道北の遠別町で、新しい橋の完成を祝う催しが開催された。
賑へる遠別渡橋式
天塩国遠別橋渡橋式は 去る 十日挙行新架橋の南北の橋詰には 大緑門を立て 国旗を交叉し 市街は本通り四ツ角に大緑門 第一会場たる公会堂前 第二会場前 並に祝賀会場たる学校前等にも緑門を立て 国旗を交叉し 市街は各戸 皆 燈を掲げ 国旗を揚げ 開村以来曾てなき装飾をなしたり
午前八時 第一号砲を以て準備 第二号砲を以て渡橋式場たる北橋詰に着席 第三号砲にて開場の辞 其より神官の祓 終りて 三夫婦揃って渡し初めをなせり
先導は神官次に林松右衛門(八十二才)同人妻マス(八十二才)次に林栄吉(五十五才)同人妻ツキ(五十四才)次に林作太郎(二十二才)同人妻サヨ(二十才)次ぎは長官代理、留萌支庁長、留萌土木派出所長の順にして 其他は各関係者 官公吏役員 及び 其後に小学校生徒は小国旗を手に打振 渡橋式唱歌を高唱し 其後に一般民衆の順序に渡橋して
午前十時 第四号砲にて祝賀会場たる学校に至り 主催者たる森野村長は開会の辞を述べ 戊申詔書を奉読
次に留萌土木派出所長 町田利臣氏の工事報告 長官代理 北村北海道庁属の告辞代読終りて 村長の式辞 留萌支庁長 塩川圭造氏の祝辞に次ぎて 各来賓の祝辞 次ぎに各所よりの祝電を朗読し終りて 紙谷栄太郎氏は村民を代表して 答辞を述ぶ
第五号砲にて 第一会場公会堂の祝宴に臨む
此の時 天候険悪となり 雪降り来りたるも 見物人近郷より蝟集し 非常の雑踏を呈せり此時第一会場緑門前の高き櫓の上より餅撒きの式あり
会場の祝宴は 楽隊の興を添へ 午後二時 一同遠別村の万歳を三唱し 余興に移る
夜間は芸妓の手踊 少年の芝居等にて 堂内は立錐の余地なき見物人なりき
只 遺憾とする處は天候険悪にて 小学生徒の旗行列と提灯行列中止となりし事なり
(1922年:大正11年3月23日付 北海タイムスより)

▲遠別橋の渡橋式
遠別橋は、遠別町の中心市街の南を流れる遠別川にかかる橋。
渡船や仮橋はあったようだが、しっかりとした橋がかかったのは、これが初めてだったようで、町を挙げての大祝賀となった。
この時、小学校が歌った祝賀の歌には「幕府時代を思わせし、交通絶ゆる川止や、舟守呼ばる不便さも、消えてうれしや今日よりは」とまで謳われている。
この木橋は、道路を車が走るようになるという交通事情や災害への強靭化という事情もあって、昭和10年代から道内各地で行われた「永久構造橋」への置き換えによって、コンクリートや鋼鉄を使った橋に架け替えられた。

▲永久橋となった遠別橋(新北海道史第5巻より)
現在の遠別橋は留萌開建の国道232号線道路台帳(R5版)によれば1971年(昭和46年)に架かったとのことなので、既に50年以上が経過した。
そろそろ新たな橋に架け替えという話が出て来るのかも。
▲いまの遠別橋
ところで、記事中にあるように、3月10日は遠別では天気はあまりよくなかった。
近隣の羽幌測候所の記録では、10日は午前中は晴れ間があったが、正午前から雨が降り出し、雪に変わって、また雨が混じるという空模様。
風速も10m/sから15m/sとかなり強い。雨や湿った雪が横殴りで降る中では、旗行列や提灯行列も難しかったのもうなずける。

▲1922年(大正11年)3月9日の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)
この荒天の原因となったのは、当時の満州方面から沿海州北部を通って樺太方面へ進んだ低気圧が原因なのだが、この低気圧をめぐっては、遠別からさらに北で、ある”騒ぎ”が巻き起こっていた。
八方に吹き散らされた鬼脇漁民蘇生の祝ひ
利尻郡鬼脇村 蟹漁発動機船十余艘 及び 鱈釣川崎船四十余艘は 去九日未明より 同島沖合に出漁し居たるも
午前十一時頃より 俄に南方の強風吹き荒み 怒涛を巻いて荒れ狂ふより 各船は何れも競ふて帰村の途に就けるも 天候は 刻一刻険悪となり 船の操縦も思ふに任せず 遂に狂瀾の弄ぶ處となりて 同日夕刻迄 辛ふじて帰村せるもの 僅かに川崎船二隻のみにて
他は悉く行方不明となり 漁夫の家族の悲歎一方ならず 悲痛なる一夜を明かして 翌日は村民総出にて夫々救助の方法を講じたるが
同日に至り 礒江 政木 両氏の川崎船二隻が此日未明 水船となりて チュシナイ沖合約六海里の海上に漂流中 中川缶詰所所有の美保丸第二号に救助され 乗組無事にてチンドマリに入港せる由の電話ありて
続いて鴛泊 礼文 納内 其他各地より夫々無事避難せる旨の電報あり
十二日 各避難地より続々帰村せり
村民の喜び一方ならず 是 ひとえに神の加護に外ならずとて 漁業家一同は北見神社に参拝し 同時に鬼脇漁港完備せざる間は 安心して出漁すること難しとし 鬼脇漁港修築請願の議会通過を祈願し 一般村民にも大いに其速成熱を高めたりと
因に 今年の同村に於ける蟹漁は開村以来の大漁にて 今日迄の製造箱数既に五千六百函餘に達し 其価格 実に二十数万円にして 第一期の成績としては全く未曽有なりと
(1922年:大正11年3月19日付 北海タイムスより)
この年は利尻島周辺ではカニが豊漁だったようだが、3月9日の朝、カニやタラを獲りに出漁した漁船は、昼前から南風が強まって天候が悪化してきたが、港に戻れず、そのまま「行方不明」となっていたのだが、実は礼文や他の漁港に避難していて、嵐が収まってから無事戻って来た・・・というニュースである。
▲利尻富士町鬼脇の北見神社
羽幌測候所の記録では、9日は午前2時の風速が3.3m/sだが、午前10時には南南東の風が5.5m/sとなり、午後2時には8.9m/s、午後6時には10.7m/sとだんだん強まっている。ただ、この地方で特別の強風・暴風ということでもない。
また、鬼脇は、利尻島では南東側に位置するので、南東風に流されても、利尻島の山影にまわりこめれば、鴛泊や沓形といった、利尻島の北側にある漁港にも避難は可能。こうしたことが、全員の生還に繋がったのであろう。
しかし、一週間余りのち、利尻の空は再び荒れる。

▲1922年(大正11年)3月21日の天気図
20日は発達した低気圧が日本海を北東に進み、北海道は朝は穏やかだったが、次第に東寄りの風が強まっていった。
低気圧は21日に北海道をゆっくり通過、22日は強い冬型の気圧配置に変わる。”彼岸荒れ”である。
羽幌測候所の風速も、20日の朝は1〜2m/sだったが、21日には10m/s前後に強まり、22日の午後から23日にかけては15m/s前後と大荒れになった。羽幌では21日に19.0m/sの最大風速を観測している。
函館では、21日に南西の風が25.4m/sに達し、今に至るまで3月の観測史上1位の記録を保持しているほか、宗谷岬でも同日に風速24.8m/sを記録している。稚内地方気象台では、3月にこの時を超える風を観測したことは一度しかない。
利尻 廿名溺死
【廿二日鬼脇発電】
廿一日より廿二日朝迄に 利尻地方は未曽有の暴風雨となり 発動機船三隻難破し 廿餘名溺死を遂ぐ
別報
二十日 利尻郡鴛泊村大字本泊村佐藤倉吉方 鱈釣川崎船同村沖合にて暴風の為遭難し 二十一日午後一時 沓形村に漂着
乗組員八名中 泊村 佐々木梅吉(三〇)は溺死し 行方不明三名 其他救助せりと
(1922年:大正11年3月23日付 北海タイムスより)
3月としては、北海道では十本の指に入るほどの荒れ模様。
利尻での奇跡は、二度は続かなかった。
遭難する船舶からは死者・行方不明者が続出。その数、20名を超える惨事となったのである。
天国と地獄というには、あまりにも落差は大きい。
大正11年はこうして春が近づいていった。
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