2025年01月28日

北海道歴天日誌 その252(1922年5月27日)暖かさとともに「火の神」来襲!深川・北進小15分で焼失

1922年(大正11年)5月27日。

この日の最高気温は、札幌23.3℃、函館23.0℃、寿都26.6℃、羽幌23.7℃、旭川28.1℃、帯広28.5℃、網走28.7℃、釧路15.1℃、根室15.4℃、紗那18.7℃である。

数字だけみると、5月下旬としては気温が高く「初夏先取りの陽気」といったところなのであるが、この年の5月は上旬・中旬と低温続きであり、札幌と函館、寿都、羽幌、網走では、27日にしてようやく”5月初の20℃以上”の気温である。
同様に釧路もようやく5月初の15℃以上の気温。

札幌では、5月上旬・中旬で20℃以上の日がゼロというのは2024年現在、1999年(平成11年)が最後で、この年は5月21日にはじめて20℃以上となった。27日まで20℃にならなかった年は、この年と1894年(明治27年)、1996年(平成8年)しかなく、かなり珍しい。

待ち望んだ暖かさ。しかし、それだけでは済まない。

狩勝国境の大山火

【二十八日旭川電話】
二十七日夜 富良野線落合国有林十七林班(狩勝国境)鉄道沿線より発火し 見る見る森林内に燃え広まり 目下盛んに延焼中なるが 快晴続きの為 樹木乾燥して如何とも消し止むる能はず 部落民総出にて防火に努めつつあり

旭川営林署よりは 倉野署長の一行 二十八日一番列車にて同地に急行 午後三時に至るも 鎮火の見込みなきより 更に旭川より応援隊を増発 防火に努めつつあるが 損害甚大の見込なり


摂政宮御旅館の網走校火事
【二十八日網走発電】
二十八日午前九時半 摂政宮殿下御旅館に宛られたる網走男子小学校より警鐘乱打に驚きたる

町民は 学校と知り一層驚き 駆け付けたるが 折柄の強風にも拘はらず 観桜客多数人出ありたる為 直ちに駆つけ 屋根の一小部分を焼棄したる迄にて消し止めたるが 原因は目下取調べ中なれ共 煤火の火より屋根に燃え移りたるものの如く 混雑を極めたり

(1922年:大正11年5月29日付 北海タイムスより)


暖かさは空気の乾燥を伴い、しかも風が強かったため、北海道ではあちこちで火事や野火が発生した。
南富良野の森林火災は、28日午後8時にようやく鎮火したが、鉄道の沿線の森林300haが焼失。今で言うとエスコンフィールド北海道約60個分の面積が焼けた。

網走小学校は屋根の一部を焼いただけで済んだが、サクラ見物の人が多数いたという記載から、改めてこの年の季節の歩みの遅さを感じる。

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▲5月27日正午の地上天気図 (『天気図』大正11年5月,中央気象台,1922-5 国立国会図書館デジタルコレクションより)

天気図をみると、北海道は”南高北低”の形である。南から南西の風が吹きやすい気圧配置で、この風に乗って南から暖かい空気が流れ込んだ。
そして等圧線が何本の走り、気圧の傾きは大きい。暖かさを運ぶ風は、やはり強かったようだ。

旭川や網走、帯広の28℃台の気温はフェーン現象の効果もあるだろう。27日14時の湿度は旭川26%、網走27%であった。

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▲帯広での火災の様子を報じる記事(1922年:大正11年5月30日付 北海タイムスより)

帯広のほか、札幌でも27日午前9時頃、白石村下野幌で、焚火が納屋や隣家に移って全焼という火事があった。

烈風中に一已小学分校焼く 授業中の児童大混雑

二十七日午前十時 雨竜郡一已尋常高等小学校一已分校教員舎宅より出火
折柄 烈風中のこととて 瞬く間に燃え上がり 隣接せる校舎は僅か十五分間にて全焼したるが

発火当時は授業中の事とて 気付きたる時は既に遅く 如何とも手の施し様なく 極力児童避難に努めたり

一方 一已駐在佐々木巡査は直に駆付け 猛火に包まれたる御真影 奉置所に飛び入り 漸く無事奉還せり

又 田村訓導は大火傷を負ひ 深川病院に入院せり
佐々木巡査は勅語捧持の際 火中に入りし為に 制服もボロボロに焼け 身体に火傷を受たり

焼失家屋は 風下たる中川音松宅と高橋久治方納屋にて 積置ける薪 二十余敷に燃付き 益々延焼の危険の折柄 深川消防組 一已火防組 共に駆付け 漸く鎮火せしめた

発火原因及 損害等調査中
(1922年:大正11年5月29日付 北海タイムスより)

一已小学校の一已分校・・・と聞くとなんだかややこしいのだが、現在の深川市北進小学校のことである。

1917年(大正6年)の創立で、学校のホームページでは、「5月29日 校舎焼失」となっているが、新聞の日付や天候から考えると”5月27日”が正しそうだ。

教員住宅から火の手があがり、校舎に火がまわって、わずか15分で全焼。しかも授業中ということだから、児童にけががないのは幸いなことであった。教師が大やけどを負ったのは、児童が逃げたかどうか確認していたからであろう。

そして「御真影」の救出には巡査が活躍している。天皇陛下の写真の扱いは、現在の神社の御神体よりもずっと格上であり、命がけで焼失を防ごうとしている。佐々木巡査は英雄となった。


30日には、さらに気温が上がって、網走では5月観測史上3位となる32.6℃、旭川でも5月10位の30.3℃という季節外れの暑さを記録したが、やはり斜里・遠音別で山林火災が発生し、人家6戸を灰燼に帰した。

こうして風と一緒に「火の神」が北海道を飛び回り、1922年の5月が終わっていったのであった。
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2025年01月19日

北海道歴天日誌 その251(1922年5月16日)飛行士・村上五平!東旭川の空へ

1922年(大正11年)5月。

まだまだ飛行機が珍しかったこの時代、一人の飛行士が旭川にやってきた。
正確に言えば、旭川近郊で育った青年が、飛行士の資格を取り、飛行機とともに旭川へ戻ってきた。
目的は、郷土の空を飛行機で飛ぶためである。

村上五平氏の郷土訪問飛行

【十五日旭川電話】
上川郡東旭川村出身の民間飛行家 村上五平氏の郷土訪問飛行は 旭川区並びに東旭川村有志後援会の斡旋にて 過般来準備中なりしが 九日機体到着し、村上氏は十日着旭、技師片岡文三郎 助手青島和三郎両氏一行は十一日前後して来旭

兼ねて 第七師団の厚意にて借入れたる歩兵第二十七連隊前練兵場に格納庫を建設し 同時に機体の組立に着手せり

村上氏の乗用飛行機は 既報の如く 機体 伊藤式第二十五型にして 大体複葉カーチス式にして前方にカーチス式十馬力の冷却発動機を据付け、牽引付となし、全部水色に塗り、座乗席の横に旭川と赤色に現し、左翼の裏に村上と大書しあり 一帯に軽快なる構造なり

組立は十四日を以て終れるを以て 同日午後三時 村上氏指揮の下に格納庫前に於て発動機の試験を行へるに

八本のシリンダーは何れも万遍に爆発し 成績よく、即ち村上氏は飛行服に身を固め 三時七分滑走の儘 練兵場の中央に至り機首を西南に向け 折柄六、七米突の軟風に近文の上空より 旭橋上を牛別川に沿ひて 大円を描がき 三分三十秒の試験飛行を終り 同三時三十六分 再び機上の人となり 前回と同じ方面に離陸し 左方に梶を採り機首を東方に向け 其儘直線に東旭川に向かって飛行し 大胆なる低空飛行にて旋回すること五回、思ふ儘 郷土訪問の意を尽くして飛び 機首を立なほし 旭川に引かへし 練兵場の上空を一周して三時五十二分着陸したり

此の飛行時間は僅に十六分に過ざるも 東旭川村出身の氏が 郷土の上空を訪問したる得意から 双頬に浮べる微笑に遺憾無く感得さる

同日の飛行は右にて終れるが 其の操縦振は着陸の堅実さに顕はれ 用意周到なる飛行家として推賞するに足る
(1922年:大正11年5月16日付 北海タイムスより)


村上五平については、旭川市史や「屯田兵村に生きる(玉井健吉著)」などが詳しいが、1891年(明治24年)に徳島県に生まれ、16歳のときに単身で北海道へ渡り、東旭川村の雑穀商・村上栄太郎氏の店の店員となり、婿養子となった人物。

1919年(大正8)年に28歳となった五平は、飛行家をめざして上京。元首相の大隈重信に面会し、色々と激励の言葉を受け、羽田の玉井飛行機研究所を案内され、入所した。
そして、1921年(大正10年)に飛行免許試験に合格し、アメリカのサーカス団から購入したカーチス複葉二人乗り飛行機とともに、「郷土訪問飛行」となったのである。

テスト飛行は多少のトラブルはあったものの、概ね順調で、いよいよ5月16日に郷土訪問決行となった。

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▲5月16日正午の天気図 (『天気図』大正11年5月,中央気象台,1922-5 国立国会図書館デジタルコレクションより)
この日の北海道は、日本海北部の高気圧に覆われている。
道東に低気圧がみえるが、札幌や根室では明け方から昼前にかけて弱い雨が降るなど、午前はぐずついた所もあった。

旭川はこの日は一日を通じて曇り空。朝6時台に小雨がぱらついたが、西寄りの風が2メートル程度と割合穏やかな空模様。
村上五平の郷土訪問飛行も、予定通り実施された。

村上氏旭号に搭乗し 郷土旭川の空へ

【十六日旭川電話】
旭川区近文練兵場に飛行機格納庫を設け 郷土訪問飛行中の東旭川出身民間飛行家 村上五平氏は 十六日午前八時五十分 愛機旭号に搭乗 空中の人となり 旭川市街の上空を横断して 一路 五哩を距る東旭川村に至り 旧練兵場の仮飛行場に着陸せるが

何分 畑地を利用せることとて 滑走自由ならず 車輪地面に喰ひ入り 機首が前方に踣(ほく)りし刹那 回転中のプロペラ地上に衝突して破損せる為 近文練兵場の格納庫に居りし 片岡技師に予備のプロペラを携へ急行する様通報せるを以て 同技師は即時自動車にて現場に赴き 直にプロペラ付替に着手せるが故障は軽微のものにて修理は簡単ならん

尚 東旭川村の村上氏後援会は午後二時 修理中の機体を小学児童 其他に見学一場の講話を聴かしめ 午後三時よりは 更に同地小学校に村上氏歓迎会を開き 同氏の成功を祝せり

尚 氏は夕刻までに機体の修理成らば 操縦して旭川に帰着の予定なりしを以て 十七日に延期されたる旭川後援会は 同日午前九時より 前夜二回の飛行を行ひ 了って 特に製作する直径二寸の純金製記念メダル贈与式を行ふべく

尚 各方面より花輪の寄贈あり
(1922年:大正11年5月17日付 北海タイムスより)


旭川市史によれば、この郷土訪問飛行、同行の機関士は「とてもあんな場所では危険で飛べない」と言ったようだが、村上五平がそれを”なだめて”強行したようである。


▲五平の飛行機が着陸した場所は現在の旭川中学校のグラウンド付近

着陸時に飛行機が前のめりになり、プロペラを破損しているが、気流の関係と樹木と、詰め掛けた群集という条件で、無理に狭い所に突っ込んだのが原因とされている。

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▲郷土訪問飛行の記念写真、プロペラは一本折れたまま(1922年:大正11年5月23日付 北海タイムス)

着陸はちょっと失敗してしまったが、機体をきちんと修理して、19日に雨の中、東旭川の旧練兵場を飛び立った村上五平。
21日には、旭川の上空から郷土訪問飛行の感想を書いたビラを降らせて、全日程を終了した。

村上五平は翌年、関東大震災で飛行機を失い、養父の死もあり、志半ばで帰郷。飛行界を去る事となる。

しかし、村上五平のこの訪問飛行が子供達に与えた影響は大きかったようで、その後、この東旭川からは「軍神」として名高い加藤建夫、全日空を創立した中野勝義など、飛行機と縁のある人物が輩出されていくことになるのであった。
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2025年01月05日

北海道歴天日誌 その250(1922年5月10日)紀行作家ハリー・フランク氏が来道

1922年(大正11年)の春は、なかなか雪と縁が切れず、4月の半ばに網走で50センチを超える大雪があった後、5月1日にも広範囲で雪が降り、網走で3センチの積雪を記録、札幌でもみぞれを観測した。

そして、緑が萌える5月の半ばにもまた、道東方面で雪が降った。

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▲5月13日正午の天気図(『天気図』大正11年5月,中央気象台,1922-5 国立国会図書館デジタルコレクションより)

5月13日は日本海と三陸沖から北海道を挟むように北上して来た低気圧に向かって、オホーツク海方面の高気圧から冷たい空気が流れ込んだ。
測候所の観測では、網走で3センチ、帯広で2センチの積雪を記録している。根室でも朝は雨に雪が混じった。

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▲帯広と網走で積雪となったことを伝える記事(1922年:大正11年5月14日付 北海タイムスより)

網走の気象観測の原簿をみると、この年の流氷終日は5月8日と記されている。
現在の平年値と比べると一ヶ月ほど遅い。岸からは流氷がみえなくなっていても、沖合にはまだ流氷が解けきれずに残っていたであろう。
この氷海をわたってきた冷たい風が、道東に季節外れの雪をもたらした。

一方、この日の札幌はというと、北海道の中央山脈を吹き下ろしてフェーン現象のような効果もあったのか、最高気温は16.7℃まで上がり、雲には隙間もあって、雨は降ったが降水量は3.3ミリどまり。花が凍えるようなことはなかったようだ。

この頃、冬も春も同居する北海道へ、ひとりの紀行作家がやってきていた。

札幌の街は幅も広く 宛ら母国のやうだ

米国の著名な旅行家であるハーリー・フランク氏が来道して本道に来り 区内山形屋旅館に投宿しているとの事で訪問すると 氏は鄭重(ていちょう)に記者を引見して語る

「私は今から十八年前 即ち貴国と露西亜との大戦争の当時に貴国を旅行した事がありますが 日本語は少しも出来ません」
と前提して
「私は極東を旅行して 此の旅行記を書く為に来たのですが 札幌へは昨朝着いて 明朝は旭川へ行って その翌朝 室蘭を経て船で青森に渡り それから東京へ行き 日本には約一ヶ月滞在し 朝鮮を経て支那方面へ行く予定です

日本はまさに天下の楽天地で 殊に札幌の街は町幅も広く アメリカの町のやうに気持のいい所です」
と愉快に語る

辞し去らんとする記者を引留めて
「まア宜しいでせう 北海道の御話を承り度いですが」

記者は本道の気候や人口の状態やその他開拓当時の事を大略話し アイヌの事に及ぶと物珍らしさうに謹聴し 且つ 質問を発して記者を困らす

尚氏は終りに「ハーリー、エー、フランク」なる一小冊子を記者に与へた
異人間の対話はそれからそれへと続いたが 時間も来たのでグッドバイして辞し去った
(1922年:大正11年5月10日付 北海タイムスより)


ハリー・フランク氏は、今では簡単にネットで情報がとれないが、戦前は日本でも知る人ぞ知る紀行作家だったようで、この年、1922年(大正11年)から1934年(昭和9年)にかけて極東各地を旅行してまわり、その様子を本にまとめて出版していたようである。

このため、一連の極東旅行の最初の頃に北海道に来ていたこととなる。
北海タイムス記者に”逆取材”した内容をどのように紀行に書いたのか?気になるところ。

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▲ハリー・フランク氏(5月10日付 北海タイムスより)

網走や帯広で雪が降った翌日、5月14日。函館は晴れ間が広がり、市民は満開の桜を函館公園で楽しんだ。
函館水田会社は例年よりもやや装飾電灯を増やしたため、夜桜が非常にきれいにみられて、「燦然人目を驚かす許り」であったそうだ。

ハリー・フランクも去り際に函館のサクラを横目にしたかもしれない。

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▲函館公園のサクラを愛でる市民たち(5月15日付 北海タイムスより)
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2025年01月04日

北海道歴天日誌 その249(1922年4月30日)生きていた!カムチャツカの出稼ぎ漁夫

1922年(大正11年)の4月の北海道。

1日の時点では、札幌は27センチ、旭川では50センチの積雪があった。
その後の雪解けは順調で、札幌は4月8日、旭川では11日には根雪の終日を迎えた。

しかし、14センチの積雪があった網走はなかなか雪が消えず、11日に一度積雪がゼロとなったものの、15日から16日にかけて春のドカ雪に見舞われ、17日には55センチまで積雪が増えてしまった。

このため、網走の根雪終日は4月24日まで延びた。この24日から25日にかけては、平地に残る雪だけではなく、山間部の雪解けも進める暖かい雨が降った。

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▲1922年(大正11年)4月24日午後6時の天気図 (『天気図』大正11年4月,中央気象台,1922-4 国立国会図書館デジタルコレクションより)

24日の天気図をみると、日本海に発達した低気圧があり、北海道には西から深い気圧の谷が近づいて来る形である。
24日から25日にかけての降水量は、函館32.3ミリ、寿都20.9ミリ、札幌52.9ミリ、羽幌25.8ミリ、旭川40.4ミリ、帯広45.5ミリ、釧路79.4ミリ、根室64.7ミリ、網走23.3ミリとなっている。
元来4月は降水量の少ない月であり、旭川や釧路では、この時の降水量が、4月の日降水量の多い記録トップテンの中に顔をのぞかせる。

平地で最高気温が15℃前後まで上がり、風も強く、まとまった雨もある。このような条件は山間部の融雪を急速に進めることとなる。
4月26日以降、道内の河川は雨水に雪解け水が加わって増水、各地で橋を流し、市街へと溢れていった。

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▲道内各地の融雪洪水の災害報道(1922年:大正11年4月28日付 北海タイムスより)

南尻別村は現在の蘭越町。尻別川の融雪洪水により、80戸が浸水し、5戸が流失する被害があったほか、昆布地区では尻別川縁で遊んでいた8歳の女の子が激流に流され、行方不明となった。
浸水家屋は、札幌近郊の茨戸や篠路でもそれぞれ約100戸に達し、道北の猿払でも200戸を超えた。

鉄道にも被害があり、江別と幌向の間は浸水により列車が走行できなくなり、汽船で連絡をとることとなった。
士別と多寄の間の士別川橋梁も袖垣も決壊し、こちらも鉄道が一時運休となった。

橋といえば、前の月にかかったばかりの橋が流されたという所もあった。これが上の記事に見える智恵文村(名寄市)の「天智橋」である。

この融雪洪水は、28日ごろから水がひきはじめて復旧作業が加速していくこととなるのであるが、春への痛みを感じていた北海道にはるか北から電信が届いた。

勘察加残留の邦人漁夫 孰れも無事

昨冬 北カムサツカ東海岸 マイギンブリキンスキー漁場に取残されたる邦人漁夫四十二名の生死に就いては消息全く無く 或は凍死せりと噂せられ 或は無事なりと伝えられたるが

四月下旬に至り 右漁夫はマイギンブリキン漁場を距る十五哩の南方 ハトメルカに無事生存し居る事 オコツクナイハン無線電信所より 外務省に到達せる旨 四月三十日 日露漁業会社に打電し来れるが 今 其の真相を聞くに

昨年 切り揚の際 右漁場に取遺され大騒ぎとなりたる為 外務省よりウスカム及びペトロパウロスク無線電信所に宛 之が救助方を頻々と打診せるが 此の無線電信がオコツクナイハン電信所に感電せる為 ナイハン無線電信局員の露人は 之を救済すべく種々なる方策を講ぜるも如何にせん冬の事にもあり 雪の多き為 之を果たさざりしが

真冬に至り 同局の露人が犬橇を駆って三百哩を隔たるマイギンに至り捜索せるも 全く其の影無き為 南方十五哩のムトメルカに至りたるに無事生存し居れるを発見し 同露人は直ちにナイハンに引返へし 来りたるも 今日まで電信の不通の為 打電する能はざりしものなりしと

尚 之に就て 日露漁業会社 真藤真太郎氏は語る
「ハトメルカは 露人家屋十五、六戸よりない處の部落であるが 英国のハドソン、ベール、コンパニーの出張所がある
食料は多少あるから夫に依って生命を継ないで来さうであるが 之にても尚 食糧が足りない為に 馴鹿の漁を遣って 其肉を食して生存して居たものである

三十日電報に接し 之が救助方を依頼し来れるが 本会社より救助船を差出すべく 目下 之が準備中である
船はどれに決定するかはまだ極って居ない
何れ近日中に外務省より差立命令に接するであらうから 其上具体的命令に決定を見る筈である」云々
(1922年:大正11年5月4日付 北海タイムスより)

この時代、いわゆる「200海里」というものはなく、魚を求めてどこまでも、遠く漁に出られた時代。
北海道の漁夫は夏場は千島を北上し、カムチャツカ半島の沿岸までサケやマスを獲りに漁に出ていた。

これらの地域は冬が厳しいため、日の入りが早くなってくる8月になると漁を切り上げ、北海道まで帰って来る。
ところが、前年1921年(大正10年)の秋に、カムチャツカ半島のさらに北東岸で漁をしていた42人の漁夫が北海道に戻らず、現地に取り残されたらしいとなって大騒ぎになったのであった。

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▲漁夫たちの遭難位置(1921年:大正10年10月30日付 北海タイムスより)

マイキン・ブリギンスキー漁場は、大正時代に函館に住んでいたグレセツキー氏が経営していた漁場ということで、漁夫は数年にわたって夏場はこの場所まで赴いて、漁にあたっていた。今回滞在していたのは、函館と岩内からカムチャツカへ向かった漁夫たちと通訳、そしてロシア人2人の合計42人であった。

この地域は、8月末には雪が降り出し、9月には雪が積もるため、食べ物がなく、防寒設備も不完全なら死の運命・・・ということで、外務省は日露漁業の汽船・浦塩丸を救助船に仕立てて救出に向かわせようとしたのであるが、半月ほど出航を待った後、関東丸という特務艦が様子を見に行き、12月初旬にカムチャツカのペトロパブロフスク・カムチャッキーに到着したが、パルチザンの存在などもあり、徹底した調査が出来ず、見つからないまま年を越し、冬を終え、春を迎えていたところであった。

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▲消息を案じる岩内の家族(1921年:大正10年11月26日付 北海タイムスより)

身を案じていた家族にとって、遭難者全員が生きていたというのは、この上ない朗報であろう。
のちの南極昭和基地のタロ・ジロの出来事の「人間版」みたいな話である。

タロやジロはアザラシやペンギンを食べて”自給自足”していたとされるが、さて、彼等はどうやって生き延びたのか?

勘察加漁夫 帰国を欲せず

勘察加方面からの情報に依ると 昨年六月頃 勘察加東海岸マルキンプイルギンスキー漁区に出稼した邦人漁夫四十二名は 引揚げ当時 便船に乗り遅れた為め 今 俊寛の憂目に遭ひ 一時は飢餓と寒気のために非常な困難にあひ 命からがら 其の地から一里余の山を越えて 土人の住んで居る村落に辿り着いた

その村落には土人の家が二 三十軒あって 衣食住には毫も差支がないので 一同はやっと蘇生の思ひをして 土人の救ひを受け 暫時此處に宿をとって居る中 漁夫らはそろそろ尻が暖まって来たので ボツボツと持ち前の根性を現し 救助された当時の事は棚に上げて 我儘勝手な振舞を仕出したので 土人等は初めの程は餘り気にも掛けなかったが 其度が昴まるに連れ 眉を顰(ひそ)め 苦情を訴へ出る様になった

然し 漁夫等は相当に武器を所有して居て 土人が文句を並べる度毎に 一にも武器 二にも武器 と しきりに武器を閃かして威嚇した形跡がある

それやこれやで 土人等は困り果て 借家を貸して 主家を奪はれた形となって 何れも山中に逃去ったので これを見た漁夫等は 反って得意になって土人の家を占領しているのだ

ところで内地では 目下 是等漁夫の救助方に就き 躍起となって騒いで居る様であるが 一方 漁夫等は差向き衣食住には困って居らぬのみか 彼等は毫も故郷へ帰りたいとも思はぬらしく 其日其日を暢気(のんき)に送り 腹鼓を打って 天下泰平を高唱して居るとの事である
(1922年:大正11年5月23日付 北海タイムス)

なんと、”遭難した漁夫”たちは、近くの原住民の村を乗っ取り、生き延びていた・・・と報じられた。

そして、どうやって救助するかと心配している本土の思いもどこ吹く風。このままこの地でもう一旗あげるかという感じで、すっかり居つくつもりになっているようである。

そんな彼らを救助するため、5月23日午後7時、汽船浦塩丸は函館港を出港、カムチャツカに向かっていったのであった。
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2024年12月13日

北海道歴天日誌 その248(1922年3月24日)ある警察官の殉職・札幌丘珠

1922年(大正11年)3月24日。

朝鮮半島から進んで来た発達した低気圧が東日本を横断し、この日は関東沖から北海道の南東海上へ北上していった。

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▲1922年3月24日午前6時の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この日の札幌は、曇り空で夜が明けた。
ただ風は無く穏やかな朝を迎え、最低気温は−11.4℃と、春分の日を過ぎたにもかかわらず、厳しい冷え込みであった。

この日の朝、札幌では天気とは裏腹に、大きな事件が起きていた。

狂人 巡査に斬つく

札幌郡札幌村大字丘珠村 農 水内松次郎(三四)は 五日前より精神に異状を呈し 家族等に暴行を加へるより 二十三日 家人は同村駐在 栃本千五郎巡査に監置方 願出て 同巡査は二十四日午前七時頃 駐在所を発し 松次郎方に赴き 取鎮め居たるに

突然殴打せんとしたるより 同巡査は火箸をもぎ取たる瞬間 佩(はい)剣に手を掛け 引抜くよと 看る間に同巡査に斬付け 左足鼠径部に突刺 長さ一寸 深さ骨膜に達する重傷と 左手拇指に軽傷を負はせたる騒ぎに

家人は大に驚き 尚 狂ひ廻る松次郎を取押へ 一方 同巡査は 村人に送られ 区内北辰病院に担ぎ込み 目下応急手当中なるが 何分にも出血多量にて生命覚束なからんと

札幌署にては 関係者一同を召喚 取調中
(1922年:大正11年3月25日付 北海タイムスより)

現在の札幌市東区丘珠の農家の主人が精神に異状をきたし、騒ぎを鎮めにきた警察官がサーベルを取られ、斬られてしまった。

松次郎は両親と妻、子供1人と三世代五人暮らしの農家の主人。
軍隊を除隊後に梅毒にかかっていたようで、これが原因となり、事件の10日ほど前に精神に異常が現れ、病院で診察を受けていたのだが、日々病気が増し、家族にも口汚く罵倒するようになっていった。

この日、松次郎は「俺の身体に、『たたり神』がついているので、ストーブの火で焼いてやる!」と言い、台所のストーブの蓋を取り、左肩や右の手のひらなどを焼き、暴れ回った。

家族は力の強い松次郎を抑えることができず、隣家の大滝熊吉氏に頼んで駐在所に急を知らせに行った。
こうして栃本千五郎巡査が松次郎宅に着いたのは午前七時過ぎである。

栃本巡査を見た松五郎は一旦、落ち着きを取り戻した。
しかし、栃本巡査が別の家に行っている間に松五郎は再び暴れ出したため、家族が巡査を迎えに行き、栃本巡査が松五郎の所に戻ると、松五郎は神棚に向かって何か祈願をしていた。

そして突然、栃本巡査に「お前はまだ改心せぬか!」と言いながら、爐の中から火箸を取って向かってきたのである。

栃本巡査はそれをもぎ取って抑えようとして取っ組み合いになったのだが、松次郎は巡査のサーベルを抜き取り、左足の鼠径部を深く刺し、さらに右手の指もほとんど切断するほどの深い傷を負わせたのである。

栃本巡査はそれでも格闘を続け、近所の三上輿次郎氏、坪野八太郎氏と協力して取り押さえ、麻縄で縛り上げた。
三上が「もう大丈夫だ」と言ったとき、栃本巡査はかすかにうなずきつつ、そのまま後ろに倒れ、傷口からは泉のように鮮血がほとばしり出た。

このためますます現場は大騒ぎとなった。
札幌村駐在の佐々木巡査に急報しつつ、栃本巡査を北辰病院へ担ぎ込んだ。
しかし、出血多量のため、当日午後5時、手術台上で絶命したのである。

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▲栃本千五郎巡査と家族(1922年:大正11年3月26日北海タイムスより)

栃本巡査は茨城県多賀郡松岡村上手綱(現在の茨城県高萩市)の出身。
日露戦争に従軍後、1911年(明治44年)に福島県の巡査となり、1919年(大正8年)6月に北海道庁の巡査に転職。まず茨戸太駐在所に勤務し、強盗犯人を捜索・検挙して道庁長官から表彰もされている。

1921年(大正10年)12月15日に丘珠駐在所に移ったので、この事件当時、まだ丘珠に来てから4カ月余り。
妻・キヨさんとの間に6人の子供がおり、しかも当時、7人目の子供を妻が妊娠中という状況での殉職であった。

この訃報は、内務省にも伝達され、時の内務大臣・床次竹次郎は「警察官として模範的」ということで、警察官に与えられる勲章としては最高ランクである「功労記章」を授与することとした。道庁も生前の功を表彰するとして、一時金100円を贈ることとしたほか、遺族に月々20円の「特別功労加棒」を贈ることとなった。

葬儀は3月27日に札幌の西本願寺で行われた。
栃本巡査の棺は札幌警察署を出棺、騎馬や弔旗に先導され、音楽隊が悲しみの調べを奏でる中、西本願寺まで葬列が続いた。

また、この事件は広く報じられたことで道民の同情を誘い、多くの義援金が寄せられ、葬儀会場には多くの花輪・電報が届けられた。

ある札幌市民の手紙の内容が報じられている。


・・・今度の栃本巡査の遭難を聞き、私はこの尊い犠牲に深く深く感謝を禁じ得ません
私の母も 私が七つの時に六人の子を残して 父に永別しました
之を思ふ時は 私は此の遺族の今後に対しては 満腔の同情を惜しみません

奉公中の私には多額の義捐も出来ません
氏の殉職に対する慰謝料としては少きかも知れませんが 志だけも諒怨して下さい
若し社会に此件に関して強制的に義捐を募るものとしても 一般社会人は是に応ずる義務のあるものと私は思いたします
・・・


栃本巡査の葬儀の模様は、札幌区内の堀内技師の手により、映画フィルムに撮影された。
葬儀の模様を告げる新聞記事の下に、第一・第二神田館にて、この映画を上映するという広告が打たれている。

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▲栃本巡査の葬儀の映画の上映広告。

ある意味、ニュース映画、それころ今のテレビ報道のはしりのようなものかもしれないが、入場料を取って人の葬式を上映するというのは何とも気分が悪い。それこそ「義捐金」として遺族にわたるのなら、まだ慰めにもなるのであるが

日本のどこかに、このフィルムが今も眠っているのかもしれない。
posted by 0engosaku0 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする