この日の最高気温は、札幌23.3℃、函館23.0℃、寿都26.6℃、羽幌23.7℃、旭川28.1℃、帯広28.5℃、網走28.7℃、釧路15.1℃、根室15.4℃、紗那18.7℃である。
数字だけみると、5月下旬としては気温が高く「初夏先取りの陽気」といったところなのであるが、この年の5月は上旬・中旬と低温続きであり、札幌と函館、寿都、羽幌、網走では、27日にしてようやく”5月初の20℃以上”の気温である。
同様に釧路もようやく5月初の15℃以上の気温。
札幌では、5月上旬・中旬で20℃以上の日がゼロというのは2024年現在、1999年(平成11年)が最後で、この年は5月21日にはじめて20℃以上となった。27日まで20℃にならなかった年は、この年と1894年(明治27年)、1996年(平成8年)しかなく、かなり珍しい。
待ち望んだ暖かさ。しかし、それだけでは済まない。
狩勝国境の大山火
【二十八日旭川電話】
二十七日夜 富良野線落合国有林十七林班(狩勝国境)鉄道沿線より発火し 見る見る森林内に燃え広まり 目下盛んに延焼中なるが 快晴続きの為 樹木乾燥して如何とも消し止むる能はず 部落民総出にて防火に努めつつあり
旭川営林署よりは 倉野署長の一行 二十八日一番列車にて同地に急行 午後三時に至るも 鎮火の見込みなきより 更に旭川より応援隊を増発 防火に努めつつあるが 損害甚大の見込なり
摂政宮御旅館の網走校火事
【二十八日網走発電】
二十八日午前九時半 摂政宮殿下御旅館に宛られたる網走男子小学校より警鐘乱打に驚きたる
町民は 学校と知り一層驚き 駆け付けたるが 折柄の強風にも拘はらず 観桜客多数人出ありたる為 直ちに駆つけ 屋根の一小部分を焼棄したる迄にて消し止めたるが 原因は目下取調べ中なれ共 煤火の火より屋根に燃え移りたるものの如く 混雑を極めたり
(1922年:大正11年5月29日付 北海タイムスより)
暖かさは空気の乾燥を伴い、しかも風が強かったため、北海道ではあちこちで火事や野火が発生した。
南富良野の森林火災は、28日午後8時にようやく鎮火したが、鉄道の沿線の森林300haが焼失。今で言うとエスコンフィールド北海道約60個分の面積が焼けた。
網走小学校は屋根の一部を焼いただけで済んだが、サクラ見物の人が多数いたという記載から、改めてこの年の季節の歩みの遅さを感じる。

▲5月27日正午の地上天気図 (『天気図』大正11年5月,中央気象台,1922-5 国立国会図書館デジタルコレクションより)
天気図をみると、北海道は”南高北低”の形である。南から南西の風が吹きやすい気圧配置で、この風に乗って南から暖かい空気が流れ込んだ。
そして等圧線が何本の走り、気圧の傾きは大きい。暖かさを運ぶ風は、やはり強かったようだ。
旭川や網走、帯広の28℃台の気温はフェーン現象の効果もあるだろう。27日14時の湿度は旭川26%、網走27%であった。

▲帯広での火災の様子を報じる記事(1922年:大正11年5月30日付 北海タイムスより)
帯広のほか、札幌でも27日午前9時頃、白石村下野幌で、焚火が納屋や隣家に移って全焼という火事があった。
烈風中に一已小学分校焼く 授業中の児童大混雑
二十七日午前十時 雨竜郡一已尋常高等小学校一已分校教員舎宅より出火
折柄 烈風中のこととて 瞬く間に燃え上がり 隣接せる校舎は僅か十五分間にて全焼したるが
発火当時は授業中の事とて 気付きたる時は既に遅く 如何とも手の施し様なく 極力児童避難に努めたり
一方 一已駐在佐々木巡査は直に駆付け 猛火に包まれたる御真影 奉置所に飛び入り 漸く無事奉還せり
又 田村訓導は大火傷を負ひ 深川病院に入院せり
佐々木巡査は勅語捧持の際 火中に入りし為に 制服もボロボロに焼け 身体に火傷を受たり
焼失家屋は 風下たる中川音松宅と高橋久治方納屋にて 積置ける薪 二十余敷に燃付き 益々延焼の危険の折柄 深川消防組 一已火防組 共に駆付け 漸く鎮火せしめた
発火原因及 損害等調査中
(1922年:大正11年5月29日付 北海タイムスより)
一已小学校の一已分校・・・と聞くとなんだかややこしいのだが、現在の深川市北進小学校のことである。
1917年(大正6年)の創立で、学校のホームページでは、「5月29日 校舎焼失」となっているが、新聞の日付や天候から考えると”5月27日”が正しそうだ。
教員住宅から火の手があがり、校舎に火がまわって、わずか15分で全焼。しかも授業中ということだから、児童にけががないのは幸いなことであった。教師が大やけどを負ったのは、児童が逃げたかどうか確認していたからであろう。
そして「御真影」の救出には巡査が活躍している。天皇陛下の写真の扱いは、現在の神社の御神体よりもずっと格上であり、命がけで焼失を防ごうとしている。佐々木巡査は英雄となった。
30日には、さらに気温が上がって、網走では5月観測史上3位となる32.6℃、旭川でも5月10位の30.3℃という季節外れの暑さを記録したが、やはり斜里・遠音別で山林火災が発生し、人家6戸を灰燼に帰した。
こうして風と一緒に「火の神」が北海道を飛び回り、1922年の5月が終わっていったのであった。
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