2025年11月09日

北海道歴天日誌 その276(1923年5月3日)白老の秘湯・沖野温泉の夢

白老町森野というと、北海道で気象をかじった人間であれば、誰もが知っている地名。
この場所は、低気圧や台風の通過により、道内一の降水量を観測することが多く、夏場の”大雨常襲地帯”として有名である。

令和7年(2025年)は9月13日と10月1日の2回、日降水量360ミリを超える極端な大雨を記録し、後者では一時間降水量123.5ミリという猛烈な雨も観測した。

この北海道の中でも一番雨が降るといわれる、この地域に、もう20年以上も通行止めとなって放置されている道道がある。
道道白老千歳線(道道1045号)である。


▲白老町森野の道道1045号の入り口。ゲートが下りて通行止めとなっている。

もともと、この道路は千歳側(美笛峠方面)が未完成で、白老側から入っても行き止まりの”盲腸路線”なのであるが、2003年(平成15年)11月26日から「路肩決壊の恐れ」で通行止めとなってから、解除されたことはないようである。

しかし、この道道の奥には「沖野温泉」という野湯マニア垂涎?の秘湯がある。

この温泉の概要は、ちょこっと検索すると探検記がぞろぞろ出てくるので、そちらで見ていただくこととするが、この野湯の経済的利活用が考えられていたのが、1923年(大正11年)である。

今回はこの時の記事をみてみることとしよう。

白老川上流で 温泉を発見

白老から約三里半、白老川の左岸に流入るポンベツ川を遡ること約十五町にして 通称温泉川と云ふ 湯の流れる川に達する
其(その)川を更に十町程上ると 川の両岸の岩の間から 人肌位の温泉が湧き出てゐる

昨年の十月頃 之に目をつけたのが 室蘭のおかめ豆腐屋 沖野岩吉氏である

尤も発見は 明治三十五 六年頃 土地の人達に依ってなされたので 沖野氏は 此土地に長く百姓をやっている 伊藤石松氏から聞いたのである

早速大学病院から 某学士と助手を招いて 現場の調査と分析をやって貰った
夫(それ)は昨年の十二月頃の事である

其結果 硫黄分を含む塩類泉で 眼疾や皮膚病、腫物に点効のあると云ふことが判明した

沖野氏は此結果に益々勢を得て 直ちに測量をして其處は御料地なので宮内庁に出願した
夫で 御料局札幌支所から この四月七日に技師が一名派遣され、苫小牧川口出張所長、錦多峯松田分担区員が現場の案内をして 松田分担区員の測図に基づいて実地調査を遂げた

沖野氏は 早速 道路工事や建築を苫小牧の西村嘉一郎氏に請負はしめ 土工も現場へ上り 今は只 許可の指令を待つばかりで 遅くも七月末迄には大体の工事を竣成し 入浴の出来る様にしたいと意気込んでゐる

昨年十月 実地を見た御料の一谷君の話では 温泉一体は岩磨で 其の岩で自然の浴槽が出来、瀧を作ることも自由自在で 風光絶佳申し分のない温泉場なさうである。

之は話に過ないかも知れぬけれども、場合に依っては電車までつけ様としているとのことであるが 夫までゆかなくても、徳舜瞥(とくしゅんべつ)道路の完成に伴って 人里離れた神秘境にある此温泉も 追々 浴客を呼ぶに至るだらうと思はれる。
(1923年:大正12年5月3日付 北海タイムスより)


この記事が出てから5年後の1928年(昭和3年)。
沖野岩吉はこの温泉に自分の名前をつけ、旅館を建設。「沖野温泉」としてこの地で創業する。

1930年(昭和5年)に発行された「日本温泉案内」には、沖野温泉は白老駅から徒歩4里のところにある閑静な湯治場で、周囲は密林がうっそうと生い茂り、昼間でも暗いほどであると説明されている。「沖野旅館」への宿泊は、1泊3食で1円半とのことであった。

しかし、アクセスが悪すぎて事業はうまくいかず、温泉は3年後の1931年(昭和6年)に伊藤達夫商店に売却。
その後、この地に作られた旅館の建物はとりこわされた。

時代は下り、1964年(昭和39年)に北炭観光開発が沖野温泉付近のボーリング調査を行ったものの、湯は出たものの温度が35.5℃といまいちで、1976年(昭和51年)にも調査は行われたものの、結果、温泉は自噴のまま放置された。

その後、沖野温泉のそばを通る道が「道道白老千歳線」となり、道庁管理の道路となったのだが、温泉付近はほとんど整備されぬまま全区間通行止めの憂き目に遭い、20年余りが経過したのである。

沖野温泉はこうして知る人ぞ知る、野の秘湯となって今に至る。

廃道同然のヤブ道に加え、ヒグマやアブ、マダニの巣窟、、、。
沖野温泉への道のりは、大正よりも令和の今のほうが険しいのかもしれない。
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2025年11月03日

北海道歴天日誌 その275(1923年4月27日)沙流と沙留、2つの火災

1923年(大正12年)の4月。
前々回の話にあった、17日から18日の季節外れの雪の後は、北海道にはまとまった降水はしばらくなかった。

こうなると増えてくるのは火災のニュースであるが、今回はちょっと変わった火災の話題から。

幌延炭鉱 自然発火

天塩郡幌延村大字沙流村字下エベコロベツ原野奥にある 吉村龍介氏所有炭鉱は 石炭質良好なる露出炭層にして 天塩線開通の暁には 採鉱に着手すべき 幌延村唯一の天産物なるが

同原野農夫 中岡能八なる者 三月初旬 折柄の堅雪を利用し 兎狩に奥深く入込む處 約一里を距てたる前記炭山露出層の一部分に 白煙濛々と立昇るを見たれば 不審に堪えず 近着き行しに 炭層の内部燃焼し 巨大なる屑炉の如く付近の積雪 頻に融け盛んに白煙を挙げつつある事判明し 大いに驚き下山して 村民に斯くと告げたれば 官林地内の事故 農林区分署に急報し 対応策を講じつつあるも

何分にも地中一大火炎と化したる事故(ことゆえ) 手の着けやうなく 目下 斯かる炭山 自然発火は稀有の事とて 物珍しさに怖々見物に登山する者 引きも切らずと
(1923年:大正12年4月24日付 北海タイムスより)

幌延に炭鉱というと、現在の幌延町南東部の問寒別川上流部にあった幌延炭鉱の話かと思ったが、記事をみると「下エベコロベツ川」とある。これは今の豊富町を流れる川。すると豊富の話か・・と。

確かに「幌延村大字沙流村」というのは、今の豊富町のことで、1940年(昭和15年)に分村されるまでは幌延村の一部であった。
下エベコロベツ川は豊富町を東西に流れる川で、下流部に豊富市街地、中流部に豊富温泉がある。そして上流部にはのちに日曹炭鉱として知られる炭鉱があった。

この炭鉱は明治時代に本願寺の関係者が「幌延炭鉱」として試掘をしたものの、輸送手段の不便さから打ち切られ、大正時代は打ち捨てられていたとのこと。ちょうど管理がなされていなかった時代に、自然発火事故が起きていたこととなる。

この記事には後報はないが、この火を消すにしても、消防の手段も、もちろん道路もあまり整っていない時代。
結局”自然消火”となったことであろう。

なお、炭鉱のほうは1937年(昭和12年)から日曹鉱業株式会社が本格的な開発を開始し、1000人から2000人が住む炭鉱町ができるほどとなったが、1967年(昭和42年)に再び自然発火が発生し、被害を生じる。そしてその5年後の1972年(昭和47年)に閉山することとなる。

さて、同じころ、沙流(さる)と似たような名称の集落「沙留(さるる)」でも大きな火災が起きている。

山火襲来して修羅場を現出 烈風中の沙留市街地

北見沙留市街は二十七日午後一時 山火襲来し 一大修羅場を現出した

連日晴天にて万象乾燥し居る矢先とて 原野の農家が火入れの不注意から火は西南強風の為め 一大山火と変じ 風下の沙留停車場へ襲来したので 市街は一面火の粉と煙に包まれて 風速二十米突とて目も口も開かれず 老若男女右往左往に逃げまどふのみであった

最初 前田木工場及び職工長屋 停車場附近の木材は火の粉に焼失し 小学校を烏有に帰せしめ 新市街道路の木材に飛火し 道路向の小野待合、運送店、漁舎 海上にある鰊枠船悉く全焼したのは気の毒でもある

前田、佐藤、菊池運送店も焼失した

御真影は校長奉遷して無事であった

一時は猛火中にあった沙留病院、住友事務所、停車場、鉄道官舎の無事であったのは 非常の強風の為もあるが 全く奇跡 天祐の至りでもあった

官舎の人たちは出した着物を大部分焼失した

紋別、渚滑、興部から消防組が救援に来て活動したが、停車場附近は水利の不便なる為 消火上不自由であった
幸い 人畜に死傷がなかったが 焼失六十戸 損害十万余円 木材損害六万円、各所の木材容易に消火せず 時々強風の為 火の粉市中に飛散し 不安なるより住民は荷造りの上に妻子相擁して戦々恐々として昨夜も一睡もせぬ

本日に至るも 強風 猶熄まぬ
(廿八日午前十一時 遠藤特置員)
(1923年:大正12年4月30日付 北海タイムス)


4月27日午前10時ころ、興部村沙留の山林で農家の不注意から燃え広がった山火事は、南西の強風によってたちまち海に向かって燃え広がり、正午すぎには沙留の市街地に襲い掛かった。

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▲当時の沙留市街(1923年:大正12年4月29日付北海タイムスより)

当時の記事には、火のため線路が弓のように曲がり、ついには破断したと報じられており、山火の凄まじさの一端を知ることができる。
この日は、興部村の別の場所でも山火が発生し、興部市街地が一時危険な状態となったほか、隣の雄武でも山火が発生し、湧別でも山林火災が発生するなど、紋別地方では各地で山火が頻発した。

沙留の火災は28日午前4時に鎮火したが、52棟、15戸が焼失した。また沙留の消防士1名が3週間の加療を要するヤケドを負うなど、数人がやけどをしたが、死者はいなかった。

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▲1923年(大正12年)4月27日正午の天気図

網走では4月20日から27日にかけての降水量はわずかに2.6ミリ。記事にある通り、オホーツク海側は連日晴天で雨の少ない状態であった。

27日の天気図は、関東方面に高気圧、アムール川下流域に低気圧がそれぞれ配置され、北海道付近は”南高北低”である。
しかも等圧線の間隔は狭いので、南西の風が強く吹きやすい形。特にオホーツク海側ではフェーン現象が起きやすい気圧配置であった。

網走は26日までは平均気温が6℃前後とそれほど暖かくはなかったが、この27日には最高気温が19.6℃まで上昇。平均湿度も43%と、空気は乾燥した状態となった。
最大風速も10m/sを超え、乾燥・高温・強風という春の山火の3要素が揃った状況となったのである。

このため、27日は紋別地方の各山林で一気に火がついた。
沙留のように火の不始末が原因であるものも結構多く、この時代に「乾燥注意報」があれば、少しは結果が違ったかもしれない。

その後沙留は復興し、今は、カニやホタテの水産業が中心で、夏は海水浴場が開設されるなど、浜の町となっている。
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2025年10月19日

北海道歴天日誌 その274(1923年5月1日)稚泊連絡船の開業

さいはて、北の果てと称される北海道。
しかし、1923年の日本において、北海道はさいはての地ではなく、さらに北には樺太があり、北東には千島があり、現代とはまた違った地理的感覚があった。

1923年(大正12年)5月1日(火)というのは、北海道と樺太のつながりが一層増した日であった。
宗谷海峡に鉄道省の「連絡船」が運航開始されたのである。

愈五月一日から稚泊連絡航路開始

昨年十一月 鉄道開通以来 有卦に入った稚内町は 諸設備 相次で完成し 頻繁なる来客の送迎と 祝賀 歓喜に遑(いとま)ないが その中で地方的に国家的に最も重要なる大問題 若かも稚泊両町の燃ゆるが如き熱望と 鉄道本省の施案が 茲に一致して具体化したる稚泊連絡航路開始は 愈々五月一日より実現することとなり 明二十七日を以て 鉄道省の祝賀大披露は催され 尚 稚内町は協賛会を組織して この日を歓喜と慶祝に満ち満たせる巷と化するのである

連絡船壱岐丸は已に去二十二日より稚内港内に投錨し 本日までを費して 連日徹底せる大清潔を行ひ 明日の暗を破れば 盛装の雄姿は静かに海上を横たはって 早 祝賀気分を表し 午前八時には鉄道局招待の遠近賓客約百五十名を搭乗せしめて 祝ひと喜びの焦点は 汽笛一斉を後に残して利礼両島へ向ふのであるが 是は稚泊連絡船としての壱岐丸とその第一歩たる試乗試航である

而して 北海の絶景を賞覧して 正午帰港し 来賓一同は是又 内外飾美を施せる海岸埠頭の大披露宴に臨むのであるが 一方 稚内町に於ても 支庁前と埠頭待合所前に 大緑門を立て 全長 幔幕と国旗を以て粉飾し 正午 壱岐丸の帰港を機として 四十七発連続の花火と 引続 昼夜間断なく打揚 以て祝賀気分に陶酔せしめ 夜は既亭井一楼にて盛大なる大夜会を開き 約百名の来賓を招待する

尚 余興としては 昼は各学生の旗行列、夜は町有志の提灯行列があり 乗船員一同には特に酒肴を呈して慰労する由である

稚内町民の満足と喜びはかくの如くにして 発露すると共に この連絡開始によりて齎(もたら)す町の前途や又祝福に限りないものであらう
(1923年:4月26日付 北海タイムスより)


先立つ4月18日。鉄道省は、この年の5月1日から北海道の稚内と樺太の大泊間を連絡運航し、旅客と貨物の輸送を開始すると発表した。
また、同時に函館から稚内には直通の列車を設け、青函と稚泊の両連絡船との接続を図ることとした。

日露戦争の結果、南樺太を領有することとなって以来、樺太への旅客・運送は函館や小樽、稚内などの港から逓信省や樺太庁が設定した「命令航路」によっていたのだが、国有鉄道が稚内まで延び、また樺太庁の鉄道も大泊から北へと伸びていたため、両者の鉄道での連絡が可能となり、「鉄道連絡船」が就航することとなったのである。

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▲稚泊連絡船の航路図(1923年:大正12年4月27日付北海タイムスより)

連絡船は隔日出帆

五月一日 連絡航路開始と同時に函館稚内間の直通列車が運行し この連絡船と接続を図ることとなり 稚内発は一番七時廿五分と着は午後九時十四分が直通となりて 遠く急行上野に結合してゐる

連絡船は偶数日稚内発 午後十一時三十分にして 大泊着は明朝七時、
大泊発は奇数日の午後九時で稚内着は翌朝五時となり 上り一番に連絡し 稚内発は 下り終列車に連絡して 共に直通する訳である

而して 稚内大泊間旅客運賃は 三等二・五〇 二等五・〇〇 一等七・五〇で 鉄道営業哩数は百三十哩となって居る
(1923年:大正12年4月26日付 北海タイムス)


当時は飛行機旅行はまだできない時代であり、自動車交通も未発達で、陸路の王者は鉄道である。
列車の接続がよいとはいえ、この当時、東京から樺太・大泊までは57時間かかったということだが、それでも上野から青森駅の急行に乗り、青函連絡船に乗り、函館から稚内行きの汽車に乗って、稚泊連絡船で樺太を目指す客は多く、青森行きの汽車の時点で既に「立錐の余地なし」の込み具合だったそうである。

値段の2.5というのは2円50銭である。2等は2倍、1等は3倍の料金で、わかりやすいといえばわかりやすい。

一番船は下関−釜山の”関釜連絡船”と青函連絡船を渡り歩き、連絡船として実績のある「壱岐丸」が担った。

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▲壱岐丸(4月26日付北海タイムスより)

稚泊連絡船開業日の5月1日はどんな天気だったか。

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▲5月1日正午の地上天気図

この日は奇数日なので、連絡船は樺太の大泊から稚内に向かってくる。
気圧配置は日本海に高気圧が進んでいるが、樺太の東には低気圧があって、宗谷海峡は「西高東低」の冬型の形。
天気図上にも樺太・北海道とも雪マークがみえている。

大泊は昼過ぎにかけて北西の風が10m/s前後と強く吹いた。5月初日だが、一時雪も降った。
夜には風は収まったものの、宗谷海峡の波は高く、船は結構揺れたのではないかと思われる。

ただ、船が宗谷海峡を通過している頃は高気圧が北海道を覆っていたので、連絡船が稚内につく頃には空は穏やかに晴れていたことであろう。

稚泊連絡船の二十数年の歴史はこうしてはじまったのであった。
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2025年09月06日

北海道歴天日誌 その273(1923年4月17日)4月の吹雪と礼文華小学校の校長の死

事件や事故の発生は、偶然の重なりによるものなのか。
今回は、1923年(大正12年)4月13日(金)の出来事から。

小学生二名撃たる

勇払郡鵡川村大字植別村 萌生小学校五年生 佐藤岩太郎(一二) 同五年生 清水清(一二)の両名は 十三日午後三時頃 他の児童と共に同校庭に於て遊戯中 何者かに狙撃され 岩太郎は 頭部へ 深さ骨膜に達する盲貫傷を負ひ 清は脚部に擦過傷を負ひたり

鵡川署では 伊藤署長 松山特務巡査と共に犯人捜査中なるが 岩太郎は相馬病院に於て治療を受けつつあり

同院長は 空気銃の流弾による負傷ならんと語り居るが 一般の観察は 遠方よりの鳥類を撃ちたる散弾の流れならんかと
(1923年:大正12年4月17日付 北海タイムスより)


萌生小学校は、2004年(平成16年)に閉校した鵡川町春日小学校の改称前の名前。
校庭で遊んでいたら、何者かに”狙撃”され、一人は頭を、一人は足を負傷した。

とんでもない大事件であるが、何故か紙面の扱いは小さく、上記引用がこの事件のすべてである。
その後、犯人が捕まったかどうかはわからない。

ここから88年後の2011年、鵡川の隣の厚真町で、林業作業員が伐採作業中、ライフル銃で撃たれて無くなるという事件が起きることとなる。
このあたりは、こうした事故が起きやすい土地なのだろうか?

この記事が紙面に掲載された日、同じ胆振管内で学校関係者の”事故”が起きている。

小学校長溺死

【十八日室蘭電話】
胆振管内辨辺村礼文尋常小学校長 小山幹臓(四一)氏は 十七日午後九時三十五分 室蘭線芦別川鉄橋進行中の列車より 墜落溺死し居るを 十八日に至り発見 胆振支庁より輿木属 現場に出張
(1923年:大正12年4月18日付 北海タイムスより)


弁辺村は、昭和7年(1932年)に豊浦村に改称し、今では豊浦町である。
記事中の「礼文尋常小学校」は、礼文華小学校のことをさす。

校長が列車から川に落ちて溺死・・・。どういったことなのか。
こちらは追って詳しい記事が出て来た。みてみよう。

虻田礼文校長 惨死の後聞

【十九日室蘭電話】
昨報、虻田郡辨辺村礼文小学校長 小山幹威(四一)氏の変死に就て 取調たる處

同氏は 秋田市上中島土手町十三番地に本籍を有し 郷里の小学校に奉職後 明治三十九年 始めて本道岩内郡茅沼小学校を訓導として赴任し 辨辺村には同四十二年九月 辨辺小学校訓導、同四十五年同村新山梨小学校長となり 大正七年九月 礼文小学校長に転じ 今日迄十五年間 同村に教鞭を執り 極めて謹直精励にて 村民の信望篤く 且 篤学の士とて

去る十六日 室蘭市女子小学校に於て執行せる小学校本科正教員の試験を受くる為 来蘭
幌別小学校長 小林金太郎氏が 辨辺村オホケシ小学校長当時 親密の間柄なるより 小山校長を自宅に宿泊せしめ居たるものにて

十七日は 志賀白老村長子息遺族弔問の爲 敷生に赴き 午後八時三十分 敷生発列車にて帰途に着けるが、幌別駅を乗越たるに気付き 驚きて鷲別村に下車し 線路の外側を辿り 幌別に向かって歩行中 暗夜と折柄の吹雪の爲 高さ一丈八尺の鷲別川鉄橋の袖より足を滑らし 河中に墜落 溺死せるものにて

墜落の際 橋梯に胸部を打ちたる如く ポケットの万年筆 鉛筆等は滅茶滅茶に打損じ居たりと云ふ
(1923年:大正12年4月20日付 北海タイムスより)


汽車を降り過ごしてしまい、折り返しの汽車ではなく、歩いて一駅戻ろうとして歩いていたところ、鉄橋の袖から足を滑らせて鷲別川に転落し、亡くなったという”事故”であった。

第一報の「芦別川」は「鷲別川」の間違いで、このあたりは電話でのニュースの連絡の際の”聞き間違え”があったのだろう。さりげなく訂正されている。



ところで、記事の中で「折からの吹雪」という表現がある。
4月も半ば過ぎで、胆振でも吹雪?どのような状況だったのか。

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▲1923年:大正12年4月17日午後6時の地上天気図

北海道を覆っていた高気圧が東へ移動し、日本海から低気圧が発達しながら進んできている。
天気は下り坂で、南東風であるから、胆振地方は早々と降水が始まっていてもおかしくないのは天気図上でもよくわかる。

大正12年は室蘭に測候所が設置される前年であり、まだ室蘭周辺の天気データがない時代である。
ただ、この事故があった17日夜の降水は、函館では気温は1℃台でみぞれ、札幌も気温が1℃台で、こちらは雪であった。

このため、室蘭周辺も同じような気温で、雨交じりの湿り雪であった可能性が高く、記事がいう4月の”吹雪”もホンモノだった模様である。

なお、この荒天については「暴風警報」によって危険性が伝えられていたのだが、ひょっとしたら知らなかった人も多かったのかもしれない。
というもの、この前日までの数日間、天気予報は発表されず、紙面に掲載されなかったからである。

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▲天気欄に「予報発せず」と掲載(1923年:大正12年4月15日付 北海タイムスより)

天気予報が出ない理由は、天気図を作成するもととなる観測データなどを送る「電報」が、札幌と東京間で不通になったためである。

15日、16日と紙面に予報は掲載されず、17日になってようやく掲載されたのだが、ひょっとすると”天気予報はきょうも出ないだろう”と、記事を見落としていた人もいたかもしれない。

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▲復活した天気予報 (1923年:大正12年4月17日付 北海タイムスより)

電報故障によって、札幌測候所が天気予報を出せなくなるという事態は、このあと4ヶ月半ほど後に、再び繰り返されることとなる。

本日はここまで・・・。
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2025年07月22日

北海道歴天日誌 その272(1923年4月9日)春の初めの大嵐!和寒と美幌では大火発生

1923年:大正12年4月9日。
朝鮮半島付近の低気圧が急速に発達しながら日本海を北東に進み、この日には宗谷海峡付近を通過して、樺太の東海上へ抜けていった。

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▲9日正午の地上天気図 (『天気図』大正12年4月,中央気象台,1923-4 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この時代の気圧の単位はmmHg。このため、中心気圧は732となっているのは732mmhgという意味で、現在のhPaに直すと976hPaとなる。
宗谷海峡で976hPaというのはなかなか強力な低気圧である。

札幌では6時に16.7m/s(南)の最大風速を観測したが、函館は4月2位の25.6m/s(西南西)、根室は4月3位の22.5m/s(南西)、旭川は4月8位の17.0m/s(南西)といった具合で、全道各地で4月としては異例の強風が吹き荒れた。

札幌では、低気圧接近中の9日未明に簾舞第二水力発電所の故障により全市停電となったのを皮切りに、板屏の倒壊、看板の落下、窓ガラスの破損、屋根の破損、電柱倒壊といった被害が全市的に発生した。真駒内の種畜場でも厩や工場が倒壊する被害があり、琴似では家が倒壊して女の子が一人亡くなっている。

まだストーブを使う季節なので、函館では煙突の火の粉が広く飛んで、あちこちで火事騒ぎ。
新築中の家が強風に押されて45度傾斜したり、工事の足場が倒壊するなどの被害も出た。

小樽では手宮貨物駅の構内で火事があり、木造倉庫が烈風で倒壊したりといった被害があった。

後志の然別では、駅長官舎が風で倒壊し、避難しようと戸外に出た富樫駅長が巻き込まれて一時意識不明となった。芦別駅でもホームの屋根が倒壊する被害が起きている。

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▲暴風で板塀?が吹き倒された札幌市内の様子(1923年:大正12年4月10日付 北海タイムスより)

室蘭では20メートルを超える強風で、屋根に被害があった建物が130戸にものぼった。
虻田村では床丹湖畔の松本留吉宅が8日午前1時頃、暴風のために倒潰し、妻と長男が巻き込まれて亡くなった。

宗谷では、稚内の抜海小学校が倒潰したほか、利尻島では大時化のため鱈釣船が100隻余り破損し、漁船の陸揚げ作業中の漁夫と女性の三人が波にさらわれて亡くなった。猿払の浅茅野駅でも機関庫が風で倒壊した。また、頓別漁港ではタラ釣りに出た漁船が浜に戻れず水船となり、石川県からの出稼ぎ漁師6名が亡くなった。

オホーツクでは、興部村の上藻興部尋常高等小学校の片屋根が吹き飛ばされ、大きく損壊した。

十勝の新得でも市街地の家屋が50戸倒壊し、新得小学校の屋根は30坪ほど吹き飛ばされた。

なお、4月の上旬はニシン漁の盛期であり、ちょうど群来があって大漁となっていた浜が多かったのだが、この嵐によって海も大時化となったことから、留萌や小樽などあちこちの浜ではせっかくのニシンを投棄せざるを得なかったほか、漁具が流されたり、船が破損したりと、その後の漁にも大きな影響を与えるような被害があった。積丹の余別では建網交換の漁船が転覆し2名が溺死している。

このように全道各地で大きな被害があったのだが、風があると被害が大きくなる災害の代表格が火事である。
この嵐の際に、2つの町で大きな火事が起きている。

和寒火事

【九日旭川電話】九日午前六時頃 上川郡和寒村旧市街地 湯屋業旭湯より発火
折柄の猛烈なる南東の暴風に煽られ 見る見る中に 四隣に飛火して 四辺は猛火に包まれ 火勢は愈々猛烈を加へて 和寒公設消防組は無論 急報に接した隣村の公設消防組は臨時列車にて応援 必死となり消火に努めたるが 遂に十九棟二十三戸 及 停車場構内の角材二百石 木炭十台車千五百俵を全焼の上 同午前八時半 漸く鎮火せるが

同所は目抜の場所とて大混雑を呈したが 停車場は一時危険に瀕したる為 名寄午前六時二十五分発の旅客列車は和寒駅に七時五十八分に着せるも 駅員は全部 火を消止めの爲 切符さへ売る事が出来ぬと云ふ有様にて 損害多大なるべく 原因と共に目下取調べ中なるが 幸いに人畜に死傷なかりき
(1923年:大正12年4月10日付 北海タイムスより)


和寒では26戸が焼ける火事となったが、一時は和寒全市もひとなめにされるかと思われるほどの火の手だったため、これだけで済んで消防はよく頑張ったという評価となった。

そして和寒よりも大きな火事となった町もある。

美幌大火の焼失 八十二戸

【網走十日発電】美幌の大火は近年未曽有の惨事で 今尚 混雑中にて 正確なることは期し得られないが 警察署 町役場 及 本社特派員の調査を総合するに 午前九時二十分 東一条北二丁目二十四番地 女髪結業 永井田シゲ(五〇)がストーブにて飯を炊き 煙突より発火したのが原因らしく

折柄強風砂塵を捲き 往来も困難で さなぎだに人心恐々たる際 警鐘乱打に すは火事よと云ふ間もなく 火焔は一条通三丁目 及二条通三丁目を舐め尽し 更に東一条一丁目 大通北二丁目 三丁目 四丁目の七十三棟八十二戸を 僅 四十分足らずに焼失したので 各戸共 殆ど何物も出し得ず 着の身着のままで漸く身を逃れたる状況なれば 損害は約四十万圓と調査されている

警鐘と共に 真先に駆付けたのは 第三部の消防組にて
続いて第二部及び第一部 必死の活動に依り 漸く大通北四丁目の郵便局で喰ひ止めたが 障子、唐紙が飛鳥の如く飛ばさるる大風にも係はらず 此処にて喰ひ止めたのは 全く消防組の非常なる努力であった

消防手で類焼の厄に逢ったものは 第三部の千葉輿三吉、米田健吾、稲田国男、川原繁一、土田茂太郎、村上定吉、第一部の瀬川留五郎の七戸で 之等は何れも 自家が焼け 妻子は悲鳴を挙げて救ひを求むるにも係はらず 毫も顧みず 職に尽せしは一般の称賛 措く能はざる處である
(1923年:大正12年4月11日付 北海タイムスより)


美幌村は4月1日に一級町村に昇格したばかりであったが、町の中心部を焼く火事に見舞われた。
わずか40分で80戸余りが灰となり、郵便局も15分ほどで全焼したという。

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▲美幌の火災焼失区域図(1923年:大正12年4月12日付 北海タイムスより)

午前9時過ぎの火災だったが、料理店の多くに火がかかり、芸酌婦はまだ寝ている時間だったため、寝巻のまま避難したという。
また、女満別にあった帝国製麻の職員が、網走から臨時列車を仕立てて応援消防に入ろうとしたが、鎮火したため、結局は中止となった。

こちらの火事でも、記事にみるように消防の活躍が賞賛されている。
特に、自分の家が燃えているにも関わらず、消火活動にあたった消防組員は、その行いを称えられている。

これとは別に、4月8日。野付牛町(北見市)の吉田病院で、この町の印刷業・北村幸蔵氏の妻女が五つ子を産んだ。

妊娠七ヶ月であったが、3月から急に腹部が膨れ出し、4月初めには上向きに寝られないようになって、尿まで出なくなったため、母体を守るために手術を行って胎児を産ませたのであった。

五つ子は男2人、女3人であったが、産後すぐ5人とも亡くなってしまったが、五つ子は世界的にも珍しいとして話題となった。

異例の嵐に異例の出産。1923年の初春の、北海道の出来事であった。
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