2024年11月23日

北海道歴天日誌 その242(1922年2月11日)ダラダラ訓話に空も怒り?積丹・入舸

1922年(大正10年)2月11日(土曜日)。

北海道では、立春を迎えた後は、1月の酷寒が嘘のように、暖かい日が続いた。
札幌の最高気温は、7日は0.6℃と真冬日を脱し、8日は4.5℃、9日は3.7℃、10日は5.5℃、11日は5.0℃・・・といった具合である。
積雪も6日には105センチに達していたが、11日には74センチ、12日には63センチというように、どんどん減っていく。

網走では10日には、年が変わってから初めての雨が降り、それが話題にもなった。

そんな中での2月11日である。

この日は紀元節ということで、積丹町のある小学校では校長の訓話が行われた。ところが・・・
北海タイムスのコラム「クマの目」で、この日のことが紹介されている。

クマの目

来月は各学校の卒業式だが 校長来賓等が生徒の迷惑を顧みず 型にはまった誨告やら祝辞やらを長々と弁ずるのは不心得も甚だしい

殊に来賓の如きは 入替立ち替 同じやうな事を述べたり 方角違ひの火防衛生の宣伝などに脱線するに到っては 沙汰の限りである

現に去る紀元節の当日 積丹郡入舸の相木校長が 例の不得要領の訓話を牛の涎れのやうに ダラダラと長い間やった為に 尋二の女生徒が立小便をして式場を汚したといふが 昨年も此の訓話が長いのにアテられて 大便をした生徒があったといふ事だが

迷惑も此処まで行けば徹底したものサ
(1922年:大正11年2月16日付 北海タイムスより)


入舸(いりか)村は、積丹半島の北東側の突端にあたる「積丹岬」を含む集落。
集落の中央を入舸川が流れている。1956年(昭和31年)に合併して積丹町が誕生するまで、この場所に一つの村があった。

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▲入舸村の位置

入舸小学校は1887年(明治20年)に開校というから、この年は開校35年目。
”相木校長”の話の長さと退屈さは、インターネットもSNSもないこの時代にあっても、札幌まで話題にのぼるほどだったようである。

相木校長の訓話のまずさは、天をも怒らせたのか。
翌日、入舸村を災害が襲う。

豪雨で入舸川氾濫

積丹郡入舸村は 十二日夜来の豪雨にて大出水を為し 川筋は 其 表面 氷張詰居る為 充分の排水出来ず 十二日午前十時氾濫
青年団 消防組 非常召募を為し 協力排水に尽力せり

入舸村役場の如きは 玄来前二尺、場内廊下便所浸水一尺 事務室 会議室 宿直室等 畳 建具、書類 函等取片付けの為 青年団 消防組の応援を求めたり

午後三時 青年団 消防組の協力にて 川筋下流へ漁舟を浮べ 張詰たる氷を砕き 排水に便ならしめたる結果 減水せり

浸水家屋三軒 又 日司村五戸浸水 野塚村八戸浸水、野塚橋は流失し 西川濱中へ漂着せるを野塚、日司、西青年団及 入舸村 第二 第三部消防出動協力して橋の材料を運搬 仮橋を応急架して 辛うじて 人だけの交通を連絡せり

因みに十二日 入舸 余別間の郵便逓送 一日二回往復すべき所 出水の為 全然不通となり 十三日に至り 漸く開通せり
(1922年:大正11年2月16日付 北海タイムスより)


11日から12日にかけて、北海道付近を低気圧が通過した。
11日の夜から降り出した雨は、12日朝にかけて断続的に降り続いた。
夜でも雨となるほどだから気温も高く、各地で雪解けも進んだ。

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▲11日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

道内の測候所で観測された雨の量は、一番多い寿都で16.3ミリ、釧路12.8ミリ、旭川5.8ミリ、札幌は3.0ミリ、網走0.2ミリ。
後志地方で一番多いが、「豪雨」というほどの量ではない。

しかし、高い気温で雪も解けている。11日から12日にかけて札幌は11センチ、函館は8センチ、寿都も16センチの積雪が減った。
この時期に10センチの雪が減ると、30ミリ前後の雨量に相当する。積丹では、50ミリ前後の雨に相当する出水があったことは十分考えられる。

しかも悪いことに、1月の酷寒で川は凍結していた。
記事を見る限りは全面結氷ではなかったようだが、それでも、川の両側の厚い氷により狭まった川では雨水と融雪水が吐きだせず、溢れていった様子は想像できる。


▲いまの入舸川

浸水家屋は3棟ということだが、橋は流され、町の行政の中心である役場が浸水してしまうというのは”おおごと”であった。

流れる川に船を浮かべ、そこから氷を割って流れの幅を広げるというのは非常に危険な作業であるが、何とかこれが功を奏して、水は次第に引いていったということである。

この災害に直面して、入舸小の校長がどのような働きをみせたのかは、一文も記録は残っていない・・・。
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2024年11月17日

北海道歴天日誌 その241(1922年2月4日)葬儀後10日あまりでクランクイン・吉良平治郎の殉職映画・釧路

1922年(大正11年)2月4日。
この日の釧路は、風の強い荒れた天気から、空模様は徐々に回復へと向かっていた。

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▲2月4日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

発達した低気圧が三陸沖から北海道の東へと進み、北寄りの風が強く吹いた。
釧路では4日午前2時に北の風15.8m/sを観測したが、昼過ぎには10メートルを切り、夜には3メートル以下へと収まって行った。

このような空の下、釧路ではある映画の撮影が始まった。
その映画は、ある「殉職者」をテーマとした物語である。

悲壮の最期を遂げた釧路殉職逓送夫 逓信省から活動写真隊を派遣して撮影す(上)

勇敢なる釧路郵便逓送夫 吉良平治郎殉職の悲壮極まる光景を活動写真に撮影せしめ、尊き犠牲の大精神を国民の模範として周知せしめんが爲に、逓信省より派遣されたる 東京フヰルム会社活動写真隊一行は 既報の 溝口札幌逓信局事務官一行と共に 三日来 釧路角大旅館に滞在、釧路郵便局間と撮影に関する打合わせ中であったが、愈々四日から撮影に着手した

成るべく事実通りを撮りたいと云ふ方針で、出場人物は悉く当時事件に関係した人々であるが故に、平治郎に扮する逓送夫には 平治郎に酷似せる同人の従兄 吉良平吉を煩はすこととなった

先づ四日には 誂(あつら)え向の釧路吹雪の市街停車場前より 西幣舞通を経て 幣舞橋に織るが如き人馬の来往から始まって、市街の要所要所が終ると愈々釧路郵便局の全景に入って、故逓送夫平治郎が去一月二十日の午前一時、昆布森局へ逓送さるべき約四 五貫目の郵便行嚢を背負って郵便局を出発の光景

画面は換はって 二十二日に至り 昆布森局から平治郎が到着せぬとの照会に釧路局の小林主事が驚いて佐藤局長に報告の場、引続き中野書記が防寒着に身を固め捜索隊の先発として出発の場などの撮影があり、これで四日の日程を終わり

五日は午前八時 新聞記者も加はって 一行十五名 現場に向かった

平治郎の住家は釧路市外 春採十番地 荒漠たる丘上にある

当時 平治郎は空白で堪まらぬ、立寄ると妻のハナ(中川郡川合村旧土人上田チマビシの娘)より飯が一粒もないと聞いて、冷たい味噌汁を啜(すす)って出発しようとする

折から雪を交へた烈風が吹き荒む「これから四里の山路は、つらからう 夜が明けてから」と止めるのを聞かず、職務の為と吹雪の山道を杖に縋ってよろよろとして進み往く

此の光景を撮影したが、真に迫って当時が偲ばれる

約二里の山道を暴風雪に弄ばれつつ桂恋村へ降りる路と、昆布森村へ往く路との交差点たる字オソップで、雪の為に穿がてる鷹匠足袋を脱られて、一歩進んでは倒れ、起ては又進む

現に今ですら積雪 脚を没する有様なので 芝居とは思はれず 一同悲壮の感にうたれた
(五日 桂恋にて一記者)
(1922年:大正11年2月8日付 北海タイムスより)


この映画の撮影からさかのぼること半月。
この年の1月20日未明、釧路郵便局の逓送人を務めていた吉良平治郎というアイヌの男性が、釧路から東、約16キロのところにある昆布森の郵便局に郵便物を輸送するため、郵便局を出発した。

ところが、この日は発達した低気圧が北海道の南海上を通過中であった。

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▲1922年:大正11年1月20日正午の天気図

このため、釧路では吹雪となった。
釧路の当日の天候は以下の表のとおりだが、氷点下4℃前後の気温に加え、風速も日中は10メートル以上の状況が続き、特に昼前後は15メートルを越えている。積雪は前日10時の4センチから、当日10時には22センチと、18センチ増加した。

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低い気温と強い風は地吹雪の危険性を高める。
釧路測候所の観測記録では、20日は午前2時から午後7時過ぎにかけて高い地吹雪が観測され続けている。
この日も10時以降の降水量から、10センチほどは降雪があったはずだが、翌日にかけて釧路の積雪は増えなかった。積もる先から風に飛ばされる状況だったのである。

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▲郵便局と昆布森の位置関係。矢印で示した道路は1922年当時も昆布森を結ぶ主要な道として存在した。

体感気温−20℃という猛吹雪の中、昆布森に向かって歩き続けた吉良平治郎。
観測所の積雪はたかだか20センチといえども、道路は所々ふきだまりができて、白い波を打つような状況であったことは容易に想像できる。

吉良は、昆布森まであと少しというところまではたどりついたのだが、寒さと疲労で、これ以上の前進が困難となった。

このため、吉良は、背中から郵便物入りの行嚢を下ろし、自らの外套でくるみ、携行していた木杖に手ぬぐいを結び付けた”目印”を立てた後、枝道を南の海岸に下った先にある宿徳内の集落に難を避けようと歩き出した。
しかし、そこからわずか100メートルほどの所で力尽き、命を落としてしまうのである。

遺体は1月25日になって捜索隊に発見されるのだが、郵便物は外套に守られて異常がなく、自らの命にかえて郵便物を守ったという職務上の責任感を全うした姿がこの時代の人々の心を打ち、賞賛の声があがった。

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▲吉良平治郎の葬儀を伝える記事(1922年;大正11年1月29日付 北海タイムスより)

この声の高まりをうけて、急遽、吉良平治郎の映画が作られることとなり、撮影隊が釧路に入り、撮影を始めたのである。
撮影は、吉良平治郎の葬儀からわずか11日後にクランクインとなっている。

しかも、悲しみの癒えぬ中、関係者本人や縁者がそのまま出演するという、「ノンフィクション・ドキュメンタリー」の様相を呈している。
今の世で同じことを行おうとすると、何とも無神経な行為にみえるのだが、ここは時代が許したのだろうか。

悲壮の最期を遂げた釧路殉職逓送夫 逓信省から活動写真隊を派遣して撮影す(上)

場面は換わって 捜索先発隊の中野書記は 此処まで来て日が暮れた、進退谷(きわ)まり焚火をして大声に信号をする
漸く青年会の連中に救はれるなどのフヰルムも撮った

平治郎が臨終の場所は これより一里許り進んで昆布森市街を距る約二十丁の箇所である

寒気と飢餓と疲労に堪えず 最早一歩も進むことが出来ぬ、茲に凍死を覚悟するや 静かに背負へる行嚢を下ろし、官給の外套を脱いで 其郵便物を蔽ふた

何といふ尊き精神であらう
それでも尚 降りしきる雪の為めに 埋没されることを慮って、長い杖を其傍に建て、後日の目印にした

死後の瞬間に来らんとする前に、何たる用意の周到なことであらう

彼は斯して其傍の枯木に腰を下ろし 眠るが如くに瞑目した
吾らは実に感激せざるを得ぬのである

此実景は 地理の関係上 六日撮影することとし、五日は桂恋村に降りて 平治郎の出生地なる叔母サリマツの家や、遺族慰問の場、葬式場に於ける山岸逓信局長の弔辞朗読や、墓地に於ける回向など撮影した

叔母のサリマツや未亡人のハナは光栄に満てる故人を偲びて、人目も構わず大声を挙げて泣き伏た

一行は 七日引揚げ 東京にてフヰルムを完成し 先づ札幌逓信局で試写をする筈であると
因に 平治郎の戸籍を区役所で調て見ると 釧路区桂恋村十番地 祖父 吉良利死亡 父逢治長男平治郎(土人名コツコツ)明治十九年二月三日生まれとある
(1922年:大正11年2月9日付 北海タイムスより)

このとき制作された映画が、現在どこに保管されていて、見る事ができるかどうかは不明であるが、もし現存しているのであれば、事件半月後の現地の雪の状況や、平治郎が歩きながら見たであろう景色、釧路市街の当時の様子など様々な貴重な情報が得られるはずである。

吉良平治郎の殉職話は、1930年(昭和5年)に高等小学校1年生の児童を対象とした”修身”の教科書に「責任」としてとりあげられたし、1971年(昭和46年)に北海道の小学校4年生向けに配布された副読本「新しい生活」にも掲載され、後世にわたり語り継がれることとなる。

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▲修身の教科書に「責任」に掲載された吉良平治郎 (文部省 著『高等小学修身書 : 女生用』巻1,文部省,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

殉職した場所のあたりは、現在は「吉良が丘」と呼ばれ、記念碑も建立されている。

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▲昭和30年頃の慰霊碑の様子 (北海道立教育研究所 編『北海道教育史』[第2] 第1 (地方編 第1),北海道教育委員会,1955. 国立国会図書館デジタルコレクションより)
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2024年11月10日

北海道歴天日誌 その240(1922年2月3日)幸運の手紙とともに?暖気と悪報

1922年(大正11年)2月2日。

この日、札幌の最高気温は3.5℃。
新年になってから初めて、プラスの気温となった。

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▲2月2日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

札幌では、前年の12月30日から続いていた”連続真冬日”の記録は34日でストップ。
この日は、函館も3.1℃、旭川0.3℃とプラスの気温となり、帯広は−3.7℃、網走も−3.6℃どまりだったが、翌2月3日にはこれらの町でも氷点下の世界を脱した。

氷 小樽は豊年

今年の寒さは 處によりては幾百年来 嘗て無 厳しさであるといふ丈け
従って 近年にない氷の豊年だ

現在 小樽の製氷業者は小樽製凍会社を始めとして四軒あって 場所は奥澤と最上町とで 合計五ヶ所の製氷池を所有して居るが 例年は冬季間に二回切り出すのが普通で 夫れも少し暖かい年には 規定の一尺の厚ささへ得ることが困難であるが 今年は既に二回の切出を為しつつあって 三回の製氷は充分である

其上 切り出しに愚図愚図して居ると 忽ちにして一尺の厚さのものが 一尺二寸 三寸になるといふ
製氷業者には此上ない当り年であった

昨年は 近年に見ない豊作と言はれ 平年の二割増しの出来高であった
處が本年は夫以上で 未だに具体的に判らないが 僅かに五割増加は間違ひない處であらうと

其上 品質も頗る優良であるさうだが 寒気と共に降雪量も亦 例年になく多かったが 此降雪は 製氷業者の最も嫌ふ處で 降雪があると 温度が昴るので 本年は従って之が掻き取に多大の費用を要したさうである

さて 製氷池一坪の製出高は平年で一噸とされて居るが 本年は二噸五分は楽なものだから 全部五箇所の製氷地の面積二千七百坪として 六千七百五十噸の製産は先づ間違ひなからうと

さうすると 一年の小樽区 並びに 船舶等の需要高が四千噸とされて居るから 此の分で行くと二千噸は過剰を見る訳になる
従って 本年の夏季には廉(やす)い氷が飲める
(1922年:大正11年2月3日付 北海タイムスより)

この頃は池に張った水を自然の寒さで凍らせて氷を採るという、自然製氷が基本的。
1月の記録的な酷寒は、北海道の製氷業者に大量の氷を自然に作り出してくれた。
この調子なら夏のかき氷も、安価で食べられるのでは?という皮算用も面白い。

ところで、この頃、道民は違った意味で、背筋が寒くなるような体験をしていた。
変な手紙が届き始めたのだ。

ハガキの文字は「幸運の為に」

【三十一日東京発電】
東京の各方面に向って 何者かの手に依り 発送されたる「幸運の為に」は 三十日朝 千葉警察署長 警視 後藤法学士夫人雪子 及び 同県土木課中田夫人 其他三氏の婦人宛に舞込みたるより 警察部にては 遉(さすが)に狼狽し 犯人の捜査に努め居れるが 差出人は東京方面の者と同人ならんと

旭川にも舞込む

三十日 謎の葉書が旭川の某々有力者宛に舞込んだ
受取った本人は 餘りに突然なので 何事であらうと 内々不安の念に駆られている

旭川に舞込んだ葉書の消印は二十九日付投函したので 旭川から投函した事が明瞭で 差出人は匿名だが 宛名は勿論 何条何丁目と記してある

文句は東京に配布されたのと 一 二字違ふ處があって 併も毛筆でなく 黒インキで万年筆を以て書かれ 幸運の為にとは 東京のは初めのみだが 旭川のは 初めと終りに書いてある

全文を記せば 左の如くである
而して筆跡を見ると実に見事なものである

「好運の為に」

是れを九枚の葉書にかいて あなたの好運を望まるる方に御送り下さい
九日あたりはあなたは大なる喜びに出会ひます

此連鎖を絶ちてはなりませぬ
絶つ所に悪運が来ますから

此の連鎖は米国の大官から始りましたそうで
九度地球を廻らねばなりません
二十四時間内に此の通り 此書き下さい

好運の為に


(1922年:大正11年2月1日付 北海タイムスより)

これは、日本における元祖チェーン・レターである「幸運の手紙」の北海道上陸を告げるニュースである。

同じ文面の9枚の葉書を、24時間以内に9名に差し出せば、9日後には「大いなる喜び」がやってくるが、無視して何もしなければ、たちまち悪運がやってくる、という内容の手紙が旭川の家に届き始めたのだ。

手紙の文面に「世界を9回めぐる」とあるように、幸運の手紙は日本ではなく外国から舞い込んできたものである。
日本への侵入時期はこの年の1月らしく、日本人の生真面目さもあってか、受け取った方の幸運を信じて、または止めた場合の悪運を恐れて、差し出す人があったため、この「幸運の手紙」は日本国内で爆発的に流行した。

※なお、幸運の手紙が「不幸の手紙」となって日本で再流行するのは、約50年後の1970年(昭和45年)のことである

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▲「幸運の手紙」への注意を呼びかけるコラム(1922年:大正11年2月3日付 北海タイムスより)

ただ、幸運の手紙を出したにも関わらず、日本人は悲しいニュースに接しなくてはならなかった。

まず、2月1日。元老の山縣有朋の訃報に接する。天保9年生まれ、83歳であった。

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▲山縣元首相の訃報(1922年:大正11年2月3日付 北海タイムスより)

さらに、2月3日。新潟県糸魚川の北陸本線親不知駅−青海駅の間の勝山トンネル付近で大規模な雪崩が発生、多くの除雪作業員を乗せた列車を直撃し、90名が死亡する大惨事となった。

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▲北陸線雪崩災害の発生を伝える記事(1922年:大正11年2月5日付 北海タイムスより)

現場近くの上越高田では、現在、平年の2月3日の積雪は63センチであるが、1922年(大正11年)の2月3日は221センチの積雪があった。
これも、1月に北海道・東北を中心に記録的酷寒をもたらした寒気団の影響である。

しかし、2月3日は発達した低気圧の通過で、全国的に寒さが緩んでいた。上越高田でも最高気温は5.2℃、3日から4日にかけて50.9ミリもの降水があり、列車の汽笛が雪崩の引き金を引くことになったようだ。

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▲2月3日午後6時の天気図

雪崩による悲惨な事故は、同じ日に北海道でも起きている。

函館幸校の校庭の悲惨

【四日函館電話】
三日午後二時半頃 函館区幸町小学校運動場に於て 尋常科一年生 天神町十六番地 八太郎二男 宮本勇(八つ)及び二年生山風泊二十六番地 輿次郎長女 吉川トヨ(九つ)の両名が遊び居たる處

校舎屋上より大量の雪が 雪止め棟木と共に雪崩来り 埋没されたり

急報に接し 消防夫駆付け 掘出せる結果 トヨは人工呼吸に因り蘇生せるも 勇は即死せり
(1922年:大正11年2月5日付 北海タイムスより)

函館も、現在の平年値では、2月3日の積雪は26センチである。しかし、この年の2月3日は53センチもの積雪があった。
そして、最高気温は2.4℃。二日連続のプラスの気温となって、屋根の雪が緩んだ。
校庭で雪遊びをしていた小学生2人が巻き込まれ、小学1年生の男子が亡くなってしまった。

函館幸小は1970年(昭和45年)に閉校となり、函館西小学校に統合。そして函館西小学校も2009年(平成21年)に閉校し、弥生小学校に統合している。このような状況となると、大正半ばに発生した、雪崩の悲しい事故の話が現代まで残るというのは難しい。

このほか、札幌では”流行性感冒”も流行り出し、西創成小学校が臨時休校。校長たちは時計台に集まって、善後策を協議するという事態となっていった。
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2024年11月04日

北海道歴天日誌 その239(1922年1月31日)そっちのけ?記録的低温の北海道

1922年(大正11年)1月の下旬のこと。

この年の1月は、北海道では今に至るまで月平均気温の低温記録を保持している所が多い。
札幌は−10.2℃で唯一の−10℃台であるし、帯広(−16.6℃)や旭川(−16.3℃)、寿都(−7.1℃)など、明治時代からの観測記録がある観測所の多くで低温1位の記録を保持している。

しかし、この記録的な酷寒は北海道だけではなく、本州方面にも広がっていたようである。
北海道以外でも月平均気温が低温1位の記録となっているのは、主な所では東京(0.6℃:1885年1月と同値)、秋田(−4.4℃)、新潟(−1.4℃)など。東北や関東、北陸では1945年1月と1922年1月で1位と2位を分け合っているところがよく見られる。

このため、北海道の新聞紙面にも、本州方面から雪や寒さの知らせがどしどし届いて掲載されている。

例えば、1月22日の名古屋発の記事では、名古屋が20日から21日にかけて大雪となり、路面電車や列車の運転が不能としている。
この記事は名古屋の雪は「二尺に達する」としているが、実際の観測値は25センチ(21日)である。

また、23日の敦賀発の記事では、大吹雪に加えて雪崩も起きて、腰越トンネルの中で汽車が立ち往生しているとか、23日高田発の記事では、信越国境が大吹雪で直江津などの各駅では、雪に埋没する列車が多数発生、旅客が閉じ込められるなどのニュースが伝えられたし、23日の新潟発では信濃川が結氷して、川蒸気船の交通が途絶したこと、24日の東京発の記事では、東京市内各所で水道が凍結して破裂する騒ぎが起きていることなどが伝えられている。(東京では22日の最低気温は−8.1℃を記録している)

この様子を北海タイムスは「北海道そっちのけの騒ぎで 各地とも椿事続出」としている。
では、そっちのけとされた北海道では、この頃何が起きていたのか。

不漁をかこつ余市の漁民

余市近海に於ける小漁民の冬期唯一産業は 鰈を始め 其他の雑漁で 凪さへよくば 斯る漁民等は一艘七 八名の組を作り 風雪に晒されながらも朝は未明より遠く沖合に出漁し 一艘少くとも 百円乃至百三 四十円宛は優に漁獲して魚市場をも賑はし居れるが 今年は何うしたものか 旧臘来 殆ど連日の時化続きで 頃日迄に出漁せるは 僅 五指を屈する許り

従って 平素 何等貯へもなき小漁民等は 直に生活を脅かされ 中には 魚市場経営の親方に縋って 出来るだけの前借をなし 其日を糊す者もあるが 親方とても 海の物相手の事だから こんな時化続きではさうさう面倒もならぬので 昨今の彼等は悲境のドン底に沈める有様なるが

一方 鰈雑漁不漁の影響は 魚市場を中心として 鮮魚搬出 馬車荷造り 又は仲買などの周囲に迄 自然 不印が渦巻いている

夫にしても 漁港の設備さへあれば 安全な根拠地がある訳だから 少々の時化位は発動機漁船で乗廻し 斯う不漁を見る事もなからうと

今更宿題漁港の解決を急いでいるのも無理はない
(1922年:大正11年1月24日 北海タイムスより)


この年の異例の寒さ続きは、冬型の気圧配置が長く続いて、大陸からの強い寒気がどんどん流れ込んでいることにあるのだが、その裏返しで、日本海はいつも荒れていて、後志沿岸では漁がままならない状況が続いていた。

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▲1922年(大正11年)1月22日午前6時の天気図 (『天気図』大正11年1月,中央気象台,1922-1. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

上は名古屋や北陸方面で大雪となっていた、1月22日の天気図。
北海道は等圧線の間隔が開いて、西岸の小さな低気圧と、内陸に高気圧が現れている状況がみえる。

北海道は今も真冬にこのような気圧配置となることはよくあるが、日中は気温の上昇で内陸高が解消し、冬型が戻ってくるのが常である。
従って、今なら、この天気図で漁に出るということは考えられないだろう。
しかし、一瞬の凪となった海を見て、岩内の漁民は出漁していった。

岩内漁船遭難後報

岩内鰈釣川崎船は 一月に入りて時化続きの為 僅々二日の出漁に過ず 一般人気沈蓑の矢先 二十二日は朝来好凪とて 百三十余艘 一斉に出漁せるに

正午頃より 咫尺を辨ぜざる降雪となり 更に午後二時頃より北東の強風さへ加はりたれば 同川崎船は揃って帰途に就けるも 吹雪の為 陸地の見通し利かず 続々漁獲物を放棄して帰港を急ぐ内 五人乃至六人乗川崎船十一艘 転覆し

此内 御鉾内(おもない)町濱内亀蔵所有 五人乗りの内 同人二男 輿作(三二)は遂に浪に呑まれて行方不明となり 他漁夫全部は僚船に救助され 折柄三時頃より雪止み 風収まりたる間に 無事入港せるが 尚 此外に梅村初蔵五人乗は午後五時過に至るも行方不明にて 警察署にては八方手を尽し 捜索中なるも 多分沖合にて覆没せるものならんと
(1922年:大正11年1月24日付 北海タイムスより)


朝は凪でも、昼には激しい雪となり、その後は風が強まって来る・・・。
典型的な内陸高の衰弱課程での後志地方での天気変化である。

130艘もの漁船は天候悪化で帰港を急いだが、11の船が転覆する海難事故につながってしまったのであった。

さらに北の海でも船が難航している。

千歳丸辛じて帰る

氷の為 難航を続けた樺太定期郵船 千歳丸は 辛じて一昨日小樽港に入港したが 一船員は曰く

「真岡 大泊 能登呂の沖合及び宗谷海峡は一帯に厚く結氷し 実に十年来の大結氷である、厚い處は三尺からあった、
温度も頗る低下し 零点下三十四度乃至四十度もあった

本船の如く 砕氷装置ある汽船でさへも 実に名状すべからざる難航を続けた、
能登呂港を開かれたので砕氷しつつ進航していたが 氷片は両船側に幾重にも凍着し 一日一杯かかって僅かに一哩位より進行出来ぬので 余儀なく港内に避難し 氷が開くのを待っていた

二十二日から二十五日迄 三昼夜は 不休で避難していた
今後 一般船舶も砕氷装置のない千噸(トン)以下の汽船は 到底 航海不可能であらうと思はれる」
云々
(1922年:大正11年1月28日付 北海タイムスより)

宗谷海峡から樺太の西海岸にかけては大量の流氷で航行が困難な状況となっていた。

現代では、1月25日頃に樺太の南西岸や宗谷海峡西部に流氷が存在する割合は「0%」であり、この海域でこの時期に、船が流氷に出会うというのは極めて異常な事態である。この年の流氷の勢力は、間宮海峡でも非常に強かったことが伺える。

海氷出現率(1月25日).jpg
▲現在の1月25日の流氷出現率分布

当時の樺太・真岡の観測データをみると、1月6日以降は31日まで、最高気温はほとんどの日で−12℃前後。1月26日の最低気温は−25.0℃を記録している。
大泊も1月20日の最高気温は−15.4℃、27日の最低気温は−26.5℃。最高気温の月平均が−11.3℃という酷寒であった。

樺太の観測所で、1922年1月に最も低い気温を観測したのは、内陸の落合で1月8日に−34.0℃であったが、この月に限っては、北海道のほうが最低気温は低くなった。

1月31日は、全道各地でこの冬の最低気温を記録したが、帯広は−34.9℃、旭川−34.4℃を記録した。
このほか、札幌と網走はともに−24.3℃まで下がり、釧路−21.2℃、根室−17.6℃、紗那−12.6℃、函館−10.6℃を記録している。

なお、帯広では、その後現在まで、ここまでの低温は一度も観測されていない。

19220131天気図.jpg
▲ひときわの酷寒となった1922年(大正11年)1月31日午前6時の天気図

東京でも水道管が破裂しているが、北海道も雪がどっさり積もっているとはいえ、同様の危険がある。
この当時、水道凍結の防止方法は、”水落し”ではなく、蛇口を少しだけひねって細く水を出しておき、水道管の中の水の流れを途絶えさせないことであった。

小樽水道 寒に入ってから使用量俄に増加

昨年 夏季甚だしい旱魃続きの祟りて 上水湛水 苦い経験を甞めた
小樽区に来るべき減水期の為に 大に蓄積して置かなくてはならぬ

冬季に入ってから再び 日々減水一方といふ心細い現状に在るとは情けない

従来の平均使用量は一日九万三千四百石であったが 寒に入ってから俄に増加して 二十五日は一躍して十一万九千石 二十六日は十二万二千石 二十七日が十一万二千石といふ数量に上って居る

之が為 配水池には現在 三万三千石より水がなくなった

其処で 当事者も大慌てで貯水池の方から大に湛水の能力を増進する事に極力努力して辛うじて十万石の水を配水池へ貯へる事が出来たが 夫でも一日の使用量には尚 一万石から不足して居る訳である

之が為 緑町方面の如な高区にあっては 数日来 全く送水不可能に陥った為め 洗面用の水にさへ窮して 雪や氷を融かして 漸くに顔を洗ふといふ状態である

斯も 俄に使用量が増加した理由は寒気が厳しい結果 水道栓の凍結を防ぐ爲め 昼夜間間断なく各家庭に於て 放水する結果であって 当局に於ても発見次第 厳重処分する方針であるが 一朝火災でも起れば 由々敷(ゆゆしき)事となるから 各自言はれる迄もなく注意したらよかろう
(1922年:大正11年1月29日付 北海タイムスより)

各家庭が水道凍結を防ぐため、蛇口を開けることにより、小樽では水道の需要が増加したため貯水量が減ってしまい、一部地域では断水するような事態がおきているということである。

火事になった時に水が足りないという事態が起きかねないのであるが、このような「水道凍結自衛法」は、この後も数十年は続き、厳しい寒さの冬には同様のことが繰り返されることになるのであった。
posted by 0engosaku0 at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月03日

北海道歴天日誌 その238(1922年1月18日)札幌で−27℃を記録!凍傷の失業者を助ける小樽の人

1922年(大正11年)1月18日(水曜日)。
今回は、この日の天気図から。

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▲午後6時の天気図 『天気図』大正11年1月,中央気象台,1922-1. 国立国会図書館デジタルコレクションより

北海道付近は気圧の谷となっていて、道北方面に低気圧が描かれているが、等圧線の間隔は真冬にしてはかなり広い。
この日、札幌は日中から晴れていたが、夜は雲一つない快晴となった。風も1メートル程度と穏やかな夜を迎えることとなった。

札幌は午後3時頃に−5.1度の最高気温を観測したが、その後はどんどん冷え込みが強まっていった。

午後5時に−16.6℃に下がり、午後9時に−19.6℃を記録。午後10時には−20.1℃を記録して−20℃台に突入した。
そして、日付が変わる直前に−27.0℃を記録した。

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▲1月18日〜19日の札幌の気温経過

この−27.0℃は当時としては札幌の観測史上最低気温であった。現在でも、この気温は札幌の観測史上2番目に低い気温である。
また、日付が変わってすぐ−26.8℃を記録しているが、これは観測史上3位の低温として記録に残っている。したがって、一夜にして二つの記録的な低温が観測されたのである。

札幌測候所創設以来の寒さ

本年昨今の気温は 平年より毎日 三 四度の低度にありしが 十七日以来 頓に寒気加はり
十七日夜半は摂氏氷点下二十一度八(華氏零下七度二) 十八日夜半は氷点下二十七度(華氏零下十六度六)に降り 札幌測候所創立以来の記録を破るに至れり
(1922年:大正11年1月20日付 北海タイムスより)

なお、上には上がいて、旭川では18日の最低気温が−32.5℃、19日も−31.9℃を記録した。

旭川の酷寒

【二十三日旭川電話】旭川地方は寒に入りてより 近年稀なる寒気にて 殊に 小寒や摂氏零下三十度以下の酷寒三日間打続きたるが 斯かることは明治四十二年 四日打続きたる外 類例なく 実に十余年来の厳寒なり

即ち 一月十八日は摂氏零下三十二度四分、十九日は同三十二度五分、二十日は同三十一度九分にして

大寒に入りて少し緩みし感ありしが 二十三日午前四時半に至り 又も三十二度二分に低下
今後も寒気打続く模様にて 恐らく従来の記録を破るならん
(1922年:大正11年1月24日付 北海タイムスより)

記事にある観測日付は一日ずれている。正しくは1月17日〜19日の三日間の気温である。

このような厳しい寒さ、しかも当時は不況下であり、フトコロもまた寒い。
この頃、小樽では失業者に身銭を切って救いの手を差し伸べていた人がいた。

敗残者を救ふ 慈悲深い小樽の人

立派な五体を有し乍ら 働くに職なく 日々 乞食同然 小樽区内を徘徊する失業者が 四 五十名ある
此 憐な失業者に同情の餘り 独力にて彼等を我家に収容し 就職口を探し與へ 或は病者には薬餌を與へて之を保護し 是等の人々の味方となり働いて居る奇特な人がある

彼れは小樽富岡町一丁目 佐々木兵作といって 昨年中 道庁より野中属来樽視察し 其結果 尾崎内務部長より鄭重なる感謝状を贈られた

彼は自分では 左程立派な事をしたとは思はず「同じ同胞であり乍ら 働く職もなく蒼白な顔をしてブラブラして居る憐れな姿を眺めては黙って居られない」とて 当然為すべき事を為した位に考へて居る

全く彼の持つ 広い人類愛の発露の結果に他ならない

現在でも十四 五人の敗残者を収容して 夫々世話して居る

記者が訪問した際にも ちょうど区役所紹介係の添書を持って 十五 六の小僧が尋ねて来て居たが 水上警察署人事相談所 区内各停車場は 彼の最も大華客で 待合室にゴロゴロして居るもの 或は相談所に泣き込んで来る

昨年一ヶ年間 彼の世話した者は 百名に上って居るが 此等の大部分は 山方面の地獄部屋を逃げ出して来たもので 全くの裸一貫の者のみであるから 就職口を見出して 働かせるにしても 差当り 服装から整へて 與へねばならず 其上 此等の多くは此頃では孰れも凍傷に罹って居るので 手のかかる事大抵で無いさうだ

而して 丁度よく仕事でもなければ 無代 食はして置かなければならぬので 昨年の如きは二月二十日から三月三十日まで五十日の間に 三十人で 僅か三十五円より 働かなかった事さへあった為 一年間で数百円の損失を蒙ったさうだ

「此等の人々には各地を流浪し歩いて 一曲(ひとくせ)も二曲もある者のみであるから 雪の中 仕事の無い間は居るが 春にでもなって何処へでも行って食へる様になると 一言の挨拶もなく去って了ひます

現在でも此の様な人々は区内に優に四 五十名はありますが 今 少し設備が出来たら せめて三十名位は始終世話したいと思って居ます

全くみすぼらしい姿をして区内をブラブラして居るのは 区の体面上からも見苦しい事であるから 資力が許すなら大々的に行って見度いと思って居ます」と語って居たが、希(こいねが)はくば 彼の抱負をして実現せしめ度いものだ
(1922年:大正11年1月20日付 北海タイムスより)

小樽をぶらつく失業者たち。
彼等に宿と食べ物などの世話を自発的に行っていた男の話である。
大正でも、民間の力でこうした失業者のセーフティーネットが存在していたというのは興味深いものがある。

一年で数百円というのは、この時代ではかなりのお金となるだろうから、何かの事業で成功している者と思うが、そこは、この記事ではわからない。

この年の厳しい寒さを反映して、失業者は誰もが凍傷を負っているというのが痛々しい。

第一次世界大戦をきっかけとしたバブル的な大戦景気と、その後にやってきた不況。
さらにこの頃は、アメリカで軍縮会議も開催中であり、景気には浮上の気配がなかなかみられない。

さまざまな面で春が待ち遠しい、1922年1月の北海道であった。
posted by 0engosaku0 at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする