央部約三十尺の間に於て両断し 後部から前部へと 約一尺より二 三尺立法の角形切り 脂肪質はバラック小屋の釜に 肉は同夜中に小樽区内に売捌く五百貫を残して全部南測線路の釜に 各々 煎沸 鯨油肥料の処分を為すべく分配せられたるが 煎沸に取り掛かりしは昨日(八日)未明よりなるべし

この解体の様子は、400〜500人もの見物人が押し寄せ、見守った。
クジラに触ってみたという人もあったそうである。

よく捕鯨されるミンククジラは体長が7m前後であり、マッコウクジラは17〜18mと記事の鯨と大きさはあうが、色は灰色で歯がある。ということで、記事のクジラは、20m級の大きさで日本海にもやってくるとされる「ナガスクジラ」の可能性が高い。

肉は小樽市民に500貫ということだが、1貫3.75キロとして、1.7トン余りというから、相当の人数の胃袋を満たしたことであろう。

クジラがやってきた翌日、小樽港には歓迎されない?客もきている。

●船間違へた露人

八日小樽入港の汽船 摂津国豊中 橋谷八郎所有 千珠丸(一六八十頓)は 六日朝 浦塩(ウラジオストク)を解纜し 同日午前十一時頃 浦塩を距る五十海里アルスコルー沖合にて 第三船内に異様の音響を発したれば 船員取調べたるに

露国人一名 前後不覚に酩酊し 倒れ居り 腰を強く打たるため歩行も自由ならず ウンウン呻り居に 応急手当を施し 身元を訊したるに 当時 浦塩居住 ポプノチープ・ウスイフ(二八)といふ者にて 同地 碇泊汽船ニチカイナ・ババーブに乗り込むべき所 泥酔の余り 船を間違ひ搭乗せし旨申し立つるも 帰国する旅費もなく 且つ 同船は当分浦塩に回航せざるより 同人の処置に困じ 保護方を水上警察署に届出たれば 同署は函館領事に引渡すべく 昨日函館警察署送りとせり
(1913年:大正2年6月11日北海タイムスより)


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2020年11月22日

北海道歴天日誌 その12 道内初の路面電車!出発進行(1913年6月29日)

次世代に継承すべく、北海道に関係する自然・文化・産業などの中から選ばれた有形・無形の財産である「北海道遺産」

全部で67件が指定されているが、そのうちのひとつは「路面電車」。
路面電車が走る風景が醸し出す雰囲気がまた独特ということなのだろうが、現在に残るのは札幌と函館の2つのみ。
どちらが先かと問われると、函館が先である。

今回は、北海道初の路面電車のスタートを天気とともに振り返ってみよう。

1913年(大正2年)6月30日付 函館新聞より
●電車開通第一日 正午から湯の川日和

今日は日曜日と云ひ、幸先のよい電車開通の第一日を天気にしたいと祈ったのは会社のみではない。
多くの客を迎ひ入れやらうとした湯の川の人ばかりではない。
電車の出来るのを一日千秋の思ひで待った区内の多くの人々であらう。

生憎な雨は、昨日の午後から小止みなく降り注ぎ、湯の川方面では数日来、開通式を祝そうと云ふ心算の準備も、滅茶滅茶にされる様な思ひで、只管空を仰いで 朝来の晴を祈った甲斐もなく、尚ほ雨は降り注ぎ、午前の発車当時は餘り人出もなかったが、正午少し前から凄まじい風は附いたけれども、雨は晴れ、心よい日光を見るに及んで 本社前は乗客と、付近の見物人を以て、雑踏した。

湯の川方面は兎に角 此の電車開通に依って、更に発展をみるべく、大いに之を祝さねばならぬと意気込み、本日は朝来の雨にも拘はらず、電車の着く毎に花火を打揚げ、近村から物珍しく集ひ寄った老幼の群れは『馬が無くて、何うして走るンだね』など、不思議そうな眼を以て迎へながら、人群れの中から万歳を叫ぶのである。

まだ運転手も充分でない、往来する人の爲めにもと、徐行をするのであるが、夫れでも僅かに三十分足らずで湯の川に行かれる

非文明な馬に曳かれて、骨と皮の馬背に、残酷な鞭をビシビシ加へられぬのも 函館の進歩をみる様で喜ばしい

函館にもともとあった馬車鉄道の一部を電化する形でスタートした函館市電。当時は函館水電という電力会社が親会社なので、馬車から電化の流れも当然か。東京から北では初の路面電車であった。

今の函館市役所の裏付近にあった東雲町停留所から湯の川までが、この日(1913年6月29日)に運転開始となったが、馬に曳かれていない客車だけが走るというのが人畜ともなかなか理解し難いことだったのか。27日の試運転でも、鶏が車両前面の救助網に”捕獲”されたり、荷馬車がすぐ前をゆっくり横切ったりとスリリングだった模様。

開業での人手を見込んで、湯の川では寿司屋に団子屋、蕎麦屋、”カフェー”など各店が賑わいを心待ちにしていたのだが、記事にあるように雨が降って強風も吹き、荒天の中の出発進行となったのであった。

天気図をみてみよう。

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▲1913年(大正2年)6月29日6時の地上天気図

6月後半としては珍しく、発達した低気圧が日本海から北海道に近づいている。
函館は28日14時前から雨が降り出し、29日11時頃まで37.6ミリとまとまった雨になった。

風は東から南東の風が7〜8m/sとやや強く吹いていたが、雨が一旦やんだ昼頃からは、南西に変わって10m/s前後とさらに強まり、最大風速は12.9m/sにも達した。

この強風のため、電車の函館駅側の出発駅の近くである東雲町や栄町では屋根の柾(まさ)が吹き剥がされる家が「少なくなからず」、板塀が破損したり、木の枝が折れるなどの被害もあった。高砂町の島本ガラス店の仮工場も潰れてしまった。

函館だけではなく、被害は各地に及び、函館から小樽に向かっていた汽船「満州丸」が奥尻島幌内岬沖で高波の影響で座礁、船体が真っ二つに折れて航行不能となった(死者なし)ほか、天塩では高波により数ヶ所の漁場で網や船具、木材が流失した。

さらに釧路では真砂町裏手のガケが雨により崩れ、人家二戸を押し潰した。最初に潰れた時は死傷者はなかったが、様子を見に来た所有者が再び崩れた土砂に巻き込まれ、頭を打って亡くなった。

また、佐渡沖の日本海ではイカ漁の漁船が暴風雨のため次々と転覆し、200人ほどが行方不明となったとも伝えている。

こうしてみると、函館の路面電車に何事も無かったのは、割と幸運なことだったのかもしれない。
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2020年11月27日

北海道歴天日誌 その13 隼号の北海道初飛行・・・失敗(1913年9月7日)

ライト兄弟が、飛行機に乗って初めて空に浮かんだのが1903年の12月。

それから飛行技術は急速に進歩し、わずか10年足らずで飛行機が北海道にやってきた。
その名は隼(はやぶさ)号。

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▲隼号の勇姿(1913年:大正2年9月5日札幌にて撮影:6日付北海タイムスより)

この隼号は、空を飛んで北海道へやってきたのではない。ばらばらに分解されて運ばれて来た。
そして、札幌の北十条東一丁目の興農園の農地に運ばれ、組み立てられたのである。

エンジンの試運転も好調。あとはいよいよ飛ぶだけである。

そして1913年(大正2年)9月7日。日本飛行協会主催、「複葉飛行機隼号飛行大会」はついに開催された。

この日の模様は、翌8日の北海タイムスに詳しく記されているので、書き起こしておく。
▼壮観なる飛行場

当日は数日来の天候 稍 快復し 朝来 飛雲を間々見る晴天にて
東南の風ある風速は 一秒間約八 九米突を示し 時々断続する有様にて 飛行には差支えなき模様なりしも 折柄十二 三米突の秒速ある突風を混へ 注意すべき険悪の徴を呈したり

既にして協会委員 並びに大会各関係者は数日来の準備成り 遺憾なき設備するあり
納屋を以て充てたる格納庫を中心とする飛行場は 彩旗幔幕を以て装飾され 東面する観覧席には会旗翻として朝風に翻へり 売店 記念品店など軒を並べ 頗る静観なり


記事はつづくが、ここでひとつ、この日の天気図をみてみよう。

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▲1913年:大正2年9月7日6時の天気図 ※デジタル台風「100年天気図」より


北海道のすぐ南に「高」の文字がみえる。三陸沖の高気圧に北海道は覆われ、一方で沿海州は深い気圧の谷となっている。
札幌測候所の記録では、明け方は風もほとんど吹かず静穏で、午前9時前から南よりの風が出て来たものの、それでも今の数値に換算して4〜5m/sくらい。
雲はほとんどなく、昼にかけて快晴に近い天気が続いていた。飛行日和である。

では、記事の続きを見よう。

▼準備全く成る

東一丁目の長路は 午前七時頃より本道初度の飛行を見んとする観衆にて絡?たる有様となり 午前十時までの入場者 無慮六千人と駐されたるが 飛行会の中心たる操縦者 鳥飼茂三郎氏は 未明の頃より製作主任大口豊吉氏 並に玉井 臼井の両助手を従えて 諸準備に罹り 午前八時 隼号を格納庫前に曳出し 機能の整調を行ひ 飛行場の実査標識旗の配置等を試み 飛行用意等を遺憾なき指揮するところあり

このあと、午前10時10分からエンジンを回して地面を助走する試験(地走試験)を実施。
風はやや強かったものの、プロペラを回して約50mほど、軽く上下にジャンプしながら西から東に向かって走り抜ける。

▼滑稽なる観衆

・・・最も滑稽なりしは 地走開始の真後方に 吾先と集ひたる観衆は 爆音凄まじく回転する発動機の音に耳を蔽ふ暇なく 次いで来る推進機の猛烈なる送風に 幾十の帽子を木の葉の如く吹き飛ばされ 羽織や着衣の裾を煽られて 忽ち散乱したることにして 軽油の淡き燃煙を浴びて 鼻を摘むものさへ見受けたり

飛行機を後ろから見ようとして、爆音に驚き、プロペラの風に帽子を飛ばされ、軽油の煙に鼻をつまむ。

飛行機初体験の洗礼を受ける札幌市民の姿は、たしかに面白い。

そしていよいよ、飛ぶ時がやってきた。
ここはノーカットでいこう。

▼処女飛行の準備

地走試験を終りたる鳥飼氏は風向を気遣ひ 容易に飛行を決せず 北方の地点に出発地を漁り居しも十分ならず 兎に角も人夫に牧草の根株を刈り取らしめしも この時観客 漸く倦み 早く本飛行をと注文するやうの気勢を見て取り 急に隼号の処女飛行を決行することとなりぬ

時に午前十一時
風は相変わらず東南方より断続して吹き来たり

今 隼号の飛行せんとする方向に対して十字型を描く 実に最初より右の側風を受け 飛行には最も不適当なるに関はらず 操縦者は心中深く決するところありしにや 敢て大胆なる出発を開始せんとす

▼隼号 遂に飛べり

十一時を過ぐる五分にして 地走試験に於けると同様 六人の人夫に機体の突進を抑へしめ 玉井助手の施動にて発動機の運転を開始し 爆音の不整に耳を傾むくること一分間にて 挙手の信号を與へ 東方に向かって右に側風を受けつつ 地走すること約三十米突にして

機体は悠然 地を離れ 三十二 三度の角度を描いて約二十米突飛行し 高さ三十尺及びたり

19130907隼号とんだ.jpg

と見る間に朝来最も寒心したる突風が 秒速十三 四米突の速度にて襲ひ来たり

機は見る見る左方に押し流されて風向に転回を始めたるよと 見る間に前方昇降舵を地面に向け 機は逆立となりて落下しぬ

▼転覆、逆立、破損

実に 瞬間の出来事にして アッと云ふ間もあらばこそ
前方昇降舵の支柱は折れたる上に 両翼の前方がが押し重なり 尾舵は風を受けて逆立ちより 更に前方へ傾むき 漸く転倒より免かる

操縦者鳥飼氏は如何にと見れば 転覆せる機の下方より這ひ出てたるが 吾を忘れて駆着けし人々に向かって 平常と異なるなき顔色にて その全く無事なりしを語り告げ 擦過傷一つ受けず 転覆せる機を指さして原因を語り居たりしが

隼号はちょっと浮いて、突風に煽られ、前のめりに墜落、破損。

これでは、飛行機の”北海道初飛行”とは認定できない。
この結果をみて、六千の観衆は三々五々、家路についたのであった。
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2020年12月06日

北海道歴天日誌 その14 博士を称える提灯行列(1913年10月17日)

北海道大学は、最初は札幌農学校、次いで東北帝国大学農科大学、そして北海道帝国大学と、名前が変わってきた。

今は全く聞かないが、昔は、教官が就任25周年を迎えると盛大な祝賀会を催し、学生が博士を称える提灯行列まで行っていた。
今回は、ある博士の記念祝賀会についてみていく。

ときは、1913年(大正2年)10月17日。

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▲1913年:大正2年10月17日午後2時の地上天気図 ※デジタル台風「100年天気図」より

1913年10月の札幌は、前半は雨が少なく、気温も連日15℃〜20℃まで上がり、晴れて暖かい日が多かったのだが、この日は低気圧が本州方面を通過しており、北海道も道央・道南方面は雨天となった。
17日の札幌の最高気温は9.5℃。降水量は6.4ミリと強い雨ではなかったのだが、ひんやりとしていて冷たい雨に感じられたであろう。

この冷たい雨の中、札幌豊平館において、農科大学・吉井豊造教授の25周年記念祝賀会が開催された。

●師を思う美しき大学生の提灯行列

十七日午後六時 豊平館に於いて農科大学農学博士 吉井豊造氏の開講廿五年記念祝賀会を挙行

松村博士司会者となり数名の接待係 楼上 階下を奔走して来賓の斡旋に努め 正賓 吉井博士及び同一家 佐藤学長 宮部博士 南博士を始め 新島 大島 小出諸博士 並びに夫人数十名の外 外国教師並びに同夫人 其の他 大学関係者 同学出身者 細谷 大村 藤田 奥村 会澤 長屋 小川 赤羽 岩浜 平塚 石澤 蠣崎諸氏列席し 六時半食堂は開かれ 松村博士の開会の挨拶あり

次いで吉井博士の謝辞ありて 卓を囲み 饗宴に入り 良々久うして南博士先づ起て 吉井博士の廿五年来の逸事を巧みに紹介し 満堂を哄笑せしめ 小出博士 又 起きて 軽妙なる口調を以て吉井博士の駒場時代を語り 石川貞治氏又 一場の賛辞を述べ 最後に佐藤学長 吉井博士の功徳を賞賛し 終わりに

「お互に年の上がらいひますと 古色蒼然であるが 頭上の光は益々輝くを栄す」と因導を渡し 興 愈々な湧き歓 益々盡きざるの間 又 佐藤博士の乾杯の辞ありて食堂を閉じたる

折しも吉井博士を祝ふべく 大学学生七百の提灯行列練り来る

此の時 心なき秋の冷き夜の雨 降りしきりたれど 健児の意気は正に天に沖するの勢にて 二台の大万燈を牛に曳かせ それに小提灯を振り翳し 声々に博士祝福の歌を歌いつつ 西門より入り 徐ろに館前に整列せしかば 吉井博士 同令夫人 令息等之を迎ひ、歓天喜地 深く一行の厚意と誠意とを感謝し 令夫人の如き 此の盛大なる光景を面前に見て 密かに嬉し涙に再三頭を下げて謝礼するものの如かりき

斯くて学生の一団は 天に轟くが如く 万歳を三唱し 勇ましく合唱しつつ 東門より創成川筋に向い 帰路に就きたるは壮挙なりき

夫より 一同は余興室に会合し 杵屋連の勧進帳 新田師匠等の三曲合奏あり
松村博士 亦 得意の尺八を取りて一座に加わり 一同をして歌興 飽くを忘れしめ 九時頃散会したり

大学教員を中心とした祝賀会であるが、一次会の終わりをめがけて学生が祝賀の提灯行列を行って、豊平館の前で大声で万歳三唱。
その数は700人余りにも達したというから、教え子だけではなく、多くの学生が集まったものである。

当時の大学教員は、学生から相当敬愛されていただろう。隔世の感がある。

さて、この祝賀会の主役となった吉井豊造教授は明治18年(1885年)に東京の駒場農学校を首席で卒業、北海道庁の技官をへて札幌農学校の農芸化学の担当教官となった。

ちなみに駒場農学校は農学における日本初の総合教育機関であり、現在の東大農学部につながる。
駒場の卒業生は役人か教師になる者が主流で、吉井教授もその道を辿ったこととなる。

吉井教授は駒場農学校でドイツの農芸化学者:オスカル・ケルネル氏に学び、札幌農学校に農芸化学の講座ができることとなったためその指導者となり、土壌学や肥料学などの講義・研究をつづけたのであった。

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▲吉井教授25周年記念のハガキ (日本農芸化学会「農芸化学の100年」より)

この祝賀会から6年後、1919年(大正8年)に吉井はこの世を去ることとなる。59歳であった。
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2020年12月11日

北海道歴天日誌 その15 難工事の末・・・空知川第5・第6橋梁(1913年11月10日)

1913年(大正2年)11月10日。

この日、根室本線の滝川〜富良野間が開業した。
北海タイムスでは、一面で大きく、開業について祝っている。

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▲1913年:大正2年11月10日付北海タイムス1面

明治末から大正にかけては道内各地へどんどん鉄路が延びていったため、頻繁に鉄道の開通・開業の記事が掲載される。
と同時に、鉄道開通による地元の経済への効果であるとか、工事が大変だったとか、沿線にはこういう町があるとか、そのような記事もあわせて掲載される。

1909年12月〜1910年3月にかけての第26回帝国議会で、北海道鉄道敷設法に一行「石狩国砂川より下富良野間」に鉄道を敷設すべきであるという内容が書き込まれたことによってつくられることとなったこの線路。建設中は「富良野幹線」と呼ばれていたようで、新聞には「富良野線」として書かれている。

この法律改正も、北海道倶楽部が滝川〜富良野間の鉄道敷設の必要性を強調し、上京して政界に盛んに運動をしかけたが難航。
最後は道内選出の代議士が数人で衆議院予算委員長のところに乗り込んで直談判までしたそうである。

こうして1910年(明治43年)に沿線の測量が始まり工事が開始。わずか3年で汽車を走らせるところまでこぎつけた。

当時札幌から帯広へ向かうには、滝川から旭川へ北上してから富良野へ南下していたのだが、この線路ができて旭川を通らずに滝川から富良野へ抜けられるようになり、大幅に時間が短縮、運賃も安くなった。その効果は非常に大きいものであった。

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▲新・富良野線の沿線図(1913年11月10日:北海タイムスより)

また、時間短縮だけではなく、赤平や芦別の炭鉱から石炭を運び出せるようになったことも非常に大きかった。

この鉄道建設で一番の難所となったのは「第5空知川鉄橋」と「第6空知川鉄橋」の建設である。

まず、当時の鉄道工事事務所の所長を務めていた稲垣兵太郎氏のインタビューを記すと・・・。

▼工事の経過と苦心(稲垣建設事務所長談)

(略)

第五 第六空知川は本線・野花南 奔茂尻両駅間の設計線を南北に縦断する渓谷の大激流にして 附近の地質脆弱にして基礎岩盤に達する垂直距離甚だ深く 加ふるに激流中の冬期作業は幾度か忠実なる現業員の苦心を水泡に帰せしめ 工夫を泣かしめ 一同天を仰いで失望の嘆声を漏したる一再に止まらざりき

然れども 智力と機械力とを以て 自然の威力に対抗せざるべからざるは 技術に遊ぶ者の職責たると同時に 亦 現業労務者の天職たるを自覚し 上下均しく自ら発奮して河中の基礎工事を継続し、本年六月米国より橋材を取寄せ 東京石川島造船所より鉄橋材料中の最大必要品たる大橋桁を横浜に向かって船送中 品川湾頭に於いて大暴風雨に逢遭し 汽船は沈没して橋材は深く海中に沈み 又 如何ともすべからざるに至り 工事着手は益々遅れ 十月初旬の竣工予定は十月下旬に変更し 遂に今日に至り竣工を見 開通式を挙行するの段階に到着したる也

第5、第6空知川鉄橋は、渓谷を横断するように架けられた鉄橋で、基礎工事に苦労があっただけではなく、乗せる予定の橋げたが暴風雨に遇って船ごと東京湾に沈むということまでおきていたのであった。

基礎工事の苦労話は、この工区を受け持った主任技手の声にも聞くことができる。


始め此処は線路が通る設計ではなく 瀧の上の崖に沿って線路を敷設する予定であったのですが 瀧の上は地質が脆弱で 危険を将来に残すといふ理由から 此の二個の曲屈した流れに鉄橋を架ける事になったのです。

元来北海道の如き土地で鉄橋を架ける苦心の最も大なるものは 其の基礎工事にあるので 殊に第五、第六空知川の如きは 水が深い上 出水が甚だしく 且つ 天候の険悪と降雪が多いのに由り 工事日数が短いのには自分一人のみでなく 又 今度の工事に限った事ではなく凡ての人が凡ての場合に実に困難を感じて居る次第である。

工事期の短いのは第三空知川の鉄橋工事の如きに堀内組が発電機械を据え付け ポンプを以て水を汲み上げ 且つ 夜業点灯の用に供したので判る。

基礎工事は水面上まで煉瓦を積み上げれば 架橋工事の八、九分迄は成功したものと云っても好い位重要なものであるが 之迄仕事を運ぶのには是非とも天候を見計らい 出水の害に備へる注意が必要である。

第五空知川鉄橋基礎工事は 冬期 雪 満山を埋め初めた昨年の十一月下旬 河水を堰き 三十尺も河床を掘り下げ 粘土を以て横六尺に縦九尺位の穴を締切り 以て水の侵入を防ぎ 其の中に煉瓦を積み上げたのであるが 之は出水を恐れるため 防寒設備 其の他あらゆる設備をして融雪期に入る前迄に完成させねばならない。

所が幾度か 水のために半ば出来上がった工事を破壊され、破壊された後始末を付けるため 幾度かむだな労力を費やしたか判らない。

然し 上官の指導と工夫達の勤勉な爲め 本年三月始めに掘り下げ工事を終わり 三月末旬には全力を上げて三十尺ばかり煉瓦を積み上げ ようやく水面迄橋脚が上った。

第五空知鉄橋橋脚は高さ八十尺のものであるが それが幾個もある。

毎年出水期になると第五、第六空知川は平水より三十尺も増水し 流木が悪魔の如く吠えて川上から流れ来り 橋脚に衝突し それが堆積して 水の底力は恐るべき程増大し 之に堪へ得るのは基礎工事が完全でなければならない。

完全でなければならぬ基礎工事が出水や寒気など自然の威力の爲めに思ふ様に捗らぬ時の苦心は 失礼ですが素人の人達にはわかりません。

私どものような土木現業者の苦心は実に此時である。

然し此苦心を通り越して 兎にも角にも思ふだけに出来上がったと云ふ時の安心と歓びはまた 素人の諸君にはわからない。

お陰様で愈々開通式挙行の運びになったのは何よりである。
第五空知川鉄橋は延長三百九十六尺七寸、第六の方は四百四十七尺五寸、高さは水面より約八十尺、橋脚の形状を丸型にしたのは水の圧力を緩和するためで 稲垣所長の考案です。

尚 これ等の橋脚はドンナ流木が来ようが大丈夫であるが更に加速度千二百ミリメートルの地震に耐える力を持って居る
コンナ地震は世界にないのですから安心して居ても宜いのです。

川の水が一番少ないのは何時か?その答えは真冬。
このため、渓谷の難工事は真冬に行われたのだが、それでも水をせき止めて穴を掘り、煉瓦を積み上げる作業は失敗の連続だったようだ。
融雪の出水、さらに夏の大雨による出水を無事乗り越えての鉄橋の完成は、非常に嬉しいものであったようだ。

さて、この鉄橋がある場所はどこなのか。

鉄橋があったのは野花南駅と奔茂尻駅の間だが、奔茂尻駅はのちに名前を「滝里駅」へと変える。
この駅の名前が、鉄橋のかけられた場所を知るヒントとなる。


▲第5、第6空知川鉄橋のあった場所

ここが二つの橋の場所となる。

現在の滝里ダムの堤体がある場所も「第6」の鉄橋、ダムへ向かう道が川を横切っているあたりに「第5」の鉄橋がかかっていた。
つまり、二つの鉄橋は現存しない。

この部分は1991年に滝里ダムの完成により滝里駅や線路が水没することとなったため、長大な2本のトンネル(滝里・島の下トンネル)によって線路が切替えられた。鉄橋もダムの堤体や取り付け道路に置き換えられる形で廃止・撤去されたようである。

19131110滝里付近.png

先人が苦労してようやく引いた鉄路ではあるが、100年経って今や廃止への岐路にたたされている。
融雪や大雨だけではなく、人口減少という流れに抗う事はできるだろうか・・・。
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2021年01月05日

北海道歴天日誌 その16 太櫓村の戦災帰農者を襲う暗闇の冬(1946年1月17日)

1946年(昭和21年)1月の北海道。

どの町も配給が幾日も欠けるような食糧不足。そして燃料不足に物不足・・・ないないづくしの北海道には冬将軍がどっかりと雪を見舞い、寒さを見舞っていた。
1月18日には札幌で積雪145センチを記録。苫小牧でも1月14日に52センチを記録するなど、道央は記録的な多雪となっていた。

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▲1946年:昭和20年1月17日18時の天気図

天気図は大きくみると冬型だが、樺太の東にも高気圧があり、間宮海峡から石狩を通って北海道の東海上の低気圧へ気圧の谷が延びている。
おそらく、この気圧の谷に沿って帯状の雪雲が流れ込み、小樽から札幌方面ではまとまった雪となったのだろう。

この雪の多い1946年の1月。北海道での冬を初めて迎えた人たちがいた。
戦争で家を焼かれ、職も無くし、心機一転、北海道へ集団で開拓に入った人々である。

彼らは戦災者対策と食糧問題を一挙に解決しようという政府の政策に応募し「拓北農兵隊」として北海道にやってきたのだが、酷い現実を目の当たりにしていた。

1946年:昭和20年1月17日 北海道新聞より

光なき戦災帰農者

灰塵に帰した街にぼう然自失する戦災者にとって「北海道の大自然を拓け」との政府の呼びかけは大きな魅力であった
昨年夏 幾多の苦難を予期しつつも大地に帰る喜びにあふれて、戦禍の東京から太櫓村字栄石の新開の山奥へ入植した十一戸 五十九名の戦災集団帰農者はあれから半年、馴れぬ北国の厳冬と圧迫する食糧事情下に困難な生活をどうやっているだらうか

汽車は東瀬棚駅から三里の雪原を徒歩で現地を訪れた
かつて大きな希望と夢を抱いて渡道した彼等にとって唯一の光明だった耕作予定地すら判らず、開墾の武器である農機具一つすら與へられなかった
しかも机上計画の政府案と少しも積極性なき村役場、その上 極めて冷淡な部落民等々・・・地獄の現実の冷たさに 軈て光を見失い、明日は凍死か餓死かの幻影に焦燥している

これこそ当局の大法螺が戦災者をドン底に叩き込んでいる現実の姿である

以下は寒風吹き荒む笹小屋の前で震えながら薪を焼く太櫓えい隊長 渡辺〇治氏(五九)との問答である

問 この小屋へは何時移ったか
答 最初は若松青年会館に収容された、〇団からの建築材料がなかなか来ず、村役場へお百度を踏んで やっと十二月初旬 雪が降ってから移ったので焼付は出来ず、数百把の笹を自分で刈り、部落民の助けを得て笹の小屋が出来上がった

問 この笹小屋では寒くないか
答 焼け出された自分等には満足な衣料もないし 勿論蒲団などないので 各自のものを出し合って この継ぎだらけの蒲団皮をこしらへ 〇を綿代用にし 体を押し合って寝ているので焚火を絶やす事が出来ない、吹雪の朝など蒲団の上に五分位も雪がたまっている

問 食糧に困っているだらう
答 今月は六日分配給されただけである、役場に行っても見通しがないの一点張りだ

問 未配給の毎日をどう暮らしているか
答 現金もない私達は闇買いする術もなく 手持ち食糧とてないから 方法は食い延し術と絶食より外にない。良くて二回、水同様の粥で食ひ延ばし、あとは絶食の日が続く、全く太陽を失った暮らしだ、このまま行けば死ぬより外はないだらう

問 衣料品の配給はあるか
答 私達には新聞、靴とか衣服が優先的に與へられると書かれているがどれも糠喜びだった。今まで七人の大人に対し 赤ん坊用の長シャツ一枚、再生靴下足袋一足、ズック靴一足だけ配給されたが、これは一週間の笹刈で破れてしまひ 今は影も形も残っていない、大人に赤ん坊用品を配給する役場の態度は是正されねばならぬと思ふ

問 暖房と燃料の事情はどうか
答 ストーブを配給してくれるとの話は真っ赤な嘘だった。長さ一尺五寸 巾二寸の小さな鋸を一丁だけ三十円で買い、毎日生木を伐って火を焚くのに追われている始末だ

問 燈火はどうか
答 何もない、ローソクも石油も配給がないので暗く成れば寝る外 仕様がない、秋ごろ農家がモミ〇りする脱穀機の音を聞いていると 石油を使っているのをうらやましく思ふ

問 厚生施設はどうか
答 まだ病気にかかった者がいないからよいが、家庭用薬の配付はなし、若し病人が出たらどうしたらいいか判らぬ、利別村日進の大阪市帰農者には同村役場から保健婦や産婆を派遣すると聞いているが 此処では一回も姿を見ない、風呂の施設もないので入植以来一度も入浴していない、垢だけでも落としたいが石鹸の配給がないので恥ずかしいことだが体はこの通りだ

問 今春の耕作に対する心構えは・・・
答 一体どれだけの面積があたへられるのか自分の耕作地が何処なのか皆目判らぬ、役場へ質しても道庁から指示が到着せぬから不明だの一点張りであるし 農機具は一丁もあたへられぬので全くお先真暗だ、これでは開拓意欲を振ひ起すすべがない

問 役場や部落民の君らに対する態度は満足か
答 遺憾ながら否と言はざるを得ない、総ての点で人情味がない、役場の係員はいつもお願いに行くので煩いといはんばかりの表情をして親切味がない、部落民も実に冷淡で こまった 厄介者だと陰口をしているのを聞いた事もあり、北海道の人はかうも人間味がないのかと家族抱き合って泣いた事もある
檜山支庁から一度視察に来てくれたが、徒らに世間話に花を咲かせて何等生活の実相には触れやうとせず、政府では君等に出来る限りの援助をするといって引揚げて行った、絵に描いた餅よりは今日の米が欲しいのであり、恩を押し売りする役人の態度は私達には判らぬ

問 あなた方の最大の希望は何か
答 私達に與へられたものは農地や農具はなくて飢餓と寒さであり、稲穂と光明でなく戦慄と呪いであって、現在の生活は真暗闇だ
北海道に渡れば広大な未開の土地と豊富な食糧が私達を待っている、本人の希望通りの面積を開拓させ、農具、種子、食糧を無償配給し、完全な住居を貸出すといった公約は果たして欺瞞ではないといへるか、
開拓すべき土地も判らず、農具もなし、食糧もない、何から何まで欺まん通しではないか
政府の欺瞞と無能と不誠実を呪う

私達の最大の望みは 生への本能的な〇〇であり、将来への明るい生活建設だ。

誰もが食糧に事欠き、物資不足であったこの頃。さらに国が敗れて占領軍が進駐して間もなくというこの時期の混乱の中、「戦災帰農者」は以前から当地に住む住民にとっては、やっかいな存在という見方はあったであろう。

焼け野原の東京や横浜、大阪などのほうが、ひょっとしたら彼らにとってまだマシだったのかもしれないと思わせる酷い暮らし。
拓北農兵隊として入植した帰農者は、北海道各地でこのような厳しい現実に直面していた。これでは逃げ出す者も多かったはず。


▲いまのせたな町北桧山区栄。栄石神社のあたりの高台が彼らの入植した場所だろうか・・・
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2021年01月14日

北海道歴天日誌 その17 烈寒の入営日・月寒(1913年12月1日)

1913年(大正2年)の12月、北海道は厳しい寒さで幕を開けた。

最低気温は函館は−3.0℃だったが、その他は札幌−15.5℃、帯広−16.4℃、旭川−21.4℃、釧路−12.4℃など、朝の冷え込みがひときわ厳しい。

●氷点下二十一度 上川方面今冬最初の烈寒

上川方面に於ける一日の寒気強烈にて 午前七時 摂氏氷点下二十一度四分にして 今冬に於ける初めての烈寒にして 路傍の樹木には白き花咲き 道路は鏡の如く凍り 歩行する音 喧(やかま)しく 俄かの寒気とて一層寒さを感じ 小学校生徒 登校に際し泣き泣き行く者多し

(1913年:大正2年12月2日付 北海タイムスより)

旭川の子供は、あまりの寒さで「泣きながら」学校へ通ったらしい。
12月の初めから−20℃というのは”泣くほど寒い”とたとえられるのですね。

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▲1913年:大正2年12月1日の天気図

冬型の気圧配置を担っていた大陸の高気圧が移動性となって北海道に中心を移し、緩やかに覆っている。
寒気が残っている状況で、穏やかに晴れたことから、放射冷却が強まって内陸を中心とした厳しい冷え込みを演出したのだろう。

これだけ冷えるのだから、当然天気は「晴れ」である。見出しが「日本晴」という記事もみえる。

●日本晴 烈寒の朝 月寒 営門の入営兵

寒い寒い 一日の朝八時頃 月寒聯隊の営門前に起つと 約(およ)そ四 五百人の群衆が通路の両側に居並んで大混雑だ
右方が新たに入営しやうといふ 揃ひも揃った壮者(わかもの)ばかり 左方はその付添人で カーキ色の将校や黒服の下士など右往左往に入り乱れ 区役所や各支庁の兵事係と共に何事か頻りに斡旋している

軈て一団の壮丁が 紅い徽章を胸にした係員に導かれ 門内にゾロゾロと這入り 左手にある大きな蔽演習場に繰込む
「入営する方は右へ、付添の方は左へ」と白い布で帽子に鉢巻した上等兵が指図して広い場内に導く

見渡せば木馬の辺りも金棒の辺りも 乃至 棚の辺りも人に埋められ波打つばかりの雑音が湧く

所々に山と盛った木炭が赤々と燃立って 幾重かに人に包まれている

人波に押されて中央の炭火のある所へ足を運ぶと 山田連隊長を始め 若林聯隊区司令官 樽木中佐 永山大隊長 野地軍医長などの一群に出会す
特務曹長や中隊付軍曹など付添の兵事係に何か打合せて 「まあ此混雑」と呆れる間にさっさと人員受取が済み 誰は何中隊 彼は此隊と定り 服装が一定しないが部署が整然と極まって 出来立の人形にやうに並ぶ

野地軍医長以下の医官が 頃を計って「どうかね 皆の内に病気しているものがないか診察を受けたいものが居ないかね」 と見回る

何時の間にか連隊長も司令官も大隊長も居なくなったので 更に第二大隊の蔽演習場に行く
此処にも沢山の人がいて 同じやうに人員受取の最中、聯隊副官を取巻いた特務曹長の一団 炭火を囲む佐官の一団などを見て歩く裡(うち)に 人員検査が済んで雪掻に紙を張って中隊名を記した印を先頭に 将校や下士に引率された入営兵が営舎の方へ行く

=中略=

一時間ばかり経って舎内に行って見ると 入営兵は何れも各班に分かれてストーヴを囲み 物珍しげに赤毛布に包まれる寝台や棚の上に積み重ねた古兵の兵装品などを眺めている
中隊附将校が其間を見回って班長や上等兵に何か注意して歩き 間もなく各班とも衣類の着換にかかる

古兵や上等兵が一人一人に襯衣(しゃつ)からズボン下から着方を教へ ダブダブのやツンツルテンの軍服を 彼でもない是でもないと着せて見て 帽子迄被せてやっている

今迄は十人十色の服装であったのが 斯う軍服を着せて見ると初めて軍人らしくなり 立派な初年兵様が出来上がったやうに見へる
それから着て来た衣類を古兵と一緒に畳んで貰って 風呂敷包や油紙包にして置き 蟇(ガマ)の頭のやうな茶革の靴を穿いて見ている

一室で中隊長から挨拶や注意を受けた付添人が将校に案内されて 息子やら兄弟やら友達やら軍人振をにこにこして見て廻る

一わたり混雑が済むと何時しか昼飯の時間になって 各班とも食事の準備に返る、今日だけに特別の御馳走と見えて アルミ製の食器には赤飯が山と盛られ 大きな皿に煮魚や蒲鉾やキントンやが沢山並べられ 素敵に大きな大根漬までが添へられてある

見事に平らげるのは古兵で恥かしさうに下向いて喰べるのが初年兵、末で馴染みのない顔を見合わせて 兎角無言勝だ

午後は一同入浴といふので新しい手拭を下げ 不格好な靴を気にしい気にしい 浴場の方へ古兵と共に出掛けた

この夜 入営第一の夢が何処に飛んだかを聞いてみたい
(1913年:大正2年12月2日付 北海タイムスより)

大正は「徴兵制」のあった時代。検査を通った20歳の道産子の若者たちは、12月1日に月寒の連隊へと入営していく。

ひときわ冷え込んだ大正2年の入営日。記事には火を囲む大人たちの描写が繰り返し出てくる。
たき火だったり、ストーブだったり。

兵役は3年。彼らの未来には第一次世界大戦が控えていたことはまだ誰も知る由もない。。。
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2021年01月16日

北海道歴天日誌 その18 大正二年の歳末を質屋の主人に聞く(1913年12月23日)

大正2年12月20日。

札幌・狸小路商店街では歳末の大売出しが始まった。

賑わう狸小路から創成川を挟み、東側の地域は、昔は景気に敏感な労働者街。
ここにあった質屋の主人へのインタビュー記事を読んで、大正2年の歳末の風景を眺めてみる。

●暮の鐘 ボーンと鳴る瀬戸に冬と春と合借家

狸小路は例年の如く 去る二十日より二十六日まで連合大売出し
軒並に飾られた椴松(とどまつ)の流し 之に 無数の提灯が添へられて 美しさ言はん方なく 沖天に翻る幾数条の万国旗に加へて紅白紫赤大小の旗幟が師走の風に煽られ、其の間を右に左に征き交ふ男女の繁く、何やら新しい年の 其辺に見ゆる賑ひ

川一筋隔たった 向ふ南三 四条の東二 三丁目は札幌随一の貧民窟
カランカラン馬橇に積んで来るのは木炭に薪の山、二番醤油で煮〆たかと思はれる手拭の頬被りで炭カマスの買出し、是ら労働者の住む区域を花主としている南四条東二丁目 清水質店の主人は 昨今の景気に就て語るやう

本年の凶作は市中に影響あるに違ひないでせうが、併し 其 凶作は多く山方面で 函館 小樽 札幌は大した事でなからうと思はれます
唯 置いてある質物は今頃 とうの昔に受出されておるのですが本年はそれがありません

私どもの界隈は真に労働者のみで 景気 不景気は直ぐ分かります
毎年の例だと是迄の分は遅くも今月の二十五 六日前後に受出され 正月が極く閑散で 二 三 四の三月が最も入質が多く 七 八月に至って此の品が受け出され 九 十月に至って更に入質したものが丁度今月受出される勘定
而も年々 こう繰り返されて居るのです

然るに本年は前 申し上げる如く さっぱり受質がなく 毎日二十口以上、三十口ありますが 其の内 受質は五 六件でせう

他は悉く入質のみならず 貧民区域なため 一円以下の口数が多く 是も商売だから已を得ませんがなかなか手数なものです
斯うしたお客様ゆえ 持ってくる質草は鍋、釜、鉄瓶、大工道具、木挽の鋸、甚しきは蝙蝠傘直しの道具まで取ります

私の所は昔から こんなお客様ばかりで 宅の親父なども 「細民には面倒を見て遣る事だ」と言ひ、何を以て来やうと規則に違わぬ限り一切断りません、

又 こんなふうですから置く人も其の品物を流しません 流すと後で買ふのが大義ですから決して流すやうの事はしない
命から二番目の商売道具なれば 必ず流して呉れるなと堅く念を押して行きます
故に 此方でもお客様の言ふが儘(まま)にして居ります

普通 質物の流れるのは六か月としてあれど 私の店では八か月間は流しません
規則には三ヶ月とあれど実際は四ヶ月それに一ヶ月猶予して五ヶ月、次の六か月も十五日前は大概 面倒を見るのは何の店でも札幌の習慣になって居ます

凶作の影響とも思へぬが市中以外 私共へ来るお客に平岸方面の農家が十軒余あります
質草は全部衣類で之を行李に詰め 馬につけて来るのです
是等は秋作の取れるまでといふ約束で、七ヶ月でも八ヶ月でも一向構いませんが 其かはり 約束した月になると作物を金にして綺麗に持て行きます

本年は凶作か 各村とも大分 拓殖から資金を引き出すと見え 此程 石山の或 客人から 其の様話をして居ましたが、道理で近頃 折目のない新しい紙幣が大分流通して居ます

借りるのもよいか知らねど 兎角 金といふものは足の早いもので資金が資金として用を足せばよいがと余計ながら私共思っています」云々
(1913年:大正2年12月23日 北海タイムスより)

この年の道内は未曽有の凶作。商店街の質屋でも凶作の影響が感じられたようである。
貯金を引き出しているので、折り目のない新しいお札を見ることが多いというのは商売人ならではの視点。
質に出したものは12月25日〜26日頃までには、ほぼ引き取りに来ていたということであったが、どうであったか。

札幌の最高気温は、狸小路の大売出しが始まった20日、21日はプラス0.5度だったが、22日以降は大みそかまで10日連続の真冬日となった。
雪はちらつく程度の日が多かったが、クリスマスイブの24日は2ミリの降水があり、新雪にすっぽり覆われたであろう。

大みそかにもまとまった雪があり、大正2年は暮れて行ったのであった。
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北海道歴天日誌 その19 或る死刑判決(1914年1月26日)

1914年(大正3年)1月26日。

19140126天気図.jpg

発達した低気圧が樺太南部にあって北海道は気圧の谷の中にある。
札幌の最高気温は−1.3℃。前日は6.2℃まで上がっていたので真冬の寒さが戻った感じである。

ただ、1914年の1月はこの時代では珍しいくらいの暖冬であった。函館では真冬日はたった3日間しか観測されていない。
札幌でも上旬から中旬にかけてはプラスの気温となる日がほとんどで、1月14日は9.5℃(今でも1月史上3位の高温)を記録したほどだった。このため、札幌っ子には、ようやく札幌の真冬らしい寒さがやってきたという感覚だったかもしれない。

天気は昼前に一瞬曇った程度で、風花が多少ちらつく程度。概ね晴れていたが南西の風はやや強く吹いた。

この日、札幌の裁判所である男に判決が下った。量刑は「死刑」である。

午前7時。裁判所には早くも裁判を傍聴しようと人が駆け付け始め、午前十時半の開廷時間には「立錐の余地なき有様」だったという。
被告人は両手をひざに乗せ、身動きもせず、うつむいて裁判が始まるのを待っていた。

被告人の名は、光岡享三郎。鉄道員である父・熊次郎の三男である。

熊次郎は明治34年頃まで明石にいて山陽鉄道の製図事務の仕事をしていたが、招聘されて北海道鉄道に転職し函館へ移り、函館線の測量事務にあたっていたが、明治40年に北海道庁に再び転職して札幌へ移り住み、拓殖部殖民係で地形図作成の仕事をしていた。
北海道に来る前に別れた妻との間に三人の子供がおり、その末っ子が享三郎。彼は明石にいたころに北村家に養子として出され、北村家とともに室蘭へ移り住み、成績優秀だったため、札幌中学校(現・札幌南高校)へ進学したが、北村家の家業が傾いたため一年で中退した。

実の父親が札幌にいた関係で、享三郎は熊次郎の家にも出入りしていたが、当時熊次郎はサメという芸妓と再婚し、サメの母のタミも同居していた。

この再婚の際、北海道まで追ってきた先妻にはわずかな金を渡して手切りし、子供は引き取ったもののサメが追い出すなど、トラブルもあった。このため、享三郎としては熊次郎の後妻となったサメやタミのことはあまりよく思っていなかった。

そんな中、1913年(大正3年)11月23日、事件が起こる。

・・・二十三日午前一時頃 通運会社函館停車場前 通運会社出張所に札幌通運会社支店より「仁科の荷物 直ぐ返送せよ」との電報あり
右電報を受けたる店員は それに相当する貨物を取調べたるに 同日午後一時四分着第一〇六号貨物列車にて莚包荷物二個到着し居るを発見し 直ちに返送の手続きを為すめく停車場に運び出さんとせしが 荷物の表記に「古着其の他書籍」と記載しある割合に目方重く 且つ 表装に血の滲み居るを発見せるより そこには貨物取扱に経験深き店員の事とて 是は唯の荷物に非ず 仔細ぞあらんと運搬を中止し 鉄道院貨物係に報告し 石井書記立会の上 其の貨物を開きたるに

驚くべし 女の惨殺死体が 而も二個まで現はれたり

今当時の模様に付 自ら其の荷物を開きたる店員 橋本新太郎氏の談話を記載せんに

「私は何でも此の貨物が怪しいと思って 鉄道院の石井さんに立ち会って貰ひ まず血の滲んで居た方の莚包を開けて見様と思ったが 麻縄で堅く縛ってあるから解けぬ故 ナイフで切って開くと 其の下が五本筋の入った白毛布で綺麗に巻いてある

そしてそれを革帯で締めてあった 其の中から古い柳行李が出た

そら人が出るぞと冗談口をききながら行李の蓋を開くと 冗談どころか本当に人が飛びだしたには驚いた
それは六十五 六歳と思はるる老婆で 面部を洗ひ 晒しの綿ネルの腰巻で巻いてあった
それを取ると右眼下から鼻にかけて鋭利の刃物で突き刺したと思はるる疵があった

今一つの莚包を開けて見ると 今度は新しき柳行李が花御座で巻かれてあった

其の行李の蓋を開けると 年頃二十前後の下女風であるがハイカラに結った美人が瓦斯縦縞無尻を着て鉄色綿ごんすの帯を締め 赤の支那ごんすの裏のついた銘仙の羽織にカバーのついた白足袋を履き 唐縮緬の前掛けを締めていたが 可哀想に古手拭で咽頭部をウンと絞められて 口から血糊を吐いていた

凄惨なる光景に一同蒼くなり 直ちに其の筋の臨検を仰ぎ 死体は警察署員引き揚げられたり・・・」
(1913年:大正2年11月25日 北海タイムスより)

函館駅で死体が入った二つの荷物が見つかって大騒ぎとなったのである。

一方、札幌では熊次郎から該当の荷物の返送の申し込みがあったことから警察が捜査していたところ、享三郎を取り調べることとなり、犯人とわかってスピード逮捕となったのであった。

その後の捜査で、享三郎は、熊次郎が長万部に持っていた土地を売って得た600円を手に入れようと、熊次郎の不在中にサメを殺して奪うことを計画して熊次郎宅を尋ね、最初に家にいたタミに金の無心を要求して悪口を言われたことから殺害、さらに帰宅したサメもまた絞殺し、タンスから500円相当の物品と通帳を奪って逃げたことがわかり、殺人と強盗の罪で起訴されたのであった。

後妻ではあるが、享三郎からは「親」となることから、親を殺して物を盗んだという重罪に問われることとなり、裁判では評議の結果、被告人となった享三郎は死刑と処すことと判決が下ったのである。

被告享三郎は判決を聞いて顔色を変え、その後留置所で涙を流したと記事には記されている。

それにしても事件発生から判決まで僅かに二か月。今の世と比べると、かなりスピーディーな裁判である。
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2021年01月25日

北海道歴天日誌 その20 犬を拾って育てたら・・・大騒動(1914年2月10日)

1914年(大正3年)2月10日。

札幌は非常に穏やかで、日中の風は2メートルくらい。夜は風が止まって静穏となったほど。
午前中は晴れ間があり、午後は曇ったものの、雪は降ってもちらつく程度だった。

札幌の最高気温は−2.3℃。最低気温は−14.1℃。この年の冬としては、寒さは厳しいほうである。

19140210天気図jpg.jpg
▲1914年2月10日6時の天気図

気圧配置は冬型だが、北海道付近は少し等圧線の間隔が開き、内陸には局地的な高気圧ができている。
流氷接岸期に北風系の冬型となった場合に現れやすい形の気圧配置で、旭川は−25.3℃、帯広では−27.0℃まで冷え込んでいる。

この穏やかだが寒い日、札幌駅前で一頭の樺太犬が拾われた。

●拾った犬をあわれむ

札幌区豊平町十番地 日雇業 三上金蔵の妻は 去る十日 札幌停車場前にて 鼠栗毛に皮の首輪をした鎖付の樺太産一頭の牝犬が彷徨したるを拾得し 直ちに其旨 警察署へ届出て 且 自分が常に犬を好む癖あるため 愍然(びんぜん)に思ひ 自宅へ伴れ帰り 其身が日雇をして得る食物の半ばを犬に與へ 一方 犬の飼い主を探したると 右の放れ犬は 東北大学の所有にて 学生用研究のため飼育しをるものと判明したれば 其筋は昨日 東北大学に関係ある北八条東一丁目 小野喜左衛門を本署に出頭せしめ 犬に就て仔細を聞くと 前記の如く東北大学の飼犬に相違なき由語るゆえ 然らば 拾得者に対し 殊に今日まで飼育せしもあれば金一円を報労せらるべしと云ふに 喜左衛門これを承知せず 犬は学生大勢にて飼ひをるものなれば何人より報労金を出して宜しいか困るとの返答に それなら学校より支出せしむるが道理ならずやと言ひ 今尚 ごたごた中なり
(1914年:大正3年2月17日北海タイムスより)

札幌駅前で犬を拾ったが、警察も拾得物とはいえ犬は飼えぬというところで「じゃあ、犬は好きだし、見つかるまでウチで飼っているわ」という感じでいたところ、大学の犬ということがわかったのだが、お礼のお金を払っては?という警察に対し、大学関係者が拒否するという展開となり、話こじれたというものである。

ちなみに「東北大学」というのは、当時農科大学という形で東北大学の一部となっていた札幌農学校=北大のことである。

一円くらい、どうにかならんかと思うものだが、この話は強硬な形へと展開する・・・

●婦が子を連れて大学内で大音響

豊平町十番地 三上金作妻コト(三十)が本月十日 停車場通に於て茶色の樺太牝犬を見付け 同日 其の旨 豊平町派出所へ届出でたる上 犬を自宅に連帰りて飼ひ居るな形それが農科大学の犬と判明し 大学対コトとの間で拾得報労問題に付いて紛糾中なる事は既報の如くなるが 其後も報労問題 埒(らち)明かず

十九日午後八時頃 一人の男 豊平町なるコト方を訪ね「証明書 東北帝国大学農科大学家畜病院牧夫 小野喜左衛門 右は当院畜犬(秋号茶褐色白刺毛)引取のため豊平町に出張せし事を証す 大正三年二月十八日東北帝国大学農科大学家畜病院 印 」といふ書付を突出して 有無をいはせず犬をコトの手より奪ひ取り 大学へ連帰りたるが

コトは一週間以上 犬を飼ひ置き 只で持ち帰られてはなるものかと 昨朝一人の子を負ひ 一人の子の手を引きて わざわざ大学へ出頭して一円の報労金を請求せしが

大学側たては是は誰といふ責任者なき犬なれば報労金は出せないと断はり 且 お前はそんな事をいって 犬を茲から盗んで行ったのだらう との事にコトも呆れて腹が立ち「泥棒 泥棒」と構内にて大声揚るより

大学にては再三電話をして札幌署にかけて コトが乱暴する故 取押方を依頼し 未だに紛糾中なるが

コトは日雇業者と雖も 亭主金治(四九)が夕張線鉄道工事にて足を折りたる以来 毎日日食を乞ひ歩きて 金治と二人の子を養ひ居る乞食の身なれば 只 犬が好きだと云ふだけにて其の筋へ拾得の届出なしたる上 犬を連れ来り 貰った食糧にて一週間も飼育し 銅玉の出た上で一円の報奨金を請求するは当然と云ふべく

大学側に於て 責任者なし一天張を以て 斯る乞食風情に一円の報労金を与えず あまつさえ盗賊呼ばわりするは大人気なき所為なりとの非難もありと
(1914年:大正3年2月21日 北海タイムスより)

なんと、大学が犬を”強奪”し、お礼どころか「お前は犬を盗んだのだろう」とまで言い放つ始末。
これにはさすがの拾得者も大いに怒り、警察を呼ぶに至ったということであった。

新聞も大学よりも拾得した女性のほうに肩入れしている感じだが、この話は最終的にどうなったのか。続報はなかった。。。

大学が突っぱねて、こじれたまま終わったのかな・・・?
posted by 0engosaku0 at 22:55| Comment(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする