▲1922年(大正11年)8月4日正午の天気図 (『天気図』大正11年8月,中央気象台,1922-8 国立国会図書館デジタルコレクションより)
天気図は、沖縄の東に台風がみえるが、北海道付近は南高北低の気圧配置。
札幌や旭川、羽幌など日本海側を中心に曇り空で、釧路と根室は霧がかかったが、函館や帯広では昼間は晴れ間があった。
函館の最高気温は26.5℃、午後は西寄りの風がやや強く吹いた。過ごしやすい夏の一日だったかもしれない。
この日、道南の松前では、ある催しが行われている。
松前神社の上棟式
再昨年来 造営工事中なりし 県社松前神社々殿(総檜材白木神明造)は 愈々 竣成を告げたるに付 祭神 武田信廣公 徳会長として安東函館支庁長 同幹事長として 下国一課長隣席 四日午前九時より上棟式を挙げ 棟梁以下 工匠連の槌打の行事 及 撒餅の式あり 境内附近は参拝者群集せり
同日午後七時より正遷宮祭に移り 郷社徳山大神宮の仮殿より 神霊を奉戴せる
行列は松明を点じ 衣冠厳めしき 長官代理 泉対理事官 随員臼木、中村両属の前衛 安東支庁長 下国一課長の後駆にて 神職、氏子総代、造営委員等 供奉し 楽音朗かに順路を公園内の新築社殿へ奉遷せり
翌五日午前九時 長官代理 供進使一行 同社へ参向して幣帛を献進し 荘厳なる大祭を執行
午後一時より崇敬者三百余名を招待し 稲川社司の挨拶にて直会式を挙げたる後 神饌祭に移り 松前神楽を奏上せり
尚 四 五の両日は 芸妓連の底抜け屋台を先頭に 唐津内町の尉と姥の山車、大松前町の仮装神輿、馬形町の奴振り等にて町内を練り廻り 夜間は電飾と献灯にて 宛ら不夜城の壮観を呈せり
(1922年:大正11年8月10日付 北海タイムスより)
松前には、徳山大神宮という中世からの伝統をもつ神社があるのだが、1881年(明治14年)に松前藩の先祖に当る武田信広公を祀る「松前神社
」が誕生し、こちらのほうが格上の「県社」とされた。
記事にあるようにこの年、総ヒノキ造りの神殿で再建。全町を挙げてお祝いをしている。
▲竣成した松前神社(1922年:大正11年8月10日付 北海タイムスより)
この神社の建物は、100年を過ぎた現在においても、そのままの姿で時を重ねている。
▲令和の世の松前神社(2021年:令和3年4月撮影)
さて、この頃賑やかだったのは松前だけではない。
やはり江戸時代からの古き港、江差の様子を説明する記事もみてみよう。
猫の手を借りたい程の江差町の忙はしさ
八月の江差町は いろいろな会合や催しで 官民共に その準備にごった返している
先づ 八日 九日には 檜山支庁管内の六十余の小学校長会議で皮切りをすると その翌日の十日午前八時には 柏樹小学校で夏期講習会の開会式が挙げられるが 道庁教育兵事課長の泉対理事官が 講師として蘊蓄(うんちく)を傾けての講演があるさうだ
十二日には檜山教育会の総会、六日には衛生展覧会 自治統計展覧会、教育品展覧会、檜山外五郡物産共進会の開会式が 午前八時から十時迄 引き続いて挙行される目まぐるしさ
十七日には神職会総会 神社功労者表彰式、
この猫の手も借りたい忙しい中に 十八日は道参事会の出納検査、そして十九日は築港起工式に続いて 共進会の褒状授与式 更に午後四時から帝国水難救済会江差救護所の発会式があり 二十日には共進会閉会式 各種展覧会の褒状授与式並に閉会式といふ なかなか盛沢山のプログラムで 僅十日間に 村上支庁長や脇町長は 祝辞や式辞を十七 八編も読まねばならぬ始末だ
それよりも築港起工式には 道の内外から知名の士が多数来町するが 江差町として頭を痛めているのは交通機関と宿舎である
十余里の山道を終日ガタつかれて来た貴賓を迎ふについては 町の理事者は勿論 有志も余程 首を捻っているらしい
旅館の数は 至って尠(すくな)い
仕方ないから有志の住宅にそれぞれ割り当てて準備中だが この際 愛想尽かしをされては 江差町の名折れだと
寝具 調度を新たに整へるなどは 云うまでもなく 接待の方法に就ても 妻君連を脅威する事 一方ではないが それ程に今 江差町民は此機会に於て 来町の諸氏が心置きなく愉快に視察 研究を為して貰ひたいと希望しているかを察するに余りある事だ
漁港の修築が漸く目鼻がついて 二十年来逼塞していた江差町が帰り新参という訳で若々しい生気に包まれ 発奮の第一階程に立ったのであるから さもあるべき事であるが 江差町民が如何に心を砕いて 来江の諸氏を迎ふべく努めているかは 大いに酌んでやらねばなるまい
(1922年:大正11年8月10日付 北海タイムスより)
江差は、江戸時代はニシンとヒノキという海の幸・山の幸に恵まれ、商港として発展し、栄華を極めたのであるが、明治に入り松前藩が消滅して交易の中心が函館や小樽に移って経済が振るわなくなり、江差に新たな築港を建設することによって、商船を取り戻そうという活動が行われた結果、いよいよ修築工事が行われることが決まり、この頃の江差町民は未来の明るさに希望を持っていたのである。
しかし、結果的に1929年(昭和4年)に出来た港は、商港ではなく漁港の姿であり、1953年(昭和28年)に地方港湾として指定されたものの、海上輸送網の拠点となる「重要港湾」ではないため、交通利用や漁船利用が中心の港と、この時代の江差の人々が思い描いた未来にはならなかったのであった。
大正時代の江差を、当時の記者は「帰り新参」と書いているが、今の江差も平成27年に定めた「古くて新しいまち江差」という方針をたてて、まちづくりを行っている。
今回はここまで。
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