2025年03月09日

北海道歴天日誌 その257(1922年7月17日)道北・道東を縦横に・・鉄路の行啓

1922年(大正11年)7月中旬の北海道。
のちに昭和天皇となられる、当時の皇太子・摂政宮の16日間にわたる北海道行啓の真っ最中である。

函館、札幌、旭川と巡って来た皇太子殿下は、7月16日は鉄道の旅。

旭川午前7時発の御召列車で、まず宗谷線を北上。
名寄駅からは名寄本線に入り、初めてのオホーツク海を目にし、遠軽まで進んでからは石北線で留辺蘂をまわって野付牛へ。
そこからは網走本線で、美幌を通過して、網走までやってきた。

網走着は午後6時25分というから、半日ほど列車の中である。

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▲和寒駅で皇太子殿下の通過を待つ町民たち(1922年:大正11年7月16日午前)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ

上の和寒駅のように、止まらずに通過する駅がほとんどだったのであるが、それでも地域の住民は駅に集まり、皇太子殿下の姿を一目見ようと目を凝らした。紋別の渚滑駅には滝上村の村民や学校生徒が集まり、遠軽駅には白滝・丸瀬布から奉迎のために村民が出て来たと当時の紙面が記している。

名寄駅では6分停車、中湧別駅では7分停車、野付牛駅(北見駅)で7分停車。それぞれの町の名士に拝謁しては、時間通りのダイヤで走り去っていく。

そんな中、宿泊地となる網走は、一晩だけではあるが皇太子殿下が滞在なさるということで大変な歓迎ぶり。
ホームで町長以下、約200人の名士が奉迎し、宿泊所のとなる桂ヶ丘の網走小学校へ自動車で皇太子殿下を送る。この沿道にも、網走のみならず、斜里・小清水・常呂・佐呂間・女満別と周囲の各村から、或は汽車、或は徒歩!で十数里の道路を集まってきた人が、人垣を作った。その数は三万とも四万ともいわれる。

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▲網走小学校の屋上に設けられた展望所から景色を眺める皇太子殿下(1922年:大正11年7月16日午後7時頃)

翌7月17日。網走の朝は雨模様で明けた。

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▲7月17日正午の天気図 (『天気図』大正11年7月,中央気象台,1922-7 国立国会図書館デジタルコレクションより)

気圧配置は日本の東に高気圧、大陸には低気圧。
ただ、時期的に梅雨末期ということで、梅雨前線は日本海から東北北部あたりには北上していたようで、このあたりは気圧の谷となっている。
このため、天気は北陸から東北、北海道の太平洋側では雨のところが多い。

皇太子殿下の行啓は、ここまで、札幌以外の各都市で行われた地域の生徒・児童による体操等の催しについては、雨続きである。
旭川でもどろんこの中での体操や騎馬戦であった。

網走でも皇太子殿下が起床して網走駅から出発されるまでの3時間足らずのスケジュールの中、午前7時台に学校生徒や少年団など約3500人が網走小のグラウンドに整列し、拝謁・君が代・万歳三唱ということになっていたが、この時間を狙ったような雨天。

皇太子殿下はこの様子を聞き、侍従に「供奉員一同の蝙蝠傘を学校生徒に與えよ」と命じ、実際、傘が配付されたという。

さて、この日も皇太子は列車の中。現在でいう石北本線で北見まで進み、その後は池北線で訓子府、置戸、陸別、足寄・・・と走り、池田からは根室線で浦幌、音別、白糠と進み、釧路まで。

釧路駅の到着は午後5時50分というから、この日も9時間近くの汽車の旅である。

この日は、皇太子殿下が車窓からちょっとした発見ができるよう、”工夫”が凝らされている。

原始時代時代を偲ばるる 丸木舟の操縦御覧

【十七日 池田電話】
十七日の御旅程は 早朝に網走を御発車なり 夕刻 釧路に御着遊ばるる迄 百八十五哩 約十時間に亘る 汽車中に在しますこととて 十勝国川合豊頃両村にては 御慰の物として 愛奴(アイヌ)の丸木舟操縦を御覧に入れたるが

前日に準備遺憾なきを保する爲 河西支庁よりは渡部支庁長 吉野二課長 神山拓殖主任 川合、豊頃両村長出張し 新聞社よりも写真班出張して予習を行ひたり

十七日 池田駅を午後三時十分 万歳の動揺に奉送されて御発車と同時に 丸木舟操縦の現場にて煙火の合図は報せられ 御召列車は池田駅を去る三哩五分の十勝川流域に添ふ線路に差掛るや 遠く 川合、豊頃両村界 緑の木の間影より列車の黒煙認むると同時に 三発の煙火は未明の雨に洗われた青空に打揚げられるを合図に 丸木舟は漕ぎ出されたるが、

其個所はコタンオロ(往時アイヌ部落の意味)と称するも 開拓使前に於てはチップ、カリイシ(往時 桂タモ繁茂し丸木舟を採取せしと称する所)にして

其操縦の次第は 一艘ごとに丸木舟にアイヌとメノコは真の土人風俗の正装にて搭乗し 船頭には柳の木を以って造れるアイヌ特製の御幣(アイヌ語 イナオ)を飾 船端には日章旗 川風に涼しく翻り、三艘並べ 一列五段列となりて、メノコを舟の中央に立てて アイヌは櫂を漕ぐ手も甲斐甲斐しく 満艦飾を施せる平太舟は白帆に風を孕んで 之を指導す

軈て 御召列車は其中央鉄橋に差し掛かるや 一同は漕ぐ手を止めて、直立し 一斉に御召列車に向かって礼拝をなす

之より御召列車に添ふて五百間を、下流に向ひ漕ぎ行きたるが、今生陛下東宮の御巡啓に際しても 此 催しに御鑑賞あられられたる由なるが 東宮殿下にも頗るご興味を曳かせられ 御満足の由に漏れ承はる

而して 操縦のアイヌ、メノコ三十名、十勝国、豊頃、高島、利別、伏古のものなるが 当日は此 面白きアイヌの催しを見て 遥かに御召列車を送迎し奉らんとする附近の住民も ここに集まり 非常の賑わいなりし
(1922年:大正11年7月18日付 北海タイムスより)


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▲皇太子殿下のため十勝川を下るアイヌ民族の丸木舟(1922年:大正11年7月17日午後3時過ぎ)

車中での長旅を続ける皇太子殿下の「慰め」のために、十勝のアイヌ民族による丸木舟での川下りの「実演」が行われたということである。
御召列車は割と自由に徐行できたようなので、この場所では少し速度を落としてゆっくり御見物できるよう配慮されたことであろう。

そして皇太子殿下の御召列車は道東を縦断し、太平洋沿岸に出て、午後6時前に予定通り釧路駅に到着した。

釧路はまだ自動車の数が足りなかったか、駅から宿泊所までの皇太子殿下の移動は人力車となった。

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▲釧路駅を人力車で出発する皇太子殿下(1922年:大正11年7月17日午後6時過ぎ)

この日の夜。釧路は午後8時頃から名物の霧につつまれ、夜遅くには霧の中、弱い雨まで降り出した。
同時刻、官民合同、約五千人が参加する、奉迎の「大提灯行列」が行われ、各団体が趣向をこらした行灯とともに提灯を持つ町民が釧路駅から行啓通を通って宿泊所となった釧路公会堂まで行進した。

皇太子殿下も霧雨降る中、公会堂の露台に立ち、菊花御紋章の入った提灯を振り、これに応えた。
着ている物が露でしっとり濡れるほどだったようであるが、心配する侍従に「何かあらん」と言い、最後まで行列を眺めていたという。
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2025年03月08日

北海道歴天日誌 その256(1922年7月13日)青空の札幌行啓

1922年(大正11年)7月の皇太子殿下(のちの昭和天皇)の、はじめての北海道訪問旅行、「北海道行啓」。

7月8日に戦艦日向で函館に到着し、9日は函館山登山は中止となったものの、雨の降る中、函館中学校や五稜郭は予定通り訪問。
10日には御召列車で函館を発し、大沼公園を訪れた。

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▲大沼で遊覧船から風景を楽しむ(1922年:大正11年7月10日)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ

上の写真に写る駒ヶ岳の姿は、1929年(昭和4年)の大噴火の前の山容。皇太子殿下が乗る船は「鳳号」といって、日露漁業が七重浜工場で建造し、7月3日に完成したばかりという新品である。

このあと、御召列車に乗って、渡島〜後志を北上。黒松内や倶知安など数分停車して拝謁を行いながら、午後6時過ぎには小樽に入った。

11日は小樽周辺を行啓。小樽港の見学や「手宮古代文字」の見学、小樽高商の見学などの日程をこなし、夕方に再び御召列車に乗って札幌へ。
予定通り午後5時45分に札幌駅に到着した。

札幌は12日、13日、14日とほぼ二日半の見学で、14日の午後には旭川に向かって発つという日程。

さて、当時の札幌には、皇太子殿下の幼少時代、教育係だったという女性教師が住んでいた。

東宮殿下御教育係であった札幌 渥美女史

札幌区立高等女学校教諭として修身と作法を教へつつある渥美千代子女史は 嘗て 東宮殿下御幼児の御教育係として 青山御所皇子仮御殿に仕へたことがある

女史は 殿下が御齢五歳にならせられた明治三十八年から立太子礼を行はせらるる迄 満十一年間 親しく殿下のお側に仕へた記者が 昨日女史を訪ねて 殿下の御幼時の御模様を聞くと

「ええ 此の上ないよろこびで御座います 先日来 御紙上で拝見しました東宮殿下の御生立の記事 其儘で御座いました
唯 殿下には学習院 御通学当時には 殆どお車に召されず 御徒歩でお通ひで御座いました」

と謹んで語った。
(1922年:大正11年7月12日付 北海タイムスより)


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▲渥美千代子女史(7月12日付 北海タイムスより)

札幌での行啓日程はかなり過密で、渥美女史が青年に成長した皇太子とお会いできたのかどうかは定かではない。
12日は、北海道庁と札幌神社、完成したばかりの札幌控訴院、そして札幌師範学校、北大と見学。
13日は中島公園で体操などを見学したあと、山鼻公園、商品陳列場、真駒内種畜場、月寒の第二十五聯隊、月寒種羊場と見学。
14日は、札幌麦酒会社と帝国製麻を見学・・・というスケジュールである。

このうち、13日の行啓の様子の記事を・・・。

御巡啓挿話

昨朝六時御起床の東宮殿下には パンとコントビーフ、並びにオートミールに御茶と云ふ 極めて御質素な御食事をとられ 御食後 庭内を御散歩遊ばされ 別項の如く御巡啓相成ったが

昨日は殿下は 殊の外 御機嫌麗しく モーニングにシルクハットの御軽装に 御持になられたステッキは仏国で御購求めになられたもので 蛇の皮の彫刻ある自然木の形をしたもので 仏国の有名な彫刻家の手に成ったものである

御手袋は鼠色であった

中島公園の北海道警官殉難記念碑前では 殿下は脱帽して敬意を表せられたには一同感泣した

一中生徒の水泳を台覧の際 堀野校長代理に「アレは何流か」と御下問があったが 答へが出来なかったので 再度御下問
其れでも堀野氏が御答へが出来得ぬので 今度は長官に御下問になった

然し長官も御答へが出来得ずにしまった

然も 其の御下問は極めて明快な東京の御言葉であった

第二中学生の飛付五人抜きの相撲は 殊の外 御気に召したと見えて 長官は再度迄 時間の迫れるを申上げたが 三度申上げて漸く玉歩を運ばれた

山鼻では 今生陛下 御手植の松 先帝陛下の御声がかりの松に就て 長官御説明申上たが 同所の御手植の木は長さ七尺径一寸の桂であった

宇都宮仙太郎氏 外 数氏の出陳した牛を御台覧になられ 自ら御手を牛の頭上や鼻に触れられて 宇都宮氏の説明を聞召され 宇都宮氏が 此牛がよいとか説明をすると どう云ふ点がヨイか、どう云ふ点が異るかと云う風に 鋭い御下問があったには 宇都宮氏も聊か タヂタヂの體に見受けられた

物産陳列場では 小樽で製缶事業の活動写真を御台覧に供したので 製缶の順序等を示した陳列品に御目を止めさせられ 尚 御帰りの入口間近に陳列し在るラケットを御覧になり 長官の先導も待たずに進み出でられ 御縦覧相成った。
(1922年:大正11年7月14日 北海タイムスより)


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▲山鼻公園で乳牛の説明を聞く皇太子殿下(昭和天皇)

事実を淡々とのべる記事が多い中、こういった裏話の記事はなかなか面白く、目をひく。

札幌一中の生徒の水泳については、7月11日の北海タイムス紙面に「大抜手雁行」と「競泳」の2つを台覧予定とあるので、おそらく前者を問われたのだと思う。指導者はアントワープ五輪に出場した「内田正錬」とある。
校長代理や長官も、北海タイムスを見ておれば、答えられたかもしれないし、それこそ内田正錬氏を東宮に付けておけばよかったのに。


ところで、昭和天皇は、ご幼少の頃から相撲が好きだったということで知られる。
「飛び付き五人抜き」というのは、1番ずつの相撲で、誰かが相手方を5人連続で倒すというもの。
このときは、札幌二中の生徒たちが担当した。

3人、4人となっていくと疲れてくるので、5人抜くのはなかなか大変なのだが、結構白熱したようで、相撲好きの昭和天皇も思わず見入ってしまったのだろう。

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▲時間ギリギリまで楽しんだ「飛び付き五人抜き」の舞台

函館行啓とは裏腹に、札幌行啓では雨は全く降らず、特に13日は午後を中心に快晴で最高気温は25.9℃。
翌14日も最高気温は25℃を超え、札幌麦酒の工場でサッポロの3種のビールを試飲した、皇太子殿下にはさぞかし美味く感じられたことだろう。

過ごしやすい陽気続きの中、札幌各地をめぐり、皇太子殿下は旭川へと旅立って行ったのであった。
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2025年03月02日

北海道歴天日誌 その255(1922年7月9日)雨の函館行啓

1922年(大正11年)7月6日。
この日の朝、皇太子殿下、のちの昭和天皇が、東京駅発の列車に乗り込んだ。
行く先は北国。北海道である。

前年、欧州歴訪の旅に出た皇太子殿下であったが、21歳の青年皇太子は、初の北海道行啓の旅に出発することとなったのである。

この日は仙台で宿泊し、翌7日は青森まで再び列車の旅。
夕方5時に青森に着いた皇太子殿下は、ここで宮尾道庁長官の出迎えを受け、戦艦・日向に乗り組んだ。

そして7月8日、日向は青森から北へ進み、まず松前沖に碇泊。
皇太子殿下には宮尾長官から松前藩からの歴史などを説明し、町民は花火をあげるなどして歓迎の意を示す。

その後、日向は北東へ進み、午後2時前に函館港に投錨。皇太子殿下はここから水雷艇に乗り換えて、函館桟橋にて北海道への第一歩をしるした。

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▲函館桟橋を歩く皇太子殿下(1922年:大正11年7月8日午後2時過ぎ)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ

ところが、ちょうどその頃から函館の空は崩れ、小雨が降り出した。
上の写真は浮き桟橋から本桟橋に皇太子殿下が歩みを進めるところなのだが、降り出した雨により、足元は濡れているのがわかる。

函館に上陸した皇太子殿下は、まず函館要塞司令部を視察。夕方には函館公園へと移動した。

函館公園では、函館区内13校の学校生徒と函館高女(現・函館西高)の生徒が待っており、小雨が降る中、男子生徒の体操、女子生徒の遊戯、そして高女生徒のワンズ体操を御見学なされた。

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▲函館高女のワンズ体操と皇太子殿下(奥)

この”ワンズ体操”というのは、魔法の杖(ワンド)から来ている言葉で、小さな棒を使った体操という。
写真ではあまりよくわからないが、きっとこの女学生たちもワンドを持っているはず。

当然ながら皇太子殿下も、非常に珍しい体操だということで感慨深く見ていたようである。

この夜は、函館公会堂でご一泊され、提灯行列の様子も感慨深く眺められたという。

函館は翌9日も一日をかけて見学予定であったのだが、天候はさらに悪化する。

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▲7月9日午後2時の天気図 (『天気図』大正11年7月,中央気象台,1922-7 国立国会図書館デジタルコレクションより)


太平洋高気圧が日本の南を東西に張り出し、低気圧が沿海州にある。北海道は深い気圧の谷の中である。
この日の函館は朝5時過ぎから雨になり、皇太子殿下も雨音を聞いて起床されたかもしれない。

雲は低く垂れこめ、午前中は函館山に登る予定だったのだが、この行事は中止された。

そして昼をすぎると雨脚が強まっていったのだが、折しも、昼過ぎに予定されていた行事は、函館中学校の校庭での、函館区内中学生徒の各種運動台覧であった。

しかし、こちらの行事は中止されず、体操、撃剣、リレーレースなど一通り実施されたが、写真をみるかぎり、どろんこの校庭でかなり大変だったようだ。

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▲函館中学校校庭での「野仕合」の模様(1922年:大正11年7月9日午後1時頃)

このような雨の中ではあったが、8日、9日とも移動経路となる沿道や、体操会場となるグラウンドには近郷近在から大勢の人が青年皇太子をひと目見ようと押し掛け、大混雑だった。姿をみて、手を合わせる人もちらほらいたそうである。

こうして雨の函館行啓は終了し、7月11日は大沼公園を経て、函館本線を北上、小樽へと歩みを進めていくこととなる。

なお、皇太子行啓と時を同じくして、作家で軍医でもあった森鴎外が死去している。
ほぼ行啓一色の紙面の隅に、ひっそりと訃報が置かれた。

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2025年02月23日

北海道歴天日誌 その254(1922年6月27日)6月末なのに氷が張る?一生に一度の大降霜

1922年(大正11年)6月下旬の北海道。

当時の皇太子にして、摂政宮でもあるのちの昭和天皇の、初めての北海道行啓まであと10日ほどということで、当時の新聞紙面には皇室関係の記事が多い。もっとも、東伏見宮依仁親王の薨去(6月26日)という不幸もあったが、北海道行啓は予定通り行われるということが直後に発表され、北海道全体としては歓迎準備が慌ただしくなっていく。

九十三の春秋を重ねた 札幌の高齢者

七十 古来稀なりとされてゐるが 今夏 摂政宮殿下御来道の節 お迎へ申上べき区の高齢者中には九十三の齢を重ねた人々が四人ゐる

それは豊平町水車通 寺尾仁蔵祖母 寺尾セエさん
南七条西一丁目 田中源次郎母 田中登羅さん
北八条西五丁目 鈴木靖蔵さん
南四条西二丁目 福住方 岩永みかさんで

記者は この光栄と歓びをあたいして 寺尾方を訪へば セエさんは端然 神の如くに座して
「私の生れは越後北蒲原で 孫達が笑へますが 天保元年十月十八日の出生です
 農業をいたしてゐましたが 廿二年前に夫に先立たれ 七十九歳の時 こちらへ参りました
 子供は八人ありましたが 只今では五十五と四十九になる二人が残っている許りです
 孫は六人御座います 眼も耳もまだまだ達者なもので、近所の人達がお婆さんの作った草履や草鞋(わらじ)を頂けば たっしゃになるからと 貰へに来ますから 役に立ちさうもありませんが 差し上げてゐます
 私の孫婆さんもちょうど九十三迄生きてゐまして 私共が驚いたのですが 自分でその身になると それ程でもありません
 若い時から病気一つするのではなし それだけが取柄です

 時勢が変わりましたね 私共の若い頃には十円のお金があれば玄米四斗五升入が四十五俵も買はれて 馬一頭が二十五文でした
 五両の馬を買ったといふ人があって大騒ぎで見物に出かけたものでした

 殿下をお迎へますのは今度二度目ですが 郷里に居ります頃 明治陛下の御巡幸を拝しましたので 御三代といふ事になりまして 私は本当に幸せ者だと思ひます」云々

又 仏のように柔和な田中とらさんは
「此頃で自分の身体を持余してゐますが 四十二三の頃は 二十貫もありましてね 五斗俵位なら そんなに骨を折らずに担いだものでした
 私は餅が好きで 若い頃は二升位も食べました
 病ですか 是と云て大した病もしませんでした
 耳は少し遠くなりました
 眼はまだたっしやで思ひ出した様に時偶(ときたま)針仕事をして見ますが 根が続まヘンな

 生まれどすかい
 京都でな風呂屋をしてゐました
 二十五年前こちらへ参りましたが その頃の札幌は寂しいもんでした

 子供は一粒種で源次郎一人よりありませんが 孫が二人ございます
 妙なことがあるもので 今年の一月三十一日に狐にばかされてな
 この通り坊主になりましたが その時の事は私は何も知りまヘンが 家の人はよう知っとりまへう」
との話がそれからそれへと続いた

尚 九十二歳では 北五西十八の西島善七 北一西十一の出倉ナミ、南一西九 五十嵐タセ、北四西六 川村ナカといふ長寿者がゐる
(1922年:大正11年6月26日付 北海タイムス)


セエさんの「天保元年」というのはちょっと複雑。
改元したのが旧暦12月10日なので、正確にいえば天保元年の10月18日は存在しない。
このため、正しくは前の元号である「文政15年」の10月18日の出生ということになる。

この頃は、行啓時に当地の高齢者の方々が特に拝謁を受けたり、下賜品をいただくということが恒例であり、ここで紹介された方々は半月後の7月12日、豊平館前で皇太子を奉迎することとなる。

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▲大通(北一西一)の豊平館前で皇太子を奉迎する札幌区内の高齢者たち(1922年:大正11年7月12日午後:北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より)

さて、この記事が載った翌日の北海道は、6月後半としても高齢の彼等でも経験がないような強い冷え込みに見舞われた。

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▲6月26日午後6時の地上天気図(『天気図』大正11年6月,中央気象台,1922-6 国立国会図書館デジタルコレクションより)

沿海州方面から樺太方面へ気圧の尾根を延ばす高気圧。大陸から南下してきた寒冷な高気圧であるが、この高気圧が、流氷解消がひときわ遅かったこの年の冷たいオホーツク海がある北方から、冷たい空気をゆっくりと南下させてきた。

翌27日朝の最低気温は、旭川で1.2℃、帯広で1.5℃、釧路で2.0℃、紗那2.3℃、網走2.7℃、羽幌3.0℃と、道北・道東では軒並み3℃以下となり、札幌でも5.8℃、函館と根室5.7℃を記録した。

旭川の1.2℃は、6月下旬としては極めて異常な低温で、この後2024年に至る約100年にわたり、これほどの低温は観測されていない。
この低温により、釧路では結氷を観測したほか、旭川と帯広、網走、釧路では霜を観測した。

北海タイムス6月28日版には、早くもこの日の降霜が速報され、上川支庁一帯で降霜があり、戸外の水には薄氷が張ったと記されている。
翌日の紙面には、道東・道北に加え、倶知安でも霜が降りたことが報じられている。

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▲遅霜の大被害を伝える紙面(1922年:大正11年6月29日付 北海タイムスより)

上川地方の剣淵では気温が氷点下に下がり、初冬の如き寒さであった。
富良野の布礼別では、厚さ一分の氷が張り、指で突いても割れないほどであった。
空知地方では一已(深川)で結霜のため、各種の豆は多く枯死した。秩父別でも小豆・カボチャは全滅した。
由仁村では、4.5℃の気温で降霜し、150ha程度の被害があり、馬鈴薯は土より上に現れている部分は全部枯れた。
紋別の渚滑でも作物被害は甚大と伝えられている。

のちの北海道庁のまとめでは、霜の被害の面積は42,000haとされている。
道の地域防災計画資料編の巻末には、本道の災害被害が1000件以上記録されているが、これ以降の約100年間の遅霜被害で、これほどの面積規模の事例はない。
(次は1937年:昭和12年6月12日の12000ha以上。被害額では1985年:昭和60年6月14日〜15日に70億円を超える被害事例あり)

なお、上川支庁の調査では、名寄周辺の霜害について、以下のような特徴が報告された。
・高台は被害はなく、平地や谷間に被害が多い
・水田と水田の間にある畑は被害が少ない
・やや湿地の場所は乾燥地に比べて被害が少ない

この特徴は、上川南部の山部(富良野)についても同様であった。

冷たい空気が重く、水と同じように低い場所にたまりやすいこと。そして水の存在が温度の低下や結霜を和らげること。こういったことが教訓としてあぶりだされている。

被害の大きかった上川・十勝ではそれぞれ善後策が協議されたが、どちらも結論としては「まだ捲き直せば望みはある」というものであった。
こうして、ソバや菜豆を捲き直す対策が行われることとなるが、この先の二か月後の未来に、大正最大級の大水害が待ち受けているとは、まだ誰も知らない。

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2025年02月11日

北海道歴天日誌 その253(1922年6月19日)羊蹄山に石室!建設スタート

1922年(大正11年)6月19日。
今回は、この日の天気図から。

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▲6月19日午前6時の地上天気図

日本列島は、ちょうど平たい山の頂上付近のような気圧となっていて、全般に気圧の差がない。
札幌の6時の風速は0.3m/sと、ほぼ風のない静穏な状態。気温は15.6℃で雲量はゼロ。雲一つない快晴である。

同様に寿都も快晴で、風速はやはり0.3m/s。気温は15.4℃であった。
後志地方では真っ青な空の下に、羊蹄山がくっきり姿をみせていたことであろう。

この穏やかな朝、ある目的を持って羊蹄山に登る者があった。

蝦夷富士 百人収容の石室 経費約二千円で建造

登山季節の近づくにつけ 蝦夷富士登山会では 予て計画中の山頂に経費二千円かけて三間に四間の宿泊用の石室百名収容所建造に就き 建築箇所選定として 同会幹事 高山禎亮氏 建築請負者 石工 渡辺亀之助(六十五)を伴ひ 去 十九日朝十時 半月湖出発、登山、同日午後下山した

建築個所は 元の宿泊所々在地点で 雲泉湖畔お花畑と確定した由

いよいよ二十四日から工事開始することになり、同日前記渡辺請負者は石工三名と人夫八名とを連れて登山、七月中旬竣工まで下山せず 工事作業に従う由

目下 雲泉湖に一大雪渓展開し、之を利用して 手橇で石材を運び卸す由。

また 木の工事材料は 倶知安町から半月湖に運んであるものを、七月六日か七日頃 約三日間、町各青年団の協同援助の作業に依頼して 山頂工事現場まで運搬することになる由

此の外 本月二十一日から半月湖より山頂まで登山道路修繕中で 経費約三百円かかるものの由

今年ははやくも登山申込者 団体で六団体 人員四百名ある程で こうまで早くから蝦夷富士の登山気分になった年はないから 七月十五日の山開きまでには石室竣工させたいと、高山幹事はいふて居るが、先 七月二十日頃ならでは宿泊が叶ふほど工事が進捗しまいといふ
(1922年:大正11年6月25日付 北海タイムスより)


古くは「マッカリヌプリ」とよばれた羊蹄山。
1905年(明治38年)7月には山麓の倶知安の郵便局長などが呼びかけて「蝦夷富士登山会」が設立され、登山道を整備して神社を建立、休息所も建てられて、大正の半ばには多くの登山者が集まる山となっていた。

頂上付近に設けられた木造の休息所は「雲上閣」と名付けられていたのだが、この年、これを壊して頑丈な石室を設けることとなり、2000円ほどの費用をかけて建設工事がはじまることとなったのである。

石室が設けられたのは、倶知安口の登山道を登っていき、標高1700m付近にあるなだらかな広場で、記事では「お花畑」とされている。
この場所に100名が収容できる堅固な”石室”の建設が始まったのである。

記事では山開きまでになんとか竣工させたいとのことなので、わずかに工期一ヶ月という突貫工事である。

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▲完成した羊蹄山の石室(1922年:大正11年8月17日付 北海タイムス)

この石室には暖炉もあったようで、避難小屋的な性格も持ち合わせていたようである。

できたての石室に立ち寄った、札幌高等女学校の3年生生徒によるこの年の夏の「蝦夷富士登山談」も読んでみよう。

静寂の闇を衝いて 蝦夷富士の日の出へ

記者様、私たちがハチきれるやうな元気を抱いて山麓の登山事務所についたのは、もう黄昏でした。
靄は何時か霧雨となりました 蒼茫(そうぼう)として暮てゆく事務所から見下すと、半月湖は模糊たる霧間の中に、その鈍い銀の色が刻一刻と暗くなってゆくのでした。

一行が、愈々小丸提灯をもって勢揃ひした時は、あたりはもうすっかり闇につつまれていました
手に手に持つ提灯の火影が、降りしきる霧雨に、夢のやうにボカされるのでした。

午後八時半出発、駒返しあたりから、霧は益々深くなって、喬木の葉末々々にたまる霧が、雫となって落ちては、雨のやうな音を立てるのでした。

皆 元気でした
「ワア」といったやうな歓声が、時々夜の山にこだまします。

トド松やエゾ松や、仰いでも空も見えぬやうな喬木の葉が、提灯の火に照らされては、美しく映えるのです

一合目から二合目と 岩石を攀るうちに 夜はだんだんと更けてゆきます。
汗はグッショリと背を潤ほし、霧はじめじめと衣袂を重くさせます

山中の静寂 山中の闇黒、それを衝いて登るうちに、いつとはなしに霧が薄くなりました。
一行が雲の上に出たのです。

やがて四合目頃から晴れかかった空が見え出し、ボーと明るくなったと思ふとどうでせう、葉頃をもれて十日頃の月が、微笑むが如く輝いているではありませんか。

「月々、月が出たよ」

一行はこえをあげて悦びました。
そのよくみると、ミルクを溶かしたやうな雲の海が、この月の光の下にほのぼのと見えわたるものですもの

やがて六合目も近い頃、フト美しい鳥のこえが聞こえて来ました
聞きなれないその声は、澄みきったものではありましたが、しかも巾の広いもので、どこかに渋味をもっているものでした。

それが深夜の谷あいに響き渡るのですが、聞く我々には、妙に落ちついた それでいて淋しみがあるものでした。
何だか 酸いも甘いも嚙み分けた世捨人が、その人生観を朗らかに賛美するやうにも聞きなされるのでした。

私たちは一斉に鳴りを静めて耳を傾けました。
「一鳥啼いて 山 更に静なり」
その声が絶えますと、風もない夜更けの深山は、ヒッソリとして、静寂といふ感じが犇々(ひしひし)と身に沁みました

六合目から七合目、だんだん道は険しくなる、それでも一人の落伍者も出さずに規則正しく休憩しながら又登る、一行四十二名一列となって漁貫して登る時のさまは我ながら勇ましくも頼もしくも思はれるのでした。

もう喬木はすっかり無くなりました。

月は何時の間にか、西のかた、雲の海に没して 空には夥しい星が、夜を領することを誇るかのやうにキラキラ輝くのが、鮮やかに見えます。
時折スーッと尾を曳いて流星が山角をすれすれに掠めて飛びます。

九合目の石室についたのは午前二時、冷たい夜風が流れて、ジーッと立っていると寒さに堪えられぬ程でした。
しかし ストーブをたいてある石室の中にはいると 春のやうに暖かくて、急に睡魔が襲って来るのでした


石室で一時間休憩し、正三時に此処を出て、頂上にむかひました

一分毎に夜は白々と明て、提灯の火もいつか力のないものとなり、星も次第次第に消えてゆきますと 脚下は一面の雲の海!
恰も大海原の千波万波が、巌に激して数千尺の飛沫をあげているやうに、或は幾千の天馬が、その白い鬣(たてがみ)を暁風になびかせて狂奔しているやうな雲の海の姿

何心なく眺めると凝然として動かぬやうなその雲は、仔細に見るとたえず浮動していて、或は崩れ 或はむらがるのです

そして、この雲の海の間から、群山をぬく幾つかの山がわが羊蹄山より遥に下の方で、大海原の中の小島の如く、所々にあらはれています

一行は頂にわたる寒風に慄(ふる)へながらも、勇を鼓して進みました
そして絶嶺の剣が峰に達し、岩角に風をよけて、日の出を待ち受けました。

もう四辺はすっかり明るくなって、足許につつましげに咲いている龍胆の紫色の花冠に表れる、陰影すら見得る位になりました

見ているうちに、東の空、雲の果てに一抹の朱の横雲が現れ、ついでそれが真紅となり 焔となり、爛々と輝いたのでしたが、肝腎の日輪は容易にあらはれさうもありません

五分、十分 寒さはいよいよ加はる
しかしこの登山もただこれを楽みにと思ふ一行は、じいつと堪へ忍んで待ちました

東の空の幾筋の雲はますます真紅に 黄金に焔々と燃えるやうに輝きはじめました

「ばんざあい」
私共より一足先に頂に来ていた札幌少年団の勇ましい声がきこえました
と 見る東の空には、眩い太陽がかくと輝いて 脚下の雲の海は一面に淡いピンク色に染まりました。

ふりかえるとわが山嶺の影は 反対側の雲の海に、濃い藍色に長く長く投げられていました

壮大な眺め、美しい極み、私達はこの光景を賛美する爲に、暫くは寒さを忘れてジーッと立っていました

自分等の影が長く長く 背後の旧噴火口の口に投げ込まれているのも忘れて
(1922年:大正11年8月4日、5日付 北海タイムスより)


女学生の投稿を装った、同行記者の感想文のような気がしないでもないが、暖をとって休憩できるというのは、まさに石室は蝦夷富士登山者のオアシスのような存在であったことは、この文からもよくわかるもの。


羊蹄山の頂上付近には、その後1943年(昭和18年)10月に気象測候所が設けられるが、数年で観測を終了する。
その後、1972年(昭和47年)に、道が100人収容可能の避難小屋を建設し、現在は、2014年(平成26年)に環境省がほぼ同じ場所に2代目の避難小屋を建設して現在に至っている。

石室は現在は全く放棄され、石積みが大量に残置されているということである。
このため、石室跡まで行けば、100年以上前に建設に携わった石工の仕事ぶりが観察できるかもしれない。
posted by 0engosaku0 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする