2024年12月08日

北海道歴天日誌 その247(1922年3月21日)彼岸嵐が命を飲み込む・・利尻の天国と地獄

1922年(大正11年)3月10日。

道北の遠別町で、新しい橋の完成を祝う催しが開催された。

賑へる遠別渡橋式

天塩国遠別橋渡橋式は 去る 十日挙行新架橋の南北の橋詰には 大緑門を立て 国旗を交叉し 市街は本通り四ツ角に大緑門 第一会場たる公会堂前 第二会場前 並に祝賀会場たる学校前等にも緑門を立て 国旗を交叉し 市街は各戸 皆 燈を掲げ 国旗を揚げ 開村以来曾てなき装飾をなしたり

午前八時 第一号砲を以て準備 第二号砲を以て渡橋式場たる北橋詰に着席 第三号砲にて開場の辞 其より神官の祓 終りて 三夫婦揃って渡し初めをなせり

先導は神官次に林松右衛門(八十二才)同人妻マス(八十二才)次に林栄吉(五十五才)同人妻ツキ(五十四才)次に林作太郎(二十二才)同人妻サヨ(二十才)次ぎは長官代理、留萌支庁長、留萌土木派出所長の順にして 其他は各関係者 官公吏役員 及び 其後に小学校生徒は小国旗を手に打振 渡橋式唱歌を高唱し 其後に一般民衆の順序に渡橋して

午前十時 第四号砲にて祝賀会場たる学校に至り 主催者たる森野村長は開会の辞を述べ 戊申詔書を奉読
次に留萌土木派出所長 町田利臣氏の工事報告 長官代理 北村北海道庁属の告辞代読終りて 村長の式辞 留萌支庁長 塩川圭造氏の祝辞に次ぎて 各来賓の祝辞 次ぎに各所よりの祝電を朗読し終りて 紙谷栄太郎氏は村民を代表して 答辞を述ぶ

第五号砲にて 第一会場公会堂の祝宴に臨む

此の時 天候険悪となり 雪降り来りたるも 見物人近郷より蝟集し 非常の雑踏を呈せり此時第一会場緑門前の高き櫓の上より餅撒きの式あり

会場の祝宴は 楽隊の興を添へ 午後二時 一同遠別村の万歳を三唱し 余興に移る
夜間は芸妓の手踊 少年の芝居等にて 堂内は立錐の余地なき見物人なりき

只 遺憾とする處は天候険悪にて 小学生徒の旗行列と提灯行列中止となりし事なり
(1922年:大正11年3月23日付 北海タイムスより)


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▲遠別橋の渡橋式

遠別橋は、遠別町の中心市街の南を流れる遠別川にかかる橋。
渡船や仮橋はあったようだが、しっかりとした橋がかかったのは、これが初めてだったようで、町を挙げての大祝賀となった。

この時、小学校が歌った祝賀の歌には「幕府時代を思わせし、交通絶ゆる川止や、舟守呼ばる不便さも、消えてうれしや今日よりは」とまで謳われている。

この木橋は、道路を車が走るようになるという交通事情や災害への強靭化という事情もあって、昭和10年代から道内各地で行われた「永久構造橋」への置き換えによって、コンクリートや鋼鉄を使った橋に架け替えられた。

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▲永久橋となった遠別橋(新北海道史第5巻より)

現在の遠別橋は留萌開建の国道232号線道路台帳(R5版)によれば1971年(昭和46年)に架かったとのことなので、既に50年以上が経過した。
そろそろ新たな橋に架け替えという話が出て来るのかも。


▲いまの遠別橋

ところで、記事中にあるように、3月10日は遠別では天気はあまりよくなかった。
近隣の羽幌測候所の記録では、10日は午前中は晴れ間があったが、正午前から雨が降り出し、雪に変わって、また雨が混じるという空模様。
風速も10m/sから15m/sとかなり強い。雨や湿った雪が横殴りで降る中では、旗行列や提灯行列も難しかったのもうなずける。

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▲1922年(大正11年)3月9日の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この荒天の原因となったのは、当時の満州方面から沿海州北部を通って樺太方面へ進んだ低気圧が原因なのだが、この低気圧をめぐっては、遠別からさらに北で、ある”騒ぎ”が巻き起こっていた。

八方に吹き散らされた鬼脇漁民蘇生の祝ひ

利尻郡鬼脇村 蟹漁発動機船十余艘 及び 鱈釣川崎船四十余艘は 去九日未明より 同島沖合に出漁し居たるも
午前十一時頃より 俄に南方の強風吹き荒み 怒涛を巻いて荒れ狂ふより 各船は何れも競ふて帰村の途に就けるも 天候は 刻一刻険悪となり 船の操縦も思ふに任せず 遂に狂瀾の弄ぶ處となりて 同日夕刻迄 辛ふじて帰村せるもの 僅かに川崎船二隻のみにて

他は悉く行方不明となり 漁夫の家族の悲歎一方ならず 悲痛なる一夜を明かして 翌日は村民総出にて夫々救助の方法を講じたるが
同日に至り 礒江 政木 両氏の川崎船二隻が此日未明 水船となりて チュシナイ沖合約六海里の海上に漂流中 中川缶詰所所有の美保丸第二号に救助され 乗組無事にてチンドマリに入港せる由の電話ありて
続いて鴛泊 礼文 納内 其他各地より夫々無事避難せる旨の電報あり

十二日 各避難地より続々帰村せり

村民の喜び一方ならず 是 ひとえに神の加護に外ならずとて 漁業家一同は北見神社に参拝し 同時に鬼脇漁港完備せざる間は 安心して出漁すること難しとし 鬼脇漁港修築請願の議会通過を祈願し 一般村民にも大いに其速成熱を高めたりと

因に 今年の同村に於ける蟹漁は開村以来の大漁にて 今日迄の製造箱数既に五千六百函餘に達し 其価格 実に二十数万円にして 第一期の成績としては全く未曽有なりと
(1922年:大正11年3月19日付 北海タイムスより)

この年は利尻島周辺ではカニが豊漁だったようだが、3月9日の朝、カニやタラを獲りに出漁した漁船は、昼前から南風が強まって天候が悪化してきたが、港に戻れず、そのまま「行方不明」となっていたのだが、実は礼文や他の漁港に避難していて、嵐が収まってから無事戻って来た・・・というニュースである。


▲利尻富士町鬼脇の北見神社

羽幌測候所の記録では、9日は午前2時の風速が3.3m/sだが、午前10時には南南東の風が5.5m/sとなり、午後2時には8.9m/s、午後6時には10.7m/sとだんだん強まっている。ただ、この地方で特別の強風・暴風ということでもない。
また、鬼脇は、利尻島では南東側に位置するので、南東風に流されても、利尻島の山影にまわりこめれば、鴛泊や沓形といった、利尻島の北側にある漁港にも避難は可能。こうしたことが、全員の生還に繋がったのであろう。

しかし、一週間余りのち、利尻の空は再び荒れる。

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▲1922年(大正11年)3月21日の天気図

20日は発達した低気圧が日本海を北東に進み、北海道は朝は穏やかだったが、次第に東寄りの風が強まっていった。
低気圧は21日に北海道をゆっくり通過、22日は強い冬型の気圧配置に変わる。”彼岸荒れ”である。

羽幌測候所の風速も、20日の朝は1〜2m/sだったが、21日には10m/s前後に強まり、22日の午後から23日にかけては15m/s前後と大荒れになった。羽幌では21日に19.0m/sの最大風速を観測している。

函館では、21日に南西の風が25.4m/sに達し、今に至るまで3月の観測史上1位の記録を保持しているほか、宗谷岬でも同日に風速24.8m/sを記録している。稚内地方気象台では、3月にこの時を超える風を観測したことは一度しかない。

利尻 廿名溺死

【廿二日鬼脇発電】
廿一日より廿二日朝迄に 利尻地方は未曽有の暴風雨となり 発動機船三隻難破し 廿餘名溺死を遂ぐ

別報
二十日 利尻郡鴛泊村大字本泊村佐藤倉吉方 鱈釣川崎船同村沖合にて暴風の為遭難し 二十一日午後一時 沓形村に漂着
乗組員八名中 泊村 佐々木梅吉(三〇)は溺死し 行方不明三名 其他救助せりと
(1922年:大正11年3月23日付 北海タイムスより)


3月としては、北海道では十本の指に入るほどの荒れ模様。
利尻での奇跡は、二度は続かなかった。

遭難する船舶からは死者・行方不明者が続出。その数、20名を超える惨事となったのである。

天国と地獄というには、あまりにも落差は大きい。
大正11年はこうして春が近づいていった。
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2024年12月01日

北海道歴天日誌 その246(1922年3月11日)晩冬の北風に吹かれ、狸小路・第一神田館失火で焼失

1922年:大正11年3月11日。

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▲3月11日午前6時の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

千島方面に低気圧があり、東シナ海には高気圧が進んできている。北海道付近は冬型の気圧配置となっている。

札幌は午前4時の気温が−1.8℃で西の風が4.9m/s。雲量はゼロなので快晴である。
ただ、札幌測候所の職員は、ひょっとすると南の空に雲ではなく、炎と煙はみていたかもしれない。

この日の札幌は大きな火災があったのだ。

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▲第一神田館の火災(1922年:大正11年3月12日付北海タイムスより)

札幌の南2条西4丁目・狸小路の北側にあった映画館、第一神田館が燃えた。
第一神田館は、札幌では初の常設映画館で、旭川の実業家・佐藤市太郎が道内各地で経営していた映画館のひとつである。

火焔に包まれ焼死

一方 焼落る家屋の余勢に煽られ 四散せる無数の火の粉は 遠く南七条辺迄落ち 劇場錦座 西田座にては 座員 何れも屋上に攀(よじ)登 降り注ぐ火の粉を消し止め居たり

右火災に際し 火元なる神田館見習事務員 新井不二雄(二五)は 同館三階に就寝し居たるが 火勢速かりし為 逃げ場を失ひ 座布団を冠り 火焔を防ぎつつ うろうろする中に 遂に崩れ落つる建物の下敷となり 両眼飛出し 無惨の焼死を遂げ

同事務室に当直せる下足番 熊谷三郎(二八)は出火と同時に行方不明となり 目下行方捜査中

其他 公立消防組員中 九名の軽傷者を出したるが 何れも出張せる赤十字看護婦の応急手当を受たり

尚 火元に近接せる多くの罹災中には 眼を覚せる当時 既に火の手に見舞われ 殆ど着の身着の儘に避難せる者多く 中には二階より愛児を街路上に投 辛くも焼死を免れたる者すらあり 目下 札幌署にて極力調査中

火元と真向いのライオン食堂

類焼したライオン食堂の高橋君は語る
「火元が真向ひの高い建物なのに 路は狭し 風は北西といふので 私共はまる被りと云った具合で
起きて見ると もう通りは一面の火の海で 危険も甚だしいので 先づ何より家人を避難させねばならぬと思って 其方にのみ気を焦ったが 裏口から出されぬので 大間誤つきでした

それでも手廻り物を少し裏まで運びましたが 其時は既に五重塔に飛火して 盛に燃え上がり 間もなく倒壊して裏の方から火の手が挙がったには全く閉口しました」

又 隣接した貴金属細工商 鈴木一光堂でも同様な始末で家人は殆ど身を以て逃れた様なものである

尚 類焼者中 殊に気の毒に堪えないのは 札幌印判業組合長 三室繁次郎方で 前日 子息の妻女を野辺送りし 一家悲しみの上に 此有様で只呆然としていた
(1922年:大正11年3月12日付 北海タイムスより)

道内各地の「神田館」は1920年代に入ってから受難続きであり、1920年(大正9年)は夕張の神田館が焼失、1921年(大正10年)は旭川の第三神田館が焼失しており、これが三つ目の映画館焼失であった。

札幌の第一神田館も、1920年の暮れにボヤ騒ぎを起こしたことがあったほか、この火災の二日前にもボヤ騒ぎがあったという。

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▲火災後の狸小路の様子(3月12日付 北海タイムスより)

冬型の気圧配置による北西風は、朝にかけて7m/s前後に強まり、神田館からの火が、付近一帯に燃え広がった。
全焼39棟41戸、半焼2棟2戸の大被害であった。ただ、料亭のいく代は石造りが幸いし、類焼は免れた。

火事の原因は、当直中の下足番が10日の営業終了・閉館後、酒を呑んで酔っ払い、爐火が残ったまま眠ってしまったことであった。
目を覚ました時には、既に火焔が付近に燃え広がり、消火ができずにそのまま逃げ出して行方をくらましていた。

11日夜10時40分の琴似駅発の列車で小樽方面に逃げようとしているところを札幌署の警官に逮捕され、失火罪で検事送りとなった。

ところで、火災のあと、違った争いが勃発している。

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▲焼け跡の地価暴騰を報じる記事(1922年:大正11年3月16日付 北海タイムスより)

狸小路南3条側の一角は”強欲非道”の地主・五十嵐久助の所有地であり、「火事の際は借地権消滅」となっていたことから、焼け跡に再び住みたい罹災者と、”野心家”という一種の地上げ屋のようなものとの間で、土地争奪戦が繰り広げられていたのである。

結局、18日になって札幌署の薦田署長が、五十嵐久助をはじめに、若月清八や南部伊三郎・伊之吉など関係者を署に呼び出し、「この機会を利用して地代を値上げするな」と戒告を発したため、地価は上げずに復興に向けて動き出すこととなった。

ただ、罹災者一同に対しても焼け跡の仮小屋建設は許さず、新築の場合も不燃の材料で建てるように戒告したという。

ここから100年余り。この一角はドン・キホーテ狸小路店やカラオケ館狸小路店などがあるが、こうした争いの歴史も織り込みながら、この土地は活用され続けているのであった。
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2024年11月30日

北海道歴天日誌 その245(1922年3月6日)小樽の名士にスキャンダル!小樽実科高女の舎監堕胎事件

1922年:大正11年3月6日。

この日、一人の女の子が津軽海峡で誕生した。

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▲西村比羅子さんの誕生(1922年:大正11年3月7日付 北海タイムスより)

記事にあるとおり、山形から空知の由仁へ戻る途中の西村カネさんが、青函連絡船の船中で女の子を産んだのである。
この子が後の・・・ということは一切無いようではあるが、この時代はしばしば、連絡船の中での出産がニュースとなってとりあげられる。

「比羅夫丸」で誕生したので、船の名前をとって”比羅子”と名前がついたようである。

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▲3月6日正午の天気図

この日の気圧配置は西高東低の冬型の気圧配置。この時期としてはよくある天気図で、津軽海峡は波もやや高かったであろう。
揺れる船の中での分娩にも苦労があったかもしれない。

船が着いた函館は晴れ昼過ぎ一時雪の天気で、積雪は5センチ。比羅子ちゃんの目には雪景色が映ったことだろう。

産まれる命がある一方、産まれることができなかった命もある。
当時の北海道は、ある事件でもちきりであった。

舎監堕胎事件 小樽実科高女の教師

小樽区 私立実科高等女学校(元実践女学校)舎監、教師 佐藤イマ子(二五)は 堕胎被告事件の嫌疑で 去る二十八日 小樽警察署に引致され 爾来 厳重取調を受けつつあるが 一方 イマ子が住居し居たる 同学校内舎監内の家宅捜査を為すと共に 学校便所の糞便の汲取りを行ひ 彼の女の使用し居たる血塊附着し居る腰巻を押収して引揚げたが

尚 二日深更 同学校長にして区会議員である中谷宇吉氏を警察署に召喚 検事局より里美検事出張の上 厳重取調べを行ふた結果 如何なる供述を為したかは 区会議員たる地位と名誉を重んじて詳記する事を見合せ置く

尚同夜 婦人科専門の岡本病院長 岡本辰之輔氏を招き イマの身体検査を為す處があったが 同医師は 懐妊の徴候絶対に無しとの鑑定を下したが 更に他医師の鑑定を求むる筈

風紀頽廃(たいはい)驚くべし

イマ子は大正五年 実践女学校を卒業と同時に 直に母校の教師に就職して 自宅より通勤しつつあったが 一昨年の新学期より 前舎監の辞職の後を受けて舎監となり 現在の寄宿舎内に起臥する事となったものである

然るにイマの実妹は校費生として通校し居る位 実家も裕福でないから 従ってイマの服装等に於ても 推して知る事が出来るが 彼の女が舎監として寄宿舎に入りてからは 美衣粉黛(ふんたい)に身を飾って居た

然も三日と無く着替をする處から 薄給の身で好く贅沢が出来るものだと噂されたものだ

然るに昨年夏に至って 彼の女は婦人病にて岡本病院に入院 局部を手術した事があったので 口喧(やかま)しい女生徒等は結婚した事の無い者が手術する訳は無いだらうと 上級生間に於ては 校紀の腐敗を歎じて 改革を叫ぶ者が多かったが 決行するに至らなかった

其頃から イマ子と男との関係に就いて 一年生に至る迄 誰知らぬ者無きに至った

處が 彼女は旧臘十日 突然廊下に於て倒れ 其際 局部から出血して一週間臥床したが 其時は遂に医師の診察をも受けずに了った
彼女は他人に対して容態に就いては話されない事があると云ふて居た

此時は便所内に血が沢山あったとて 又々生徒間に喧しい噂を産んだ

此問題の為に 寄宿生は終業期をも待たずに続々と帰省せるを見ても 同校が如何に腐敗して居るかが知れる

冬期休暇が了って 一月始業と共に補習科及本科の女生徒は 餘に問題が喧しいので 校風革正の為に奮起する事となり ストライキを行ふと共に 中谷校長 並に佐藤イマ子に面接して 忠告を與へたさうだが 果たして当事者は如何なる態度を採らんとしたか

其内に其筋の探知する處となった結果 ここに活動を開始するに至ったのである

生徒間にはイマ子の居室の窓に 酸漿(ホオズキ)の乾してあるのを見た者があると噂されて居る
果して彼女は堕胎したか 其筋の取調べの進捗を待って更に報道しやう
(1922年:大正11年3月4日付 北海タイムスより)

今は使わない言葉もあるので、多少解説が必要だが、「舎監(しゃかん)」というのは、寄宿舎で、寄宿している学生・生徒の生活指導や監督をする人のこと。また、「堕胎」というのは人工妊娠中絶のこと。

つまり、小樽の実科高等女学校の寄宿舎の監督をしている女性教師が、堕胎罪で警察につかまったというニュースである。

今の世では、望まない妊娠の中絶は医療行為として普通に行われている印象があるが、現在は法律で妊娠22週未満であれば中絶が認められているからであり、現代も「堕胎」は実は犯罪である。妊娠中の女子が薬物などで堕胎する犯罪は刑法で「自己堕胎罪」として規定されており、1年未満の懲役という刑罰もある。

堕胎方法としてカギとなるのが「ホオズキ」である。観賞用のホオズキは根に毒があり、子宮収縮の作用があるとのことで、江戸時代から長く”堕胎薬”として大正時代もよく知られていたようである。

なお、堕胎罪は、妊娠していた女性の犯罪であり、妊娠させた男性は罪に問われない。(今も)
このため、この事件では女性教師は逮捕されたが、相手の男性は逮捕されていない。

そして記事には相手の男性を窺わせる内容の記載がある。当時、校長を務めていた小樽の名士・中谷宇吉氏である。
※名前は似ているが、人工雪で世界的に名を知られる中谷宇吉郎とは別人

徳島出身で明治に小樽に渡り、運漕業などで名を挙げ、道会の議員もつとめたという名士である。
この当時は50台半ば、前年の1921年(大正10年)に小樽実践女学校から小樽実科高等女学校となるタイミングで校長に就任していた。

小樽では知らぬ人がいないような名士が、校長と教師という立場を超えた関係となり、堕胎事件を引き起こしたということで、これは大スキャンダルである。

一度、生徒が騒いだ時に、医者から「イマ子は処女」との診断書を提出させて騒ぎを収めたのも、政治力を使ったのではないか・・・となり、これまた噂を呼んでいたのである。

舎監と校長の醜事

既報、小樽実科女学校舎監 佐藤イマ(二五)は小樽署に於て取調の結果 遂に堕胎罪として小樽監獄に収監され 愈々取調は里見検事の手に移ったが 本社の探知する處に依ると 相手の中谷宇吉も亦 不拘束の儘 同罪で事件のみ検事局に送付された模様である

イマの堕胎事件なるものが果たして事実とせば 相手の男に何等の相談なく独断で胎児を処置したとは誰しも首肯する能はざる處であらう

中谷校長とイマとは 九年六月以来 情交を継続し来ったが 昨年六月頃に至り イマが不義の胤を宿すに至ったが 其の処置に窮し 女小使の加藤フサ(六四)に事情を打明け 善後策を図った結果 奥澤町青物行商 稲村ヨシ(三五)より酸漿及び茎三本を買受け 之を以て堕胎を企てた者の如く 家宅捜索の結果 証拠物件は既に其の筋の手に押収されてある模様である

之に就いては 右の酸漿を供給した前記の青物商 稲村ヨシ並に被告イマも自白して居るが 唯小使の加藤フサのみは頗る強情で容易に事実を明かさないので 目下厳重取調中であるが

併し果たして酸漿を用いたものであるかは 尚 取調を要する處であらうが 同校生徒のストライキ事件の際 即ち 本年一月 佐藤イマに対し「処女に相違無 之 候」といふ證明書を與へたに就て非常に疑問の中心となって居るが それがあらぬか 五日夜 岡本病院長は其筋に出頭を命じられ 何事か取調を受けた模様である
(1922年:大正11年3月7日付 北海タイムス)

佐藤イマ子は収監され、堕胎を自供し、裁判を待つ身となった。

しかし裁判は開かれなかった。
というのも、この事件は”起訴猶予”となったからである。

検察から、この事件の原因は校長の中谷宇吉にあるが、佐藤イマ子は中谷の身分を考慮して、すべて自分がやったこととして罪をかぶろうとしており、改悛の様子がみられる。また、中谷はイマ子に堕胎を奨めたという疑いを否認しているが、数日に亘り新聞に書かれて、道民に広く知られることにより、社会的制裁を受けてきた。このため両者とも起訴猶予の決定を為した、との発表が3月10日にあったのである。

中谷宇吉は別日の記事では「3月4日限りで校長の職を辞した」とあるが、実際のところは辞めなかったようで、現在の小樽双葉高(小樽実科高等女学校の後継)のホームページでは、校長の交代は「大正15年2月」となっているから、この事件のあとも4年、校長を続けたようである。

中谷が校長を続けられたのは、この事件が起訴猶予となったからであろうか。

一方、この事件のとばっちりを受けたのが一人。

イマ子を処女と診断した医師の岡本辰之輔である。

検察に、医師はあくまで診断書に正当を期すべきはずなのに、何等の診断もなく、警察にも処女云々とのウソの証明をしたということで、「看過する能はざる」として、医師法違反の罪で告発されてしまったのであった。

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2024年11月29日

北海道歴天日誌 その244(1922年3月1日)厳寒の三月に社会保障の萌芽!札幌の敗残者事情

1922年(大正11年)3月1日。

2月の下旬には最高気温が8℃(23日)や9℃(25日)まで上がっていた札幌だが、簡単には春は来ない。
この日の最高気温は−3.0℃と真冬日で、最低気温も−11.6℃と弥生のはじまりは厳しい寒さ。

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▲3月1日正午の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

しかし、それでもここまでの暖かさが効いていたのか、氷結した石狩川を石炭を乗せて通過中の馬橇が、この日の午後一時頃、突然氷が割れたことをきっかけに石狩川に落ち、3名が転落。2名は助かったが、石狩川治水事務所の当別太工場で火夫を勤めていた二十歳の男性が亡くなっている。

3月を迎えても厳しい寒さの札幌で、懸命に生きている人たちの姿を伝える記事をひとつ。

札幌の敗残者 収入二十三円

道庁に於ては 本道社会事業施設の基礎的調査に周到なる努力を試み 以て済世救民の実を挙ぐるが為 差当り明年度より六区に保導委員を設置することとし 目下計画中であることは既報の如くであるが

之が為には貧困者分布の状態を知ることが必要なる處から、先に支庁、区に照会を発して 貧困者生活状態を調査している

札幌区は已に調査終了したので 今 其の状態を見ると 貧困者の戸数は九十二戸ある

之を職業別に見ると
日雇四十五戸 屑拾い二十六戸 無職六戸 井戸浚へ三戸 車挽一戸 縄製造二戸 夜廻り、靴修理、煙管修理、竹割、駄菓子行商、物貰い、僧侶各一戸宛

之に依ると 貧困者の半ばは 職業不定の日雇いであり 次は屑拾いであることは注目すべきことである

右の内 現に救済を受けているものが十二戸あり 公課を免除されているものが三十九戸ある

次に人員を調べると 男百五十八人 女百二十一人 計二百七十九人であって 之を年齢別に見ると
十五歳以下九十四人 三十才以下二十九人 五十才以下九十六人 六十才以下十八人 六十一才以上四十二人

十五才以下の幼少者は総数の三割三分余を占めているが 卅才以下の働き盛りのものは流石に少い
然るに 五十才以下の壮年期のものが 総数の三割四分余を占めていることと 六十才前後のものが相当多数を占めていることとは注意すべきことと思ふ

更に労働能力の有無に就て調ると能力者は男六十八人 女三十六人 合計百四人であって 総数の三割七分に当たる
従って 働き得ざる者が六割三分の多数を占めている

家族数は一家八人といふが最多で 平均三人強に当たる

独身者 若(もし)くは扶養者なきもの男子二十三人 女子九人で 全体の一割一分強に当たっている

健康状態を調べると 病人不具廃疾者は四十一人で 其内訳は
老衰七人 低能白痴七人 不具五人 盲目五人 胃腸病四人 リウマチ三人 心臓病肋膜二人 痔疾二人 眼病二人 栄養不良二人 喘息 挫骨神経痛各一人
であって 全数の一割四分強に当たっている

次に 一ヶ月の収入を調ると最多額は井戸掘の八十円 最少額が無職の六円で 平均して見ると 一戸当り月二十三円十銭余に過ぎない

家賃は最高月五円 最低八十銭 平均二円四十八銭強である

日常に於ける食料品の大要を調べて見ると
普通米食二十八戸 残飯二十七戸 米麦混色二十三戸 蕎麦粉饂飩粉麦等混食十一戸 粥食三戸
といふ状態である

斯の如く 区民の一部は後に取残されて 国民生活の平準から遥かに低下し 生存の敗残者、落伍者となっている
之を其儘に見棄てることは社会全般の欠陥を意味する事になるから 是等の落伍者に就て 更に各種方面から慎重な研究を遂げ 適当な方法に依って 救済又は保導することは適者の自衛の為にも社会の安寧の為にも必要なる義務である
(1922年:大正11年3月3日付 北海タイムスより)

白痴に不具・・・放送禁止用語のオンパレードである。

この頃は、現在の「生活保護」の仕組みができる以前であり、明治初期にできた公的扶助制度「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」の生きている時代。少ないながらもお金はもらえるが、その条件は血縁がなく、近所に頼れず、70歳以上か13歳以下などかなり間口の狭いものであり、記事をみても、井戸をさらったり屑を拾ったりしてなんとか糊口をしのいでいる苦しい様子がみてとれる。

食べ物も「残飯」という者が27戸もある。

記事にある「保導委員」というのは、現在の民生委員。
第一次世界大戦の頃の物価上昇、特に米価の上昇で貧困者が増大したため、岡山で原形となる制度が作られ、この年の4月に北海道訓令により保導委員設置規定が公布され、札幌をはじめ、小樽、函館、旭川、釧路、室蘭の道内6区に保導委員176名が置かれて、貧民対策に取り組むこととなる。

この記事は、制度を立てる前に、状況調査を行った結果であるが、この保導委員の制度化をきっかけに、北海道では公的な社会保障がはじまっていくのであった。

一方、民間でも救済事業は行われている。
刑務所のある網走の様子をみてみよう。

再犯を重ねる最大原因は酒と女

網走慈恵院に四宮理事長を訪問すると 世には奇篤な人もあるものだと 冒頭を置いて 花王石鹸の田中花阿弥氏が還暦の祝を廃して友人知己より贈られたる金品に加へ 二万円を全国の慈善事業に寄附し 当慈恵院も七十五円の寄贈を受けたと 手紙やら花阿弥氏に送った芳名録やらを見せて 花阿弥氏は 徒歩実行主義者で巨額の金を蓄積したと云ふ事である

当院は早速 被保護者に此の活た教訓を教訓を説いて聞かしたのでありますと語り 状況に移ったが

現在は二十一名を保護し 一名の外は 皆 出稼ぎに出て居ります
再犯を重ねる最大原因は 矢張り 酒と女です

被保護者は孰れも 猜疑心が強いと 貯金の通帳でも預かれば 直 僻(ひが)みを起し 金銭を自由にさすれば 多くは酒色に耽るのであります

酒色に耽れば 鋼鉄の錆を出して エエ儘よ 汚れた身体だ 太く短く暮らした方がよい どうせ社会には容れられないと自暴自棄を起こしては 詰まらぬ罪悪を犯すのであります

私の考へとしては 免囚保護事業を完全に感化遷善に導かんとするには 慈善事業では到底目的を達する事が出来ません

国家の事業とするより外 途はありませんが 国家事業とする事が容易でないとすれば 現在の監獄制度を改正して自活自治の観念を監獄で充分に知らしむるの必要があります

現在もない訳ではありませんが 少しも徹底して居ないので 囚人には経済の頭が少しもありません

夫れに娯楽の途がないので 出獄の免囚は 第一に酒色娯楽の方面にのみ憧れるので 夫故 再び罪悪を犯す事になりますとて 監獄制度を自活自治制度に改め 家族主義を取 娯楽の方法も ・ずれば社会との書簡 接見も頻繁ならしむる必要ありと 引証を示して論及した

四宮理事長は 更に昨今の監獄制度は遷善主義に非ずして 懲戒主義である
懲戒主義は既に時代錯誤であると難じ 出獄人の実話を挙げて 今に於て監獄制度を改正せずんば 徒らに囚人増加を見るのみで 国家の経済に及ぼす影響は 軍縮問題の如き者に非ずと 白髭を撫しつつ 三時間も説いた
(1922年:大正11年2月22日付 北海タイムスより)


1907年(明治40年)に網走・永専寺の開祖である寺永法専が開設した「網走慈恵院」。

これは、網走刑務所を出獄した囚人の中でも、旅費もないほど困窮した者や帰るあてのない者など、特に困難な事情を抱えた者を引き取り、食事を与え、仕事の世話などを行っていた。

網走慈恵院はその後100年の時を経て現在に至るまで、免囚保護から更生保護へと役割を変えつつ、事業を継続している。
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2024年11月24日

北海道歴天日誌 その243(1922年2月16日)湿雪+暴風で電線ズタズタ・・・室蘭

1922年(大正11年)2月16日。
本州の南に発達した低気圧が進んできたが、この低気圧は翌17日にかけてさらに発達しながら三陸沖に進み、18日には北海道の東へと移動した。

19220217天気図.jpg
▲2月17日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この低気圧からのびる気圧の谷の影響で、北海道では16日から17日にかけて全道的に湿った雪が降り、函館では時折雨に変わった。

16日〜17日の降水量は、函館では75.8ミリに達し、24時間降水量は70.2ミリと2024年現在においても観測史上2位となる記録的な降水量を観測した。その他、帯広41.0ミリ、寿都は35.0ミリ、札幌は33.7ミリ、釧路31.7ミリと、道央や道東太平洋側もまとまった降水となったが、根室は7.0ミリ、旭川4.8ミリ、網走4.3ミリ、紗那1.8ミリと道北やオホーツク海側は少なかった。

また、16日から17日にかけての積雪は、札幌では25センチも増加。帯広は36センチ、釧路は19センチ、函館は12センチ、寿都は8センチ、旭川7センチ、羽幌1センチ、網走0センチという具合の増加。降水量の多いところでは、湿った雪がどっさり降り積もった。

風も強く、最大風速は函館では14.9m/s、釧路15.1m/s、釧路16.9m/sにも達した。

湿り雪と強風、さらには0℃前後の気温ということで、電線や電話線に湿雪がくっつき、これらを次々と切断していく。

一昨夜来の降雪で電信電話被害多し

十六日夜来の降雪にて電信新絵の被害 夥しく 電信線は十七日午前二時に至り 札幌東京間一、二、三、四番線を始め 青森、新潟、大阪の各線は全く不通となり

又 札幌函館線は 倶知安以遠 室蘭線は苫小牧以遠も通信不通に陥り 小樽よりの内地各線も同様なるが 更に電話線は午前八時に至り 札幌函館間 札幌室蘭間も全然不通となり 小樽函館間も雪害を蒙りたる為 中継も不能にて 雪害に関する模様を知るに由なく 目下 落石無電局を通じて各地の状況を問ひ合せつつあるも 何分 斯くの如く 各方面閉塞の有様にては回復の時日等も判明せず

尚 十七日午前七時の内地便も不着にて 或は吹雪の為 青函連絡船が欠航せるに非ざるかと 内地方面の発信電報停滞数百に及びたり(正午発表)

右に関し 浅井札幌局長は語る
『今回の被害は 単に降雪に依る漏電の如きものではないらしい 斯多方面の通信が一時に不能に陥る事は被害程度も甚だしいものだらうと考へるが何分情報が無いので 全く不明ではあるが 札幌函館間 函館室蘭間の不通な所から察するに 森附近にて電柱が倒れたのではないかと思はれる

孰れ 落石無電局から何等の通知がある筈だが 今の處 何時回復するかは予測ができない』云々

故障箇所発見

別項、電信線の雪害箇所は函館白井川附近 又 室蘭線蘭越附近と判明し 極力復旧に努めつつあり
又 電信被害に就き 落石無電局を通じて照会中なるもの銚子無電局応答なき為 尚不明なり
(1922年:大正11年2月18日付 北海タイムスより)


札幌と函館を結ぶ電話線は「白井川」で、室蘭行きの電話線も「蘭越」で故障があったため、電報や電話が不通となってしまった。
白井川は、たぶん黒松内町の白井川で、函館本線熱郛駅のあたりである。

なお、北海道ではこの低気圧による死者・行方不明者はなかったが、気象要覧によると、関東や東北では土砂災害や洪水が発生し、福島県で百数十人、茨城県で20人、千葉でも数名の犠牲者が出たとされている。また、東京府では浸水家屋が3000戸に達した。東京との通信の断絶は、こうした北海道側だけはない被害の影響があったと思われる。

ただ、故障は後志だけで起きていたのではない。室蘭では電信・電話・送電線が到るところで切れる大被害となっていた。

19220221室蘭電線写真.jpg
▲切れた電線の垂れさがる電柱:室蘭(1922年:大正11年2月21日付 北海タイムスより)

稀有の暴風雪で 室蘭市街暗黒

室蘭地方は 十六日朝来 北方の風雪 稍 強かりしが 午後八時頃より暴風雪と変じ 積雪尺余 吹溜の箇所も少なからず 交通杜絶の状態となり 午後十一時 電話は不通となり 電燈の故障は頻出し 遂に市街暗黒と化し 凄愴の感を抱かしむ

翌十七日 天候依然険悪に 街路の電信電話線は切断され 其の光景は 恰も機織を断ちたる如く 或は挫折せる電柱が電線に繋がれ宙に迷ふなど 惨憺たるものあり

区外との電信電話は全く不通となり 区内電話八百番の内 辛ふじて通話し得るもの百番以内に過ぎず

室蘭局との調査によれば区内電柱の挫折せるもの二十本、傾斜せるもの十一本、市街線たる母恋町電柱の挫折せるもの六本にて
目下二十数名の人夫を狩出し 主力を市街線の復旧工事に注ぎ居るが 復旧までは一両日を要すべく 市内電話の仮通話に一週間 完全に通話し得るには一か月を要する見込なり

同局三枝主事は
『電線は 水気を含んだ處で凍結し その重量で切断されたのであるが 在勤十五年 始めて見る被害で 恐らくは北海道でも始めてのことであらう』と。
(1922年:大正11年2月19日付 北海タイムスより)

室蘭では電柱がニ十本以上も「挫折」し、折れたり傾いたりしなかったところでもあちこちで切れるなどして、暗黒の一夜を過ごすこととなってしまったのであった。

このほか、室蘭港内では繋留中の貨物船が黒鉛を積んだまま沈没するなど、あわせて8隻の船が沈没している。

18日にこの方面の天候が回復すると、さらに調査が進み、室蘭市外の電線についても、苫小牧と室蘭の間で27本の電柱が折れていて、電線もまた切断されているのが見つかった。

このため、作業員が不眠不休で復旧工事にあたったのであるが、2月ということもあり倒れた電柱はそのままにして、「軍用電話線」のように、立ち木や人家の軒先も電線を取り付けるなどして、仮復旧をめざした。

こうして2月19日午後8時、室蘭の電灯は再び一斉に灯った。約69時間での電気の復旧であった。

この出来事から90年後、2012年(平成24年)の11月27日。
室蘭を再び湿った雪の暴風雪が襲う。

送電線鉄塔が倒れ、最大5万6千戸が停電、最長4日間も停電が継続した。
歴史は繰り返すものなのか・・・。
posted by 0engosaku0 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする