2025年06月08日

北海道歴天日誌 その266(1922年11月14日)札幌の初雪=根雪の珍事と大正交通事故事情

1922年(大正11年)は、秋の終わりが遅かった。
逆の言い方をすると、雪の季節がなかなか来なかった。

札幌では、明治節が過ぎても、立冬が過ぎても雪は降らず、初雪がないまま11月の半ばを迎えようとしていた。

明治時代はとびきり初雪の遅い年はあり、1890年(明治23年)は11月20日。1886年(明治19年)は11月18日という遅い記録があったが、この年の初雪の遅さは、これに次ぐもの。

札幌測候所の観測記録には、11月10日の記事に「藻岩山初雪アリ」と書かれ、一方で測候所では初雪にならず、何か測候所員の早く初雪を見たいというような?何となくジリジリした気持ちを想像することができる。

そして11月14日(火)午前5時27分。ついに札幌で初雪が降った。

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▲初雪がそのまま積もった札幌・大通公園の様子(11月15日付 北海タイムス)



札幌市は十四日午前五時半頃 気温三十二度二分に低下し 同十時半頃迄に 凡そ一寸の降雪あり
平年より十五日 昨年より四日遅し

▼(十四日野付牛発電)
今朝六時より 初雪降る 積ること一寸弱 降りつつあり
平年より三日 昨年より二十日遅し

▼(名寄十四日発電)
前日来 気温 俄(にわか)に低下し 本朝来 積雪二寸に及び 温度摂氏二度を示し 尚 降雪頻にて銀世界を現出せり
昨年に比し 十六日遅し

▼(北竜十四日発電)
昨夜来 低気圧襲来 本朝初雪三分 尚 盛んに降りつつあり
(1922年:大正11年11月15日付 北海タイムス)

この時代の気温は華氏。32.2℉は0.1℃にあたる。
札幌は10時に積雪5.5cmを記録。初雪が初積雪となり、そしてこの雪は根雪となって春まで残る事となった。
極めて珍しい「初雪=積雪初日=根雪初日」のトリプルパンチである。

ここまで遅い初雪は、その後2011年まで89年にわたり現れなかった。

さて、今の世は、雪の季節に入るといわゆる「冬型事故」といって、凍結や積雪による交通事故が多くなる。

この大正の時代に冬タイヤがあったかどうかは定かではないし、雪が積もると除雪が発達していないのでそもそも車が運転できなかったということもあるようだが、当時の交通事故の状況を分析した貴重な記事を発見したのでみてみよう。

交通事故と本道死傷者

都市の発達につれて 交通は益々頻繁となり 従って交通事故が多くなって来る
殊に 本道の様な各都市が急激に発達した箇所では 之の事故は内地方面より多いのは当然と言はねばならぬ

昨年中に於ける統計を 道庁警務課に調べて見ると 自動車と自動車と衝突したのは十回で 死傷者二名
自動車と其の他のものと衝突した場合 男二名女なし
自転車事故負傷者 男二十一名 女二名、死者なし
電車事故 負傷者男一名女なし 同死者 男五名 女なし
馬車事故 負傷者男三名 女一名 死者男一名 女なし
人力車事故なし
荷馬車事故 負傷者男十四名 女六名 死者男八名 女八名
荷車事故 負傷者男四名 女なし 死者男二名 女なし

等で 自転車が一番軽便な丈に 女はないが一番死傷者が多い
(1922年:大正11年11月17日付 北海タイムスより)


自転車が一番多い、としているが、実は一番多いのは「荷馬車」の事故で、負傷者20名、死者16名で、あわせて36名もの死傷者を出している。
まだまだ自動車は少なく、死傷者はあわせて4名と非常に少ない。

この時代はまだトラックが十分ではなく、運送の主役はまだまだ馬ということだが、交通事故の主役もまた馬である。
今の世は、車の取り締まりが普通だが、この当時の交通取り締まりは「馬」が中心だったことがわかる記事もまた掲載されている。

小樽署の馬車 取締厳し

荷馬車追程 横着な者はない
何回処罰されても直平気で違反行為を繰返している

過般 小樽妙見河畔に於て 小児二名を轢き 重傷を負はしめたる如き 違法の手綱を長くして 後部より馭して居た結果 惨事を見たものだ

其筋に於ては 此等 違法行為に対しては 発見次第 其都度処罰して居るも従来の単に科料処分では 殆ど糠に釘も同然 更に効果ない追々 冬季に入るに従って 此等違反行為を為すもの 益々多きを見 危険を加ふべきを以て

小樽署は従来効果無き 科料処分を廃し 違反の前科あるものに対して 容赦なく拘留処分を断行 交通上の危険を除去する方針で 近々一斉取締を施行すると
(1922年:大正11年11月17日付 北海タイムスより)


海産物や農産物、物資を運ぶ馬車は、馭者も含めて「馬車追い」ということだが、性格も運転マナーも荒々しかったようで、処罰されてもすぐにまた違反行為をする者も多かったようだ。

こうした危険な馬車は、冬になるとますます増加していく傾向だったようであり、小樽署も拘留を視野に厳罰主義で一斉取締りを行おう、ということのようである。

ちなみに、今の世と違って、この頃は、馬の”暴走族”はいなかったようで、これに関する取締りの記事は見当たらない。
まあ馬では「ドライブ」という文化も育たなかったかもしれぬ。
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2025年06月07日

北海道歴天日誌 その265(1922年11月1日)北海道の鉄路、ついに北端に至る

1922年(大正11年)11月1日。
北海道最北端の稚内は、この日は歓喜の中にあった。

札幌から北へ北へと延び続けていた線路が、ついに稚内まで到達したのである。

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▲開通当日の稚内停車場付近の雑踏 (『宗谷線全通記念寫真帖』,鉄道省北海道建設事務所,1924.7. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

工事にあたった北海道建設事務所の中山由三郎技師の回顧によれば、鬼志別から稚内の間の鉄道工事は、大正7年(1918年)に両方面から開始し、切土・盛土の工事が終わってから、稚内より線路をひきはじめた。

ところが、このやり方では、機関車を小樽から稚内まで海で運んで陸揚げしなければならず、稚内の海は遠浅でこれができないうえ、船賃も莫大ということでこれを中止し、大正10年(1921年)の6月に、鬼志別方面から線路を引き延ばし、冬も休まず工事を行って、ようやくこの年の6月に稚内駅まで線路がつながったという。

この線路の開通によって、利尻・礼文はもちろん、樺太との連絡も便利になることが期待された。
実は、この頃は稚内と樺太を直接連絡する船は夏季だけ一ヶ月に二往復であり、冬は稚内から小樽まで20時間かけて出て、小樽から樺太行きの船に乗り、24時間かけて大泊まで行くという具合だったとのこと。

このため、鉄道開通とともに、青函同様に「連絡船」の就航も期待されたのであるが、これも翌年5月には早速実現することとなる。

鉄道開通日の稚内の様子を当時の記事でみてみよう。

宗谷線開通祝賀

一日午後二時より 稚内小学校に於て 鉄道開通大祝賀会開催さる
これより先 午前七時の上りにて 歓迎委員は鬼志別まで出張し 来賓を迎え 十二時五十五分の列車に之等来賓を載せて 駅に着するや 各役員の出迎へ 小学生の旗行列をなし 開町以来の盛況を呈し 自動車 馬車に分乗して 会場に至る

第一号砲に来賓着席し 二号砲鳴るや 南正 岡田副会長の式辞に次いで 来賓の祝辞あり

三号砲にて閉式退場したるが 来賓六百 大盛会なりき

同夜来賓百五十名 井桁一の招き 大夜会を開きたり
(1922年:大正11年11月2日付 北海タイムスより)


鉄道の開通で賑わった様子が短く伝えられているが、空模様までは描かれていない。
開業当日の写真に写る市民は厚着ではあるが手に傘はなく、ゲートの日章旗もなびいていない。
11月の稚内にしては割合穏やかな印象を受けるが、実際はどうだったのか。天気図をみてみよう。

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▲11月1日正午の天気図(『天気図』大正11年11月,中央気象台,1922-11 国立国会図書館デジタルコレクションより)


高気圧が千島の東へ去り、日本海と本州の南の低気圧が並んで東へ進んでいる。
北海道は典型的な「下り坂」の天気で、朝は多少晴れ間のあった所もあるが、日中は全般に曇り空で、夜は道央・道南方面で雨も降り出してきた。

この時代はまだ稚内に測候所が出来る前だが、観測の始まっていた羽幌や、南樺太の大泊・真岡とも正午の雲量は「10」。稚内も基本的にはこの日は曇り空と考えてよさそう。

羽幌は風速が6〜8m/sと南東の風がやや強く吹いたが、大泊は北東の風が3〜6m/s、真岡は日中静穏ということで、写真の様子をみるかぎり、風の状況は樺太に近かったのかもしれない。

羽幌は最高気温が19.9℃まで上がるなど、北海道内はこの時期としては気温は高かった模様。
このため、稚内は、この時期としては暖かく、割合穏やかな曇り空の中、鉄道のある暮らしのスタートを切ったということができそう。

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▲初代声問駅

稚内駅開業の4日後。宗谷線の基点となる旭川から東へ向かう鉄路が開業した。
石北線である。

大正11年に開業したのは、石北線のうち、宗谷線からの分岐点となる新旭川駅から愛別駅までの間。
こちらの祝賀の模様も、当時の記事でみていこう。

歓喜に充てる石北線

新旭川愛別間 鉄道開通は予定の如く 四日より営業を開始せる為 関係方面の沿線観察旅客は 同日の各列車に充満し 非常の雑踏を呈せり

特に午前九時三十分 旭川駅を発したる下り二百七十五列車は 建設事務所長の名を以て案内状を発せる本道各方面八百余名の来賓を満載したる為 二等車五両 三等車十一両 都合十六両を二台の機関車にて牽引せしめ 車中には服部内務部長 島村鉄道局長 筒井建設事務所長 以下官庁各方面を始め 東代議士 丸山 奥野 北村 表の各道会議員 村本旭川市長代理 関崎上川支庁長 旭川市会議員 其他乗込み居り

定刻より遅るる事三十五分にして旭川駅を発し 新旭川駅に到着せば 永山村長以下多数有志 並に 一般旅客 黒山の如くホームに溢れ 爆々たる煙火の音に 蜘蛛手に張れる万国旗に 或は駅前に設けたる手踊舞台に当日の開駅の悦びを示し 熱誠歓呼して誠意を捧ぐ

列車は更に旅客を載せ 長蛇の如き新線を疾走して東旭川駅に至れば 煙火の音に景気を添へ 万国旗の色も鮮かに 小学児童は手に国旗を振て歓迎し 早くも玉井道会議員 萱津村長佐高氏 以下村会議員有志等出迎へ 同車して万歳声裡に発車し 桜岡駅に着けば 同駅も同様 部落有志が煙火を打揚 祝ひの餅を撒きて慶こびを表し 万歳を連呼す

次いで 当麻村に入れば 全村悉く 国旗を以て誠意を示し駅内に入れば 煙花の音も景気好く 小学児童の打振る国旗の波 万歳の声湧き 石灯籠 祝賀門 万国旗等 晴れやかに ホームには林村長以下 村会議員有志 多数出迎へ 同車して 絵葉書村政一般等に配布す

伊香牛駅にても 部落有志 小学校生徒が 青年会員の吹奏する音楽の音に伴ひ 万歳を唱へ歓迎せるが 駅構内には早くも 王子製紙会社 製紙原料たる丸太材一万石の積めるを見たり

斯て 終点たる愛別駅に至れば 駅頭のアーチ 青年会員の音楽隊 小学生徒の旗行列 煙火の音等 型の如く萬歳声裡に下車せる旅客は全部駅前に出て 倉庫を以て宛たる麦茶の接待所に入りて小憩し 上り列車の時刻を待合せたるが 此時 特に設けたる櫓の上より祝餅撒きあり

斯くて 万歳の声に送られて視察旅客は二百六十七列車にして 旭川に帰着せるは午後一時なりき
(1922年:大正11年11月5日付 北海タイムスより)


この日の旭川測候所の記録では、曇りで午前10時過ぎまでは弱い雨が降ったりやんだりの天気であったが、その後は晴れ間が出て、最高気温は14.4℃まで上がっている。まずまずの開業日和となったようである。

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▲開業時の石北線当麻駅(1922年:大正11年11月4日付 北海タイムスより)

この年の旭川の初雪は10月11日。平年より早い雪の便りであったが、11月に入ってまだ雪は積もらず、割合過ごしやすい中で鉄路のある暮らしがはじまっていったのであった。

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2025年05月25日

北海道歴天日誌 その264(1922年9月26日)大正珍話集め・北竜の変わった忠魂碑

1922年(大正11年)9月下旬。
北海道は台風も来ず、ゆるやかに高気圧に覆われて、比較的穏やかに経過した日が多かった。

しかし、季節はもう秋。天気の急変から思わぬことも起きるもの。

9月23日午前11時30分頃、道北の遠別では空がにわかにかき曇り、雷鳴とともに猛烈な西風が吹き出し、雨を交えて大豆ほどの大きさの雹(ひょう)が降ってきた。

嵐は2時間くらいでおさまり、快晴の空が戻ってきたが、秋の日が照らした地面には白い雹が降り積もり、厚さは3〜4センチにも達していた。
多い所では10センチほども積もったようで、野菜類にも多少の被害があったという。

変わった空があれば、変わった人もいる。
北海道にはこんな人がやってきた。

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▲1922年(大正11年)9月27日付 北海タイムスより

ユニホームには、「日本一周無銭旅行上の」と書いている。

日本一周自転車無銭旅行

福岡市吉塚町七九八 上野長吉(二一)君は 左胸疾患の為 不具となり 兵役に服し得ぬ為 先般来 自転車に依って 無銭にて日本一周を企て 北陸を経由 渡道せるが 昨朝九時三十五分 本社を訪れたが 同君は蝦夷富士の登山を企てている

札幌は二泊すると


福岡在住の上野長吉氏。結核か何かにより、徴兵検査で不合格となったのが悔しかったのであろうか、自らの体力は問題なく頑強であることを示したかったのであろうか、日本一周の旅に出て、北海道までやってきたのである。

氏はこの旅行で自分に自信を持ったのかどうか定かではないものの、戦後、福岡市議となっていて、1948年(昭和23年)の「大福岡名士録」にその名前がみえる。
1959年(昭和34年)には福岡県議選に福岡市の選挙区から出て落選しているが、職業は「宣伝業、農業」となっており、なかなか変わった人物とみえる。

変わった天気、変わった人ときて、もうひとつ変わった話が・・・。

北龍の忠魂碑除幕 玉石で一風変った積方

雨竜郡北龍村中央部落忠魂碑は 高松軍人分会長を始め 署員 名誉会員 有志等にて 忠魂碑建設会を設立し 熱心なる奔走と労力とに依り 中央分会本部庭内に建設せられたるが

十八日十一時より除幕式 並に 招魂祭を挙行せり

(中略)

余興に移り 新たに設けられたる三ヶ所の櫓上より 数十俵の餅撒きあり
其より 宴会に移り 高松軍人分会長の挨拶 来賓有志の謝辞あり 盛会を極め 其後 銃剣 銃槍 角力 花火等の余興ありて非常に賑わひたり

尚 碑文は内野師団長の揮毫にして 碑石は仙台より百九十円にて買入 妹背牛市街 藤掛幸太郎氏の彫刻せしものにして 高さ七尺 幅三尺
台石は 会員部落有志等にて 美葉牛山林より搬出せしものにて 分会員相互交代に出で 富山県東砺波郡太田村 宮部九造氏の指図にて積み上げしものなり

下部より高さ二丈三尺 敷幅十八尺 四面義務人夫七百三十六人 荷馬橇 馬車 二百十三台にして

碑石彫刻費 余興費 其他一千二百圓にして 関係部落民の寄附に依るものなり

忠魂碑は 玉石を以って一風変わりし積方なるを以て 全国稀有のものなり
(1922年:大正11年9月27日付 北海タイムスより)


空知の北竜に建てられた「忠魂碑」は、玉石を使って全国的にも珍しい積み方をしているという。
富山から、わざわざ職人を呼んで、指図してもらいながら積んだというこの忠魂碑。

当時の新聞読者もきっと、どんな石碑なのかみてみたかっただろうなと思うと、翌日の紙面に写真が掲載された。
こちらにも転載してみる。

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▲北竜・中央地区に建てられた忠魂碑(1922年:大正11年9月28日付 北海タイムスより)

写真では中央奥に移る大きな石碑が忠魂碑だが、確かに中央から下の玉石が複雑な形に組んであり、変わった形をしているのがわかる。
この忠魂碑、現在は「碧水の忠魂碑」として知られ、北竜町の碧水神社に建立されているもの。

1959年(昭和34年)に改修建立されているそうなので、場所や姿も当時とは少し違うかもしれないが、一見の価値はあるのかも。


▲google地図でも背面を確認可能

最後に、この忠魂碑の記事がのった日の天気予報は、変わったことに、発表できなかったようなので、以下に掲載する。

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▲天気予報は機器故障により出せなかったことを告げる記事(1922年:大正11年9月27日付 北海タイムスより)
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2025年05月05日

北海道歴天日誌 その263(1922年9月22日)大水害よそに大豊作!余市リンゴの苦心

1922年(大正11年)8月25日。北海道東部を台風が通過した。

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▲台風の経路。関東に上陸して北上した台風が根室付近を通過した。(気象庁 編『気象要覧』(273),気象庁,1922-09. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この台風の影響により、全道的に風が強まって大荒れの天気となり、台風の中心からやや西側にあたる日高・十勝・オホーツク海側では200ミリ前後の大雨となった。

道内では十勝地方とオホーツク海側の広い範囲で河川が氾濫するなど、浸水家屋は全道で21,597戸、同流失872戸、田畑の浸水87,975haにも達した。さらに死者は全道で117名にも達し、甚大な被害があった。

被害が大きかった帯広の惨状を伝えるレポートを読んでみよう。

各地水害地めぐり

一昼夜の降雨量二百十三粍七
実に一坪三石九斗一升余の多量に 帯広町開設以来 明治三十一年の大洪水にも さる空前の大水害を蒙った其惨状を 実地に就て記者は踏査するに

増水の当日は 帯広町が炊出しを供給したものは一千戸餘 六千人の多数であったが 水災の後に其の生活を補助すべく見舞い金を交付すべきものは 百七十戸千六十二人の多数に上って居る

流出家屋は十四戸 倒壊は十三戸で 猶 被害の甚大で建換をせねば住居出来ぬ家は二十戸位であるが 泥土にまみれて数日間も其掃除にかかったものは七百余戸である

就中 其惨状を極めたものは 帯広神社裏共有地の小作人で 其戸数は廿六戸で 内 之れ迄の生活は帯広市共有地を少きは四 五段から多きは三 四町歩を小作して 帯広に供給する野菜と 自分の食糧を作付して 細々の生活を営んで居るものであるが 其内六戸は流失し 四戸は倒潰して 其他の家も室内に泥は五尺餘も滞積し 家道具と衣類は悉く其泥土に埋められ 腐って了った

其耕作面積百町歩餘は 十勝川の流域となった所と作物の上 土砂は二 三尺も積み 埋めた所のみで 全くこの百三十余人は衣食住を天魔に掠奪された悲嘆に泣いて居る

其次は 南一線栗山橋付近の十二戸で 十勝川と札内川の氾濫した濁流に包囲されて 二戸は流失し 其他は床上四尺餘の泥土で 前記共有地と共に命を漸く拾ふたに過ぬ 惨憺たる状態である

ここは十七戸で 前記二戸流失の外に半壊も九戸ある

孵化場の事務所と其他も全部押流され 去った遊郭裏共有地も当分衣食住に困る様子である

官公街の被害のあったのは 河西支庁、帯広警察署、河西税務署の内で 警察と税務署の官舎は 床上に四 五寸の泥は積んで 警察官舎の塀などは惨憺たる様に破壊されて居た

共立病院の床上も泥まみれで 院長の社宅は倒潰されて居る

音更通と石狩通の約二百五十戸は商品や家財具を余程泥土に委して使用することの出来ないものが多い
直接に受けた帯広町の損害額は 約百万円位である

日本亜麻会社も事務所と社宅と倉庫は殆ど浸水して 其内の大倉庫は押し流されて倉庫と付近に積載して居た亜麻茎十五万貫は流失した
損害も著しい伏古の農地は 帯広川に添ふて百町歩位は浸水した
其の大部分は水田で 三割位は全滅に帰したやうであるが 其声の大なる割合には被害ないようである
(1922年:大正11年9月3日付 北海タイムスより)


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▲濁流が洗う帯広・西二条通一丁目付近の様子(1922年:大正11年8月31日付 北海タイムスより)

水害による大被害を受けた十勝の住民は、9月12日に帯広市の永楽座に集まり、水害被災者の救済と治水工事に関する決議文を可決している。

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▲十勝水害国民大会の決議内容(1922年:大正11年9月14日付 北海タイムスより)

一方で、同じ北海道でもこの台風の進路から遠く離れた地方では、大雨や暴風の影響が小さく、農作物も豊作となった地方があった。

特に、後志地方の余市のリンゴは、近年まれな豊作となったようである。

余市林檎(一)

春の鰊が去って 余市町民が鼓腹して謳う 林檎の秋が来た
今や余市の至る處の林檎園には 黄金の球が鈴のやうに重く垂れ下って 豊穣の美しさに彩られている

今年は大した蟲害を蒙らなかったのと 何れも無理に数多く生らせる事に努めたので 特に質に於て良好なものは出来なかったが 粒が揃って思い切った豊作で 一町歩から約三万斤の収穫が予想され 是を六百町歩に照算すると 実に千八百万斤(余市果樹園調査)にも上る

處が 内地方面も又 豊作とあって 本年の卸値段は昨年の約半額で、真に「生産者泣かせ」だと園主達が愚痴るもの無理はない

加之小売商人は「豊作下落」を立看板に卸商人からは一斤廿匁で仕入れ乍ら 小売の際は今年から一斤百匁に改めたなどは随分ヒドイ話だ

需要者は随分安価な林檎を買った積りでも 其実 割合にはゆかり勘定となる
尤も斯安価な取引が行はれる迄には 生産者と小売商人との間に激烈な商戦が行はれたが 結局は不景気風の手伝ひもあって こんな風に落付いたものである海陸の両幸、即ち鰊と林檎とに恵まれた余市町が強健な今日に育成された事に不思議はない

此二大栄養素は 実に余市町の盛衰を左右しているのである

余市林檎は五十年の歴史を有し 然も 頑固な会津藩士の古武士的気質がよくも今日の余市林檎を創成したと聞いて 何人も奇異に思はぬ者はなからう

其処には 又 悲しいロマンスが潜在している

「賊軍の汚名を被せられて 蝦夷地に移住した多数の会津藩士の満々たる不平は 日々殺伐な事件を引き起こし 其のうちの最も危険な人物のみ二百名が 殆ど一般住民から隔離的に小樽から余市に転住させられたのは 今から約五十年前 明治四 五年の頃であったらうと記憶する・・・」

と余市の林檎長者 川俣さんや 其他の人達から聞いたロマンスといふのはこうである
(1922年:大正11年9月22日付 北海タイムスより)


秋台風の暴風は、果樹の落下被害を招くのが常だが、余市ではあまり影響がなかったようで、リンゴは豊作という。
1斤は0.6キロなので、約1100トンの収穫量である。ちなみに現代のJAよいちのリンゴ出荷量は約1100トンというから、ほとんど変わらない。
ただ、全国的な豊作の影響を受けて卸値は半額というから、儲かってはいないようである。

さて、余市がリンゴの名産地となっていくのはどういう課程であったのか。連載の続きを読もう。

余市林檎(二)

余市に転住させられた二百名の会津藩士は百名ずつ二分され 其一は今の黒川町に 他は山田町に居を構へる事となった
俗に此が 余市の会津開墾と称したものである

此より先 明治元年 函館のゲルトネル氏が林檎及葡萄苗 十七本 プロシアから輸入し これを七飯村に移植した事があった
此が本道の林檎栽培の濫觴(らんしょう)であるが、何れも失敗に終わった

越えて明治七年 開拓使庁から始めて 余市の此黒川村農会社に林檎 葡萄 梨等数百本を交付され 翌年 又農家に数本ずつを配付され試植されたが何れも農業等に関しては 何等の知識経験なき人達の事とて 殆ど大半は枯死するに委ねばならなかった

然し 堅実な思想と、頑固な古武士気質一本に育まれ来った会津武士の人達は 一方余市に移住して両三年で扶持放れとなってゐたので 自ら生活の途を開いて行かなければならぬ破目にもあったが よく辛酸と闘って 林檎の栽培に心を砕いたのであった

明治十二年第一回に試植した諸苗のうちの数本の林檎樹が 不思議にも寒烈な五回の冬期を越して 小さい乍らも結実するに至った
此時の種類は十九号(緋衣) 六号(紅玉) 四十九号(国光)等 今日代表的余市林檎として普(あまね)く賞玩されているものが 既に成功の曙光を浴びていたのである

さて 結実は云ふ迄もなく 本道として始めての結実であって、試食の結果 従来 純日本林檎とは比較にならぬ美味で 色澤と云ひ 形状と云ひ 日本物とは比較にならず 然も 其種類に依って 酸味 甘味等の加減を異にし 林檎栽培の有望なる事が立處(たちどころ)に立証された

直に其の翌年から全力を林檎栽培に注ぎ 此年いんは秋田団体も山田村に入り込み 会津開墾の西方に陣取り、秋田開墾と称し 競ふて林檎園の経営に砕心し 当時札幌農学校伝習科出身の三宅輔氏は山田村に苗木育成園を設けて 芽接法の伝授や、苗木の供給をなし 林檎業の発達を授けた

斯の如くにして 今日 本道の代表的余市林檎の根底は築かれたのである
(1922年:大正11年9月23日付 北海タイムスより)


旧会津藩士が余市に移住するまでは、「逆賊」であることからかなりの苦難があり、薩摩出身の黒田清隆の温情が深くかかわっている。
藩主・松平容保の助命のため、北海道の開拓に従事することとなった旧会津藩士の一団は、時の新政府の長州や土佐の役人から放置を繰り返されたのち、黒田の考えで余市を経由して樺太に移住させられることとなったが、これまた黒田の樺太放棄の考えから、そのまま余市に土地を与えられて定住することとなった。

このため、藩士が移住した黒川町の黒は「黒田の黒」であり、山田町の田もまた「黒田の田」をとっている。

また、リンゴも黒田清隆と縁がある。余市のリンゴはゲルトネルの苗ではなく、黒田清隆が明治の初めに渡米して持ち帰った農作物の種子や苗のひとつであった。リンゴの苗は道央・道南の農家に配布されたが、そのほとんどが枯死したのに対し、会津藩士は黒田への恩から苗木を大切に育てたことから、道内初の結実に至ったのである。

それでは続きを読んでいく。

余市林檎(三)

当時の林檎栽培は 今日と比較すれば 誠に楽であった
先づ 害虫はいなかったから袋を被せる必要がなかった
偶に 極僅 ハマキムシやスムシ、ケムシ、アブラムシの類が発生したが 此類は手数を要せず 平手で充分駆除が出来た

又 数十年間施肥の必要がなかった
只 根を荒らす鼠と 越年に雪の為 折枝の用意さへすれば 独り手に毎年林檎が生った

斯 費用はかからず手数を要さなかった
然も 当時の林檎の価格は実に高価なもので 当時白米一升十銭位、女の出面賃が一日十五 六銭位であった
此時代に 林檎一斤が十三銭から十五銭位のものであった

然も林檎の珍味は あらゆる階級に好評を博し 旺(さかん)に売れたものである

此放任的栽培でも 十九号や六号などはよく地味に適し 年々好成績を挙げて行った

今日林檎が「何号」と命名されているのは 苗の輸入番号で 一般に語学の普及されていなかった当時 洋名を口にする事が非常に困難とせられ、一般需要者を記憶するに至難である結果 売れ行きに影響してはと 遂に呼安い号名を使用する事となり 今日 尚 此が其儘用ひられているのである

一方 黒川村に居住した会津開墾は 土地が砂地であった為 農作物も意の如くならず 扶持放れと共に帰国する者が多かった
又 山田村でも一度は続々して行ったが 林檎の有望な事に曳きつけられ 再び舞戻った者もあって 現今では二十名の残留者がある

初期に於て 林檎栽培に腐心した者のうちで 会津団体の伊藤、百瀬両氏は熱心に施肥、病虫害防除を研究し 意外の増収を得た
一方 秋田団体では高山、大平、佐藤の三氏は学理を応用し 実験を基礎として 剪枝施肥、病虫害防除等を改善し 同業者の指導となり範を示し 今日は何れも林檎長者として山田村の大林檎園を経営している

特に高山氏は 先帝東宮に在せし際 本道行啓当時 侍従を派遣され 御台覧の光栄に浴した事 普ねく知る處である
(1922年:大正11年9月24日付 北海タイムスより)


余市のリンゴも一様に育成できたわけではなく、黒川と山田という転住先の差で、リンゴとの縁、その後の余市との縁に差ができてしまったようだ。
約200名の藩士も、50年が経過して20名となったが、りんごのおかげで余市で暮らしを立てることができたのであった。
記事中に名前がみえる功労者は伊藤甚六、百瀬清三郎である。

そして余市リンゴの発展には、会津藩だけではなく、秋田からの開拓団体とのよき競争関係もあったことがうかがえる。

さらに続きがあるので読んでいこう。

余市林檎(完)

林檎の強敵 カヒガラムシ、チョッキリゾウムシ等が発生し出したのは明治三十六年で 此年 始めて袋掛けが行はれ 石油乳剤や石炭硫黄合剤の撒布などが行はれたが 非常に費用を要するので 明治四十四年七月 北海道農事試験場技師 岡本農学士が 札幌合剤を発明し 数万の経費を省くに至った

年々林檎の増収と共に販路を拡張する必要に迫られ 明治三十五年には 会津団体の有志者は 黒川村市街地に余市町購販組合を創立し 内国及び浦塩地方の販路調査を行ひ 旺に林檎の移出を見るに至った

此当時では一般農家が数段の畑から収穫される収入が 僅数本の林檎樹に該当するといふ状態であったので 旺に林檎栽培に転業する者が続出し 遂に今日の隆盛を見るに至った

大正三年には余市苹果同業組合が認可され 小栗富蔵氏 組長に当選したが 同氏は十数年来 摘果法を励行し 腐乱の撲滅及其他病虫駆除法に関する規約を設け 協同励行を促した

一方 伊藤隆治氏は 林檎の缶詰法を研究し 青木丑蔵氏は冷蔵法を考案し 杉本弘氏は園地耕作法を励行する等 此功績は実に少くなかった

又 同大正三年には 鈴木真氏 病理昆虫研究所を設置して 専ら病虫害の駆除を図った
大正四年に石山氏 他八氏が綿蟲の予防を行った効は実に顕著なものであった

斯く多数の人の苦心研究によって 遂に今日の余市林檎を見るに至ったのである

北大の余市果樹園に就き 聞くも 年々作付反別は減ずるとも 総収穫に於ては年々増加しつつあるといふに徴しても 余市林檎の将来は実に多幸と云はなければならぬ

今 余市は在来が農家でも 自分達が皆相当の教養を施されて来た事であるから 子弟の教育に関しては 全力を注ぐと云ふ方針で、一同挙って子弟を専門の学校に送るといふ話を聞いたが 誠に美しい事と云はなければならぬ
(1922年:大正11年9月26日付 北海タイムスより)

1922年は、余市に会津藩士が入植してから50年ほど。その歩みは余市林檎の歩みに重なることがよくわかる。

そして余市のりんごはその後もニッカウヰスキーの工場の経営を支え、ニシンがとれなくなった余市の経済を支え、今の世も北海道の名産品のひとつとしてあり続けている。

19220926余市の国光.jpg

余市ではじめて実を結んだ49号(国光)とデリシャスの交配により誕生した「ふじ」。
さらには「ふじ」と他の品種の交配により誕生した様々な品種が、現在の余市りんごを支えている。
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2025年04月27日

北海道歴天日誌 その262(1922年8月18日)避暑地における暑さの中の熱い講演

1922年(大正11年)8月の北海道。

昨今は地球温暖化の影響で、「北海道=涼しい」というイメージが薄れつつあるが、大正時代はどうか。
新聞に掲載された漫画をよむとよくわかるので、まずご覧いただこう。

本道の夏
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内地から来たらしい新婚の夫婦者が アカシヤの木蔭を散歩し乍ら 北海道は涼しくていいね と云ひ乍ら 二人で嚏(くしゃみ)をしてゐる

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郊外に帰る馬車追はのんびり追分を唄ってゐる 馬もさるもの 市中では恥しいとみえて ここでは追分に合せて 放屁伴奏をやってゐる

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盆踊りを見に行く連中と 帰る連中が 橋の上に一杯になってゐる 川風の寒いのが北海道の特色らしい
満天の月が半分欠けてゐる
盆踊りと月とは無関係な處も北海道らしい

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ベンチへ腰を下した書生曰く
「君 北海道の夏は 居乍らに避暑地だね 之ぢゃ 金の無いものに幸いだ 旅行せずにすむからね」

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夕方涼しくなると氷屋には客が無くなる
すると氷屋先生 怒鳴って曰く「暖かい氷 暖かい氷」

(1922年:大正11年8月20日付 北海タイムスより)

この漫画には、これでもか!と言わんばかりに、北海道の夏の涼しさのエピソードがちりばめられている。

真夏だけど、涼しいを通り越して「くしゃみ」をするほどで、氷屋も「暖かい氷」と言わないと商売にならないくらいの夕涼み。
本当は涼しいといっているのもやせ我慢で、本州から来ると肌寒いくらいの感覚を覚えるのがこの時代の北海道の夏だったのかも。

しかし、そんな大正時代の北海道でも、うだるような暑さの日はある。
この記事が出る二日前、8月18日は厳しい暑さとなった。

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▲1922年(大正11年)8月18日正午の天気図 (『天気図』大正11年8月,中央気象台,1922-8 国立国会図書館デジタルコレクションより)

宗谷海峡付近に低気圧がある。一方で日本の東海上からは太平洋高気圧が西に向かって張り出し、朝鮮半島付近まで勢力を広げている。
このため、北海道は低気圧に向かって南から暖湿気が流れ込んだため、フェーン現象も重なった札幌では、最高気温が32.4℃を記録、寿都も30.0℃と真夏日となった。このほか、函館で29.5℃、旭川29.3℃、網走28.0℃を記録。

暑さは翌19日も続き、帯広は34.3℃、網走は31.1℃、釧路27.2℃を記録している。

この厳しい暑さの中、内地から本道にやってきた客人は、北海道を避暑地と思ったかどうか。

嘉納師範を迎へ 中央創成で大試合

十七日夜来札せる講道館長 嘉納治五郎氏は 昨十八日早朝より自動車を駆って円山に赴き 参拝了って道庁、大学、市役所を歴訪し 十一時過 本社を訪問後 一たん旅館 山形屋に引き揚げて 午後一時半 愈々中央創成校に於る講演 及び 柔道大試合に臨んだ

是より先 会場創成校屋内運動場には 講道館札幌分場員 多数詰掛けて 諸種準備を急ぎ 観衆ははやくも 昼過より続々入場 一時前 警察 講習所員 七十余名も来観して 広い屋内も一杯となった

二時十五分前 札幌講道館分場長 荻原七郎氏 開会の辞を述べ 続いて講道館文化会北海道支部長 阿部宇之八氏 祝辞を朗読して後 拍手に迎へられて嘉納氏登壇

先づ 講道館の柔道は武としては「攻撃防御を目的として 心身の力を最も有効に使用する道である」と説き 萩原四段を指しまねきて 種々の型を実演し乍ら 柔よく剛を制する所以の興味ある説明をなし 又一方 柔道に依りて得たる精力の最善活用が 個人の精神生活を向上せしめ 引いては 国民の活動力を増す理由を説きて 講道館文化会設立の主旨に言及し 滔々(とうとう)一時間余に亘りて講演を行い 拍手裡に降壇した

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次に松実代議士は来賓を代表して 一場の演説を試み 三時半より愈々柔道大試合に移る

先づ 岩崎、中野両四段の投の形、佐藤三段、伊丹二段の講道館柔の形、関口、渋川両初段の極の形、中垣内四段、安達二段の五の形あり

四時より紅白試合を行ひ 六時過ぎ終了
それより来賓有志 及札幌有段者会有志は 嘉納氏を豊平館に招待し 歓迎会を開催した
(1922年:大正11年8月20日付 北海タイムスより)


近代柔道の創始者として有名な嘉納治五郎であるが、北海道にやってきて柔道の指導を行うこともあったということがわかる記事である。

この年、嘉納は記事にもある「講道館文化会」を設立し、柔道を通じた精力最善活用と自他共栄を広めるため、全国各地で精力的な講演活動を行っていた。北海道ではこの時、支部の発会式を行ったようである。

記事には、暑い、寒いの話題はないが、一時間余りも講演を行う嘉納の”熱さ”に札幌の柔道界は触れることとなった。

この後、嘉納は、柔道だけではなく、東京と札幌の五輪招致の活動という形で、北海道と関わりを持ってくることになる。
posted by 0engosaku0 at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする