1922年(大正11年)8月25日。北海道東部を台風が通過した。

▲台風の経路。関東に上陸して北上した台風が根室付近を通過した。
(気象庁 編『気象要覧』(273),気象庁,1922-09. 国立国会図書館デジタルコレクションより)この台風の影響により、全道的に風が強まって大荒れの天気となり、台風の中心からやや西側にあたる日高・十勝・オホーツク海側では200ミリ前後の大雨となった。
道内では十勝地方とオホーツク海側の広い範囲で河川が氾濫するなど、浸水家屋は全道で21,597戸、同流失872戸、田畑の浸水87,975haにも達した。さらに死者は全道で117名にも達し、甚大な被害があった。
被害が大きかった帯広の惨状を伝えるレポートを読んでみよう。
各地水害地めぐり
一昼夜の降雨量二百十三粍七
実に一坪三石九斗一升余の多量に 帯広町開設以来 明治三十一年の大洪水にも さる空前の大水害を蒙った其惨状を 実地に就て記者は踏査するに
増水の当日は 帯広町が炊出しを供給したものは一千戸餘 六千人の多数であったが 水災の後に其の生活を補助すべく見舞い金を交付すべきものは 百七十戸千六十二人の多数に上って居る
流出家屋は十四戸 倒壊は十三戸で 猶 被害の甚大で建換をせねば住居出来ぬ家は二十戸位であるが 泥土にまみれて数日間も其掃除にかかったものは七百余戸である
就中 其惨状を極めたものは 帯広神社裏共有地の小作人で 其戸数は廿六戸で 内 之れ迄の生活は帯広市共有地を少きは四 五段から多きは三 四町歩を小作して 帯広に供給する野菜と 自分の食糧を作付して 細々の生活を営んで居るものであるが 其内六戸は流失し 四戸は倒潰して 其他の家も室内に泥は五尺餘も滞積し 家道具と衣類は悉く其泥土に埋められ 腐って了った
其耕作面積百町歩餘は 十勝川の流域となった所と作物の上 土砂は二 三尺も積み 埋めた所のみで 全くこの百三十余人は衣食住を天魔に掠奪された悲嘆に泣いて居る
其次は 南一線栗山橋付近の十二戸で 十勝川と札内川の氾濫した濁流に包囲されて 二戸は流失し 其他は床上四尺餘の泥土で 前記共有地と共に命を漸く拾ふたに過ぬ 惨憺たる状態である
ここは十七戸で 前記二戸流失の外に半壊も九戸ある
孵化場の事務所と其他も全部押流され 去った遊郭裏共有地も当分衣食住に困る様子である
官公街の被害のあったのは 河西支庁、帯広警察署、河西税務署の内で 警察と税務署の官舎は 床上に四 五寸の泥は積んで 警察官舎の塀などは惨憺たる様に破壊されて居た
共立病院の床上も泥まみれで 院長の社宅は倒潰されて居る
音更通と石狩通の約二百五十戸は商品や家財具を余程泥土に委して使用することの出来ないものが多い
直接に受けた帯広町の損害額は 約百万円位である
日本亜麻会社も事務所と社宅と倉庫は殆ど浸水して 其内の大倉庫は押し流されて倉庫と付近に積載して居た亜麻茎十五万貫は流失した
損害も著しい伏古の農地は 帯広川に添ふて百町歩位は浸水した
其の大部分は水田で 三割位は全滅に帰したやうであるが 其声の大なる割合には被害ないようである
(1922年:大正11年9月3日付 北海タイムスより)

▲濁流が洗う帯広・西二条通一丁目付近の様子(1922年:大正11年8月31日付 北海タイムスより)
水害による大被害を受けた十勝の住民は、9月12日に帯広市の永楽座に集まり、水害被災者の救済と治水工事に関する決議文を可決している。

▲十勝水害国民大会の決議内容(1922年:大正11年9月14日付 北海タイムスより)
一方で、同じ北海道でもこの台風の進路から遠く離れた地方では、大雨や暴風の影響が小さく、農作物も豊作となった地方があった。
特に、後志地方の余市のリンゴは、近年まれな豊作となったようである。
余市林檎(一)
春の鰊が去って 余市町民が鼓腹して謳う 林檎の秋が来た
今や余市の至る處の林檎園には 黄金の球が鈴のやうに重く垂れ下って 豊穣の美しさに彩られている
今年は大した蟲害を蒙らなかったのと 何れも無理に数多く生らせる事に努めたので 特に質に於て良好なものは出来なかったが 粒が揃って思い切った豊作で 一町歩から約三万斤の収穫が予想され 是を六百町歩に照算すると 実に千八百万斤(余市果樹園調査)にも上る
處が 内地方面も又 豊作とあって 本年の卸値段は昨年の約半額で、真に「生産者泣かせ」だと園主達が愚痴るもの無理はない
加之小売商人は「豊作下落」を立看板に卸商人からは一斤廿匁で仕入れ乍ら 小売の際は今年から一斤百匁に改めたなどは随分ヒドイ話だ
需要者は随分安価な林檎を買った積りでも 其実 割合にはゆかり勘定となる
尤も斯安価な取引が行はれる迄には 生産者と小売商人との間に激烈な商戦が行はれたが 結局は不景気風の手伝ひもあって こんな風に落付いたものである海陸の両幸、即ち鰊と林檎とに恵まれた余市町が強健な今日に育成された事に不思議はない
此二大栄養素は 実に余市町の盛衰を左右しているのである
余市林檎は五十年の歴史を有し 然も 頑固な会津藩士の古武士的気質がよくも今日の余市林檎を創成したと聞いて 何人も奇異に思はぬ者はなからう
其処には 又 悲しいロマンスが潜在している
「賊軍の汚名を被せられて 蝦夷地に移住した多数の会津藩士の満々たる不平は 日々殺伐な事件を引き起こし 其のうちの最も危険な人物のみ二百名が 殆ど一般住民から隔離的に小樽から余市に転住させられたのは 今から約五十年前 明治四 五年の頃であったらうと記憶する・・・」
と余市の林檎長者 川俣さんや 其他の人達から聞いたロマンスといふのはこうである
(1922年:大正11年9月22日付 北海タイムスより)
秋台風の暴風は、果樹の落下被害を招くのが常だが、余市ではあまり影響がなかったようで、リンゴは豊作という。
1斤は0.6キロなので、約1100トンの収穫量である。ちなみに現代のJAよいちのリンゴ出荷量は約1100トンというから、ほとんど変わらない。
ただ、全国的な豊作の影響を受けて卸値は半額というから、儲かってはいないようである。
さて、余市がリンゴの名産地となっていくのはどういう課程であったのか。連載の続きを読もう。
余市林檎(二)
余市に転住させられた二百名の会津藩士は百名ずつ二分され 其一は今の黒川町に 他は山田町に居を構へる事となった
俗に此が 余市の会津開墾と称したものである
此より先 明治元年 函館のゲルトネル氏が林檎及葡萄苗 十七本 プロシアから輸入し これを七飯村に移植した事があった
此が本道の林檎栽培の濫觴(らんしょう)であるが、何れも失敗に終わった
越えて明治七年 開拓使庁から始めて 余市の此黒川村農会社に林檎 葡萄 梨等数百本を交付され 翌年 又農家に数本ずつを配付され試植されたが何れも農業等に関しては 何等の知識経験なき人達の事とて 殆ど大半は枯死するに委ねばならなかった
然し 堅実な思想と、頑固な古武士気質一本に育まれ来った会津武士の人達は 一方余市に移住して両三年で扶持放れとなってゐたので 自ら生活の途を開いて行かなければならぬ破目にもあったが よく辛酸と闘って 林檎の栽培に心を砕いたのであった
明治十二年第一回に試植した諸苗のうちの数本の林檎樹が 不思議にも寒烈な五回の冬期を越して 小さい乍らも結実するに至った
此時の種類は十九号(緋衣) 六号(紅玉) 四十九号(国光)等 今日代表的余市林檎として普(あまね)く賞玩されているものが 既に成功の曙光を浴びていたのである
さて 結実は云ふ迄もなく 本道として始めての結実であって、試食の結果 従来 純日本林檎とは比較にならぬ美味で 色澤と云ひ 形状と云ひ 日本物とは比較にならず 然も 其種類に依って 酸味 甘味等の加減を異にし 林檎栽培の有望なる事が立處(たちどころ)に立証された
直に其の翌年から全力を林檎栽培に注ぎ 此年いんは秋田団体も山田村に入り込み 会津開墾の西方に陣取り、秋田開墾と称し 競ふて林檎園の経営に砕心し 当時札幌農学校伝習科出身の三宅輔氏は山田村に苗木育成園を設けて 芽接法の伝授や、苗木の供給をなし 林檎業の発達を授けた
斯の如くにして 今日 本道の代表的余市林檎の根底は築かれたのである
(1922年:大正11年9月23日付 北海タイムスより)
旧会津藩士が余市に移住するまでは、「逆賊」であることからかなりの苦難があり、薩摩出身の黒田清隆の温情が深くかかわっている。
藩主・松平容保の助命のため、北海道の開拓に従事することとなった旧会津藩士の一団は、時の新政府の長州や土佐の役人から放置を繰り返されたのち、黒田の考えで余市を経由して樺太に移住させられることとなったが、これまた黒田の樺太放棄の考えから、そのまま余市に土地を与えられて定住することとなった。
このため、藩士が移住した黒川町の黒は「黒田の黒」であり、山田町の田もまた「黒田の田」をとっている。
また、リンゴも黒田清隆と縁がある。余市のリンゴはゲルトネルの苗ではなく、黒田清隆が明治の初めに渡米して持ち帰った農作物の種子や苗のひとつであった。リンゴの苗は道央・道南の農家に配布されたが、そのほとんどが枯死したのに対し、会津藩士は黒田への恩から苗木を大切に育てたことから、道内初の結実に至ったのである。
それでは続きを読んでいく。
余市林檎(三)
当時の林檎栽培は 今日と比較すれば 誠に楽であった
先づ 害虫はいなかったから袋を被せる必要がなかった
偶に 極僅 ハマキムシやスムシ、ケムシ、アブラムシの類が発生したが 此類は手数を要せず 平手で充分駆除が出来た
又 数十年間施肥の必要がなかった
只 根を荒らす鼠と 越年に雪の為 折枝の用意さへすれば 独り手に毎年林檎が生った
斯 費用はかからず手数を要さなかった
然も 当時の林檎の価格は実に高価なもので 当時白米一升十銭位、女の出面賃が一日十五 六銭位であった
此時代に 林檎一斤が十三銭から十五銭位のものであった
然も林檎の珍味は あらゆる階級に好評を博し 旺(さかん)に売れたものである
此放任的栽培でも 十九号や六号などはよく地味に適し 年々好成績を挙げて行った
今日林檎が「何号」と命名されているのは 苗の輸入番号で 一般に語学の普及されていなかった当時 洋名を口にする事が非常に困難とせられ、一般需要者を記憶するに至難である結果 売れ行きに影響してはと 遂に呼安い号名を使用する事となり 今日 尚 此が其儘用ひられているのである
一方 黒川村に居住した会津開墾は 土地が砂地であった為 農作物も意の如くならず 扶持放れと共に帰国する者が多かった
又 山田村でも一度は続々して行ったが 林檎の有望な事に曳きつけられ 再び舞戻った者もあって 現今では二十名の残留者がある
初期に於て 林檎栽培に腐心した者のうちで 会津団体の伊藤、百瀬両氏は熱心に施肥、病虫害防除を研究し 意外の増収を得た
一方 秋田団体では高山、大平、佐藤の三氏は学理を応用し 実験を基礎として 剪枝施肥、病虫害防除等を改善し 同業者の指導となり範を示し 今日は何れも林檎長者として山田村の大林檎園を経営している
特に高山氏は 先帝東宮に在せし際 本道行啓当時 侍従を派遣され 御台覧の光栄に浴した事 普ねく知る處である
(1922年:大正11年9月24日付 北海タイムスより)
余市のリンゴも一様に育成できたわけではなく、黒川と山田という転住先の差で、リンゴとの縁、その後の余市との縁に差ができてしまったようだ。
約200名の藩士も、50年が経過して20名となったが、りんごのおかげで余市で暮らしを立てることができたのであった。
記事中に名前がみえる功労者は伊藤甚六、百瀬清三郎である。
そして余市リンゴの発展には、会津藩だけではなく、秋田からの開拓団体とのよき競争関係もあったことがうかがえる。
さらに続きがあるので読んでいこう。
余市林檎(完)
林檎の強敵 カヒガラムシ、チョッキリゾウムシ等が発生し出したのは明治三十六年で 此年 始めて袋掛けが行はれ 石油乳剤や石炭硫黄合剤の撒布などが行はれたが 非常に費用を要するので 明治四十四年七月 北海道農事試験場技師 岡本農学士が 札幌合剤を発明し 数万の経費を省くに至った
年々林檎の増収と共に販路を拡張する必要に迫られ 明治三十五年には 会津団体の有志者は 黒川村市街地に余市町購販組合を創立し 内国及び浦塩地方の販路調査を行ひ 旺に林檎の移出を見るに至った
此当時では一般農家が数段の畑から収穫される収入が 僅数本の林檎樹に該当するといふ状態であったので 旺に林檎栽培に転業する者が続出し 遂に今日の隆盛を見るに至った
大正三年には余市苹果同業組合が認可され 小栗富蔵氏 組長に当選したが 同氏は十数年来 摘果法を励行し 腐乱の撲滅及其他病虫駆除法に関する規約を設け 協同励行を促した
一方 伊藤隆治氏は 林檎の缶詰法を研究し 青木丑蔵氏は冷蔵法を考案し 杉本弘氏は園地耕作法を励行する等 此功績は実に少くなかった
又 同大正三年には 鈴木真氏 病理昆虫研究所を設置して 専ら病虫害の駆除を図った
大正四年に石山氏 他八氏が綿蟲の予防を行った効は実に顕著なものであった
斯く多数の人の苦心研究によって 遂に今日の余市林檎を見るに至ったのである
北大の余市果樹園に就き 聞くも 年々作付反別は減ずるとも 総収穫に於ては年々増加しつつあるといふに徴しても 余市林檎の将来は実に多幸と云はなければならぬ
今 余市は在来が農家でも 自分達が皆相当の教養を施されて来た事であるから 子弟の教育に関しては 全力を注ぐと云ふ方針で、一同挙って子弟を専門の学校に送るといふ話を聞いたが 誠に美しい事と云はなければならぬ
(1922年:大正11年9月26日付 北海タイムスより)
1922年は、余市に会津藩士が入植してから50年ほど。その歩みは余市林檎の歩みに重なることがよくわかる。
そして余市のりんごはその後もニッカウヰスキーの工場の経営を支え、ニシンがとれなくなった余市の経済を支え、今の世も北海道の名産品のひとつとしてあり続けている。

余市ではじめて実を結んだ49号(国光)とデリシャスの交配により誕生した「ふじ」。
さらには「ふじ」と他の品種の交配により誕生した様々な品種が、現在の余市りんごを支えている。